連載―【現代と思想家】大杉栄
生への信頼と謳歌と
暗き時代を照らす、「生の拡充」へのまなざし
明治大学兼任講師 飛矢﨑 雅也
「現代的不幸」という〈暗がり〉の深層
「生きづらさ」が社会を覆っている。2013年の自殺者数は3万人を下回ったものの、1998年以降、自殺者は14年連続で3万人を超え、OECD加盟国中、日本の自殺率は第2位である。その周辺には不登校、自傷行為、摂食障害、空虚感といった問題が指摘される。練炭自殺や硫化水素自殺のニュースが報じられるとともに、「引きこもり」は全国で100万人を超えるといわれる。戦争、貧困、飢餓といった「近代的不幸」とは次元が異なるこうした不幸は「現代的不幸」と呼ばれるが、今日の「生きづらさ」はこれである。
加えて1992年以降の日本経済の停滞は、「生きづらさ」の様相をさらに複雑なものにしている。すなわち、格差や不安定雇用の問題が論じられる一方で、在日韓国・朝鮮人を名指しして、汚い言葉で攻撃するヘイトスピーチ(憎悪表現)や、それを主導する在日特権を許さない市民の会(「在特会」)などの排外主義的な活動が活発化している。2014年3月8日に埼玉スタジアムで開催されたJ1浦和と鳥栖の試合では、一部サポーターが「JAPANESE ONLY」の横断幕を掲げるという事件も起こった。埼玉スタジアムに人種差別的な横断幕を掲げた男性は、「ゴール裏は自分たちの聖地なので他の人に入って来てもらいたくない。応援の統制が乱れるのは困る」と話したという。こういった一連の排外的な風潮が広がる背景としては、グローバリゼーションという名の下に進む、新自由主義政策の加速に伴う格差の拡大と帰属感の不安定化を指摘できるだろう。
現在、非正規雇用の拡大で、結婚して子供を持つだけの収入を得ることも難しい貧困労働層が増えている。彼らは未来に希望を持てず、不安感からはっきりものを言ってくれる人や強い国家イメージに引かれる傾向を持つ。日本の新自由主義・新保守主義勢力はこうした層からも支持を集めているが、それはそれらが新自由主義的な政策によって彼らの怨恨感情を充たすからであり、また韓国、中国、北朝鮮といったアジア諸国を見下す感情が新保守主義的な政策と親和して、それによって自己肯定感を誤認してその上昇を錯覚できるからである。つまり新自由主義・新保守主義勢力は、支持者の低い自己肯定感を利用して、政権を獲得・維持しているのである。このように「現代的不幸」の現象の仕方は様々であるが、それらに共通するのは帰属感の欠如とそれと裏表の低い自己肯定感である。
「生の拡充」から時代を超えて
さて、この「現代的不幸」という極めて今日的な問題を考える上で、大きなヒントを与えてくれるのが、明治大正期の思想家・社会運動家の大杉栄(1885~1923年)である。なぜなら、過去から現在に至る支配・被支配の根底には自己肯定感の下降があると考え、これを上昇させようとしてなされたのが彼の全活動だったからである。しかしこういう私自身、大杉が書いた文章を目にするまで、彼については関東大震災時に虐殺されたアナーキストという位にしか知らなかった。それだけに一層、彼の文章との出会いは決定的だった。
高校時代、私は「大学受験という目的にからめ捕られて、自分を生きていない」苛立ちを覚えていた。大学進学後も違和感は消えなかった。大学院進学を目指していた時、たまたま訪れた従兄弟の部屋の書棚にあった本を手に取って開くと目に飛び込んできたのが、大杉の「生の拡充」の一節だった。そこには逆境にあってもなおそれをバネにした彼の「生への信頼と謳歌」があった。この「生の実感」の源は何なのか、それを知りたいと思った。このようにして、大杉と私は、「生の拡充」の衝撃によって時代を超えて繋がることになった。
そうして大杉を知るにつれ明らかになったことは、彼が活動していた大正時代の日本では、資本主義の発達とともに大衆社会が萌芽的に形成され、「煩悶」青年に象徴されるような「現代的不幸」の問題が兆していたこと。さらに大杉が、文壇での活動や労働運動を通じて、この「不幸」に積極的に向き合っていたことだった。
資本主義社会では個々人は相互に置きかえ可能な「平均人」、すなわち量的に処理可能な人間として見なされる。しかし人間はかけがえのない自分として、共同性を生きることによって自己肯定感を養い、それによって他者と繋がることが可能になる。そうであるなら、そうした契機を持てない者が「引きこもり」になるなどの「現代的不幸」を背負うことは当然である。そういう「不幸」を背負った者がそこから回復するのに必要なのは、自らの「生きづらさ」を「個性」として肯定し、それを起点にして他との関係性を結び、「居場所」を得ることによって回復することだろう。それが大杉のいう〈生の拡充〉の過程であり、それによって現実世界における自分の立ち位置と意味を認識して、生き方の方向性を定めることができるのである。ここで諸個人は、いわば相互扶助というかたちで自己を与えること、肯定することによって自己超越を実現しようとするのである。この肯定が〈生の拡充〉を同時に意味していることはいうまでもない。大杉はこうして回復した典型だった。
経済停滞と不安定雇用の時代を生きている現代の若者にとって、「現代的不幸」はますます深刻化しつつある。そして市場原理を絶対視する新自由主義が台頭する中、「自由」という言葉も「自己選択=自己責任」という論理にからめ捕られてしまうようになっている。自己責任論が声高に叫ばれ、社会の矛盾の責めを自己に向ける人も多い。そこで気になるのは追い詰められた人ほど「自己責任」を語ることである。「私が悪いんです」「努力不足ですよね」といった言葉で文字通り、責任を自分に回収してしまう。そうした彼らには「居場所」がない。
いま、相互扶助から〈明るみ〉の方へ
「居場所」は、いざというときに頼りになって生活を保障してくれるものであると同時に、他方で「私はここに所属している」というかたちで帰属感(アイデンティティー)を保障するものである。「居場所」は、物質的なレベルにおける生活の保障と、精神的なレベルにおける帰属感の保障の両方に関係している。したがってそれが失われていけば、自分の持っている能力や人脈、カネといったものだけで自分の生存や存在を支えていくしかない。そうすると自己責任の論理を内面化してしまう。「居場所」がないという点で、貧困労働層は、不安定な生活と自己責任、そして帰属不安が構造的につながっているのである。ここに、新自由主義と新保守主義が構造的な相補関係にある理由もある。
責任を自分に帰する者は、「自分のせい」と言いながら、心のどこかに鬱屈した感情が溜まる。そうすると、下降した自己肯定感を引き上げるべく、自分よりも弱い「敵」を作り、いじめ、バッシングを行って、それにより自己肯定感の上昇を錯覚する。この見地からすれば、ヘイトスピーチや、自分より弱い者へのいじめ、バッシングも自己責任論の蔓延と表裏一体である。そこには、「自分以外は信じるな」という新自由主義のレトリックによって、「生きづらさ」が亢進している情況がある。
だが当然ながら、「現代的不幸」は新自由主義の自己責任論によっては解決されない。自由は他者との関係の中で初めて現実のものとなる。人は関係を断っていくことによって自由になれるのではない。繋がっていくことによって自由になれるのである。そうであるならば、不安定な生活に曝された若者たちの希望は、自らの生活を支え、かつアイデンティティーを保障できるような「居場所」を自分たちの手で創造していくような実践にこそ、あるだろう。
このように導かれる、自己肯定感と自らの思考力を高めていく個人が、相互に連帯・協力していくのが、大杉のいう〈相互扶助〉に他ならない。他者と共同することを可能にする自己肯定、すなわち〈生の拡充〉は〈相互扶助〉によって育てられ、内実を与えられる。そして大杉はこうした〈生の拡充〉を新しい社会の出発点にしようとした。その社会が、各人の生がそれぞれに拡充されていく多様性社会としての自由連合社会だった。その共同性は排外主義の求める同一性の全体性と異なって、差異の全体性である。
「自由」が「新自由主義」の言葉となった今日において、「自由」を取り返すためにも、われわれは、自分たちを取り巻いている現状から、手がかりを一つずつ探し出していくしかない。同時に歴史の中にある先人たちの営みから、それを問い直していくしかない。現代において大杉を読み直す意味はここにあるといえるだろう。
ひやざき・まさや
1974年、長野県生まれ。明治大学兼任講師。昨年末に『現代に甦る大杉榮 自由の覚醒から生の拡充へ』(東信堂)を刊行。