特集●“働かせ方改革”を撃つ

働き方改革関連法案の破棄に向け闘え!

これこそが労働組合の死活の任務だ

中央大学名誉教授 近藤 昭雄

「働き方改革関連法案」は、4月6日の閣議決定を経て、40本の法案に具体化されて国会へ上程、4月27日には衆議院で審議が始まり、その成立に向けて事態は着々と進展している。

ところが、運動レベルにおける反応は至って鈍く、反対運動は殆ど盛り上がってはいない。この現実に、私は大いなる危機感を感じている。そこで、以下、その状況を分析・批判するとともに、改めて同法案の危険性について論及しつつ、その廃案に向けて断固闘うべきである旨を、強調していきたい。

Ⅰ 「過労死法案」であることを見落とす幻想

1)反対運動が盛り上がらない背景には、どうも、歴史上初めて、「時間外労働時間の上限を労基法本文で明示的に定めることは、画期的である。例外の100時間というのも、それを超える企業が多数あることからすれば、上限規制として意味がある。全体を潰してしまうのは、よくない」との考えがあるようである。

たしかに、今回の改正案は、

①36協定で定めることのできる時間外労働時間数の上限を1ヶ月・45時間、1年・360時間とする点は、従来の厚労省告示と同じであるが、それが労基法本文(改正法36条④項)に入ること、

②従来は、厚労省告示で定められた、この上限時間(限度時間)数は「努力義務」とされていたにすぎない(現36条③項)のに対し、今回は、「義務化」されること(改正法36条③項)、

③現行厚労省告示は、「限度時間を超えて労働時間を延長しなければならない特別の事情」がある場合については、「青天井」であるのに対し、今回法案では、「通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に…限度時間を超えて労働させる必要がある場合」には、上限時間を超えることは認めるものの、その時間数は、上記上限時間数と合わせて1ヶ月100時間、1年720時間とする旨が本文に明示されていること(改正法36条⑤項)、

の点で、進歩ではある。

しかし、これは実際に「画期的」と評価されるほどのもので、これにより長時間の時間外労働が改善されることになるのか、が問題である。

2)そもそも、改正法の内容は、1ヶ月45時間の上限時間を義務化したとはいうものの、「通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に…限度時間を超えて労働させる必要がある場合」には、1ヶ月で100時間、1年で720時間までの延長が認められる。その場合、「臨時的」と言いながら、45時間(限度時間)を超えて労働させる月数を前もって、定めておくべきものとされ、しかも、それは、6ヶ月まで認められることになっている(改正法36条⑤項)。1ヶ月100時間の時間外労働は、「過労死認定」の目安ラインであるが、その労働時間を、連続で、半年間も続けることも、可能である。そんな状態下で働かされる労働者の生活を連想してみるがいい。こんなものが、どこを押して、「画期的」などと言えるのか。まさに、「過労死法案」ともいうべきものである。それを見落として、手放しで、容認するなどというのは、「狂気の沙汰」と言う他あるまい。

3)昨年12月14日(同日朝刊)、朝日新聞が公表した調査結果によると、2016年10月段階では、過半の企業の月間残業協定時間の上限が1ヶ月100時間を超えており、今回規制がうわさ(予想)されるに及んで是正された2017年7月段階に至っても、なお、相当数の企業が100時間を超えている。そして、それらの企業名を見れば、相当の大企業であって、連合傘下の大労組が存在しているところである。そのようなところであって、この体たらくなのだから、その収奪下にある中小の企業(例えば、その下請、孫請け)にあっては、更なる長時間労働下にあることが、十分予想される。

一方、これによれば、法規制が予想された段階で、相当数企業が100時間まで移行したことが示されている。したがって、法規制が明示された段階では、上限100時間に収斂していくことが、十分予想される。このことからすると、法規制に期待するのも、一理ありそうではある。しかし、問題は、この100時間というのは、「過労死」認定の基準となる時間数であり、上の事実が示すところは、逆に、法改正後には、100時間という時間数が当たり前化して行くであろうことである。まさに、上述した改正法の枠組みの実現である。それにより、「繁忙期」には、日本の労働者は、半年間にもわたって、「過労死」の危機下で、労働に従事し続けることになる。これをもって「画期的」などという発想・神経を「狂気の沙汰」と評した所以である。

4)しかも、重要なことは、それがとんでもない数字であるにしても、「実態として」、すなわち現場において現実的に100時間で収まっていくか、である。仕事量が変わらず(あるいは増加して)、しかし、現場の人員数が変わらないとしたら、36協定で何を決めておこうと、それを超えて労働に従事せざるを得ないのが現場である。サービス残業の横行である。法の理屈の世界だけで言えば、そのような労働は労働基準法違反であり、処罰されることになる。しかし、そのような公的チェックが全く期待できないことは、これまでの経験が示していることではないのか。法で上限時間を定めたら、長時間労働が改善されるなどと考えるのは、脳天気に過ぎるし、「笑い話」ですらある。

そもそも現行制度でも、努力義務とはいえ、1998年以降、原則1ヶ月の時間外労働時間数の上限を45時間とし、時間数に制限がないとはいえ、「限度時間を超えて労働時間を延長しなければならない特別の事情(臨時的なものに限る。)が生じたときに限り」、限度時間を超える時間外労働が認められているものである(平10・12・28労働省告示第154号、現在のものとしては、平11・5・29厚労省告示第316号)。およそ、その到来が現実的に予想され得る「繁忙期」に対応するものではない。それを常態化させてしまったのは、企業の言い分に唯諾々と従ってきた労働組合の問題である。繰り返し言うが、長時間の時間外労働の原因は、法の規定にあるのではない。

5)ところで、労働時間の問題は、要員の問題であり、1人当たり仕事量の規制の問題である。1人当たりの仕事量を規制せずに(つまり、要員を増加させずに)、36協定の上限時間数だけ規制しても、事態は、なんら改善しない。上に指摘したように、時間外労働は地下に潜る。「禁酒法」が悪をはびこらせたように、サービス残業という悪、マフィア(使用者)の収奪をはびこらせるだけである。

確かに、ドラマの世界では、FBIは敢然とマフィアと闘った。それと同じように、労働基準監督署にそれを期待することができるのか。それが期待できるのであれば、サービス残業などというのは、日本社会から消滅していたはずであるし、「過労死」などは生じ得ない。不謹慎だとの批判を恐れずにあえて言えば、人が死なない限り警察は動かないと言われた以上に、「人が死なない限り、労基署は動かない」(電通の異常な長時間労働など、とうに解っていたことで、高橋まつりさんの死には、労基署にも責任がある)どころか、容易に「過労死」認定をしようとはしない。

このように見てくると、現場における長時間労働・残業の責任は、労働組合にある。労働現場におけるFBIは、労働組合なのである。確かに、改革法案の時間外労働時間数の上限規制の部分だけを取り上げれば、「画期的」などとはいえないとしても、それ自体としては、「悪いこと」ではない。問題は、それにより何が変わるのか、時間外労働時間数は現実に減少するのか、である。上に見たように、そのようなことは、絶対的にあり得ない。

むしろ、労働組合が長時間残業を常態化させてしまったことについての、自らの責任を自覚することなく、ただ単に法による規制に「期待する」のみであるとしたら、既に見たように、事態はむしろ悪化する。労働組合が、長時間労働という実態の最大の戦犯は労働基準法の規定の足りなさではなく、自らの怠慢であったことを、きちんと、認識・自己批判し、決して十全のものとはいえないにしても、次善のものとして、新たな法規制をベースに、時短闘争に取り組む気概を持たない限り、むしろ、法的規制が、結局サービス残業を生んでいった、銀行における「支店長代理」の時間外労働手当問題の事例に見られるように、事態は、一層悪化する。

上に述べた通り、法が何を定め、判例がいかに判示しようと、その内容を実体化する努力がなされない限り、事態は何も変わらない、ということである。

6)労働組合が、自らの責務を自覚し、長時間労働の基盤の抜本的改革に向けて闘う意欲を持たない限り、事態は改善しないどころか、かえって一層悪くなる。

今回の残業規制案は、Ⅱ以下に詳述する悪とバーターできる程に「画期的」などと言える代物ではない。にもかかわらず、今回の規制案を「画期的」などとする発想からは、闘いの意欲はまったく伺われない。それどころか、それを通すために、以下に指摘するような悪法の種まきに対し、形式的に反対を唱えただけで目をつぶるのは、「犯罪的」ですらある。過去・現在のみならず、未来の労働者生活を、悪法の種が芽吹き、繁茂した暗黒ジャングルの中に引きずり込むのは絶対に許しがたい行いであり、断固糾弾せずにはいられない。

Ⅱ 労働時間規制の解体を目論む改革案
1.「弾力化」による規制外し-究極の「残業代ゼロ法案」―フレックスタイム制

1)労基法32条は、法定労働時間につき、1日8時間、1週40時間と、2重の枠により、規制しているが、この、1日、1週という枠を外してしまって、それを超える期間の総労働時間が「法定労働時間」内に収まれば良いとして、1日8時間を超えて、あるいは1週40時間を超えて働かせても構わないという仕組みが、「労働時間の弾力化」といわれるものである。

フレックスタイム制を含む「労働時間の弾力化」の拡大は、1989年の労基法改正に始まるが、その段階では、フレックスタイム制は、それほど注目された存在ではなかった(厚労省の調査によれば、2018年段階でも、採用企業は5.4%にすぎない)。そして、わが国においては、「出退勤の自己管理」が保障されていないため、大方は、「フレックスタイム制」と称しても、「えせ」で、皆似たような時刻に出勤し、似たような時刻に退勤するというもので、実態は「出退勤時刻の管理を厳格にしない」というだけのものにすぎなかった。

しかし、この実態に着目し、登場したのが、「働き方改革法案」の中の、「3ヶ月単位のフレックスタイム制」(改正法32条の3)であると評価できる。

フレックスタイム制というのは、労使協定で定められた「清算期間」に対応する法定労働時間の枠の中で、その期間に労働に従事すべき「総労働時間」を、同じく、当該労使協定で定めるだけで、その清算期間中に、如何にして総労働時間を労働するのか、すなわち、日々の労働において、何時に出勤して何時に退勤するのかを、労働者の自主的決定に任せるというものである。したがって、その清算期間が長ければ長いほど、労働者の自主決定に委ねられる時間数は、大きくなる。

改革法案では、3ヶ月単位を選択する場合は、「1ヶ月を平均して、1週当たりの労働時間が50時間を超えない範囲」のものとすべきことが求められる(32条の3第②項)。これは、一定の限定であることは確かだが、これによっても、「総労働時間」は、上限214.2時間か221.4時間で、膨らむ。したがって、3ヶ月で、「総労働時間」520時間とした上で、いくら働きたくても、例えば月に214時間以上働いては駄目だよとする旨の労使協定を結べば、それによって働かせることを認める、ということになる。ただこの場合も、時間外労働が禁止されないから、その月については、先に見たように、最大、プラス100時間の314時間という、法定労働時間のおよそ1.8倍の労働が可能となってしまう。労働者の自主的決定という美辞麗句の下、すさまじい長時間労働に道が拓かれることになる。

2)このように、許容された制度によっても、長時間の労働が可能となるのだが、フレックスの現場では、出・退勤についての労働者の「自主決定権」の保障などなく、先に見たように、実態は、「出退勤時刻の管理を厳格にしない」というだけのものに過ぎなかった。それによれば、労働者が何時間労働に従事しようと、その出・退勤時刻がきちんと記録されることはなく、その労働時間数が正確にカウントされることはない。

労働現場においては、労働者は、明示の命令がなされなくても、彼の前に、業務(仕事)がある限り、労働に従事せざるをえないのである。にもかかわらず、それは、彼の自主決定に基づくものとされる。そこでは、労基法による労働時間規制など、一切機能しないのである。「フレックス」に名を借りたカウントされない労働、「サービス残業」と同質の事態の蔓延である。

そもそも、「3ヶ月単位のフレックスタイム制」などというものをあえて導入する意義はどこにあるというのか。労働者の「自主的決定に基づく出・退勤」というのであれば、「1ヶ月単位」で十分である。ところが、先に指摘したように、その「1ヶ月単位」すら、本来的意義を生かし得ていない。であれば、それを達成することが先決ではないのか。にもかかわらず、あえて「3ヶ月」というところに、その狙いが透けて見える。労働者の自主性の尊重→出・退勤管理の廃止というごまかしの中で、現実に何時間働いても、その時間総数はカウントされず、支払われる賃金は変わらないという事態。

巷では、後述の「高プロ制」をめぐって、「残業代ゼロ法案」という表現がなされている。ところが、「高プロ」は、後述するように、それ以上の毒素を持っている。むしろ、「残業代ゼロ法案」という非難に、最もふさわしいのは、この「3ヶ月単位のフレックスタイム制度」なのである。それこそ、究極の「残業代ゼロ法案」と呼ぶべきものなのである。

3)ところが、この「3ヶ月単位のフレックス制度」の危険性については、殆ど取り上げられていない。歴史に学ぶことも、労働現場の実情に目を向けることもできない、どうしようもない愚かさ、鈍感さである。気付かない「ふり」をしているというのであれば、犯罪的ですらある。

2.労働時間規制法制の終焉に道を拓く高プロ制度

1)「高度プロフェッショナル制度」(高プロ)という制度は、(「働き方改革法案要綱」に繋がった、2015.2.13付「労政審労働条件部会報告」とをも合わせて整理すると)

①「高度の専門的知識等を必要とし、その性質上従事した時間と従事して得た成果関連性が通常高くないものとして厚生労働省令で定める業務(対象業務)」、具体的には、金融商品の開発業務、金融商品のディーリング業務、アナリストの業務、コンサルタントの業務研究開発の業務等であって、

②使用者から支払われると見込まれる賃金額が毎勤統計によるサラリーマンの平均年収の3倍を相当程度上回る水準として、厚生労働省令で定める額、具体的には、1075万以上であるものに該当すると、

③労使委員会が5分の4の多数決で決定し、

④労働者が「書面により同意」してその仕事に就いた場合は、彼には、労基法上の労働時間に関わる規制の一切が適用されない(改正法41条の2)、

というものである。

2)これに対しては、「残業代ゼロ法案」、「スーパー裁量労働制」とか、「過労死法案」とかのレッテルが貼られて、その打倒に向けての意気込みの程度はともかくとして、反対論が、強く展開されている。

そこで、これによって生み出される過重労働→「過労死法案」との批判に対抗して、改正法案は、

①対象業務に従事する労働者が「事業場内にいた時間(労使委員会の決議により、厚生労働省令で定める労働時間以外の労働時間を除外できる)」+「事業場外において労働した時間」=「健康管理時間」を把握する措置を講ずること(同条第①項3号)、

②対象業務に従事する労働者に対し、「1年間を通じ104日以上、かつ4週間を通じ4日以上の休日」を付与すること(同4号)、
③<イ>いわゆる「インターバル時間」を確保し、かつ深夜労働の回数について、厚生労働省令で定める回数以内とすること、<ロ>健康管理時間が1ケ月または3ケ月について、厚生労働省令で定める時間を超えない範囲内とすること、<ハ>1年に1回以上の継続した2週間について休日を与えること、<ニ>厚生労働省令で定める要件に該当する労働者に対し「健康診断」を実施すること、の「いずれかの措置」を講じること(同5号)、
④39条に基づく以外の年休の付与、健康診断の実施、その他厚生労働省令で定める措置のうち、労使委員会で決議したものを実施すること(同6号)、

を義務付け、さらには、他に、労時間の設定の改善に関する特別措置法」による「勤務間インターバル制度の普及促進」*、労働安全衛生法による産業医・産業保健機能の強化、が謳われている。

これによれば、政府は、過重労働の負荷であとか、過労死法案であるとかの批判に対しては、対象労働者の健康管理に配慮していると主張するであろう。そうすると、議論は、それで十分かどうかの論議に集約されてしまう危険がある。また、「残業代ゼロ法案」の批判に対しても、年収1075万という高額所得者のみを対象としていて、一般的に、残業代を無くすものではないと反論するであろう。

*もっとも、「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案」で2条では、「終業から始業までの時間の設定……に努めねばならない。」と、単なる「努力義務」に止まっている。 

たしかに、過労死法案とか、残業代ゼロ法案だとかいった指摘は、一定の本質は突いている。そして、反対キャンペーンには、あざとい言い方の方が迫力があるのであるから、それなりに効果があるものと思われる。しかし、それによって議論が上記のような論議に終始していくと、高プロ制度の最も本質的な「悪性・危険性」が見失われていってしまうことを恐れる、

わたしは、むしろ、「労働時間規制破壊法案」とでも名付けて、絶対阻止すべきものとであると評価しているからである。

以下、その理由を詳細に論及していきたい。

3)まず、何故この制度が必要なのか、「高プロ」だと、労基法上の労働時間規制のすべてが外されるのは何故なのかを、きちんと、問うべきである。何となく、上に上げたような専門職だったらいいだろう、それだけの高給取りだったらいいだろうなどという安易な気持ちで、放って置いてはいけない。

労基法31条は、「管理監督者」について、労働時間規制を外している。これは、先に挙げた銀行の例に見るように、また、一般に、課長職に昇進した途端、有無を言わせずに「管理監督者」に該当するものとするといったように、現場では、相当に濫用されている。しかし、論理的にいえば、一応、筋が通ってはいる。というのは、「管理監督者」につき、労働時間規制が外されるのは、その者は、労働時間管理につき、自己決定権を持つものであるからとか、経営者と一体的な地位にあるからとかいった理由が付けられているからである。

ところが、「高プロ制度」においては、「管理監督者」の場合に加えて、深夜労働に対する割増賃金支払いの義務も外される(どんな労働形態をイメージしているのか、見え見えというものであろう)。ところが、なんの実質的理由を示すこともなく、この度外れた規制外しを強行しようとしている。ここにこそ、やり方の不誠実さと制度の「いかがわしさ」が露呈されているのである。

4)この制度の「胡散臭さ」は、少し前、さんざん喧伝された「サラリーマンエグゼンプション制度」論に繋がっているところからきている。それは、形式的に、アメリカの制度に習って、一定の所得水準以上の者につき、労働時間規制を外そうという論である。2000年代後半の経済停滞の下、「成果主義」が喧伝され、「サラリーマンは時間基準で働くのではなく、成果により働く(べき)ものである」とのおかしな論を基礎に、その導入が声高に主張され、ことに、2007年第1次安倍内閣の時代、厚労省は相当程度に乗り気になっていた。

しかし、先走って衣の下を見せてしまった、御手洗経団連会長(当時)の年収400万円基準論により反発が沸騰したことと、2009年の民主党政権成立等により、この論は表舞台から引いていった。しかし、それが再び衣装を替えて、しかも刃を忍ばせつつもそれが透けて見えることのないように、巧妙な衣装をまとった上で、再登場したのが、この高プロ制である。

規制外しの基準である「対象業務」も、「年収水準」も、すべて、「厚生労働省令」で決められることになっている。先に言及したように、何故、「高プロ」を時間規制から外すのかについての十分な議論、検証をしないままこの制度を通してしまえば、厚労省の(ということは、政府の)意思のままに、それが運用され、拡大していくことである。絶対に、労働時間法制を、政府の意思のままに操らせてはならない。

5)そもそも、労基法32条の「労働時間」とは、「労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間をい」うものとされている(三菱重工長崎造船所事件・最1小判平12・3・9)。また、労政審労働条件部会の座長である荒木東大教授の労働時間概念も、使用者の指揮下で、労働に従事している時間というものであったはずである。そして、労働時間規制の基本コンセプトは、そのような「使用者の指揮下にある時間の長さの規制」である。なぜなら、1日24時間のうち、そのような労働時間が長くなると、労働者の肉体・精神に過重な負担をもたらし、健康を害する危険が高くなり、また、家庭生活、余暇・文化活動や市民社会の行動に向けられる時間が奪われてしまうからである。まさに、人間の尊厳を維持・確保するにDecentな労働時間の規制なのである。

今日、ワークライフバランスとか、仕事と生活の調和とかいうことがいわれ、それらを可能にするディ-セント・ワーク(Decent Work)の確立が世界的課題となっている。その時に、高度に専門的労働であることと高額の賃金であることを根拠に、そのような理念と逆のことをやろうとする。労基法の労働時間規制理念を放擲し、青天井の労働時間を持ち込み、労働者の健康と生活を破壊して、企業にとっての「働かせ易さ」を確保しようとする。この行いがいかに非人道的で、許されざる行いであるのかを、思い知しらせていくべきものである。

6)上記のような労基法の理念は、一世紀以上の時間をかけて、時には、労働者の血の代償を以て、引き継がれ、定着してきたものである。

メーデーの歴史は、まさに、その理念の重さを示している。メーデーの起源は、8時間労働制と深く関連しているからである。その概略を示せば、1886年、アメリカにおいて、当時、労働組合運動の中心組織であった「労働騎士団」の呼びかけで、8時間労働制(当時は、1日8時間・1週48時間)要求の運動が盛り上がり、同年5月1日には、ゼネストとデモが実施されたが、そこで労働者4名が、警察官により射殺される事件が発生し、さらに、同4日には、シカゴのヘイマーケットといわれる広場で、それに抗議する集会が開かれたところ、解散させようとする警察官とのもみ合いの中で、爆弾が投げ込まれ、計10数名の警察官・労働者が死傷するに至った。そして、後日、暴動を企画・共謀したとして、労働騎士団の中のアナーキスト9人が逮捕・起訴され、最終的に4人が死刑に処せられた。

その後の、1889年、この事件後急速に勢力を失った「労働騎士団」に代わってアメリカ労働運動の中核となったAFL(アメリカ労働総同盟・奇しくも、1886年結成)の会長のサミエル・ゴンパース(ビジネスユニオニズムの権化とされるあのゴンパースが、である)が、世界的組織である第2インターナッショナルの1889年の大会で、上記8時間労働制要求の闘争を記念して、上記5月1日を世界の労働者が国際的連帯して闘う日とすることを提案し、以来、拡大・定着していったのがメーデーなのである。

上記ヘイマーケット事件は、相当後日になって、フレームアップ事件であると立証されているのであるが、ここで言いたいのは、8時間労働制は、そのような過酷な事件を基礎に、労働者の世界的な運動に担われて定着し、第1次世界大戦の時期を挟みながら、漸くにして、世界的に定着していったということである(ILOは、1919年の設立と同時に8時間労働制に関する第1号条約を世界基準として採択した)。わが国においても、『女工哀史』に象徴されるような、戦前の、暗黒の労働実態へ非難と反省を込めて、漸く1948年の労基法を以て、8時間労働制を確立させたのであった。

このような歴史的展開の中で捉えれば、労基法の労働時間規制の理念と制度は、そのような1世紀以上にわたって綿々と受け継がれてきた人類の遺産ともいえる。メーデーを労働者の「祭典」などという人々にとっては、その重みは関心の外なのかも知れないが、わたしは、上記の流れの中で8時間労働制を見るとき、日本国憲法97条を想起する。同条は、「基本的人権」の人類史的価値について謳うものであるが、その「基本的人権」という表現部分を、「8時間労働制」に合わせた表現に置き換えれば、『この労働基準法(憲法)が日本国民に保障する8時間労働制(基本的人権)は、人類の多年にわたる8時間労働制(自由)獲得の努力の成果であって、この制度(権利)は、過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の制度(権利)として信託されたものである。(カッコ内は憲法本来の表現)』となり、まさに、8時間労働制の意義を表すに、最も適した表現となると考えるからである。

安倍首相らは、8時間労働制をはじめとする様々な労働者の権利保障の仕組みを「岩盤」と非難し、その破壊を主張する。今回の「働き方改革法案」に関しても、「労基法70年の歴史にくさびを打ち込み、新たな歴史を拓く」という。しかし、彼らが打ち壊そうとするのは、1世紀(100年)以上にわたって形成・確立してきた労働者保護の法的仕組みであり、切り拓くのは、前に言及したように、暗黒の世界なのである。「残業代ゼロ法案」とか、「過労死法案」とかいった特徴付けでは「生ぬるい」といった所以である。

7)「高プロ制度」の本質が以上に論及したようなものであるとすると、そのようなものの成立は、断固阻止しなければならない。「人類の多年にわたる8時間労働制(自由)獲得の努力の成果」として、「過去幾多の試練に耐え」て「信託された」後の世代として、「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の制度(権利)として」、引き継いでいかなければならない。むしろ、「岩盤」であることに誇りを持って、1本のくさびといえども打ち込ませないという気概を持って、戦い抜くのでなければならない。

元々、労基法等の労働法制は、資本の強権を縛り、労働者の利益を擁護、拡大を図るものであり、岩盤であることに価値があるものなのである。むしろ、その岩盤に穴を開けようとするものに対しては、それを護るべく、断固闘わねばならないのである。そうでなければ、8時間労働制獲得の闘いの中で、労働者権の獲得・拡大のための闘いの中で、抑圧され、倒れていった先人達に申し訳が立たないし、「労働組合」を名乗る資格すらないというべきである。

それにも拘わらず、前にも言及したように、高度の専門職に関わる制度で、適用基準年収も、夢のような金額だし、一般労働者には、余り関係ない、といった雰囲気が、どこか、漂っている。しかし、その基準は、厚労省の(ということは、政府の)腹一つで、容易に拡大していける仕組みになっていることは、先に言及した通りである。そして、「悪法」の歩みは、いつも、こっそりと始まり、基盤が整ったところで、一挙に牙をむく。

これまでの、従来の労働法制を壊していった悪法の歩みを見ればいい。例えば、労働者供給事業という人間労働力の売買を禁止した人身擁護の法制度を破壊して、大量の非正規労働者を生んでいった派遣法も、1986年、16の専門業種に始まり、10年後には26に拡張され、そして99年には数業種を除いて一般化され、2003年には製造業に開放されて、今日に至っているのである。後述する労働時間規制外しの一方の横綱である「裁量労働時間制」も、業務の遂行に労働者の「裁量」が大きく働くとして、1989年に「専門的業務」に始まり、10年後にはその「業務遂行における裁量性」などという条件はすっ飛ばして「企画業務型」に拡大し、今回は事務労働一般から営業職にまだで拡大して、サラリーマン労働における労働時間規制の死滅化までたどり着けようとしている。

こうした歴史に学ぶことなく、なおのんびりと構え続けるとしたら、それは、「愚かさ」を通り越して、「犯罪的」というべきものである。悪法は種が植え込まれる前に潰さねばならない。労働時間規制の法制に関しては、それは、まさに「今、このとき」である。今こそ、1世紀以上にわたって幾多の労働者の努力によって護られ続けてきた「8時間労働制」の存続のために、すべての力を集中すべき時なのである。

3.サラリーマン労働における労働時間規制の死滅-裁量労働時間制の拡大

労働時間数調査のいい加減さをめぐるごたごたの中で、裁量労働時間制に関わる部分は、今回の改正案から除外された。ただ、同案は、完全に消えたわけではなく、来年国会に提出される予定となっている。そして、予定されている案の本質は、「企画業務型裁量労働時間制」の対象業務を、営業職を含むサラリーマン労働全般に拡張し、その労働時間の管理をすべて「労使委員会」に丸投げすることを以て、労働時間の法的規制を死滅に至らせようとするものである。ただ、この案については、本誌14号(2017年11月発信)にやや詳しく論及したところであり、具体化まで、若干に時間もあることから、ここではその危険な本質を指摘するに止めて、詳細な批判は、次号に譲ることにする。

4.小括-三位一体での労働時間規制外しへの闘い

①3ヶ月単位のフレックスタイム制、②高プロ制、③裁量労働時間制の拡張――いずれも、いたって「地味」なものである。それだけに、目立ちやすいポイントをあざとく強調し、関心を引きつけ、争点化していく手法も、最高に有効なものなのかも知れない。しかし、それだけでは、上に論及してきたように、「本質」を見落として、最も危険な要素、したがって、最も論議・追求されるべき重要な論点を見失わせてしまう。

今回改正案は、①3ヶ月のフレックスタイム制による、労働時間規制のなし崩し的排除、②高プロ制による「(労基法による労働時間規制の基礎である)8時間労働制理念」の死滅化、③裁量労働時間制の拡張による、サラリーマン世界における労働時間(の法的)規制の終焉を意図したものである。三位一体での労基法の労働時間法制の墓場送りともいうべきものである。

安倍首相が言うように、労基法70年の歴史の本質的変革である。しかし、安倍首相がそう言うのであるから、逆にわれわれは、その本質を社会的に暴露し、70年の歴史を通して、不十分ながらも根付いてきた、労基法による労働時間規制の理念・仕組み(それは1世紀以上をかけて世界に根付いてきたものでもあった)、その岩盤を護り抜く気概を持つものでなければならない。まさに「人類の多年にわたる獲得の努力の成果」として引き継がれた遺産を後生の仲間に引き継ぐべく、最大限の努力を注ぎ込むのでなければならない。

Ⅲ 「同一労働同一賃金」論を利用した非正規差別の正当化

1)「働き方改革関連法案」の中で、上述の労基法の労働時間規制に関する部分と並んで重要な問題は、労働契約法20条の廃止・パート労働法(短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律)9条への統合の問題である。それについては、「同一労働同一賃金」原則の実現が謳われるが、その実質は、それを口実とした正規・非正規間の労働条件差別の正当化・固定化に他ならない。いかがわしいことを行う者ほど、美辞麗句を使いたがるが、これもまた同様に、排撃さるべき改悪案である。

2)今回の改正案では、労契法20条を廃止するとともに、パート労働法9条後段部分を変更して(パート労働法も、「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」となる)、「事業主は、職務の内容が通常の労働者と同一の短時間・有期雇用労働者であって、当該事業所における慣行その他の事情から見て、当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において、その職務の内容及び配置が当該通常の労働者の職務の内容及び配置の変更の範囲と同一の範囲で変更されると見込まれるもの(…「通常の労働者と同視すべき短時間・有期雇用労働者」…)については短時間・有期雇用労働者であることを理由として、基本給、賞与その他の待遇のそれぞれについて、差別的取扱いをしてはならない」とすることにより「同一労働同一賃金」原則、「雇用形態にかかわらない公正な待遇の確保」を実現し、非正規差別(ここでは、以下、「短時間・有期雇用労働者」を合わせて、「非正規労働者」と、「通常の労働者」を「正規労働者」、あるいは、「正社員」と、おのおの表現する)をなくすものであると主張される。

3)この変更を、法文の変化の点からみると、特徴的なのは、

①比較・検討の対象期間を、「当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において」の同一性としていること、

②比較・検討の要素を、それに応じて、それぞれの「職務の内容及び配置の変更の範囲と同一の範囲で変更される」ことになっているかどうかを評価するものとしたこと、

③比較する労働条件項目を「基本給、賞与その他の待遇のそれぞれについて」と、具体化したこと、

④止めとして、「通常の労働者と同視すべき短時間・有期雇用労働者」を、「短時間・有期雇用労働者であることを理由として……差別的取扱いをしてはならない」としたこと、

である。

これによれば、「同一労働」に当たるか否かの確定につき、きわめて,用意周到な枠組みを設定し、そのような厳格な比較検討により「同一のもの」と評価される(「通常の労働者と同視すべき短時間・有期雇用労働者」である)場合には、「差別してはならない」(同じものは同じに扱え)としたもので、ある意味当然であるし、逆にその「同一性テスト」にパスしなかったものについて、その処遇につき、「差」があったとしても、それは法違反とはならないと結論づけたものと言える。

4)そうすると、次の問題は、この「同一性テスト」にパスして、「正社員と同一の労働に従事している者」と評価されるに至る「非正規労働者」が存在しうるかである。

しかし、現実的に、そのような非正規労働者は存在しない。というのは、「非正規労働者」というのは、わが国の雇用慣行においては、その雇用形態・処遇において、当初より、雇用制度的に、「正規労働者(正社員)」と峻別されたものとして存在するからである。というのは、正社員の場合は、基本「新卒採用」され、「期間の定めのない労働契約」を締結して、日々当該企業における「所定労働時間」一杯を(いわゆるフルタイマーとして)働きつつ、当該企業における業務体制の中で、様々な業務・経験を経て、企業内キャリアを蓄積しつつ、昇進、昇格をしながら、定年を迎えるというのを、基本とする。

それに対し、「非正規労働者」というのは、当初より、それらの要素のいずれかを欠いたものとして採用され、位置づけられている。例えば、期間の定めのある契約において採用され(有期雇用労働者)、あるいは、所定労働時間の一部について労働する者(パートタイマー)であって、その担当職務は、固定的であり(1つのジョブ系列で、いくつかの作業に従事し、その経験を拡大することはあっても、その系列を超えて他に異動すること=配置転換はない)、それ故に、勤務地が変更されること(転勤)もない。

これらの現実の中で、上記改正パート労働法9条に基づく評価を行えば、どうなるか。この現実の下では、正規労働者(正社員)と非正規労働者は、「同一労働」ではなく、したがって、その両者の処遇に差があったとしても、それは違法ではないということになる。冒頭に、今回の法改正の実質は、「同一労働同一賃金」論を口実とした正規・非正規間の労働条件差別の正当化・固定化に他ならない、と断じた所以である。

5)実は、こうした論理の下における非正規差別の正当化は、これまでの裁判例において、既に用いられてきたことであった。例えば、古くは日立メディコ事件において、東京高裁は、「その雇用関係が比較的簡易な採用手続で締結された短期的有期契約を前提とするものである以上、傭止めの効力を判断すべき基準は、いわゆる終身雇用の期待の下に期間の定めのない労働契約を締結しているいわゆる本工を解雇する場合とおのずから合理的差異があるべきことはいうまでもない。」と断じている(東京高判昭55・12・16)。

また、直近では、有期労働者の、労契法20条に基づく差別糾弾に対して、

「労働契約法20条における『不合理と認められるもの』とは、有期契約労働者と無期契約労働者間の当該労働条件上の相違が、それら労働者間の職務内容や職務内容・配置の変更の範囲の異同にその他の事情を加えて考察して、当該企業の経営・人事制度上の施策として不合理なものと評価せざるを得ないものを意味すると解すべきところ、被告のD支店においては、正社員のドライバーと契約社員のドライバーの業務内容自体に大きな相違は認められないものの……、……正社員は、業務上の必要性に応じて就業場所及び業務内容の変更命令を甘受しなければならず、出向も含め全国規模の広域異動の可能性があるほか、被告の行う教育を受ける義務を負い、将来、支店長や事業所の管理責任者等の被告の中核を担う人材として登用される可能性がある者として育成されるべき立場にあるのに対し、契約社員は、業務内容、労働時間、休息時間、休日等の労働条件の変更がありうるにとどまり、就業場所の異動や出向等は予定されておらず、将来、支店長や事業所の管理責任者等の被告の中核を担う人材として登用される可能性がある者として育成されるべき立場にあるとはいえない。

  被告におけるこれら労働者間の職務内容や職務内容・配置の変更の範囲の異同等を考察すれば、少なくとも無事故手当、作業手当、給食手当、住宅手当、皆勤手当及び家族手当、一時金の支給、定期昇給並びに退職金の支給に関する正社員と契約社員との労働契約条件の相違は、被告の経営・人事制度上の施策として不合理なものとはいえないというべきであるから、本件有期労働契約に基づく労働条件の定めが公序良俗に反するということはできないことはもとより、これが労働契約法20条に反するということもできない。」

と判示されている(ハマキョウレックス(差戻審)事件(大津地彦根支判平27・9・16))。

この流れの中で、改正パート労働法9条の持つ意味を考えれば、それは、これらの判例の発想・論理を正当化したもので、したがって、これにより非正規労働者の司法を通しての、格差是正の試みは、ふさがれていくことになる。

6)一方、「同一労働同一賃金」原則とは、概括的には、「同一の職務に従事する労働者には、同一水準の賃金が支払われるべきである」とする原則(概念)と定義されるが、その具体的内容は、必ずしも明確ではない。ことに、原則適用の前提となる「労働の同一性」をいかなる基準で判定するかについては、一律的に確定することが難しく、結局、観念的、理念的な概念であるに止まってしまう。

そしてそれは、市民の運動の成果として、ヴェルサイユ条約(1919年)、ILO憲章(1946年)、さらには、世界人権宣言(1948年)、国際人権規約(B規約)(1966年)等に規定され、「基本的人権」の1つと認識されていくことになった。ところが、これにより逆に、主として個人の生まれながらの属性(性、人種等)を理由とする賃金差別を禁止する法原則と観念され、個人の意思(契約関係)をもって形成される領域においては、実定法の具体的な規定を必要とするものとされるに至ってしまう。ということは、それは、本来雇用形態に基づく差別に対応する具体的基準ではなかったということである。

これらのことから、われわれにとっての課題が見えてくる。すなわち、まずは、政府・企業とのイデオロギー闘争において、「同一労働同一賃金」論の理念は、労働の現場において、いかなる格差も許されないとする「基本的人権」の1つであり、極めて重要な、したがって労働の分野で絶対的に遵守されるべき原則であることを定着化させていくことである。

そして、第2には、それを現場において実現するための具体化、すなわち日本的雇用慣行の中で、「同一労働」とは、いかなる基準によって判断されるべきものかを、理論化していくことである。正規・非正規の雇用形態差別を前提に、「職務の内容及び配置の変更の範囲と同一の範囲で変更される」か否かを「同一性」判断の基準とすることに対抗して、差別の構造を乗り越える「同一性」基準論を構築することである。これまで、雇用形態差別に対し、正面からこれを否定し、反差別を闘うことを真に貫き通していただろうか。これまで労働現場で、隣りで働く正社員も非正規労働者も同じ仕事をしている、なのに賃金格差があるのはけしからん、「同一労働同一賃金」原則に反するという、極めて素朴な論を展開しただけではなかったろうか。そのような現場の感性は正しいし重要である。だが、それのみでは、政府・資本の論に対抗できない。

徹底した反差別の闘いを通して、雇用制度の中までを貫く「同一労働同一賃金」論の構築こそが不可欠であるというべきであろう。

7)先に挙げたような判例の流れからすると、今回の改正案によっても、現実にはなんの変化ももたらされないように見えるかもしれない。しかし、労契法20条の存在により、これを手立てとして、司法上、有期労働者に対する差別の合理性を問う試みがいくつも現れ、その中でいくつかの成果も得られた。ところが、本改正案はそれらを否定し、差別を正当化して、そのようなわずかな手がかりをも取り上げてしまおうとするものである。その意味で、本改正案は阻止すべきものとして、闘いの対象にされねばならないのである。

Ⅳ 終わりに

「働き方改革」なるものは、既に見たところから明らかなように、労基法による労働時間規制の廃棄と雇用の2重構造の固定化を達成し、資本による最大限収奪を可能にするような「働き方」を生み出すための改革である。労働者派遣法の制定以降の労働法の歩みは、長い歴史をかけて構築されてきた労働者権保護の労働法制を浸食し、資本が意欲するがままの収奪を可能にする仕組みの形成過程(私は、それを、「労働法の崩壊過程」と、位置づけている)であり、今回の目論見は、その総仕上げである。そうである以上、戦後労働法制により生み出され、その中で育まれてきたわれわれの役割は、上記のような本質を的確に見抜き、歴史の重みそのものをかけて、闘い抜くのでなければならない。

こんどう・あきお

1942年東京都生まれ。65年中央大学法学部法律学科卒業、70年同大学大学院法学研究科民事法(労働法)専攻博士課程単位取得退学、同大学法学部専任講師・助教授を経て90年教授。2013年同大学定年退職、名誉教授、現在に至る。一貫して労働基本権の保障の下で「労働者の自立」を確保しうる法理論の確立を目指す。主要著書に『労働法Ⅰ』(中央大学出版部)。

特集●“働かせ改革”を撃つ

第15号 記事一覧

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