論壇

伊方原発は地域を活性化させたのか

活断層沿いに立地、ゲンパツよりカンパチ

松山大学教授 市川 虎彦

1 四国電力という存在

私がまだ東京に在住していた1986年4月にチエルノブイリ原発事故が発生した。事故を引き起こした原因は、出力調整運転実験だったとされる。その記憶もまださめやらぬ1988年、この出力調整運転実験を日本の電力会社が行うということで、反対運動が広がった。そのとんでもない電力会社が、四国電力であった。高松市の四電本社周辺では、「原発サラバ記念日」と銘打たれた抗議活動が展開された。私の周囲でも、わざわざ四国にまで足をのばした人がいたのを覚えている。30年も前のことで、「サラバ記念日」という名称も、今では何のことであるかわからない人もでてきているかもしれない。蛇足ではあるけれど、1987年に刊行されて短歌集としては異例の販売部数を記録した俵万智の『サラダ記念日』から採られたものである。

東京にいるときは、四国電力は小規模な部類の電力会社という認識であった。ところが四国に来てみると、四電の存在感の大きさに驚いた。たとえば今治造船、三浦工業、日亜化学工業、旭食品、JR四国、伊予鉄道、それに各県の地銀など、四国の大手企業が加盟して活動している四国経済連合会の歴代会長は、四国電力会長である。四国電力は四国経済界の、いわば盟主という位置づけなのである。四電の関連企業や下請けも多く、またその賃金水準は四国の中では非常に恵まれているとされている。

2 佐田岬半島と伊方原発

四電の伊方原子力発電所は、愛媛県の佐田岬半島の瀬戸内海側に立地している。佐田岬半島は、四国の最西端をなす半島で、東西に40キロメートルほど、細長くのびている。日本で最も細長い半島ともいわれる。当然、交通は不便な地域であった。今でも八幡浜市から伊方町役場にバスで行こうとすると、宇和海の海岸線を走るバス路線に乗らねばならない。その道は幅員が狭く、見通しの悪い曲線が連続し、出会い頭に対向車とよく衝突しないなと思うようなところを行く。一方で、宇和海を一望に見渡せるところも走り、風光明媚でもある。

図1 伊方原発周辺地図

「伊方町役場前」というバス停で降りると、町役場庁舎と町立図書館の立派な建物が目に入る。周辺を歩くと目につくのが、ビジネスホテルや民宿の類である。原発の定期点検の作業員を顧客としたものである。また、伊方原発建設と相前後して佐田岬半島の尾根を貫くように、通称メロディラインという道路が整備された。これで半島の交通の便は格段によくなった。これも原発の「恩恵」なのであろう。

伊方原発は、1969年に伊方町長らが、四電に対し原発誘致の陳情をしたところから始まっている。愛媛県津島町、高知県窪川町の原発建設計画が住民の反対で頓挫していた四電は伊方町住民に原発ということを伏せて用地買収を進め、1号機は1973年に建設工事開始にこぎつけた。これは1977年に運転を開始している。さらに2号機が1978年に建設開始、1982年に運転開始に至る。

伊方では原発は2基までとされていたところを、四電は強引に3号機建設を認めさせ、1986年にその建設工事が開始された。この3号機は1994年に運転を開始している。1号機、2号機は原発としては比較的小規模で出力56.6万kW、3号機は89.0万kWの出力である。

もちろん現地では反対運動も組織され、日本初の原発訴訟となる伊方原発訴訟が1973年に開始されている。この訴訟は原発周辺住民が、原発の設置許可処分の取り消しを求めて起こしたものである。

四国には日本最大の活断層である中央構造線が通っている。中央構造線は、徳島県の吉野川北岸を走り、愛媛県に入ってからは高速道路である松山自動車道の直下を通って、四国中央市、新居浜市、西条市、東温市から砥部町を抜け、伊予市で海に潜って海底活断層となる。海底活断層は伊予灘を走り、伊方原発のある佐田岬半島の北の沖合を通って豊予海峡を別府湾に向かっていく。高知大学の岡村眞教授の海底ボーリング調査の結果によると、2千年周期で少なくとも3回、この海底活断層が動いており、最後に動いたのは約2千年前という、非常に怖しい状況下にあるとされる。

この原発のすぐそばにある活断層の問題も裁判では争われた。しかし、2000年に原告側敗訴で結審している。

3 愛媛県知事選と伊方原発再稼働

2011年3月11日の東日本大震災のあと、伊方原発も運転を停止していた。この再稼働に同意した愛媛県知事は、中村時広という人物である。父親の中村時雄は衆院議員を5期、松山市長を4期務めていて、中村時広本人は2世政治家ということになる。中村時広は、1993年7月の総選挙で愛媛1区に日本新党公認で立候補して初当選している。この時の日本新党の衆院初当選組の中には、野田佳彦元首相、枝野幸男立憲民主党代表、前原誠司元外相、茂木敏充内閣府特命担当相、小池百合子東京都知事、河村たかし名古屋市長、海江田万里元経産相、中田宏前横浜市長、樽床伸二元総務相、小沢鋭仁元環境相らがいる。中村は、これらの政治家たちと比べると全国的にはまったくの無名である。それというのも衆院当選はこの時1回限りで、小選挙区制が導入された次の総選挙で落選を喫し、地方都市の松山市長に転進する道を選んだからである。その後中村市長は、加戸守行知事の任期途中での辞任表明を受けて行われた2010年の愛媛県知事選に立候補し、当選を果たした。

中村時広は知事就任後、愛媛維新の会を立ち上げ、大阪の橋下徹市長と連携するような動きをみせたこともあったので、一部には「改革派」視する向きもあった。しかし、政治的な実績はお寒いかぎりである。松山市長時代の看板政策は、「坂の上の雲」を軸としたまちづくり、というものであった。これは、松山出身の正岡子規、秋山好古・真之兄弟が主人公の司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をまちづくりの主軸にしようという構想であった。このまちづくり構想は、結局のところ「坂の上の雲ミュージアム」という閑古鳥が鳴くハコモノが建設されただけに終わっている。一方で松山市の工業生産をみれば、中村市長の時代に入って右肩下がりの大幅減少を記録している。2009年には、前任の田中誠一市長時代(1995年)と比べて松山市製造品出荷額がほぼ半減するというていたらくであった。

知事になってからも中村の政治姿勢は、山鳥坂ダム建設や西条分水実現などの大型公共事業推進を目指す旧来型のもので、「改革派」といえるようなものではない。中村知事が再選を目指した2014年11月の愛媛県知事選挙は、伊方原発の再稼働が争点になってしかるべきであった。共産党推薦の対立候補は、再稼働反対の立場をあきらかにしていた。それに対して現職の中村知事は再稼働に関して「白紙」という、きわめて曖昧かつ欺瞞的な態度に終始した。本心では再稼働させたいけれども、県民の中に再稼働に反対する空気が強いことを読んでの選挙戦術で、「争点隠し」といわざるをえなかった。政治家として原発再稼働が必要だと考えるのならば、いくつかの条件を充たせば再稼働に同意すると公約に謳うべきであったろう。

当選後に中村知事は、すぐさま再稼働に向けて動き出し、原子力防災会議で安倍首相から「政府として責任を持って対処する」との言葉を得たことを名目に、2015年10月、3号機の再稼働に同意した。しかるに、政府の空手形がなんの役に立つというのか、まったくもって疑問である。しかし、中村知事は「言質」をとったとふれまわり、翌2016年9月に伊方原発3号機は再稼働したのであった。九州の川内原発に次いで2例目の再稼働となった。

福島第1原発の事故を受けて、伊方原発30キロ圏内の自治体では避難計画が策定され、避難訓練も実施されている。しかし、伊方町の避難計画は、机上の空論にしか見えない。伊方原発は佐田岬半島の付け根の方にあり、いったん事故が起きるとその先の半島部の住民は逃げ場を失ってしまう。そこで、この取り残されかねない4千人から5千人の人々は、港まで誘導された後、船舶で大分県に逃がす、というのが避難計画である。どこの誰が、放射能が降り注ぐ中を船で助けに駆けつけるのであろうか。また、津波があった場合、役にたつ船舶がどれだけ残るのだろうか。中村知事は再稼働同意時に、「福島とは地形なども違い、全く同じことは伊方では起きない」と、無責任なことを言い放つだけであった。

4 現在の伊方原発

今、伊方原発とその周辺はどうなっているのであろうか。運転開始から30年以上経過している伊方原発1号機と2号機は、多額の費用をかけて安全対策を講じて再稼働しても、それに見合う利益が得られないことから、四電によって廃炉が決定されている。また再稼働した3号機も、2017年12月に広島高裁が運転差し止めを命じる判決を下したため、現在停止中である。中村知事の尽力にもかかわらず、四国には稼働中の原発は無い状態にもどっている。

こうした状況で伊方原発周辺地域はどのような影響を受けているか、電気工事会社を営む人に話を聞いてみた。ちなみにこの会社自体は、全体に占める原発関連の仕事量は少ないので、幸いなことにほとんど影響がないとのことではあった。

原発の運転停止までは3基ある原発が順番に3か月ずつ定期点検に入っていくので、地元で原発関連の仕事に就いている人たちはそれをつないでいくと、ほぼ1年間仕事があるという状況だったという。それが運転停止になったので、四国外の火力発電所等の点検作業に出される人が増えたのだそうである。当然、家族のある人は長期間の単身赴任ということになる。それがいやで、会社を辞める人も出ているという。くだんの電気工事会社では、子どもがまだ小さく、いわゆるかわいい盛りという子をもつボイラー点検会社勤務だった男性を採用したと述べていた。新規採用の男性は、子どもの顔すらみることができない長期間の単身赴任を嫌って、地元での仕事を探していたのだそうである。

また伊方町内の民宿も、廃業するところが出てきているのではないかということであった。隣接する八幡浜市のホテルや飲食店も、原発作業員は重要な顧客であったから、かなり影響が出ているであろうとのことであった。

いくら危険な存在であっても、いったん原発が出来てしまうと、それに依存した地域経済がつくりあげられてしまう。哀しい地域の実情の一端である。

5 原発で地域は活性化するのか―ゲンパツよりもカンパチ

しかし、それならば運転停止までの伊方町は原発によって地域活性化が実現していたといえるのであろうか。現在の伊方町は平成の大合併で、佐田岬半島に存在した伊方町・瀬戸町・三崎町が新設合併してできた町である。その中で原発が立地する旧伊方町の町域の人口の推移を図2に示した。それをみると高度経済成長期に人口が町外に大量に流出し、1955年の13188人から1970年の9438人に急減している。伊方原発の1号機・2号機の建設工事が行われていた1970年から1980年代前半にかけては、いったん人口減少がゆるやかになる。しかし、1980年代後半以降、再び人口減少の勢いが増し、2015年の国勢調査では4992人と、5千人を割り込んでしまっている。

建設労働者や原発の定期点検の作業員など、一時的な居住者はいたのであろうが、原発は定住人口の増加には結びつかなかったということである。豪華なハコモノも、便利な道路も、人口の定着には効果がなかった。もちろん、原発がなかったら過疎化の進行は、もっとすさまじかったであろうという議論も成り立つ余地はある。

図2 旧伊方町と旧御荘町の人口の推移 (人)

図2で旧伊方町に対比しているのは、旧御荘町の人口の推移である。旧伊方町が愛媛県の西の果てならば、旧御荘町は愛媛県の南の果てである。この旧御荘町は、1970年代から80年代にかけて、むしろ人口を増加させている。これは養殖水産業が軌道にのり、多くの雇用を生み出したためである。あのような巨大な施設を擁する原発とその関連産業よりも、養殖水産業の方が比較にならないほど地域を活性化させたということである。

だが、旧御荘町も2000年代に入ると、旧伊方町と同じ角度で人口を減らしている。地方の苦境が、ここに如実に表れている。そしてまた伊方町は、今から原発なしで町を成り立たせていくことができるのであろうか。

いちかわ・とらひこ

1962年信州生まれ。一橋大学大学院社会学研究科を経て松山大学へ。現在人文学部教授。地域社会学、政治社会学専攻。主要著書に『保守優位県の都市政治』(晃洋書房)など。

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