シリーズ 「抗う人」⑨
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シリーズ「抗う人」⑨


105歳 宗教の戦争協力に抗し~西川治郎

治安維持法で二度逮捕、今も現役の平和活動家

ジャーナリスト 西村秀樹



西川治郎は明治生まれ。今年3月で満105歳を迎えた敬虔なキリスト者である。戦前二度、治安維持法で特高(特別高等警察)につかまり、刑務所に4年入れられた。100歳を超えたいまも大阪市内で市民集会や勉強会があると、夜一人で私鉄とタクシーを乗り継いで出かけるほど元気だ。が、かつて警察官による拷問で痛めつけられた左太ももが今でも痛むという。

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105歳、西川治郎。「戦争は心の奥まで踏み込んでくる」と、西川は警告する=3月15日、大阪府泉州の自宅で筆者写す

【韓国併合の前年生まれ】

生まれたのが1909年というから、明治は42年のこと。この年がどういう年かというと、その10月、初代総理大臣かつ朝鮮統監府の初代統監伊藤博文がハルピン駅で朝鮮の独立運動家安重根(アンジュングン)に射殺された。翌1910年には大日本帝国が韓国併合(500年余続いた朝鮮王朝=李氏朝鮮は滅亡)、日本は朝鮮半島の植民地支配を開始する。こうした日本の帝国主義的な動きに抗って、大工宮下太吉が爆発物を製造した嫌疑で松本署につかまり、幸徳秋水らが皇族の暗殺を計画したという大逆罪(実際には皇族への暗殺計画はでっち上げ)で次々につかまり26人が起訴され(1910年5月以降)、うち24人に死刑判決が下った。半数は天皇の恩赦で減刑されたものの、残る12人は判決から1週間後あっという間に死刑が執行(1911年1月)された幸徳秋水大逆事件はこの時期であった。

西川の故郷は、三重県の伊勢神宮の南、志摩半島大王崎近く太平洋の熊野灘に面した貧しい漁村(現在の三重県度会郡南勢町)である。治郎(じろう)という名前だが、奥本家の八人兄弟姉妹のうち6番目として生まれた。父親は太平洋でとれた小魚を干ものに加工して行商するなど、大家族をなんとか養っていた。治朗は11歳で戸籍だけ近所の西川家の養子となるが、日々暮らすのは奥本家の茶の間。跡継ぎのない西川家の養子になれば、漁師として入会権を手に入れ、なんとか口を糊することができるであろうという、太平洋に面した漁村ならではの親心ではなかったかと、西川はふり返る。

【奉公先でキリスト者に】

西川が漁村の小学校を卒業後、高等小学校を1年で中退する。同郷(伊勢志摩)出身者が大阪は西区新町で小さいながらも成瀬商店を構えており、奥本家の次兄真(まこと)が小学校の教師の紹介で、丁稚奉公をスタートしていたが、西川も兄の後を追うように大阪に出た。13歳の時だ(1922年=大正11年)。この成瀬商店は接着剤のでんぷん糊を商う。1917年にロシア革命で世界初の社会主義の国が誕生し、1922年日本にも共産党が誕生した時期だ。

この商店主成瀬が熱心なキリスト者で、当時としては珍しく日曜日お店の仕事は休み。その替わり、成瀬に連れられキリスト教会に通うようになった。2年後、西川が15歳、浪速バプティスト教会で洗礼を受ける。このキリスト教との出会いが西川に人生の大きな転機となる。ちなみに、バプティストとは「プロテスタント最大の教派の一つ。幼児洗礼を認めず、政教分離を主張する」とものの本にある。

日曜日にキリスト教会に通う一方、西川は月曜から土曜は仕事を終えると夜学に通った。川口商業学校で二年間、さらに関西商工学校でも同じように簿記などを学んだ。こうした四年間の実学勉強は戦後西川が商売を始めるのに大いに役に立ったという。

出身は貧しい漁村。夜学で出会う同級生たちの多くは貧しい階層の出であり、まじめな西川青年は社会の矛盾に自ずから目が向いた。こうした社会の矛盾をただすにはどうしたらいいのであろうか。突き詰めて答えを求め、西川はキリスト教牧師を志す。これが西川20歳のときの決心であった。

次兄と相談の結果、兄からの経済的な援助を得て、西川はお店を退き勉学の途に進む。1929年春、大阪阿倍野区昭和町にある桃山中学(現在の桃山学院中学校)に編入学した。桃山中学を経て、さらに、西川は「(同志社大学の創立者)新島襄にあこがれ」、同志社大学神学部を目ざす。この時期、アメリカではウォール街での株価暴落をきっかけに世界恐慌が勃発、戦争の足音が忍びよってきた時期である。

【同志社大学予科でストライキを組織】

ときは満州事変の前夜。日本は戦争への途を急速に進み始める。近代戦争はあらゆる国民、階層を動員する総動員態勢を前提としている。キリスト教の世界も例外ではなかった。キリスト教界も天皇を中心とした国家神道に飲みこまれていく。これは、戦後20年余りたった1967年のことだが、プロテスタント系の日本基督教団はかつての戦争責任を認めた。総会議長の名前で『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』を発表した。「教団の名において犯したあやまち」に対し「主のあわれみと隣人のゆるしを請い求める」という。この文章からは「あやまち」が具体的にナニを示すか不明だが、西川の活動を説明するため、ちょっとだけ文章を引用する。

「わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請しました。『世の光』、『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明しました」と自己批判した。

話を西川に戻すと、西川は1930年21歳のとき神学部を目ざし、同志社大学予科に入学。大阪から京都に住まいを移す。西川はキリスト伝道者を志す一方で、キリスト教会が戦争の総動員態勢に飲みこまれていく現実に直面する。入学して間もなく西川は学生YMCA運動に入会、「社会的キリスト教運動(SCM)」に参加する。SCM(ソーシャル・クリスチャン・ムーブメント)は「(同志社大学は)イエスに帰れ」をスローガンに、戦争協力に抗う方針を打ち出した。趣旨を盛り込んだビラを配布、戦争に協力するキリスト教会や同志社大学への批判を強めていく。警察の家宅捜索を受け、一週間拘束されたのも、この時期だ。

同志社大学の学生新聞に軍国主義に傾斜する政府や大学への批判的な論評が掲載されると、その記事をめぐって大学は学生新聞の発行を停止したり、責任者を処分した。同志社大学予科の学生たちはこうした大学の戦争協力に抗ってストライキを計画、西川はストライキの実行委員長に祭り上げられた。2年遅れて入学した西川は同級生に比べ年上のためリーダー役を任された。

「実行委員は5人いましたが、実際にはわたしを含めリーダー役の2人が動かしたようなものです」という。このころから、誠実で敬虔なキリスト者の西川は社会に積極的に関わっていくことになる。西川は一学年4組約250人を組織し、およそ1か月間のストライキを続けた。学生たちは、軍事教練も教育の一環だからと軍事教練を拒否したが、これには陸軍から派遣された軍事教練の担当将校が激しく反発。結局、学校当局との交渉すらなかなか実現しない中、ストライキは終わった。つぶされたのだ。

西川は「大失敗でした。1か月ももたないんですから」と悔やんだ口調で当時をふり返ったが、わたしからすれば、満州事変前夜の1930年、よく1か月間、落伍者も出さず、軍事教練を含めストライキを貫徹したものだと感嘆する。同志社大学側は「退学処分になると、その後はどこにも行けないぞ」と脅してきたという。経済的に、兄からの仕送りで暮らしている手前、妥協を余儀なくされた西川は、自主的に退学を届け出た。事実上の放校処分であった、と西川は回顧する。 

この西川の同志社でのストライキの2年後、上智大学予科ではカトリックの学生2人が陸軍将校が教練引率中、靖国神社の参拝を拒否する。陸軍は将校を引き上げると学校経営どころかカトリック全体の存続にまで影響が出るぞと脅し、結局カトリック教団は「靖国参拝は宗教行為ではない」と言いくるめ、靖国参拝、大日本帝国勝利の祈りなどを行い、屈した。

【非合法活動へ】

1931(昭和6)年、時代は大きな転換点を迎えた。日本は日露戦争の結果、南満州鉄道の利権を手に入れたが、この利権を守る役目を負った陸軍関東軍では、参謀の石原完爾らが満州(現、中国東北部)の武力制圧を画策。1931年9月、柳条湖にある満鉄線路を関東軍が自ら爆破し、この謀略をきっかけに満州事変を起こし、翌32年、かいらい国家満州国の樹立を宣言する。

西川は、こうした時期に、洗礼を受けたバプティスト系の関東学院神学部に入学しなおし、住まいを横浜に移した。このとき、西川は22歳。関東学院では学生寮に入った。神学部の学生は食事が大学もち。「このとき、はじめてお腹一杯に食べました」と西川は苦笑しながら昔を懐かしむ。

その神学部生活も長くは続かなかった。入学間もなく静岡県の御殿場で、YMCAの合宿がひらかれたが、ここでも西川は大学や教団の戦争協力に抗ってストライキを組織する。その結果、大学側は「お前は牧師に向いていない」と一方的に宣告し、放校処分となる。「他人の人生に結論を一方的に宣告し、それで志が挫折するんですから。耐えがたい、ひどいもんです」。入学からわずか7か月。西川が夢見ていたキリスト教伝道者への途はここでばっさりと断たれた。

この時期、戦前のプロレタリア文化運動は、1928年にナップ(全日本無産者芸術連盟)結成、さらに、1931年、コップ(日本プロレタリア文化連盟)に発展的に移行する。コップの加盟団体の一つとして、キリスト教の宗教運動「日本戦闘的無神論者同盟(戦無)」が9月に結成されるが、創立大会は開会宣言と同時に当局から解散を命じられた。

西川は、キリスト教運動の専従活動家になる。「戦無」の東京府連合会のオフィスに勤め、コップのメンバーとして、プロレタリア文化運動に従事する暮らしがスタートした。

【結婚。治安維持法で逮捕】

西川の夢が挫折したこの年、もう一つ、西川の人生にとって重要なできごとがあった。生涯の連れあいとなる、松井れう(りょうと発音する。日ごろは良子と記した)は、西川の5歳年下。青森県で生まれ、秋田の高等女学校に入学後、東京港区にあるミッションスクール、頌栄(しょうえい)高等女学校に転じ、そこを卒業していた。れうは、姉のれいと共に、戦前の民間の学術研究団体(創立には、哲学者の三木清や羽仁五郎が参加した)の活動に加わっており、プロレタリア文化運動の活動の中で、西川とれうが出会った。

「共同生活をしようと、わたしの方から申し込んだ」と話すと、西川はちょっとはにかんだ。

1933(昭和8)年、西川が24歳、れうが19歳の春、二人は結婚し、共に働き始めた。兄からのささやかながらも仕送りのある西川が暮らしの中心になった。当時、組織の幹部たちがつぎつぎに逮捕された結果、西川は組織の中央に抜擢され、「戦無」の財務部長として組織の財布を預かる要職につく。この年、プロレタリア作家、小林多喜二が特高(特別高等警察)の拷問によって虐殺された。

翌年1月、西川夫妻に、突然、嵐が襲った。寒い夜であったという。浅草の小さな二階建てにある西川夫婦の下宿に、厩橋(うまやばし)警察(後の本所警察署)の警察官が襲い、夫婦二人とも逮捕された。連行先の警察署で警官はとにかく西川をめったやたらに殴った。桜のこん棒で何度も何度も殴った。正座をさせられた太もも、特に、こん棒の先があたる左足の太ももに大きなダメージを受けた。1週間は痛くて1歩も歩くこともできない。左太ももには、100歳を超えた今でも、違和感が残っているという。

「お前たち共産主義者は、天皇陛下を尊敬しない。そんな共産主義者は日本人じゃないから、死んでもかまわないんだ」と、特高の警官はなんども言い放ったという。大日本帝国憲法にだって、信教の自由はうたわれてはいるが、治安維持法が成立以後、憲法や人権が守られなかった。「下宿の隣人がわたしたちをアカだと密告したんではないかなぁ。密告しないと自分たちも何らかの不利益をこうむる、そんなひどい世の中でした」

西川は取調室では完全黙秘を貫いた。が、署長室などに連れて行かれ、そこで、ちょっと気を許して雑談に応じると、何気ない会話から特高は西川を「共産主義青年同盟員となり、さらには共産党員になるかも知れなかった」との起訴状がでっち上げられた。妻れうは単なる連絡役とされ、6か月で先に仮釈放されたが、西川はようやくその年の年末に釈放された。拘留は11か月に及んだ。西川は、東京から逃げるように、夫婦そろって兄、真が暮らす大阪に生活の拠点を移した。

「地下活動で生きていく覚悟がありました」と、当時の心境をきっぱり話す西川だが、暮らしは火の車。ようやく二人で暮らし始めた大阪で妻は身ごもった。西川の裁判で、でっちあげの起訴状を裁判官の前で認めた。

「もうやりません。争うのが面倒になってねぇ」と罪状認否で争わなかった理由を西川は説明した。結果、判決は懲役2年の有罪ながら執行猶予3年がついていた。この年、京都府の亀岡にある宗教団体大本(おおもと)教は、天皇に対する不敬罪で弾圧を受け、当局は幹部多数を検挙し、亀岡城址を利用した教団本部と綾部の宗教施設をダイナマイトで爆破した。

【二度目の治安維持法で刑務所へ】

西川夫妻には、長男、続いて双子の次男、三男、さらに長女と子宝に恵まれたが、兄が成瀬商店からビジネスを引き継いだ奥本商店に入社した。つつましい暮らしを続けるうち、1938(昭和13)年9月、西川は再び特高につかまった。大阪の特高が西川にかけた容疑は、戦前、最後の共産党再建準備運動といわれる「日本共産主義者団」に関与したという治安維持法違反。団は印刷工からモスクワ留学を経て日本共産党に入党した春日庄次郎がリーダーであった。春日が、3・15共産党弾圧事件(1928年)で検挙され、非転向のまま10年の満期釈放・出獄後、大阪で組織を再建しようとしたというのが特高の筋書きで、西川への直接の容疑は団のビラを1枚所持していたというものであった。表現の自由も、集会結社の自由もあったものではない。「戦後明らかになった特高月報によるとね、『フラクション西川派のリーダーだ』と書いてあるわけですよ。事実がどうだというより、特高が勝手につくった筋書きに沿った物語なんだねぇ」と西川は説明してくれた。

二度目の裁判結果は、実刑判決であった。判決は2年であったが、取り調べなどを含め、結局、拘留された期間は4年に及んだ。

この時期、妻れうは、幼子を連れて、実兄を頼って、中国に渡って暮らしを立てた。兄は華北同盟通信の石門(現在の河北省石家荘市)支局長で、さらに兄が香港に転勤すると、軍部の肝いりでつくられたラジオ局華北広播協会の香港オフィスで働いたという。それからまもなく、大日本帝国海軍がアメリカのハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、日中戦争が太平洋戦線を含めたアジア太平洋戦争へと、戦線が東アジアから西太平洋を含めた領域に一気に拡大する。

西川は、大阪の堺刑務所で「4年間、ただただ座っていました。戦時下の刑務所ですからよい思い出なんかないです」という。

1942(昭和17)年10月、西川は満期釈放。妻と子どもたちも中国から戻ったが、すぐに西川に赤紙が届く。しかし長い獄中生活がたたったのか、心臓病ですぐに除隊扱いになった。「お国のために報じることができなくて、残念であろう」と軍人は声をかけたというが、西川はもしそのまま兵隊にとられたら、激戦地に派遣され戦死していたのではないかと冷静に分析する。

除隊後も、すぐに九州の炭坑で働くように徴用命令が届くが、たまたま兄が軍需関係のワイヤーロープの工場を大阪の南部、泉州地区で経営していたため、九州への徴用は取り消された。

1944(昭和19)年、妻と子どもたちは、伊勢志摩の西川の郷里に疎開、1945(昭和20)年3月、大阪大空襲で西川の会社や工場は焼け野原。

8月15日は、阪神電車に乗って移動中であったという。大阪も神戸も空襲で焼け野原になる中、食料品の買い出しに行った帰りであった。「正午になれば、阪神沿線の郵便局かどこかで玉音放送を聞けるかと思ったが、どこでも玉音放送を直接聞くことはできませんでした。ですから、戦争が終わったかどうか、よく判りませんでしたね。戦争が終わったという感激もありませんでした」

【戦後、実業家に】

戦後、でんぷん商の成瀬商店を引き継いだ奥本商店で、西川は一心不乱に働く。「大阪市内の会社はアメリカ軍の空襲で焼かれ、丸はだか。敗戦後は、大阪南部の泉州地区に拠点を移しました」。でんぷんは食料でもあるので、「兄の仕事を手伝い、食べ物をつくるため、雑草の粉砕なども試みました」という。

敗戦後の混乱が落ち着いた1949(昭和24)年、兄と西川の二人で製粉会社奥本製粉を興し、西川は取締役工場長に、また、妻のれうも「ヒラの仕事」になり、精を出した。この年の10月、毛沢東が天安門にたち、高らかに中華人民共和国の樹立を宣言すると、西川は「新中国誕生で世の中はまちがいなく変わる」と思ったそうである。会社設立から3年後、西川は専務取締役に就任する一方で、日中友好運動をすすめる友人から頼まれ、日中貿易を開始する。中国から小麦粉を輸入する会社奥本貿易を個人的に設置するが、商売はうまくはいかなかった。「中国の世情にうとかったから」と失敗の理由を分析する。社会主義とはいえ、中国相手の商売は一筋縄ではいかない。

大阪市内までは、南海電車の急行にのれば、ものの三〇分ほどで到着する近距離でありながら、泉州地区は大阪市内とは少し違って、人間関係がいささかウェット。そんな古風な漁師町で、かつてキリスト者の牧師を志した夫と、香港の放送局勤務の若夫婦が手をつないで散歩する。「泉州の隣人たちからは、ちょっと評判になったねぇ」と、105歳のモダンボーイは少し照れてかつてを振り返った。

1960年、世は安保の年。日米安保条約の国会での強行採決をすすめる岸信介内閣への反対のため、夫婦そろってデモに加わる。10万人を超す国会デモが盛り上がる中、東京大学の女子学生、樺美智子がデモ隊と警察官の衝突で死亡したのも、この年の6月のことである。

日本と中国はまだ国交を結んでいない1963年、西川は初めて中国を訪れた。中小企業家同友会の訪中団のメンバーとしてだ。西川はのちに大阪府の日中友好協会で10年余、会計監査役をつとめるなど、日中友好運動に尽くす。その一方で、かつてのSCM(社会的キリスト教運動)に復帰し、1980年代半ばには、この運動の事務局代表にも就任し、機関誌『SCM通信』の発行元を自宅に置き、キリスト者としての社会運動にも力を尽くした。

ミレニアムの2000年には、大阪宗教者平和協議会にも加わり、「平和、護憲、これからの生きがい」とリレートークに参加し、ビラ宣伝のため街頭に繰りだした。

2007年、れう夫人が亡くなる。生前の約束通り、身内だけで告別を行い、ご遺体は大学の医学部に献体するという生き方を貫いた。

100歳をきっかけに、奥本製粉の相談役は退くと会社に申し出たが、会社は「それでは顧問を引き受けてください」と逆に申し出て、いまでも、月に一回は会社に顔を出すという。

100歳を迎えたとき、大阪駅前のホテルで、ジャーナリストら親しい友人で作る無葉会という勉強会が西川の祝いの会を開いた。筆者も末席に参加した。冒頭に書いたように、西川は今でも月一回開かれる無葉会に南海電車とタクシーを乗り継いで参加し、社会問題を語る講師たちに熱心に質問する。およそ50人が参加する治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の最長老メンバーとして活動を続けている。

それから5年、西川の話を詳しく聞きたくて、泉州地区の西川の自宅を訪ねた。聖書と資本論が同時に並ぶ書斎の真ん中には、和服をきりりと装ったれう夫人の大きな写真が飾ってあった。

西川は、今の政府が日本国憲法の解釈を改め、集団的自衛権を行使できるようにする動きや、国家が特定秘密を定め、秘密をかぎ出そうとすれば処罰する条項が含まれた特定秘密保護法が国会を通過する現在の政治に対して、強い危機感をもっている。

特定秘密保護法案が国会で採決されようとした時期、毎日新聞が西川をインタビューする記事を掲載した。筆者が読んでいる大阪本社版では、1面の左肩に大きな写真つき「104歳、戦争が見える」。さらに西川の記事が社会面のおよそ四分の三を占めた。見出しは「特高の弾圧八〇年、うずく足の痛み」と黒抜き、さらに「暗い時代 再び足音」と続く。

日本を再び、戦争のできる国にしようとする勢力と、平和国家を維持したい勢力のつばぜり合いはこれからが本番。

かつて宗教の戦争協力に身をもって抗った105歳は、胸の奥から絞り出すように、思いを語り続けた。西川には孫が7人、4人目のひ孫が最近、誕生した。「再び、この国が戦争を起こしてはならない」。西川の切なる願いだ。

(西川さんへのインタビューにあたっては、無葉会を主宰する毎日新聞OB、小島康生さんの尽力と論文を参照させていただきました。感謝を申し上げます。文中敬称略)


にしむら・ひでき

1951年生まれ。民放報道記者を経て、現在ジャーナリスト、近畿大学人権問題研究所客員教授。著書に『北朝鮮抑留~第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争~吹田・枚方事件の青春群像』(岩波書店)