論壇

安倍政権のモラル崩壊と「道徳教育元年」

為政者たちに求められる「考え、議論する道徳」

ジャーナリスト 池田 知隆

今春、小学校で道徳が正式の教科となり、来春からは中学校でも実施される。今年はいわば「道徳教育元年」だ。そんな時節に合わせたかのように安倍政治の「道徳性」が厳しく問われている。国有財産をお友だちに優遇する疑惑が広がり、公文書の秘匿、改ざん、さらに政治家、官僚の相次ぐスキャンダルを露呈した。この国の統治機構全体がおかしくなり、「底なし沼」状態と化している。いま、国の根幹にかかわる政治モラルの崩壊こそ、私たちにとって道徳教育の最適の教材として受け止め、考えなければならない。

道徳で教育を「再生」できるのか

道徳教育の教科化は、安倍首相の長年の念願だった。改めて言うことでもないが、戦前の学校では、修身が全教科の筆頭教科に位置付けられ、教育勅語とともに、お国のために命をささげることのできる国民を育成するのに大きな役割を果たした。戦後、この修身を道徳科として復活させようとの声が自民党の文教族を中心に根強くあったが、教育界は「心の中に立ち入るのは危うい」と反発、見送られてきた。

しかし、安倍首相を支持している保守団体「日本会議」が1997年に結成され、道徳の教科化を運動方針に掲げたころから、その実現に向けて動き出した。第1次安倍政権は2006年、教育基本法を改正し、愛国心教育を盛り込んだ。同時に教育再生会議を内閣に設置し、道徳の教科化を打ち出した。だが、文科相から諮問された中央教育審議会(中教審)は、正規教科には評価が必要で、心の中を評価することになるので、教科になじまないと答申し、いったん教科化は見送られた。

第2次安倍政権では13年1月、教育再生実行会議を発足させ、道徳の教科化を強く打ち出した。直接のきっかけとされたのは、大津市でおきた「いじめ自殺」問題だったが、安倍首相の狙いは愛国心教育だ。中教審の委員も入れ替え、14年10月に「特別の教科 道徳」として正式教科にするべきとの答申を得、15年3月の学習指導要領改定を経て、正式教科に格上げされた。教育勅語についても17年3月、安倍内閣は「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。戦後、完全に否定された教育勅語が甦りつつある。

安倍”道徳”観を先取りした森友教育

その安倍首相の道徳観とはどんなものだろうか。最後には森友学園への国有地売却問題が表面化した安倍首相が「詐欺師」と罵倒することになるが、当初、森友学園の籠池泰典氏の道徳観に共感していた。籠池氏は「日本会議」の大阪支部長であった。安倍首相夫人の昭恵氏が森友学園の開設予定校「瑞穂の國記念小學院」の名誉校長になっている(森友問題表面化後、辞退)。

道徳が正式教科と決まった15年の9月、森友学園が運営する塚本幼稚園(大阪市淀川区)で講演した昭恵夫人は、こう発言している。

「(学園理事長の籠池氏から)安倍晋三記念小学校にしたいと当初は言っていただいていた」と述べた上で、「主人が、総理大臣というのはいつもいつもいいわけではなくて、時には、批判にさらされる時もある。もし名前をつけていただけるのであれば、総理大臣を辞めてからにしていただきたい」

さらに

「こちらの教育方針は大変、主人も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」

と、公立学校の教育内容に対しては否定的な発言をしていた。
 森友学園に寄せた昭恵夫人の挨拶文には「優れた道徳教育」「日本人としての誇りを持つ子どもを育てる」として森友学園の教育をこう褒め上げている。

「籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました。瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。

そこで備わった『やる気』や『達成感』、『プライド』や『勇気』が、子ども達の未来で大きく花開き、其々が日本のリーダーとして国際社会で活躍してくれることを期待しております」

塚本幼稚園は、3~5歳の幼児に愛国心を育むことを目的とし、制服を着た園児たちは毎朝、日本国旗の前で国歌を歌い、教育勅語を復唱することで知られていた。「よこしまな考え方を持った在日韓国人・支那人」といった内容の文書を保護者に配布し、大阪府私学課が民族差別の疑いで調査に乗り出したこともあった。

「大人の人たちは日本が他の国に負けぬよう、尖閣列島・竹島・北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め、歴史で嘘を教えないよう、お願い致します。安倍首相、ガンバレ! 安倍首相、ガンバレ! 安保法制国会通過よかったです! 僕たち私たちも、今日1日、パワ-を全開します、日本ガンバレ! エイ、エイ、オ~ 」

同園の運動会の映像で、園児たちは弾けるような声をあげていた。選手宣誓している光景だ。「君が代」斉唱、教育勅語や「五箇条のご誓文」などの朗読…。その「愛国教育」に感涙する昭恵夫人の姿がテレビから流れ、世間をあっと驚かせたのは記憶に新しい。

このような幼稚園児への教育勅語の強制は、安倍首相の妄想を具現化したものなのだろうか。日本語も満足に話せない園児に教育勅語の原文を唱和させることにどんな意味があるのか、理解に苦しむ。籠池氏が安倍首相の思いを”忖度”し、いきなり小学校で教育勅語を教えるには反発が大きいので、抵抗が少ない幼稚園で始めていたのかもしれない。教育勅語を学校教材とすることを否定しない形で閣議決定がなされたことで、いつしか小学校で教育勅語がごく普通のこととして浸透しくかもしれない。そんな悪夢を思い浮かべると、笑って見過ごすわけにはいかない。

「東大話法」と責任回避

その後の森友学園をめぐる国有地売却問題の経過についてはここでは繰り返さない。ただ一連の国会論議のなかで「安倍一強」体制という政権モラルの退廃ぶりが明らかになった。

「あなた方は安倍内閣の犠牲者だ。隠ぺい、改ざん、不正。すべてのことをあなたたちは、やらされているんだ」

国会で、野党の議員が居並ぶ財務官僚たちを諭す光景も見られた。しかし、非力な野党の追及を受け止める側の官僚たちの態度は冷ややかだ。国有地売却をめぐる公文書が改ざんされ、”官庁の中の官庁”といわれる財務省は、安倍首相と昭恵夫人を守るために国権の最高機関、国会を欺いた。この国の行政は、国民のためのものではなく、総理個人のためのものになっていた。

微妙に争点をずらす官僚や安倍首相の答弁。それを野党側が突き崩せないなかで、国会の質疑は空転していく。その光景を見ていると、政治の底が抜けていくような気にとらわれる。そこには霞が関官僚の特殊な「東大話法」という空疎な言語空間が広がっていた。

「東大話法」とは、福島原発問題を他人事のように解説したエリート官僚、学者たちの言葉遣いから名付けた安富歩・東大教授の造語だ。東大出身者のみならず、日本の官公庁の高級官僚、大企業経営者などの偉そうな人たちが使う話し方で、受験勉強で鍛えた高度で、高速の事務処理能力をフルに発揮している。聞いていてなんだかよくわからないうちに、都合のいい方向に話をもっていく。すぐに謝罪し、公平さを装う。しかしながら、まったく誠意が見られない。まるで少しの血も通っていないこの語法がはんらんする安倍政治。その背後には、安富教授のいう「立場主義」も見え隠れする(安富著『ジャパン・イズ・バック――安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』)。

「立場主義」とはつまり、

1、役を果たすためにはなんでもやらなくてはならない。
2、立場を守るためには何をしてもいい。
3、人の立場を侵害してはいけない。

この三つの「立場」を原則とし、官僚たちはテクニックを駆使する。そこには内容はない。森友学園問題で見せた元理財局長の佐川宣寿氏の国会答弁のように、論点をごまかして、話をすり替える。森を見せずに、木の話だけをするのがその秘訣だ。

エリート官僚たちの多くは出世競争を通して自分の立場を考え、天下り後の年収を含めた「生活設計」を建てながら仕事している。自分が権力を握っている数年間がなによりも問題だ。そこを逃げ切り、あとは退職金を貰って大手企業に天下りをすることを願う。しかし、「政治主導」を掲げた改革で内閣人事局が設けられたことで様子が変わってきた。内閣が官庁幹部の人事を左右し、以前に比べて天下りへの世間の目も厳しくなっている。内閣人事局にうとまれたら即、ポストを失いかねないと、エリート官僚たちの内閣への“忖度”がはびこってきている。いつしか「公僕」という言葉は死語と化しつつある。

「霞が関文学」の空虚さ

その「東大話法」が行き交う官僚たちの間には、独自の「霞が関文学」もあるそうだ。文書の改ざんをめぐる官僚たちの”忖度”、人間理解のあや(綾)には霞が関独特の文学空間があるというコラムニスト、小田嶋隆氏の指摘(2018年3月26日、日経ビジネス)が興味深い。「(現政権の)彼らは『言葉』を大切にしない。なにより、国会答弁をないがしろにしている」といい、その官僚たちの作文には独特の言い回しがある。よくよく読めば、

・断定しない語尾
・言質を取らせない語法
・含みを持たせた主語
・焦点をボカす接尾辞
・多義的な接頭辞

といった要素が見られる。いずれ劣らぬ曖昧模糊としたものだ。読み方次第でどうにでも読める。しかし、まったく具体的な事実を伝えていない。官僚の立場からいえば、「カドを立てることなく陳情者の要求をかわしたり、確約せずに許認可の利権をチラつかせたり、責任をとらない形式でやんわりと指示を出すような場面で、大いに使い勝手の良いツール」となっている。

それだけではない。霞が関文体で書かれた文書の内容は「木で鼻をくくったような体裁をとりながらも、特殊な読解力を備えた官僚たちの間でだけ通用する符丁」として使われ、もっぱら行間を読み合う形式として流通している。小田嶋氏はいう。

「練達の霞が関文学読解者は、決裁文書の行間に畳み込まれた一見無意味無味無臭の情報から、書き手の失意や無念やあるいは遺言のような言葉すらも読み取ることができるはずなのだ」 

改ざん前の森友関連の文書には、詳細に交渉経過が記されていた。その改ざんをめぐっては、財務局職員の自殺という痛ましい事件も起きた。

「彼らが一見不必要に思える人名を列挙しながら行間に書き込もうとしていた叫びに、誰かが真摯に耳を傾けないといけない。そういう意味では、まさしく森友文書は『文学』だったのかもしれない」と小田嶋氏は皮肉っている。

「道」と「徳」は

森友学園だけでなく、加計学園、防衛相日報の問題をめぐっても公文書がぞんざいに扱われているのに驚かされた。それに「無い」と説明した文書が、後になって出てくる例が続いたのにも腰をぬかした。改ざんされた公文書では国会での議論そのものが成立しない。「東大話法」「霞が関文学」の世界に浸っている官僚たちの“忖度”のうえに乗っかって安倍首相は、一時、向かうところ敵なしだった。

「個別の案件については答えられない」「私が最高責任者です。責任は私が引き受ける、と思うわけであります」。危うくなったら、そんな「安倍語法」を連発し、相手を黙らせてしまう。「私が言うのだから信用してくれ」と繰り返し、都合の悪い話は無視し、都合のよい話だけ返事してごまかしてきた。空疎な言葉が行き交い、その論議は深まらない。いつしか国会の質疑は無意味になり、官僚のモラルが崩れ、国会、ひいて社会全体が「コミュニケーション不全」という病に陥っている。

次々と疑惑が生じても、政府側は巧妙に答弁技術を駆使し、法的な問題をすり抜けていく。もし法に触れなければ、道義的に問題があっても許されるのだろうか。そうであれば、道徳教育を推進してきた安倍首相は国民の信頼を失っていくのではないか。

「法には触れなくても、部下や支援団体の監督者でもあり、国民に嫌疑を受けるようなことをしたのは事実なので、(道徳教育を進めてきた)政治家の責任者として、職を辞します」

堂々とそう断言すれば、安倍首相への信頼は増したかもしれない。少なくとも道徳教育が必要だと日ごろ主張している人なのだから、道義的な責任について首相自ら問い、何らかの言及をすべきだろう。

道徳とは、人の「道」を説き、教え込むことと、人間としての「徳」を分からせるという側面がある。日本人はいま、道徳教育が必要なほど「道」に外れそうになっているのだろうか。一般大衆の犯罪は他国に比べ多いとはいえない。親の介護に義務感を持ち、親への孝養という道徳観にとらわれている人も少なくない。

他方、「徳」が分かっていない為政者が目立つ。為政者にとって「徳」を知る価値は高いといえなくもない。格差社会が深刻化するなかで、「勝ち」組や富裕層に寄付や高額納税などの「徳」をもっと示してもらいたい。さしずめ「徳」のなさに恥ずかしいという価値観を抱いてほしいものだ。

道徳の教科化が決まった15年、文科省は教員養成系や人文社会科学系学部・大学院に関しては組織の廃止や見直しに取り組むように通達を出している。科学技術立国を目指すために理系重視の大学助成を進めても、人文社会科学の研究をおろそかにしていいはずはない。まさか道徳教育を重視するから、とにかく科学技術の研究にまい進しろ、ということでもないだろう。将来における人間と社会のあり方を深く考えることが大切なのは言うまでもない。

たけしの道徳観

道徳の教科化に先立つ教科書検定は噴飯ものだった。教科書にある「パン屋さん」を「和菓子屋さん」に修正し、その理由として教科書会社が「日本文化であることをわかりやすくするため和菓子屋に修正した」とコメントしたのだ。他にも「家族愛」や「生命の尊さ」など22の項目を国が盛り込むよう命じている。だが、そもそも道徳教育は国家がやるべきことなのだろうか。

学校でいじめが問題になれば、「道徳教育を強化しなくてはいけない」という声があがる。だが、道徳教育の強化は、いじめの減少にはつながらない。道徳教育で子供の規範意識が高まり、その結果として、いじめはなくなるという希望的観測に過ぎない。

「道徳なんてものは、権力者の都合でいくらでも変わる」

タレントの北野武(ビートたけし)は、著書『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』(幻冬舎)で、ずばりと言ってのける。「絶対的な道徳など、この世にはない」「誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る。それはもう、すでに昔の人が経験済みのことだ」と。

本のタイトルは、ちょっと押しつけがましさを感じるが、読んでみると、道徳そのものを疑い、きちんと問い直している。『「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』は、現在の道徳で「年寄りに席を譲るのは、『気持ちいいから』」と子供たちに説明されていることからきている。しかし、たけしはこれに反発し、突っ込んでいる。

「誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある」という。「いいことしたら気持ちいいぞ」と上から煽るような道徳を「まるで、インチキ臭い洗脳だ」とばっさりと切り捨てる。

上から押さえつけられ、ただハイハイと従っていれば、いずれバカを見る。道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない。籠池氏も、口では「愛国心」「教育勅語による高い道徳の涵養」などとうたっているが、その実、あらゆる意味で不誠実極まりない姿を見せつけた。だまされない人になるために、自らが生き方を”発見”していくことが大切なのだ、というたけしの感覚は共感できる。道徳として語られることに対して、私たちは読解力、分析力をつけながら考えなくてはならない。

 「道徳教育を全国一律カリキュラムでやる国はあるのか」と聞かれ、「韓国がやっている」と文科省は答えている。つまり韓国と日本を除けば、先進国で道徳教育を教科として国が実施している例は見られない。欧米の人権感覚では、道徳教育は家庭や地域社会、教会の役割であり、行政機関の官僚が道徳教育のカリキュラムをつくるという発想はない。

そもそも道徳教育は、思想・信条・良心の自由と深く関わっている。国が道徳(良心)を統制(強制)することに対し、警戒感を持つ国が先進国の大半を占める。英国で行われているのは、責任ある市民として社会に参加するための「シチズンシップ教育」。体制に従順な国民を育てるのではなく、自分の頭で考えて判断し、行動できる市民を育てる教育だ。次世代の教育に求められるのは、そのような知的な読解力、批判力を養成することに尽きるのではないか。

「考え、議論する道徳」は国会で

学校で始まっている「教科としての道徳」は、試行錯誤が続く。これまでの道徳の授業では、副読本などを使って「答え」を読み取らせるものだった。だが、教科化にあたって「考え、議論する道徳」に方向転換している。「多面的・多角的に考える」との言葉が教科の目標にあり、これまでの「心情」に重きを置いた道徳から「思考中心」の道徳に変わるというのだ。

 確かに道徳の時間は、市民として自己や社会について考える訓練をする場と位置づけることも可能だ。社会の問題を多面的にとらえ、深く読み解き、口先ではなく本気で考えることが大事とされながらも、学校でそのような機会はほとんどなかった。しかし、そのような理想のもとに進められていくどうか。その成否は現場の教師たちの力にかかる。

 小学校では道徳のほか、英語教育やプログラミング教育の早期導入が求められており、教師の負担は大きい。すでに教師の多くが「過労」に追い込まれているのが現実だ。「考え、議論する道徳」には十分な準備と時間を要するのに、それだけの余裕は与えられていない。教師たちは、多忙なあまりにいつしか、安易な徳目主義に押し流されていかないか、気がかりだ。

過去の日本を美化し、過去の道徳水準を取り戻そうとする人たちは、「日本を取り戻す」つもりで意気込んでいる。道徳の教科化を進めた下村博文元文科相は、財務事務次官のセクハラをめぐる告発に対して「(告発するほうが)ある意味で犯罪だ」と非難し、女性への人権感覚のなさを見せつけた。いったいどんな道徳を進めたいのか。下村元文科相に改めて問いたくなる。

安倍首相は、度重なる疑惑と不祥事に「全容を明らかにし、うみを出す」と言うものの、元首相秘書官の証人喚問はなかなか実現しない。安倍首相が、それなりのゆるぎない道徳観の持ち主であれば、国会論議のなかで「記録がない」とか、「記憶にない」とか言って明らかに事実を隠蔽している現状を黙認できないはずだ。国政の私物化が問題になっているとき、自らの責任を問わずして、国民に道徳教育を推進しようとするのは、ブラック・ジョークというしかない。

 いまはなによりも「考え、議論する道徳」の模範を為政者たちが国民の前に見せるのが先決だ。それが子供たちにとって最もわかりやすい道徳教育ではないだろうか。安倍首相もまた、道徳教育を推進するならば、まず自らが人の「道」と「徳」を思い返し、率直に、正直に自分の言葉で語るべきだろう。しかし、逆に言えば、このような曖昧模糊、「フェイク(うそ)」に満ちた政治状況こそ、私たちにとって最適の道徳教育の場なのかもしれない。私たちは、この国の統治機構が崩壊していく現実を冷徹に見つめ、為政者たちに厳しい審判を下すための試練の時に直面している。

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著書に『ほんの昨日のこと─余録抄 2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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