コラム/温故知新

品川・御殿山にみる温故知新(下)

"ソニー村”は終わった 続くベンチャー魂

現代の労働研究会代表 小畑 精武

なぜソニーは御殿山に

明治になって江戸周辺に工業地帯が形成され広がり、やがて京浜工業地帯へと発展する。我が国初めてのガラス工場が 1873年(明治6年)に幕府の後ろ楯を失った品川・東海寺の元寺領に造られた。100年以上の歴史を持つ東芝は1939年に弱電の東京電気と重電の芝浦製作所が合併してできた東京芝浦電気株式会社の略称だ。今本社になっている浜松町の敷地に芝浦製作所、品川区大井に電球の東京電気があった。品川工業地帯は戦前から御殿山の西側、大崎一帯に拡がっていく。「このあたりは、あらゆる種類の工業がみられるが、なかでも電信電話、モーター発電機、電球、ラジオ、テレビなどの電気機械器具工場が多い」(改訂東京風土図城南城西編、 1966年、サンケイ新聞社)電機の街だった。その象徴が重電メーカー明電舎であり、トランジスタのソニーであった。

私の父方の祖父精一(1887 ~ 1946)は 1932年に御殿山の西側ふもと(後にソニーの本社になる土地)に本社工場が建設された日本気化器(現ニッキ)の守衛だった。祖父は山梨県韮崎出身、事業に失敗し、大正年間に東京へ出てきて再起を期した。東京では渋谷、蒲田と転居した後気化器の近く品川区御殿山(旧番地北品川4丁目718番地)の借家に落ち着いた。日本気化器は 1933年に自動車や飛行機に使われるエンジン用気化器(キャブレター)を開発し、41年には海軍零式戦闘機用気化器を生産して軍事生産に傾斜していく。

日本気化器は(戦後のソニーも)大崎から続く品川工業地帯の最北部に位置し、第2次世界大戦末期、米軍空襲の的となった。1945年3月10日の下町大空襲つづく5月29日米軍の山の手空襲を受け工場地帯も、住宅地だった御殿山もほぼ全焼。不思議なことに、日本気化器の社屋と御殿山の我が家付近は焼け残った。

戦後、ソニーの前身、東京通信工業株式会社が井深大によって、1946年5月日本橋白木屋デパートの一室で産声をあげる。自分たちの技術を生かしてラジオの修理・改造からのスタートだった。朝日新聞のコラムがきっかけとなって、敗戦の混乱で行方が分からなくなっていた盛田昭夫と連絡がとれた。発足して一カ月もたたないうちに工場は手狭になった。井深は「皆が一緒に働ける工場が手に入ったらどんなにうれしいだろう」と工場探しに回った。46年の暮れも押し詰まった頃、御殿山の日本気化器所有の300㎡の「おんぼろバラック工場」を借りることとなる。翌47年2月に本社・工場は一本化され御殿山に移転し、その後の発展のスタートが切られた。

(写真1)1947年、御殿山の最初の本社前で。左から2人目が39歳の井深氏。日経新聞2012年6月3日より

私が1952年4月に入学した御殿山小学校の向かい側に小さな木造本社工場があったことを記憶している(写真1)。日本気化器は成長する東京通信工業に3階のスペースも貸している。私が52年に御殿山小学校に入学した頃にも、御殿山のがけ下にあった小学校周辺には焼けた工場が鉄骨をさらして残っていた。やがてそれらはソニーの新工場に代わっていった。御殿山下の工場地帯は「ソニー村」になっていく。

ソニーが御殿山に本社・工場をまとめたのは偶然ではない。「住宅地御殿山」に工場が建設されたのではないからだ。地図を見ると大崎駅を中心に明電舎はじめ品川区の工業地帯が形成され、32年建設の日本気化器はその北北東端にあり、品川から五反田に抜ける国道の坂を降りた所にあった日本気化器の建物を井深は本社・工場として借りることができたのである。ソニーの御殿山は「住宅地」ではなく「工場地帯」の一部だったのだ。手元にある人文社の東京地図(1999年)を見ると、わずか300㎡の会社が50年間にどれだけ拡大発展したのか、よくわかる。

(写真2)

元日本気化器本社であったソニー本社を中心にソニーの工場、関連施設が「林立し占拠」しているソニー村が目に浮かぶ。2018年、戦後高度成長を象徴していたソニーの工場群は解体され、今は高層マンション群が林立。ソニーの建物は歴史資料館と研修施設が残るのみだ。「栄枯盛衰」「温故知新」をひしひしと感じさせる(写真2)。

ソニーに赤旗

ソニーに労働組合はあるのか?電機連合は毎年賃金労働条件の改善をはかる春闘に大手13労組からなる中闘を組織している。そこにはソニー労組の名前が見えない。「ソニー自叙伝」によると、1956年2月、ソニー労組は当時の親睦組織通友会が労組に発展し設立された。同年12月には電機労連(当時)に加盟。従業員490人の時に発足したソニー労組だが1961年に従業員は3703人と急成長をとげている。井深社長は創立14周年の記念行事の受付で「入場券をお持ちですか」と聞かれ「私が社長の井深です。よく顔を覚えておいてください。」と答えたそうだ。急成長をとげた会社でよくあることかもしれない。

はじめてのストライキは1960年年末一時金闘争で闘われた。闘争後1961年3月にソニー新労組が500人ほどで結成される。会社は労働協約・ユニオンショップの破棄を労組に通告。4月の春闘では半日ストが決行され、屋上に赤旗、電機労連の宣伝カーが演説を始めた。5月8日のストには、テレビ工場が移転して間もない厚木工場からトランジスタ娘がバス7台でスト支援部隊として参加。この日高輪プリンスホテルで開かれた会社創立祝賀会に盛田は出席不可能となった。3日間に及んだストは、「初任給の改定」で労使双方が歩み寄り解決する。

祝賀会で池田勇人総理大臣は「労働争議が行われているそうですが、大きく伸びる企業が踏み越えなければならない一つの関所です。敢然と正々堂々と、この難関を乗り越えて躍進してください」と経営陣を激励した。労働争議は会社が大きく成長するときに一度はかかる「はしか」とみられていたのだ。

その頃、私は東京に住んでいなかった。私たち一家は父親の転勤で1953年8月小学2年生の夏休みに北九州小倉に転居、58年9月には大阪へ、私は64年東京の大学に入学し、11年ぶりにふたたび祖父母が住む御殿山の旧家から通学することになった。わずか10年余の間に五反田からの通りが“ソニー通り”となって、坂の上から下まで続くソニーの巨大な工場群が所狭しと建設され、工場、研究所で埋められソニー村ができていった。

1958年にはソニーと改称したが企業組織文化は変わらない。「組織された混沌」で「技術者は自由奔放に仕事を進め、混とんとしておりますが、会社全体としては、目標が明確でよく秩序が保たれておりました」とノーベル賞受賞の江崎玲於奈が井深大の葬儀で弔辞を読んだ。1950年にソニーはテープレコーダー、55年にトランジスタラジオ、58年1月には社名をソニー株式会社に変える。さらに68年にトリニトロン方式のカラーテレビ、79年にはウォークマンと次々に新技術の新製品を市場に売り出し、文字通り高度成長を遂げ、戦後生まれのベンチャー企業は世界のソニーにのし上がっていった。

だが、栄枯盛衰、2012年の3月期決算では4,566億円の4期連続赤字となり、過去最悪の赤字額となる。井深が亡くなり、盛田も亡くなった。多くの優秀な人材も失われた。戦後日本を代表したソニーは不死鳥のようによみがえることができるのか? 2017年度の営業利益は過去最高の6,300億円に回復し4KTVで返り咲きを果たしつつあるという。ソニーが持っていた“創造性”“ベンチャー精神”がパワースポット御殿山の地を離れて再び開花できるか。

14年11月11日に朝日新聞は「消える『ソニー村』、挑戦者精神は脈々」の記事で、旧本社ビルの解体とその傍らで「ソニー精神」が引き継がれていることを報道。認証技術のM社や「家電の健康状態」をはかり同時に暮らす人の見守りも可能な技術開発を進めているI社など、元社員によるベンチャー企業を紹介している。さらに、4年後(18年4月12日)には、御殿山はじめ島津山、池田山など低い山に囲まれた五反田にソニーに限らないベンチャー企業群が生まれ、シリコンバレーならぬ「五反田バレー」が成長しつつあると報じている。

ソニーを抜く創業100年の中小企業

ソニーは敗戦後60年ほどの間に栄枯盛衰を体験したのだが、ソニーより長い創業100年を超える中小企業が品川区北品川4-10-9にある。勝亦電機製作所だ(写真3)。東京通信工業(東通工)がソニーに名称を変える前に会社の選択として「東通工か、勝亦電機か」という時期があったという。

(写真3)

勝亦電機は同じ御殿山でもソニーと反対側の南東部にある町工場で山手線や新幹線がすぐ脇を通る。私の御殿山小学校の同級生に後に勝亦電機社長になる勝亦研二君がいた。彼は1986年に社長に就任するも2001年に誠に残念なことに突然の他界となった。現在は長男の章浩さんが社長を継いでいる。自宅と工場が同じ敷地にあった研二君の家へ遊びに行ったこともあり、新幹線に乗って傍を通るたびになつかしく想いだす。

勝亦電機製作所は1916年(大正5年)港区芝(三田四国町)に設立された。(偶然だが三田四国町は1912年に鈴木文治が友愛会を結成した地で、今日につながる労働組合運動発祥の地でもある)36年大田区糀谷に移転、45年4月の米軍空襲で工場が焼失、静岡県に工場を疎開、戦後46年に沼津に工場を再建、51年現在地に東京工場を建設し、今日に至っている。

研二君は4代目社長、東京工業大学、同大学院を卒業し、電気制御分野とソフト分野が理解できる技術者として、会社をリードしていった。現在の章浩社長は会社の特質を「100年以上にわたり配電盤・制御盤などの盤類を製作し、電気の安定供給をサポートし続けてきた総合電機機器メーカーです。公共機関、商業施設、銀行、ホテル、テレビ局など、さまざまなお客様にサービスを提供し、電力インフラを担う企業として社会的使命を果たしてきました」と「社長からのメッセージ」で述べている。どっこい、モノづくりのベンチャー企業はパワースポット御殿山で元気に活きている!

戦後の焼け跡生活から

御殿山で焼け残った我が家は木造2階建て、1階は6畳と3畳、2階も6畳と3畳、我が家は小さいながらも一軒家、裏は3軒長屋、角の家は2階建ての2戸一住宅があった。少し離れた所は空襲で焼け畑になっていた。焼け跡の地下室に住んでいる一家もいた。隠れん坊で焼け跡に隠れているうちに、先に見つかった子が石を投げて窓ガラスを割り、「僕じゃない」と逃げ戻ったことも懐かしい想い出だ。

我が家の2階(6畳、3畳)にしばらくの間、別の家族が住んでいた。親戚ではない。住宅事情が悪い時代にはよくあることだったと思う。同時に校区は日比谷高校に入学できたので、そのことも御殿山が選ばれた理由らしい。

長屋の一番奥は同級生のN君一家が住んでいた。親はクリスマス電球製造の家内工業をしていた。先日品川区立歴史館に行って、アメリカ輸出用クリスマスツリー用電球産業が品川区の地場産業であることを知った。100年も前,1916年(大正5年)頃に国内生産が始まった。品川区では戦前から零細な家内工業で生産され、戦後は生産量が増加し、全国の80%が品川区内で生産された。1947年には400万個だった生産が1966年には4億個のピークとなった。文字通りの地場産業だ。

御殿山に店らしい店は少なかった。同級生に御殿山バス停前の肉屋、少し路地を入ったところに文房具と駄菓子屋。常磐津のお師匠さんの子もいた。我が家に内風呂はなかったので、母は4人の子どもを連れて御殿山を降りて20分もかけてお風呂屋さんに行った。隣は2階建て2軒長屋。1階と2階は別々の家族が住んでいた。2階に全身入れ墨の大工さん家族5人が住んでいた。男の子に私より1歳上の悪がきがいた。大工さんは「よしたけちゃんをいじめたらだめだ!弱い者いじめをするな!」と常々言っていたことを今も覚えている。おかげで一度もいじめられたことがなかった。二人のお姉さんは森永製菓(田町)と光村印刷(大崎)の労働者だった。我が家は、長男の私、2歳下の妹(1948年生)、5歳下の妹(50年生)、7歳下に今は故人となった弟(52年生)がいた。

小学校1年生の時私は「寒い、寒い」と母にぐずった。その時、父は私を風呂場に連れて行き裸にして「これが寒いのか?」と桶に水を汲み、私のみでなく自らにも水をかけながら、私に説教した。「三つ子の魂、百まで」ではないが、大工さんのひと言や父の身を持っての説教は一生忘れない。

御殿山を降りた所に1929年創立の御殿山小学校がある。45年5月23日の空襲で第2、第3校舎が焼かれた。最新の新校舎が2015年に御殿山と高層マンションの「谷間」に完成している。2006年度から品川区では小中一貫教育を始め、体育館はアリーナに名前を変え、時代の先端をいく教育をマンション街で追求している。

小学校1年生か2年生の夏休み、校庭にスクリーンが張られ映画を観た。美空ひばり主演の「角兵衛獅子」だった。映画がどうして映るのかがわからなくて、スクリーンの後ろに回ったが、何もなかった。1953年、まだソニーと言う名前が誕生する以前、東京通信工業がテープレコーダーを作っていた頃に、わが国初のテレビ放送が2月1日に始まった。なんと御殿山小学校はソニー(東京通信工業)が開発するより先に、テレビを購入し、在校の小学生は大喜びした。画面は小さかったが大相撲春場所か夏場所を観た記憶が残っている。印象的だったのが当時の関脇朝潮と三ッ根山の取組みで、負けた朝潮のファンに以来なった。ちなみに、当時の国産第一号テレビは1953年1月に発売されたシャープテレビで値段は175,000円と超高値。当時の高卒公務員初任給月給5,400円で2017年が170,200円(東京都)と約32倍、単純に計算すると175,000×32=560万円になる!!)

「天皇とキリストとどちらが偉い」 キリスト品川教会の不服従

(写真4)品川教会と東海道線切通し

JR品川駅から御殿山への入り口に入るとモダンな十字架の塔グローリア・チャペルがみえてくる。鉄道建設で削られた御殿山の縁にできたキリスト品川教会(カルヴァン派)だ(写真4)。私は1951年4月に設立された品川教会付属幼稚園の第一期生。51年4月~52年3月まで在籍した。まだ周囲には米軍空襲の焼け跡が残っていた。入園して間もない4月16日、朝鮮戦争のさなかに羽田空港からマッカーサー(米元帥、日本占領連合軍最高司令官)がトルーマン大統領に罷免され帰国した。その時幼稚園児であった私たちはすぐ近くの八つ山橋で「さよなら」の手を振った(と記憶している)。

キリスト品川教会の最初の礼拝堂は1935年4月25日御殿山から坂を下りていく五反田の佐伯倹牧師宅で始められた。41年には五反田教会として設立されたが45年5月25日の米軍空襲で焼夷弾を受け焼失、しばらく教会での礼拝が途絶えた。戦後46年1月に御殿山の現在地に移転、佐伯牧師が新潟から戻る。原邦造邸内の茶室を借りて住み、そこで礼拝をおこなった。46年4月に所有者の原が邸内の座禅堂を教会礼拝のために提供し、やがて幼稚園舎となる。49年には2回のバザーにより土地購入と礼拝堂の建設資金を得る(大雨が続くなかバザーの2日間だけ雨が止む奇跡がおこった!)。51年4月には新礼拝所が建設され、付属幼稚園が開園。1989年、新たな礼拝堂(グローリア・チャペル)その他施設が新規に開設された。

佐伯倹牧師は私の記憶ではとても優しいおじいさんだった。1896年に兵庫県但馬に生まれ、東京帝国大学法学部に入学、大学ではYMCAの活動をしていたようだ。卒業後に横浜正金銀行に就職した。(奇しくも佐伯に教会用地を提供した原邦造も横浜正金銀行頭取だった)「Gloria Chapel建設の記録」によると、「1941年という年は品川教会発足の年であるばかりではなく、日本のキリスト教会にとって忘れることのできない年であります。昭和に入り、次第に軍国主義、全体主義が日本の国家を支配し、中国に対する侵略が始められ、キリスト教は、敵国アメリカやイギリスと関係があるから、敵性宗教ということで官憲の眼が光り、日本の国体にそぐわない思想宗教を統制するという方針で、キリスト教に対する干渉と弾圧が行われるようになりました。

五反田教会でも、思想取締のための特別高等警察(当時“特高”と呼ばれ、憲兵と並んで恐れられていた)が、しばしば牧師を訪問して、各種の質問を浴びせ、また礼拝にも出席し、広報の座席に座って礼拝を監視し、牧師の説教をメモして礼拝と牧師を詰問するといったことがしばしばありました。もっとも多い質問は“天皇とキリストとどっちが偉いのか”で佐伯倹牧師はいつも“それは比較にならない”と答え、特高に乗ずる隙を与えませんでした。」

開戦後も教会は軍隊が出す命令に対して不服従を続ける。礼拝前の皇居遥拝、戦闘機献納のための献金、アジア人に天皇を拝むよう勧めること、大東亜共栄圏の讃美歌を歌うことに対して抵抗し不服従を続けた。さらに戦後、「残虐な日本人の戦争犯罪に対して、自己を守るだけで、ほとんど何の犠牲をも払わずに終わった日本のキリスト教会の罪は、神の前に極めて大きいのであります」と佐伯洋一郎牧師は総括している。

ソニーの自由な創造性とベンチャー精神、勝亦電機の小さくてもこだわりのあるモノづくりと人づくり、軍国主義に抵抗・不服従を貫いてきたキリスト品川教会、こうした秘められたパワー・ベンチャー魂が今も御殿山に秘められている

(参考文献)
「技術開発の昭和史」森谷正規 朝日文庫、1990
「井深大、自由闊達にして愉快なる 私の履歴書」井深大、日経ビジネス人文庫、2012
「ソニー自叙伝」ソニー広報部、ワック株式会社、2001
「勝亦電機製作所100年史‐モノづくりのDNAと未来への挑戦」 株式会社勝亦電機製作、 2016
「グローリア・チャペル建設の記録」 キリスト品川教会、1994

おばた・よしたけ

1945年生まれ。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ、公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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