特集●次の時代 次の思考
「黒船以来の総決算」を
富国強兵・殖産興業を問い直す
筑波大学教授 千本秀樹
1.「江戸時代は遅れていた」という勘違い
わたしたちはなぜ東京電力福島原子力発電所事故という過ちをおかしたのだろうか。誤りの出発点は、ペリーの黒船艦隊を見たときに、「自分たちは遅れている」と壮大な勘違いをしたこと、勘違いをした精神性にある。
実はすでに織田信長は鉄甲船を建造し、活用していた。しかし徳川幕府の非武装政策によって、人びとは平和を謳歌し、時折の飢饉に対しても支配層の一部は福祉政策という発想を生み出していた。江戸時代を貧農史観で理解することを克服することが提唱されて久しい。江戸時代後期の民衆の文化力は向上し、それは幕末期の識字率が世界でも群を抜いて高かったことに表れている。当然出版も盛んで、都市では書店も多かった。
それを基盤として、自然科学や芸術も高いレベルを誇っていた。関孝和の和算は世界でも最高水準にあったし、東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれる平賀源内は、エレキテルだけではなく、浮世絵の多色刷りの実現など、さまざまな技術革新を実現した。伊能忠敬の測量技術は世界でもまれな精密地図を生み出した。華岡青洲は世界で初めて全身麻酔外科手術を成功させた。
幕末のからくり人形師田中久重の万年時計は、一度ぜんまいを巻けば一年間動きつづけた。付属している天球儀は田中久重が天文学をもわきまえていたことを示している。中心部分の和時計は、実に複雑である。当時は日の出から日の入りまでを6等分し、一刻(いっとき)としていたから、毎日一刻の時間が変わっていく。だから毎日、文字盤の文字駒同士の間隔が自動で変わるのである。この万年時計は、24節気、曜日と時刻、毎日の干支、月齢を表す時計、洋時計の機能も合わせ持っていた。田中久重も東洋のエジソンと呼ばれている。ペリー来航後、彼は佐賀藩に呼ばれ、一年で小型蒸気機関車を完成させた。続いて日本初の蒸気船である凌風丸を就航させている。明治維新後、田中製造所を発足させ、電動工作機械や電信機を製作した。現在の東芝である。
長野県の五郎兵衛用水は17世紀前半に建設されたが、その一部である片倉山のトンネルは、320メートルに及ぶ。山の両側から掘りはじめ、山の中央で開通する。工事中に酸欠事故が起こることを防ぎ、何よりも水が流れる勾配にして完成させる。この測量・設計・施工の能力を持っていたのは当時「賤民」とされた人びとであった。
美術の分野でも、浮世絵がヨーロッパの印象派に大きな影響を与えたことは広く知られている。
このように、江戸時代の日本列島の文化力は、世界にひけをとらなかった。しかしその多くは、人びとの暮らしに密着したものであった。徳川幕府は大型船の建造を認めず、せいぜい3000石積の商船であった。そのために大砲を積んだペリーの鋼鉄船を見た時に驚かざるをえなかったのである。
幕末維新期に来日した欧米人の多くは、その旅行記で日本人の勤勉さ、優しさ、清潔さを称賛している。しかし、日本人自身は、欧米と比較する機会が少なかったために、その特長に気づきにくかった。清潔さといえば、江戸の上水道は、江戸都市建設と同時に整備が始められ、神田上水をはじめとする六上水は、世界で最も早く、また広範囲に水を供給していた。そのため逆に、東京では国内他地方にくらべて、近代水道の整備が遅れたほどである。
またアジアでは、農業に肥料として利用する関係から、早くから家庭に便所が普及した。ヨーロッパではそれが100年前といわれるが、それまでは汚物を道路に投げ捨てていたのはよく知られている。だからハイヒールを履かざるをえなかったのである。幕末維新期の欧米人が日本は清潔だと驚いても、日本人にとっては当然で、驚かれることが理解できなかった。
2.洋学紳士「西洋文明は野蛮」
イギリスを先頭に18世紀後半以降、ヨーロッパで工業化、いわゆる産業革命が進展した原因は、教科書的にはワットによる蒸気機関の改良ということになっているが、本質的には植民地争奪戦におけるイギリスの勝利である。東アジアの秩序は、中国皇帝が周辺の国王の支配権を承認する朝貢冊封体制であった。周辺国は朝貢するが、それ以上の利益を得ていた。その原理は仁や礼であり、皇帝の徳であった。一方でヨーロッパの秩序は、帝国主義・植民地体制であり、暴力的軍事支配であった。
明治の自由民権運動の思想家であり、自由党代議士ともなった中江兆民の代表作に『三酔人経綸問答』(1887)という代表作がある。酒好きの南海先生の宅におしかけた、桑原武夫にいわせれば「西洋近代思想を理想的に代表する」洋学紳士と、「膨張主義的国権主義を代表する」豪傑君の三人が政治思想について熱く議論をする。その冒頭で兆民は洋学紳士に次のように言わせている。現代の政治的課題ともかかわるので、少々長く引用しよう。桑原武夫・島田虔次訳による。
文明の進歩におくれた一小国が、昂然としてアジアの端っこから立ちあがり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵卒を人民にし、一心に道徳の学問をきわめ、工業の技術を研究し、純粋に哲学の子となったあかつきには、文明だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人々は、はたして心に恥じいらないでいられるでしょうか。もし彼らが頑迷凶悪で、心に恥じいらないだけでなく、こちらが軍備を撤廃したのにつけこんで、たけだけしくも侵略して来たとして、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸をも持たずに、礼儀ただしく迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。
弱小国が強大国と交わるさいに、相手の万分の一にも足りない有形の腕力をふるうのは、まるで卵を岩にぶっつけるようなものです。相手は文明をうぬぼれています。してみれば彼らに、文明の本質である道義の心がないはずはないのです。それなら小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。
もし、そうはしないで、こちらがもっぱら要塞をたのみ、剣と大砲をたのみ、軍勢をたのむならば、相手もまたその要塞をたのみ、その剣と大砲をたのみ、その軍勢をたのむから、要塞の堅固な方、剣や大砲の鋭利な方、軍勢の多い方が必ず勝つだけのこと、これは算数の理屈、明白きわまる理屈です。(中略)かりに万一、相手が軍隊をひきいてやってきて、わが国を占領したとしましょう。土地は共有物です。彼らもおり、われわれもおる、彼らもとどまり、われわれもとどまる、それでどんな矛盾がありましょう。彼らが万一、われわれの田を奪って耕し、われわれの家を奪って入り、または重税によってわれわれを苦しめるとしてみましょう。忍耐力に富むものは、忍耐すればよろしい、忍耐力の乏しいものは、それぞれ自分で対策を考え出すまでのことです。きょう甲の国にいるから、甲国人なのですが、あした乙の国に住めば、こんどは乙国人ということになるまでのはなし、最後の大破滅の日がまだ来ず、わが人類の故郷たる地球がまだ生きているかぎりは、世界万国、みなわれわれの宅地ではないでしょうか。
まさしく、相手には礼儀がなく、こちらには礼儀がある。相手は道理にそむき、こちらは道理にかなっている。彼らのいわゆる文明は野蛮にほかならず、われわれの野蛮こそ文明なのです。彼らが怒って暴力をほしいままにしても、こちらが笑って仁の道を守ったとすれば彼らはなにをすることができるでしょうか。(中江兆民『三酔人経綸問答』、桑原武夫・島田虔次訳・校注、岩波文庫、一九六五年)
今から120年以上前に、非武装外交、非暴力抵抗、国家の相対化の思想があったことを紹介したかったから引用が長くなったのだが、このテーマについては別の機会に論じよう。本稿で重視するのは、最後の、軍事力に訴える文明は野蛮であり、非武装と仁の道こそが文明であるという思想である。西欧の帝国主義・植民地体制は野蛮であり、東洋こそが文明であるという思想がすでに明確に表れている。
3.原発事故後の視点で近代の超克を
中江兆民は洋学紳士に上記のような主張をさせ、アジア主義につながる豪傑君に膨張主義的国権主義を展開させたが、アジア主義は元来必ずしも侵略主義的ではなく、東アジア諸国との連帯を求める傾向を持っていた。そして侵略的イデオロギーを先頭で唱えたのは、洋学の福沢諭吉であった。
その最初の政治的激突は、松浦玲によれば、明治六年の政変である。西郷隆盛は征韓論ではなかったと主張する松浦玲の論理をわたしなりに解釈すれば、西郷は日・中・朝の三国同盟によって西洋帝国主義と対抗し、東アジアの歴史と文化の伝統をふまえたアジア的・日本的近代化をめざしていた。そのような発想は、実は一九〇九年に伊藤博文を狙撃して死に至らしめた安重根が処刑される前に執筆した『東洋平和論』にもつながっていく。
しかし明治六年の政変で勝利した大久保利通は、富国強兵・殖産興業をかかげて西洋的産業化への道を突き進む。その行き着いたところが、アジアへの大規模な侵略と、一九四五年の日本帝国主義の敗北であった。その意味では、幕末維新期の諸事件のなかで、明治六年の政変は、一般的に理解されているよりは、はるかに重大な意味を持つ。
日本の歴史と文化の蓄積の上に立った近代化を構想していた人びとは、松浦玲が取り上げた横井小楠とその系譜に連なる人びと、勝海舟のほかにも数多い。少々毛色は変わるが、岡倉天心、田中正造、南方熊楠などもあげてもよいかもしれない。和魂洋才派となると、その思想内容は雑多だから、個別に検討しなければならない。アジア主義は侵略主義に流れ、日本的近代化派が政治的に結集することはなかった。
西洋的産業化が善である、当然のことであると、ほとんどの人びとが思い込んでしまったのは、黒船を見て驚いたからである。アジアが西欧帝国主義に侵略され、日本も同じ憂き目にあうのではないかと心配し、軍事的力量を唯一の価値判断の尺度としたからである。確かに帝国主義諸国に仁と礼を説いても無駄だったろう。しかし民衆の生活や文化力を見れば、江戸時代は決して西洋に遅れてはおらず、逆に進んでいたとさえいえる。にもかかわらず、学校教育では、「日本は鎖国をしていたから遅れていた」と思いこませてきた。その結果が侵略と破滅であった。
戦後の日本はその反省をしなかった。富国・強兵・殖産興業のうち、一時的に強兵についてだけは取りやめたが、まもなく復活した。中国に敗北したことは忘れ、経済大国であるアメリカに敗北したことだけに目をとられ、アメリカに憧れて富国・殖産興業の道を突進しつづけた。その結果が2011年の東京電力福島原子力発電所のメルトダウン事故である。
それに田中久重の東芝が関わっていることは歴史の皮肉である。原発事故の原因は、大久保政権の富国強兵・殖産興業政策にあり、黒船を見て「日本は遅れている」と勘違いをしたことにある。
高村光太郎の詩といえば、『智恵子抄』や「道程」ばかりが有名だが、靖国神社や英霊にこたえる会、安倍晋三・麻生太郎両首相とその閣僚たちが会員となっている日本会議が好きな「鮮明(あざやか)な冬」という作品がある。
この世は一新せられた。
黒船以来の総決算の時が来た。
民族の育ちがそれを可能にした。
長い間こづきまはされながら、
なめられながら、しぼられながら、
仮装舞踏会まで敢てしながら、
彼等に学び得るかぎりを学び、
彼等の力を隅から隅まで測量し、
彼等のえげつなさを満喫したのだ。
今こそ古しへにかへり、
源にさかのぼり、
一瀉千里の奔流となり得る日が来た。
われら民族の此世に在るいはれが
はじめて人の目に形となるのだ。
鵯が啼いてゐる、冬である。
山茶花が散つてゐる、冬である。
だが昨日は遠い昔であり、
天然までが我に返つた鮮明な冬である。
1941年12月11日の作で、雑誌『改造』1942年1月号に掲載された。対英米開戦の興奮を表したものである。「仮装舞踏会まで敢てしながら、彼等に学び得るかぎりを学び、……彼等のえげつなさを満喫した」、そして「黒船以来の総決算」「今こそ古しへにかへり、源にさかのぼり」というのだが、英米への対抗手段は彼らから学んだ軍事力である。12月10日に書かれた「十二月八日」という作品がある。(『婦人朝日』1942年1月号)
記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼等のジャパン。
眇たる東海の国にして
また神の国たる日本なり。
そを治しめしたまふ明津御神なり。
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国に於て否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。(後略)
開戦の「義」は、「東亜を東亜にかへせ」ということと、日本が神の国であることにつきる。西洋に追随したのは天皇制国家自身であったことについて、高村光太郎はどのように「総決算」するのか、それは彼の思想の全体のなかで検討する必要がある。
ここで誰もが思い起こすのが「近代の超克」論であろう。1942年7月、「知的協力会議」の名で、『文学界』同人、日本ロマン派、京都学派の13人が座談会を持ち、その内容が『文学界』9・10月号に「近代の超克」として掲載された。これもまた開戦後の精神的昂揚のなかで開かれたものである。高村光太郎も「近代の超克」論も当然天皇制国家を前提としたものであるが、「黒船以来の総決算」を、原発事故以後の視点で文明史的に行ない、現時点における近代の超克の可能性を探りたい。「富国」も「殖産興業」も必要であるのかという問いさえ必要な時代なのである。
ちもと・ひでき
1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。現在、筑波大学人文社会科学系教授。本誌編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『伝統・文化のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。