特集●“働かせ改革”を撃つ

野党第一党・立憲民主党の理念と課題

[連載 第一回] キーパーソンに聞く 海江田万里さん

語る人 立憲民主党最高顧問 海江田 万里

聞き手 本誌代表編集委員 住沢 博紀

1.出発点 1996年「オリジナル民主党」

住沢昨年9月の衆議院選挙をめぐる、民進党の「小池新党」希望の党への合流をめぐる混乱から、偶然の産物のような形で立憲民主党が生まれました。しかしそこには90年代からの政治改革という歴史的背景と、リベラル政党を欠く日本の政党配置の問題がありました。そこで今では「長老」となってしまった海江田さんに、まず1993年―1996年の政治改革の出発点からお願いします。

1994年11月26日、海江田さんと山花さんを中心とする「新たな選択・民主リベラル・新たな結集」というシンポジウムの冊子を持ってきましたので、ここから始めていただきたいと思います。(注:1994年、自民・社会・さきがけの村山連立政権が成立し、小沢グループ・公明党・民社党・日本新党の大部分は新進党を結成。これに対し、分裂状態の社会党改革派・前委員長山花貞夫グループ、さきがけの佐藤謙一郎、日本新党から新進党に行かなかった海江田万里らは、「連合」の働きかけもあり第3極の民主リベラルをめざす)

kaieda・banri

海江田私は93年細川新党で衆議院議員となりました。当時は「55年体制」からの脱却。万年与党の自民党、万年野党の社会党という構図を壊さなければならないということで、自民党からは小沢一郎・羽田孜さんのグループが出てきて、社会党からは山花貞夫・赤松広隆さんのグループが出てきたわけで、「55年体制」が大きく動いた年でした。93年には、非自民・非共産の細川政権が短期間、成立しましたが、9会派であっけなく潰れてしまう。細川さんは穏健な多党制を唱えました。しかし連立政権でも政権交代のためには安定した基盤政党が必要です。まず保守の自民党に対して、小沢さんは保守2党論に立つ野党の合流ということをいいだしました。

この第1保守、第2保守という二大政党では国民の選択肢の幅が狭くなる恐れもあり、社会党改革派で、当時北海道知事であった横路孝弘さんが理論的な支えでしたが、第3の道という選択肢を出したわけです。ここで第3の道の内容がリベラルということになり、今ではリベラルというと「寛容」を意味しますが、当時は、第一保守、第二保守とは異なると第3の道ということですから、社会保障の充実など、福祉国家的なニュアンスも含んでいました。さきがけの鳩山由紀夫さんや佐藤謙一郎さんは保守リベラル、それに市民リベラルと社会党改革派の社会リベラル、この3つの流れにより1996年の「オリジナル民主党」ができました。

もう一つ、どうして「55年体制」打破が必要であったかというと、あまりにも強い官僚体制の問題がありました。官僚はどうしても前例踏襲というスタイルで、90年代バブル崩壊により日本を大きく変えなければならない時代、例えば少子高齢化への対応とか、こうした課題に対しては既得権益にまみれた体制ではだめで、政治主導による日本の抜本的な改革が必要です。要するに、民主党の設立には、理念としてのリベラルという立場と、官僚制打破・政治主導という二つの軸があったと思います。

住沢今1996年前後のオリジナル民主党設立までの経過を聞いていると、2018年の政治状況に似ている気もします。自民党と、まだ曖昧ですが民進・希望の党という、自民に代わる穏健保守をめざす勢力があり、それに立憲・リベラルを唱える立憲民主党という第3勢力があります。

海江田確かに1周回って出発点に戻ったということもいえるかもしれません。一点異なるのは、現在では内閣官房に設置された内閣人事局の問題があります。官僚支配体制に対する政治主導というテーマは民主党政権でも重要でありましたが、この間の安倍政権で噴出するいろいろな問題に見られるように、官僚がおしなべて安倍官邸という一極に目が向くという、当時は想定できなかった弊害が出てきています。官僚幹部人事を官邸で行うなら、その任命責任も明確にしなければいけません。麻生財務相にも国会の質疑で、「佐川が、佐川が」というのではなく、かつてとは異なり内閣人事局が官僚人事に首を突っ込むわけですから、その重くなった責任を自覚していますかと質問しました。自覚していると答えていましたが、本当かどうか。

住沢日本新党から民主党には前原さん、枝野さんが加わりましたが、当時から共に議論しましたか

海江田彼らはまだ若く、鳩山さんや、とりわけさきがけを離党する簗瀬進さんとの話が中心でした。簗瀬さんは民主党の初代政策会長になり、政策に関しては主として簗瀬さんと話を詰めてゆきました。菅直人さんは橋本内閣の厚生大臣であったのでまだ参加せず、前原さんや玄葉さんはまだはっきりせず、参加は後からであったと思います。ジャーナリストの高野猛さんは最初からいました。

2.民主党による政権交代への道

住沢山花・横路・海江田と鳩山・菅による、海江田さんの言うオリジナルな民主党が1996年に設立され、1998年には、小沢さんと別れた羽田孜・岡田克也さんたちのグループや旧民社党と合流して、2009年政権に至る新民主党ができました。途中、2003年には小沢さんの自由党も合流しました。このすべての過程を見てきた海江田さんにとって、民主党のこの流れをどのように考えてきましたか。

海江田穏健な多党制と連立政権ということであれば、選挙協定などで協力することが考えられるが、日本では小選挙区比例代表並立制の下、まず小選挙区で勝てないと政権戦略もあり得ません。この点で前にも述べた基盤政党、民主党がある程度の規模が必要となる。小沢さんは当初は間違いなく、市場自由主義を掲げていたが、民主党に合流する際に、彼なりの割り切り方というか、オリジナルな民主党にあった社会保障などを掲げる政治に舵を切ったといえます。

私は、小沢自由党との合流には当初は懐疑的であり、党内でもそのように発言しました。しかし合併後に小沢さんの中に新自由主義的なものはもはやないということが分かってきたので、ともに行動できるようになりました。

住沢2003年衆議院選挙のころから、政権選択としてのマニフェスト選挙(政権としての公約)が定着し、民主党が最も活用しました。しかし2009年の民主党鳩山政権では、一方では「八ッ場ダム建設中止」のように、マニフェストを根拠とした政策転換は挫折し、他方でマニフェストに記された多くの政策の財源的措置が不十分であったことが露呈し、民主党政権の政権担当能力が問われました。民主党マニフェストは、政策の優先順位が党内で明確にされず、いろいろな要求をまとめて「ホチキスで止めた」ものに過ぎないという批判もありました。

海江田確かにその批判はあります。マニフェストは本来は知事・市長などの首長選挙で始まり、そこでは当選すればトップとして実行可能ですし、また任期も4年間と決まっていますので、その期間に何をするか書き込むことができます。しかし衆議院選挙では、野党の時代と与党になってからでは政策実現の立場が異なりますし、またいつ解散があるかもわかりません。特に突然の解散があると、党内での短期間でのマニフェストづくりに追われ、下からの議論でまとめていく時間がありません。

私が民主党代表として行った2013年参議院選挙では、地方から議論を積み上げてゆくことを提言し、座談会などを少しやりました。民主党では2009年選挙マニフェストが有名ですが、2003年から振り返ると、毎回毎回、政治日程に追われ、党内の議論や、サポーターや地方からの議論をどこまでくみ上げたかとなると、それははなはだ疑問です。その意味では、現在ではあまりマニフェストといわれなくなりました。私は自治体の首長選挙では有力であると思います。

住沢もう一つの過去への質問として、民主党から、民進党・立憲民主党までの流れを含める、民主リベラルなり、海江田さんのいうオリジナルな民主党の流れは、どの程度、誰によって継承されましたか。今、菅直人さんには触れないとして、社会リベラルでいえば、横路孝弘、赤松広隆さんなど旧社会党役職者や、ニューウエーブの会の仙谷由人、大畠章宏さんなど、自治労・電機労連関係の議員がいました。その中で、海江田さんは1994年の民主・リベラルから始まり、また実際に2013年には民主党の代表となるなど「シンボル」として担がれる印象があるのですが、ご自身のポジションはどのように分析されていますか。

海江田発足時は幹事長職はなく、わたしは総務委員長ということで、民主党の職員を採用する組織づくりを担当し、簗瀬さんが政策を担当しました。社会党・ニューウェーブから来た仙谷由人さんも確かにキーパーソンの一人ですが、この時期、簗瀬さんが中心でした。私は市民リベラルの流れと当時は思っていましたし、今も思っています。この中では私は保守リベラルと社会リベラルを繋ぐ役割と位置付けてきました。

3.鳩山政権への期待と挫折

住沢それでは次に2009年鳩山民主党政権の問題に行きたいと思います。まず官僚主導の体制に対する政治主導という民主党の原点ですが、この点で今日からどのように総括できますか。

海江田現在、安倍政権の官邸政治という意味での「行き過ぎた政治主導」はいろいろな問題を起こしています。私は政治主導自体は正しいと思っていますが、民主党政権の場合は、「行き過ぎた」というより、粗削りで未完成な政治主導であったと思っています。

私は2005年の小泉郵政選挙で議席を失っており、2009年鳩山政権では、政府ではなく小沢さんと党務のほうを担当しました。小沢さんは政治主導を強く主張していましたが、私は政府と並び国会改革の方も同じ程度に重要と思っていました。国会での答弁も、官僚が政府委員として代弁することが多く、これを現在そうなったように政府参考人として位置付け、国会での質疑は政治家同士が官僚を介さずに行う、ということを目指すものです。民主党政権は3年有余で早死にしましたが、政治主導は10年ほどやってある程度見えてくるものだと思います。

官僚の力はまだまだ強く、これと正面からぶつかってはなかなか事が運ばない。外務官僚は強固であったし、厚生官僚や財務官僚とも苦労しました。民主党政権は官僚組織と正面からぶつかってしまいましたが、これをもっと時間をかけて、法的な整備も行い、官僚組織を使いこなすようにしなければいけなかった。そのためには大臣になる人の人間力というか、大臣のみならず副大臣や政務官など、適材適所でなければならなかったが、民主党政権の場合、必ずしもそうではありませんでした。

官僚の人たちも何十年とやってきた人たちだから、そうした相手を見て判断し、政務3役の力量に応じて行動し、あるいは面従腹背にもなる。今回の防衛省の日報隠蔽の問題も、大臣の評価と関連があったと聞いています。

住沢民主党政権の失敗は、鳩山政権の沖縄辺野古移転問題、政治主導の名の下での政務3役による省庁運営の困難と官僚組織の側からのリークや面従腹背(外務省、防衛省など)、民主党党内のガバナンスの在り方(政策や意思決定への党の制度枠組みが機能せず)などに要約されますが、このうち、海江田さんの視点からはどれが最大の問題であったと思いますか。

海江田やはり鳩山内閣の辺野古移転がつまずきの最初であり、外務省と防衛省です。政務3役に関してはだんだんと機能してゆき、やはり誰がなるかという適材適所の問題です。民主党は野党時に影の内閣を作りましたが、鳩山政権になってから、それとはほとんど違った方々が閣僚や政務3役に任命されました。私も影の内閣とは何だったのか、だれがなぜ任命されたかのよくわかりませんでした。ただ適材適所とは非常に重要かつ難しい問題で、政務三役に人材が採られ、党の側での人材が不足するなどの議員のボリューム的な問題も露呈し、特定の省庁の大臣を「参議院枠」などで任命する場合もありました。

住沢党内ガバナンスの問題で、当時は強大な力を持つ小沢幹事長が自らのもとに政策のための陳情を集約したり、党の税調を廃止して、政治家主導の一元的な政府税調にしようとするなど、鳩山内閣と小沢民主党の二重権力状況のようなものが現出しましたが、海江田さんはどのような立場でしたか。また現在からみて、どこに問題があったかと考えますか。

海江田ガバナンスに関しては、もう一つはやはり財務省でしょうね。すでに橋本内閣の時代から内閣府に経済財政諮問会議を作り、予算の編成権を財務省から奪おうとしていたわけです。これを民主党政権も継承しようとしました。私は民主党政権でも経済財政諮問会議を作るように提案しましたが、それは作られずに、党の側で予算編成を行おうとしました。

9月に政権ができ、翌年の予算編成の折に、小沢さんが官邸に乗り込んで予算要求したことがメディアで注目されましたが、私もこの時に小沢さんについていきました。このことが財務省の「琴線に触れた」のかもしれません。自民党政権も経済財政諮問会議によって財務省との軋轢はあったのでしょうが、そこは一つの制度を作り運用が巧みですから。

自民党の税制調査会も税率の決定など大きな権限を持ち、政府税調よりも強い面もありましたが、だんだんと内閣府の経済財政諮問会議が力を持ってゆきました。民主党の場合、この政府と党の2元制を廃止して政治家主導の一元的な政府税調にしようとしたわけですが、そこでは組織ではなく、小沢幹事長という属人的な要素が強く出たことが否定できません。消費税の問題もあり、財務省との軋轢も大きかったと思います。

4.海江田経産大臣と福島原発事故

住沢次に海江田さんにとって運命的な問題への質問です。2011年1月、第2次菅改造内閣で、経産大臣に就任されました。そして3月11日、東日本大震災と福島原発事故が起こるわけです。海江田さんには経産大臣として、電力事業を促進する資源エネルギー庁と、原子力を規制する原子力安全・保安庁を統括するまさに当事者でした。

菅・枝野首相官邸とは一部異なる、経産大臣としての『海江田ノート―原発との闘争176日の記録』(2012年)の著作もあります。事故当初の対応は置いておいて、6月ごろからいくつかの原発の再稼働をめぐり、ストレステストを持ち出した菅官邸と、早期の再稼働めざす経産省が対立し、海江田さんは菅内閣内の経産省派、野党というイメージがありました。このあたりの経過と、今日からの視点をまずお願いします。

海江田経産大臣としては、本来であれば通商政策や輸出企業の円高の中での競争力の強化など、やるべき課題は数多くありました。しかし民主党政権が発足して1年半ほどで東日本大震災と福島原発事故に直面したわけです。

経産省は資源エネルギー庁という原発促進の官庁と、原子力安全・保安院という規制官庁があり、エネルギー庁の次長が保安院の院長になったりする人事交流もあり、最初からおかしいという問題意識はありました。しかし事故が終息しない間は、保安院やエネルギー庁の人々を動かすしか方法はありません。ほかに組織も人材もないわけですから。だから経産省の原発推進政策が誤っていたとか、保安院が無能であるとか、それぞれの組織を批判することは簡単だけれども、今はこの組織を動かす以外に方法がないということが、私が最も苦労し、板挟みになった点です。

私は原発を推進してきた経産省の大臣ですから、当然この人たち、この省庁への批判を私が受け、また経産省の要望を私が代弁するわけです。新しい組織や政策転換はその後でということになります。

住沢しかし6月になり、停止していた原発の再稼働や、東電の責任が浮上してきた折り、誰も責任を取らない中で、例えば東電を倒産させるという手法で、これまでの原発政策を転換させるということもありえたのではないか、という見解も当時から根強くありました。

海江田東電の問題は仙谷由人さんも交えてよく議論しました。最大の問題は、まだ原発事故が進行中で東電を破たん処理させると、誰が事故の対応をしている社員たちへの給料や、避難している人々の費用を支払うのかということでした。国有化すればいいという話もありましたが、それでは全員、再雇用するのですか、あるいは事故で避難している人が数多くおり、その人たちに国が賠償金を支払うのですか、など数多くの問題があり、やはり事故を起こした当事者である東電に、事故処理や賠償責任を負わせるということになりました。

電力の自由化とか、地域独占の解体・再編とか、様々な改革は必要とされているが、それは事故がある程度コントロールできる段階での話と思いました。事実、電力の自由化は現在進行しており、私はこの方針が正しかったと今でも思っています。

住沢もう一つお聞きしたいのは、経産省の原子力安全・保安院が解体され、現在では、環境省の外局として原子力規制委員会となり、原発再稼働の審査など規制の中心となっています。また福島の除染活動も環境省が主として担当しています。しかし環境省がこうした力量があるのかどうか疑う人もいます。例えば先日、福島の飯館村に行ったおり、農業の再生を目指す人々は、農業を知らない環境省ではなく、農水省が農地の除染を担当していれば、もっとコストを削減し、しかも農地再生を容易にしたのではといっていました。

海江田経産省だけであればエネルギー政策は、原発推進も含めて「イケイケどんどん」になるので、環境省も含めてエネルギー問題を考える。エネルギーと環境をくくって、2011年6月にエネルギー・環境会議が作られ、これが原子力規制や除染を環境省が担う糸口になりましたが、私はこれは間違ってなかったと思います。除染と農地再生に関して、農水省の話は初めて聞きました。

5.「原発ゼロ基本法」とエネルギー政策

住沢立憲民主党の基本政策の一つに、「原発ゼロを一日も早く実現するための原発ゼロ基本法の策定」が掲げられていますが、これが2011年の教訓からの帰結ですか。枝野さん、福山さんなど当時の菅政権の官邸中枢が今では立憲民主党の代表・幹事長ですから。

海江田これはまさに野党でなければできないような、長期的な視野に立った基本法ですから、立憲民主党が政権を取っても法律として実行していかなければならない大事な政策です。同じように、野党の時代に、安全保障基本法のように、専守防衛の中で何ができるのか、ということもやっておかなければならないと思います。

住沢細川さんや小泉さんが脱原発社会を唱えていますが、立憲民主党あるいは海江田さんが、彼らと協働することはあるのですか。

海江田私は現在のところありません。彼らは脱原発を再生可能なエネルギーに結びつけることで、日本の経済成長につながっていくという考えで、これは傾聴に値すると思います。ただ日本は事業所レベルなどミクロでは省エネが進んでも、日本社会全体でのエネルギー効率はそれほど優れたものではなく、日本の産業構造そのものを変えていく必要があります。

私は研究会を立ち上げてこの問題を追究しようと思っています。例えば、「直流家電」などにより、現在の交流に一度変換しての電力利用からうまれる大きな無駄を削減できます。自動車が化石燃料から電気自動車に転換される時代には、日本全体でのエネルギー効率の向上とそのための産業構造や産業規格の転換が重要となります。

住沢それこそ原発ゼロ基本法と並ぶ大事な基本政策となりますが、立憲民主党では具体的なエネルギー構造改革プランが作成されているのですか。またそのための産業界での協力者や研究者はいるのですか。

海江田立憲民主党では、原発ゼロの方に多くの人が関心があり、まだ産業構造の変革と全体としてのエネルギー効率の改善まで話は進んでいません。したがってこれは私個人の思いです。しかし関心ある議員はおり、こうした人たちと研究会を立ち上げる段階です。産業界、経営者、研究者もまだ具体的な名前を挙げるレベルには到達していません。同友会にはどなたかいると聞いています。まさにこういうことをやるのが、私の仕事と思っています。

住沢こうした政策はスピードこそ要求されるもので、海江田さんの気概と関心はわかりましたが、進行が遅すぎるのではないですか。

海江田「一日も早く原発をゼロに」もその一つである、立憲民主党の掲げる「5つの国民との約束」は、市民とのシンポジウムなどを各地で行い、すでに日本のほとんどの地域で議論されたものです。このように私たちは市民との対話を大事に思い、草の根からの民主主義を追求しています。したがって「原発ゼロ基本法」にしても時間がかかりました。

しかも市民運動のなかには、原発ゼロだけをいっている人もおり、こうした人々に産業構造の転換を呼びかけても乗って来ない人もおり、時間がかかるのです。しかしこうした課題を設定することは、私たちがある程度、大枠を決めやっていかなければならないことと思います。地域分散型の再生エネルギーの活用に関しては広く承認されていますし、担い手もいます。しかしそれを日本全体の産業構想の転換まで結びつける政策的課題はまだ広がっていません。

6.民主党から民進党へ

住沢それでは海江田さんが民主党の代表に選ばれた時期つまり2012年12月、安倍自民党が圧勝し、野田内閣が辞職し、野党民主党の代表に選出されるわけですが、民主党再生に向けた当時の海江田さんの構想はどのようなものでしたか。さらには、みんなの党や維新の会など、都市型ポピュリズム政党が台頭して民主党を得票数においても脅かすわけですが、こうした政党への評価と対応を聞かせてください。

海江田みんなの党や維新の会・維新の党、あるいは今回の希望の党など、ポピュリズム政党というのは「あだ花」であり、政党のメインストリートではありません。これに対して、民主党は野党になったといえどもメインストリートの政党として守っていかねばならないという気持ちが強くありました。もちろん国会の中では協力する場面もあり、あるいは選挙区ではすみ分けるなどは考えましたが、合流しようという考えはありませんでした。

昨年の希望の党の結成のように、当時も一緒になろうという声はありました。維新の会には熊本の松野頼久さん、みんなの党には江田憲司さんがおり、そういった話が出たわけです。維新の会の橋下さんにせよ、あるいは今回の都民ファーストの会の小池さんにせよ、メディアがあれほど持ち上げるということは、必ずその反動が来るということが世の常であり、長続きするのものではありません。私は長続きする政党として民主党を位置付けていたので、こうした政党との合流は考えていませんでした。

住沢2013年2月に、海江田代表のもと民主党は綱領を採択します。細野豪志幹事長を中心に作成され、素案は非常に日本の伝統を強調する古めかしい表現で驚かされた記憶がありますが、最終的には、民主党は、生活者・納税者・消費者・働く者の立場にたつ改革政党、憲法の基本精神を具現化するとあり、オリジナル民主党の最低限の共通基盤が維持されたという印象を持ちました。

海江田民主党は政権時代の負の遺産を抱えており、再生には時間がかかることは明らかでした。何が問題であったのか、みんなで協議し、自己検証委員会を作って検証し、綱領も作り直し、もう一度原点に戻って考えようということでした。

細野さんを含めみんなで議論したわけですが、私は「民主・中道」を入れようと思ったが、彼は全体でそれが分かれば入れる必要がないと反対し、明示しませんでした。しかし細野さんも幹事長としてこの新綱領をまとめ上げ、基本的に多くが合意できる内容となりました。その民主党の線でまとめた責任者である細野さんが、昨年夏の民進党からの離脱の先頭を切ったことは、私にはよくわかりません。

3年3カ月の政権の負の遺産は大きく、その2倍、6年から10年程度は失地回復に時間がかかるとみていました。2014年総選挙は私が落選したので強く言えないですが、73人当選で、2012年の57人より16人増えたのです。2012年が底で、そこからだんだんと回復していけばいいと思っていました。小沢さんや維新の会の松野さんから合流の話は何度もありましたが、純化路線ではないですが、私はじっくりと信頼を回復していくしかないと思っていました。

2016年、私は賛成ではなかったですが、維新の会と民主党が合併して民進党が結成されました。せっかく綱領まで作り、痛みを分かち合い民主党の再生途上にあったのに、これでは元の木阿弥であると思いました。ポピュリスト政党、とりわけ「右」のポピュリスト政党が入ると、やはり重心が右に傾いてゆくのです。その帰結が、民進党を解党し希望の党へと合流させようとした前原さんらの動きになったと思います。それが当然の帰結であり、民進党になった段階で、それはオリジナル民主党でも、私が2012年に再建しようとした民主党でももはやなかったということです。

今回も枝野さんを応援してきましたし、小沢さんともよく話をします。小沢さんは、いざ政権を取りに行くという時期が来れば必要とされる人だと思います。

7.そして立憲民主党へ

住沢2017年9月選挙で、枝野さんを代表とする立憲民主党が期せずして生まれました。海江田さんはこの立憲民主党にどの程度関与していたのですか。また1994年から約4半世紀の政治経験を振り返り、立憲民主党をどのように位置づけすることができますか。また今回、新人が多く野党第一党とはいえ、経験豊かな政治家に欠けていると思いますが、どのように対応してゆきますか。税制でいえば、希望の党の古川元久さんや岸本周平さんは元大蔵・財務省官僚、民進党の大塚耕平さんは日銀出身など、税制・財政に強い政治家が豊富ですが。

海江田今回の選挙では、私は東京1区から民進党で出ることは決まっていました。しかし以前から枝野さんとは一緒にやろうと話していたので、彼が立憲民主党を立ち上げるといったとき、即座に決めました。この選挙結果を見て、25年間やってきてまた振り出しに戻ったかなという感があります。新人が多いので、私の25年の経験をいかに伝え、バトンタッチをしてゆくか、ということが私の仕事であると思っています。党内では立憲民主党税調会長として、与党の「平成30年度税制改正大綱」への対応や対案作りを行っています。

私は税の再分配機能を重視すべきだと思います。もう5回ほど若手と勉強会をしましたが、ピケティの資本主義と格差拡大論やベーシック・インカムの必要性などを議論しています。例えば人工知能が普及してくれば、人間の仕事がなくなるので、ベーシック・インカムによって所得と経済を回してゆくしかないという事態が、10年後か、もっと後か分からないが、そういう時代が必ず来ます。しかし当面は格差是正の課題の方が大きく、税の格差是正機能が弱まっているので、これを改革することになります。

住沢立憲民主党の現在やらなければならいことは何ですか

海江田現在、国会では森友・加計・日報問題など安倍官邸政治の問題を、野党第1党として追及しています。政党支持率からいっても、野党第1党というポジションは非常に大事ですし、野党共闘も成立しています。立憲民主党の組織論でいえば、都道府県の組織をいかにつくり、強化していくかということです。

来年の4月の統一地方選挙でどの程度の議員を確保できるのかという課題です。これまで民主党の時代でも、党都道府県連ではなく、衆議院の小選挙区を総支部として、都道府県は総支部連合という形でした。これを本当の意味での政党の都道府県連としなければなりません。また希望の党などとの協力も、例えば東京では都民ファーストの会であり、そこにしか実態はありません。その中でいろいろな議員がおり、そうした議員とも協力して、中心は立憲民主党の地方議員が、どこまで立憲民主党の都道府県連を組織できるかにかかってきます。

住沢希望の党と立憲民主党を分けたものは、安保法制を承認するかしないか、さらには共産党との協力をするかしないかでした。この点で、海江田さんの立場からは、共産党との協力はどのようにあるべきですか。

海江田党と党との関係を前面に出すと難しくなるかもしれません。その点で、市民連合がつなぐ役割りが大事です。市民連合は共産党の影響が強い側面もありますが、そうでない人もいるので。また選挙協力に限定せずに、たとえば今日も、私の選挙区の東京一区の共産党地方議員が、学生援護会への支援を求めてここに来ました。私も選挙で世話になっており、そうしたことで協力できる課題や政策は協力し、国会活動のなかでも生かしていくということが大事であると思っています。子供の貧困をなくそうとか格差是正は、共産党だからどうのこうのという問題ではなく、私たちの問題でもあるのですから。

最後に、全体のまとめとして、政権を一挙にとる時が来ればそれができるように準備しておかなければなりません。日本はこのままでは、それこそ希望のない国になりますから、必ず政権交代の時が来ます。政権交代は大きなエネルギーを必要としますが、また政権交代は大きなエネルギーを生み出す力を持っています。その時にきちんとした政策を提起できるようにしておかなければなりません。これが野党第一党としての立憲民主党の課題であり存在意義です。


[連載]キーパーソンに聞くを企画して

昨年2017年9月総選挙で、民進党が、立憲民主、希望の党、参議院民進党・衆議院無所属の3グループに分裂し、民進・希望の再統合・分党や立憲民主の独自路線などいろいろ議論されていますが先行きは不透明です。また安倍政権も3分の2以上という「改憲多数」を維持したとはいえ、森友・加計学園の問題や財務省・防衛省・厚生労働省などの文書改竄・文書隠しなど、議会と行政の根源的な信頼関係が揺らいでいます。そしてその問題のおおもとには安倍官邸政治があります。しかし安倍政権が崩壊しても、アベノミクス、安全保障法案、原発に依存するエネルギー政策など2012年から安倍政権が進めてきた自民党政治とその基本政策は残るわけです。

そこで『現代の理論』編集委員会では、野党第1党になった立憲民主党の経験豊かな政治家を中心に、二つの課題を立てインタビユーをする企画をたてました。

第一は、1990年代からの政治改革の意義とその現実の展開・帰結を、現在の視点からどのようにとらえ返すかということです。これは海江田さんなど1996年の旧民主党設立時から知っている政治家、あるいは地域政党・市民活動から民主党に参加した政治家などに語っていただこうと思っています。

第二は、現在の福山立憲民主党幹事長、枝野幸男代表などに、自民党に代わる政権構想や政策内容を語っていただくことです。福山、枝野両氏には、2010年、民主党菅政権の時代に、『現代の理論』のインタビユーを受けてもらっています。あるいは選挙協力を考えると、日本共産党のどなたかにインタビユーを申し込むことも考えられます。 (本誌・住沢博紀)

かいえだ・ばんり

1949年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。金融、経済の評論家として活躍。1993年に日本新党より衆議院議員に初当選(東京一区)。通算7期。1996年、菅直人、鳩山由紀夫らとともに民主党を結党。民主党政権下の菅内閣で特命担当大臣(経済財政政策・科学技術)、経産大臣を歴任。元民主党代表。2017年10月の立憲民主党結党に参画。現在立憲民主党最高顧問。主な著書に『団塊漂流~団塊世代は逃げ切ったか』(角川書店)、『あなたの「定年後」は大丈夫か』(主婦と生活社)、『「海江田ノート」~原発との闘争176日の記録』(講談社)、『 人間万里塞翁馬』(双葉社)など。


すみざわ・ひろき

1948年生まれ。京都大学法学部卒業後、フランクフルト大学で博士号取得。日本女子大学教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。専攻は社会民主主義論、地域政党論、生活公共論。主な著作に『グローバル化と政治のイノベーション』(編著、ミネルヴァ書房、2003)、『組合―その力を地域社会の資源へ』(編著、イマジン出版 2013年)など。

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