論壇
政治的理由で奪われる「表現の自由」
朝鮮追悼碑訴訟の経緯と争点
群馬「表現の自由」研究会 赤城 晴太郎
「表現の自由」や「公共施設での政治的中立性」を巡って、今年2月14日に前橋地裁で全国の注目を集めた判決があった。群馬県の県立公園にある、戦時中に動員された朝鮮人労働者を追悼する碑の設置期間更新を県が許可しなかったことは違法だとして、市民団体が県を相手に不許可処分の取り消しを求めた訴訟の判決だ。裁判所は県の処分を違法とし、処分の取り消しを命じた。一方で、憲法が保障する表現の自由などについての原告側の主張は退けられた。判決を受けて、県側は控訴し、市民団体も主張が認められなかった部分を不服として控訴。設置更新の是非は上級庁に委ねられることとなった。
表現の自由を巡っては近年、埼玉県で「梅雨空に『9条守れ』の女性デモ」という句が地元の公民館の発行物に掲載されない問題があった。公共の場での政治的中立性については、金沢市の市役所前広場での自衛隊パレード反対集会が不許可となった事案が記憶に新しい。表現の自由や政治的中立性について、裁判ではどのような判決が下ったのか。「追悼碑」建立や訴訟の経緯も含めてまとめた。
追悼碑建立の経緯
追悼碑は、群馬県高崎市にある県立公園「群馬の森」に2004年に建立された。そもそもどのような経緯があったのか。
現在碑を管理しており、追悼碑訴訟を起こした「『記憶、反省そして友好』の追悼碑を守る会」の前身、「群馬県朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」は1998年に発足した。戦時中に朝鮮半島から群馬の工場などに強制連行され、命を落とした朝鮮人労働者の追悼碑を建立するため、募金活動や現場保存運動を開始。また、同会は当時の事務局長らを中心に95年から強制連行の実態を調査しており、県内で6千人ほどが軍需工場、鉄道や水路の建設、鉱山で強制労働を強いられていたとの調査結果をまとめた。同会によると過酷な労働や生活環境により病人や死者が続出、少なくとも300~500人が犠牲になった。その後、「『記憶、反省そして友好』の追悼碑を建てる会」に名前を変え、活動を続けた。
県有地での建立を求める請願が01年に県議会で趣旨採択となり、04年に高崎市の県立公園「群馬の森」の一角に「記憶、反省そして友好」と記された高さ2メートルの追悼碑が設置された。県内外から6千人の募金があったという。碑の背面には、「わが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」と記されている。地元紙によると、設置に関わった元県議は除幕式で、「県有地に(追悼の)碑が立つのは(全国でも)初めて」と語っている。その年の12月には、韓国のラ・ジョンイル元駐日大使が当時の角田義一参院副議長と同所を訪れた。
碑文の全文
「20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。
過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。
この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。」
建設にあたって「建てる会」は、県側と打ち合わせを重ねて碑文の文言を検討した。話し合いの結果、02年4月の碑文案では、「強制連行」という言葉が用いられていたが、03年の採択時には、「労務動員」という表現となった。政府見解として認めていない「強制連行」という表現が使われると、単に朝鮮人を追悼するという意味を超え、特定の主義主張を伝達するための施設に該当してしまうとの県側の判断に沿ったものだ。また、設置にあたっては、10年ごとに県に更新許可を受けることや政治的行事をしないことなどが取り決められた。
更新不許可と処分取り消し訴訟
追悼碑設置がなされた04年前後の時代背景としては、03年にBS放送でドラマ「冬のソナタ」が放送されると大ブームが巻き起こり、日韓の友好ムードが一気に高まった時期だった。国交正常化40周年にあたる05年には、大韓航空が関西空港とロケ地への最短ルートを飛ぶ「冬ソナ専用機」が週に1往復する頻度で運行している。また両国は「日韓友情年2005」と銘打ち、友好を深める取り組みもなされた。群馬にも韓流ブームの影響はあり、地元紙が県立高校での授業や市民の学習会でのハングルの人気の高まりを報じている。
設置と機を同じくした韓流ブームがあり、「建てる会」(設置後は「―を守る会」に名称を変更)が目的としていた日韓の距離を縮める社会的な追い風が吹いたものの、1回目の設置更新を目前に控えた13年には県に設置延長を認めないよう求める陳情が前橋市の男性から県議会議長に提出された。陳情は「植民地支配でなかったことは明白」で、碑文を「虚偽」とする内容だった。その後、「守る会」が毎年行っている追悼式が「公園の政治利用にあたる」として、設置許可の更新をしないよう求める請願が県議会に3件提出され、14年6月にこの請願は採択された。
翌月、県は「守る会」と協議し、碑を自主的に撤去するよう要請したが、両者の溝は埋まらず、県は月内に更新不許可の文書を正式に送付した。県側の説明によると、「守る会」が行ってきた碑の前での追悼式で「政治的発言」が複数回あり、また、別の団体が碑の周辺で騒いで県職員と小競り合いになったことがあったという。「守る会」は「不適切な発言があった」と認め、碑の前での集会をやめたことを挙げた上で、「設置許可を更新しないのは表現の自由を侵害し、違憲」だとして11月に処分取り消しを求めた訴訟を起こした。
争点と裁判での評価
訴訟は、①「碑の設置許可条件が表現の自由を侵害するか」②「碑の更新不許可処分が表現の自由を侵害するか」③「『守る会』が政治的な行事を行ったか」という点が主な争点となった。
「守る会」は①の争点について、設置条件に政治的行事の定義がなく、明らかに広範な規制だとして表現の自由を侵害していると主張。②については、不許可処分は追悼式での発言を規制するだけでなく、表現の場を奪い、規制手段として必要最小限とは言えないと指摘。③については、朝鮮に対する植民地支配や労務動員に対する謝罪の意は、村山談話や日朝平壌宣言にも合致するものであり、碑文に謳われている主旨や内容と違う独自の主義主張ではなく、政治的行事に当たらないと訴えた。
一方で①についての県側の意見は、「設置条件により禁止されるのは宗教的、政治的利用に限られ、その他の主旨の集会や表現は禁止されないため表現の自由を制約するものではない」というものだった。②については、公園に碑を設置することは公共の場所を継続的に占拠する行為で、表現方法として一般的とはいえないため憲法上保障されないと反論。③については、除幕式や追悼式で、参加者から「碑文に謝罪の言葉がない」などの発言があり、碑文に謳われた主旨を超えた政治的行事だとする旨の主張をしている。
2月14日に下された判決では、①の争点について、「表現の自由といえども絶対無制約のものでない」として原告の主張を退けた。②については、「表現の自由の侵害を訴えるには、碑を設置し、利用する権利を法的に有していること」が前提だとし、県から許可を受けている立場の「守る会」の主張はその前提を欠いていると指摘した。③については、碑の前での一部の式典が政治的行事にあたり、「守る会」は許可条件に違反したと認定した。一方で、許可条件の違反によって、憩いの場としての公園の役割は失われたということはなかったとし、県の不許可処分については「裁量権の逸脱があり、違法」とした。また、「守る会」は更新の許可の義務付けも求めていたが、裁判所はその主張を認めず、「追悼碑の設置更新を許可すべきかについては、群馬県知事の裁量判断に委ねられているというべき」と判断した。
「政治的」を理由に制限された「表現の自由」
追悼碑訴訟などで追悼碑が「政治的問題」として取り上げられたことにより、別のところでも表現の自由が制限される事態が生じた。17年4月に県立近代美術館(高崎市)で始まった企画展「群馬の美術2017」の開始直前で、追悼碑を模した立体作品の展示取りやめが、同美術館によって決定された。作者は群馬県立女子大学講師で美術家の白川昌生(しらかわ・よしお)さん。作品は「群馬朝鮮人強制連行追悼碑」という題名で、木の骨組みに布をかけ、追悼碑をほぼ原寸大で表現した。白川さんは当時、製作のねらいについて「碑を巡る状況を問題提起したかった」と述べた。対して美術館側は「どちらか一方に偏るような展示は適当でないと判断した」と説明したという。
くしくも、この半年後にはさいたま地裁で、9条を題材にした俳句「梅雨空に『9条守れ』の女性デモ」が「公民館だより」に掲載拒否されたのは表現の自由の侵害だとして起こされた訴訟の判決があり、「思想や信条を理由として掲載しないという不公正な扱いをした」などとして市は5万円の支払いを命じられている。美術作品を、「政治的」であるという理由で排除することの是非が全国的に論じられた時期でもあった。
「強制性」各地で撤去・修正の動き
追悼碑訴訟では、「守る会」が毎年碑の前で行っている式典で「強制連行」と表現したことの是非が焦点となった。「強制性」を巡っては、全国各地で議論が起こっており、各地にある歴史を伝える碑や説明板が撤去されたり、表現が修正されたりする事態が起きている。
奈良県の天理市では14年4月、飛行場の建設時に強制連行があった旨を記した説明板を市が撤去した。第二次世界大戦の末期に軍部が本土決戦の最後の拠点とする目的で建設した「松本大本営」象山地下壕入り口の説明板は、14年11月、「強制的に動員された」という文言と「必ずしも全てが強制的ではなかった」という文言を併記する形に変更した。福岡県飯塚市では、市営飯塚霊園内の広場にある朝鮮人追悼碑について、15年9月に保守系団体が修正を求める陳情書を提出した。
判決後、保守系議員の働きかけもあり、県は控訴することを決めた。それを受け、「守る会」も表現の自由が認められなかったとして控訴した。
判決に関しては、「守る会」側は主張した表現の自由の侵害が認められなかったり、追悼式が「政治的だった」と認定されたりしたことに不満はあろう。しかし一方で、今回このような訴訟があったことで碑は、十分にその力を発揮したともいえる。白川さんが追悼碑を模した作品を制作した意図とも通ずるが、政治的だと考えるにせよ、考えないにせよ、強制連行を認めるにせよ、否定するにせよ、まずはテーブルに乗せて議論することが大切だ。普段は社会がフタをしがちな「臭い物」に光をあてて問題提起し、意見を交わすことで人々が表現の自由や歴史認識について理解を深めていく。碑や美術作品にとって、そのような議論の契機をつくることは重要な役割だ。今回訴訟となったことで、群馬の森にある朝鮮人追悼碑は多くのメディアが取り上げ、全国的な議論を巻き起こしたし、今後も動向が注目されるだろう。できれば今後の議論が、人々の対立を深めるのではなく、相互理解を深めることにつながってほしい。
今後、上級庁の判断によっては、碑が撤去される可能性もある。モノとしての碑を守ることが、問題提起をする「装置」としての碑を守ること、ひいては言論の機会を守るということを再度確認したい。
あかぎ・せいたろう
1991年、東京生まれ。群馬県のメディア関連企業で働く。大学での専攻は日本語学。
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