特集●"働かせ改革"を撃つ

最悪の事態への想像力とは

ドイツの脱原発 韓国の市民社会 日本の帰郷問題

在ベルリン 福澤 啓臣

今年の3月20日から4月初めまで韓国と日本を訪問してきた。ドイツの環境保護団体BUND(Bund für Umwelt-und Naturschutz Deutschland. 会員56万人を数える巨大な環境自然保護公益法人。800名以上の専任スタッフおよび職員を抱え、シンクタンクも兼ねている。地球の友ドイツでもある。)の友人たち(バイガー会長とメルグナー理事およびスタッフの三人)から誘われたからである。これまでこの3人を福島に2度案内した経緯がある。

特に韓国訪問ではムン・ジェイン大統領が脱原発を打ち出した後、どのように具体的な政策を行っているか、また韓国地球の友など市民社会グループがそれにどのように参加しているかが見たかった。

韓国の「公論化プロセス」

韓国では「地球の友・韓国 (KFEM=Korean Federation for Enviromental Movement)」が我々の面倒を見てくれた。KEFMの外国部長のチョニー・キム女史が毎日付き添ってくれた。ソウルだけでなく、南の釜山近くにある月城(ウオルサン)原発の古い原子炉にも 案内してくれた。韓国新幹線の車中で彼女から聞いた話では特に「500人の公論化委員会」による公論化プロセスが興味深かったので、紹介する。新しく大統領になったムン氏は脱原発を掲げて当選した。就任後特に緊急の問題になったのは、建設がすでに30%ほど進んでいる新古里5・6号機の建設継続か、中止かの決定だった。長くなるが、国際環境団体 FoE Japanが最近出版した『韓国・脱原発を求める人々の力/エネルギー革命は実現するか』から引用させてもらう。

「ムン・ジェイン大統領は自ら結論を出すのではなく、利害関係を持たない一般市民が学習と熟議を経たうえで結論を出す『公論化プロセス』に託した。この『公論化プロセス』は2017年7月から3ヵ月行われた。公論化委員会が形成され、建設の賛否の双方の意見を資料集に記述。2万人を対象に一次世論調査が行われ、回答者の中から、地域・性別・年齢などを考慮して500人の市民参加団が選出された。このうち471人が事前学習を行い、二泊三日の総合討論会に参加し、最終アンケート調査に回答した。
結果は、建設中止が40.5%、建設再開が59.5%。原発を縮小すべきという意見は53.2%を占め、拡大すべき9.7%、維持すべき35.5%を大きく上回った。これを受け、公論化委員会は、新古里5・6号機の建設続行を勧告し、政府もこれを受け入れた。(注1)

KEFMのキムさんはこれらの説明をしてくれた後、確かに500人の市民による「公論化プロセス」は民主的な決定という点では大きな進歩だが、我々の働きかけが弱かったせいで、建設続行になってしまったのは残念だったと悔やんでいた。

韓国の脱原発の状況を見ると、ムン大統領の公約にもかかわらず非常に厳しい。まず 新しい原発は稼働期間が60年となっている。公論化プロセスで建設の続行を認められた新古里5・6号機は完成までに数年が必要で、さらに稼働後に60年となると、2080年ごろまで脱原発は実現しない。ムン大統領がさらに次の公論化プロセスを求めて、稼働期間がドイツのように32年とするか、日本のように40年となれば、2060年代で脱原発が可能になるが。

しかし原発の将来を明確に縮小すると市民による「公論化プロセス」が決定したわけだから、日本の原子力村の隠然とした推進政策などに比べると、民主的なことこの上ない。日本では原子力エネルギーの使用に関して市民が参加した決定は全くなされていない。市民の声すら求められていない。

(注1)満田夏花:『韓国・脱原発を求める人々の力/エネルギー革命は実現するか』9+10頁、2018年、国際環境NGO FoE Japan

ドイツの倫理委員会と原子炉安全委員会

2011年の5月末に出されたドイツの倫理委員会の脱原発勧告は市民社会参加型という意味で非常に高く評価されている。意外と見逃されているのは、同じ時期に並行して原子炉安全委員会が原子炉の安全性を点検し、その結果を発表していることである。

ドイツの原子炉安全委員会(Reaktor-Sicherheitskommission,RSK)は、1958年から活動を始め、政府あるいは議会の要請に応じて報告・勧告している。福島第一の事故の後も5月15日にドイツの原子炉の安全性について報告している。その報告書には、「日本のような事故は起きない。津波はもちろん起きない。起きるとしたら、水害だが、10000年に一度の大洪水にも対応するように電源は確保されている。外部電源が喪失されても水が入らないように設置されたディーゼル発電機と蓄電池で72時間は持ちこたえられる。さらに大事故へのリスクとしては、飛行機による事故。いくつかの原子炉は中型の旅客機による墜落事故には対応していない。それとテロによる攻撃にも対応していない(注2)」などが記されている。

最終的に当時稼働中の17基の原子炉が採点されている。33点満点で最高点が19点、最低点は7.5点(注3)。メルケル内閣による脱原発が決まった時点で、採点の点数が低い順から8基(11点まで)がまず即稼働停止および廃炉になっている。

なぜメルケル氏は倫理委員会を招集したのだろうか。普通だったら、RSKだけの報告でもいいはずだ。すでに2000年に脱原発はドイツ政府によって法制化されているし、国民の合意も一目瞭然だったのだから。だが、その点に関してのコメントはメルケル首相からはなかった。

倫理委員会は脱原発に関して倫理的に判断して、勧告する委員会と理解されているのは、それなりに正しいのだが、正式名は「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」だ。そして、すでに最終的な脱原発はすでに国民合意に達しており、「脱原発の具体化についての問い、『つまり、脱原発は早期にすべきか、それとも徐々にすべきか』が問いなのです」(注4)。倫理委員会が特に気を遣っているのは、即脱原発派と原子力推進派を両極端とするドイツ市民社会にどのようにしたら納得してもらえるかである。 そして、代替エネルギーが技術的、経済的に育っているから、脱原発に早く踏み切れるだろうと結論づけている。その結果2022年の最終的な稼働停止が決定された。しかし、この時期は、2000年にシュレーダー・フィッシャーの赤緑政権が最初に決めた脱原発の時期と一致する。

(注2)グリーンピース・ドイツはRSK報告を素人にわかりやすく解説している。

(注3)グリーンピース・ドイツはRSK採点を基本にドイツの原子炉の安全度のランク付けをしている。そして、全体としてあまり安全ではないと言っている。同上、27頁

(注4)安全なエネルギー供給に関する倫理委員会:『ドイツ脱原発倫理委員会報告』37頁、2013年、大月書店

ドイツの早い脱原発

ドイツではすでに2000年にシュレーダー・フィッシャーの赤緑政権が最初の脱原発を決め、実現した。その時の理由付けは

「第一は、最も重要な安全面で原発はミスが許されず、原子力は人類が制御できない科学技術であるという見解に達したこと。第二に、新しい再生可能エネルギー産業に投資し、エネルギー政策を転換させる必要があったこと。第三に、使用済み核燃料の処分場の解決策がなかったことです」(注5)

さらに2000年のシュレーダー・フィッシャーの赤緑政権の脱原発までの経緯について調べたら、次のようなことがわかった。

まず16年間続いたヘルムート・コール政権の後、1998年の10月20日にSPDと緑の党(正式には「連帯90と緑の党」だが、ここでは緑の党で済ます)が連立政権合意書にサインをする。その3条に「同政権はできるだけ早く脱原発を実現する」と記されている。そして2ヶ月後の12月21日にはシュレーダー首相は4大電力会社の代表責任者と会談し、Spiegel誌の記事によれば、105分間で彼らを説得し、脱原発の合意に至ったとある(注6)。目に付いたのは、同席したのが当時の経済大臣のW. ミュラー氏(無党)だけであり、環境大臣であったトリッテン氏(緑の党)も副首相であったフィッシャー氏(緑の党)も同席しなかったことである。蚊帳の外に置かれた環境大臣トリッテン氏は後で噛み付いたが、既成事実には勝てなかったようだ。緑の党の大臣を同席させると、議論が感情的になり、話がややこしくなるのを避けたのかもしれない。

シュレーダー首相の辣腕ぶりが目立つ。それと決断力と実行力。この合意は翌年6月に正式に署名され、2002年に法制化される。ちなみに同首相はさらにAgenda 2010政策で労働市場改革(日本でもおなじみの失業保険支給期間の後に無期限に貰える失業救済手当額―日本にはこの制度はない―を大幅に切り下げ、生活保護のレベルに落とした 。これにより長期失業者の数と合わせて500万人を超えていた失業者の数を300万人以下に減らした)を断行し、社民党の党員などからは裏切り者として批判されているが、ドイツ経済を成長コースに乗せたことで皮肉にも経済界からは評価されている。もし同じような政策が保守党のCDU(キリスト教民主同盟党)から出ていたら、労働組合とSPDは猛反対を繰り広げ、うまく施行されていたかは疑問であるという見方もある。

ドイツ語にはMacherという言葉があり、「指揮官、指導者、首謀者」と訳されているが、シュレーダー首相のような実行力を備えた政治家などを指す場合が多い。もちろん市民社会的な観点からすれば、ボス交渉による決定には賛成できないだろうが、脱原発の道筋をつけた功績は認めるべきだろう。

日本ではドイツの脱原発はメルケル首相と結びつけられ、評価されているが、彼女は福島第一事故の5ヶ月前に、シュレーダー首相の脱原発政策が決めた 2022年までの稼働期間を、原発によっては8年から14年の稼働期間延長という逆行政策をまず決めた。だから、脱原発グループの間では彼女の評価は低い。それが福島第一事故が起きるや否や忽ち脱原発に切り替えたのである。

一応本人は福島事故で認識を改めたという形をとっているが、3・11以降に州選挙があり、CDUが大きく負けたことも影響しているだろう。戦後常勝していた保守の牙城バーデン=ヴェルテンブルク州で緑の党が勝利し、緑の党の州首相が誕生したのを見て、脱原発に踏み切ったのだと口さがないドイツ人は言っている。すでに2000年の時点でシュレーダー政権により脱原発は一度果たされている。その上、福島事故が追い打ちをかけたばかりだから、今更もって脱原発するかしないかではなく、いつ、どのようにするかが争点だった。

ただし彼女が呼びかけた倫理委員会の報告は非常に格調高い。性急な脱原発を戒めて「社会の広い合意」を達成させるのが、脱原発の基本的な前提であると強調している点から見ても、現実派の人々にも十分納得できる勧告だったのだろう。韓国で脱原発派の人とドイツの脱原発について話したときに、特に彼らの興味を引いたのは、17名の委員の中に一人のアメリカ人が含まれていたことだった。その人は当時のベルリン自由大学の政治学の教授をしていたミランダ・シュラーズさんだった。

すでに筆者は定年退職していたが、同じ大学ということもあり、何度か話したことがある。同女史は日本の茨城県水戸一校に留学していたこともあり、日本語が達者である。彼女から聞いたことだが、メルケル首相本人から電話があり、委員に就任してくれるように要請されたとのことだ。KEFMのチョニー・キムさんは、 国の将来を決めるかもしれない重要な倫理委員会に外国人でも構わないという十分に成熟したドイツ市民社会に感心していた。

(注5)同上:28頁

(注6)Der Spiegel, 52/1998, 21.12.1998

福島再生の会

韓国を離れて23日から東京に移動し、早速三人のドイツ人を連れて金曜デモに参加した。歩道の半分しかデモ隊にスペースを与えない警官隊の執拗な規制ぶりを見て、ドイツでは考えられないと目を丸くしていた。そして、日頃おとなしい日本人ばかり見ていたのか、怒りを大声で発するデモ隊を見て、喜んでいた。翌朝彼らを連れて福島の飯舘村を訪問した。スタッフのマーティンは新婚早々で、妻から放射能リスクがある福島には行かないようにと止められていたので、同行しなかった。現地では、前からの知り合いである「福島再生の会」の会長田尾陽一さんに案内してもらった。飯舘村では同会の住民側の代表である菅野宗夫さんが我々に対応してくれた。日中は村の中を案内してもらい、晩にはお二人に村の宿泊施設の「きこり」に来てもらい、質疑応答を行った。

ドイツ側が知りたかったのは、再生の会の活動は政府の方針と一致し、悪用されてしまうのではないかということであった。具体的にいうと、福島第一のようなシビアな原発事故が起きても多少の時間が経てば、汚染地域での生活が可能で、復興できるというのが政府の言い分であり、そのために除染などに巨大な額を投入している。そして、復帰しても健康問題は起きないし、農業も可能だということになれば、政府の思惑通りになるのではないかというのが、ドイツ側が投げかけた疑問だった。

それに対して、再生の会の答えは、政府の目標に沿うために活動しているのはない。故郷に帰還したいという地域の方々がいる限り、その方々を支援するのが人道的に見て当然であるという答えだった。そのためには、まず汚染の状況をきちんと把握するための放射線量の正確な測定が基本になる。そして、除染の方法も自分たちで模索している。その上で農業が可能かどうかを判断する。そして、帰還するかどうかは住民の方々が自分で決める。主体はあくまでも地域の住民の方々である。そのための支援である。そして、もちろん原子力エネルギーには反対しているし、できるだけ早い脱原発を目指していると付け加えた。

これらの答えに対して、ドイツ側は納得し、みなさんのやっていることに敬意を表したいとなった。ちなみに、再生の会の皆さんは東京などから週末に参加し、線量測定、土壌除染、野菜や花のグリーンハウス栽培、小屋の建築、さらにびっくりしたのは空間線量測定器まで自ら作っていることだ。田尾さんは昔全共闘で闘ったことがあるそうで、物理が専門だったとのこと。他にも昔の仲間が参加しているそうだ。そのうちの一人が、60過ぎてからブルドーザーの免許試験を受けたと楽しそうに語っていたのが、印象的だった。これらの活動は市民社会そのものである。

住民が決める故郷帰還と許容実効線量

ただ筆者としては、住民の方々が自分で判断して、帰還するかどうか決めるというのは、当然のことだと思うが、放射能に関する限りこの自主的な判断が非常に難しいと考えている。まずどのレベルの線量値が安全なのかはほとんど誰にも決められないからである。国際的な防護機関であるICRA(国際放射線防護委員会)などが認める閾値(しきいち)なしの直線モデルによれば、どれほど低い線量であってもなんらかの健康被害は起きることになる。と言うことは、とにかくできるだけ放射線を避けるのがいいということになる。その考えを極端に追求すると、福島はもちろん東京にも住むのは危険だと言う事になり、沖縄あたりに避難したほうが無難であるということになる。つまり、福島に住んで、再生させるなんてもってのほかとなる。

反対に放射線による健康被害は気にしていたら、きりがない。タバコなどの他の発がん性物質は我々の生活圏にたくさん存在しているのだから、どこかで折り合いをつけるべきだとなる。とりあえずその目安になるのは、実効線量1mSv/年で、上記の国際的な放射線防護機関や批判的な専門家の間でも我慢できる、あるいは受け入れてもいいだろうとされている値である。ということは、1時間当たりの空間線量値に直せば、0.23μSVとされているが、これは家などの遮蔽係数を0.6とし、内部被ばくをゼロと見なした場合である。そのレベルが年に直すと上記の実効線量1mSvになる。ただ残念ながら、日本でもドイツでもそうだが、この値が具体的に何を意味しているかを理解している人は少ない。

筆者は一昨年チェルノブイリの30キロ圏内立ち入り禁止区域を二日間訪れたことがある。同圏内にあるチェルノブイリ・ホテルにも泊まったので都合30時間ほど滞在した。その時の累積被ばく線量は6μSvであった。その話をドイツ人にすると、まるで筆者が大量被ばくしているように見られる。しかし、6μSvは上記の許容実効線量1mSv=1000 μSv /年の0.6%に過ぎないのだ。それにこの値は、追加線量値であり、通常我々に降り注いでいる自然放射線による線量値は場所によって異なるが、大体1mSv/年から2 mSv/年=1000 μSv /年から2000 μSv /年もあるのだ。この値を意識している人はほとんどいない。

それと、よく理解されていないのが、チェルノブイリの深刻な健康被害は汚染された食物摂取を通じての内部被ばくに拠ることである(注7)。2度訪問したベラルーシで聞いたり、見たりしたが、当時はソ連体制であり、放射能のリスクは多くの国民に知らされていなかった。さらに農村地帯では自分たちの作物を食べるのはもちろん、森に行って、山菜やキノコを食べるのも当然であった。ベラルーシは高い山がなく、なだらかな丘陵地帯が多いので、山菜やキノコの宝庫である。

ベラルーシの家族を訪問すると、早速テーブルに並べられるのが、森で自ら採って来て、ガラスの瓶につめたキノコである。町に住む市民には郊外に広いダーチャ(600平米)があり、そこではジャガイモやたくさんの野菜が作られている。自給自足が当たり前なのだ。そして放射能汚染による健康被害が新聞に初めて載ったのは事故から3年後の1989年であった。

その後ソ連体制が崩壊し、チェルノブイリ法などが制定されて、本格的に放射能汚染に対応し始めるまでに、手遅れといってもいい貴重な5年間が経過していた。放射線、特にセシウムが最も高いのは、事故による放射性物質の放出後から4、5年の間であると言われている。原子力専門家の小出裕章氏も「30年間の被ばく量の半分は事故後5年で受けてしまう。避難するのであれば、最初の5年間が大切なのである(注8)」と初期被ばくの回避の重要性を強調している。

ちなみに、福島再生の会のサイトで2012年から現在までの細かく分割された地点の線量の推移を見ると、大まかに言って、10分の1ぐらいまで下がっている。時間0.23 μSv以下にまで下がっている地点はまだ少ないが、多くが時間0.2から0.5μSvである。現時点における帰還は、小出さんの言うように 初期被ばくの回避という点から考えれば、納得できる。日本で評価されている1991年制定のチェルノブイリ法(注9)(ドイツで知っている人はほとんどいない)によれば、実効線量1 mSv/年から5 mSv/年の間は、在住か避難か自主的に決めることになっている。つまり、時間0.23 μSvから1.15 μSvなので、飯舘村の場合線量値から見れば、 帰還も受け入れられる選択だ。

しかし、お子さんのいる家族は低線量被ばくへの不安が無くならないから、帰還することはないだろう。その上7年も経過すれば、避難先での新しい学校や生活が日常化しているであろう。子どものいない地域、共同体に将来性はない。いずれ廃村になってしまう。しかし待てよだ。田尾さんから聞いた話だが、飯舘村の方が、「一代飛ばし」と言っていたことが印象深かった。

つまり、現在帰還した方々の子どもの世代、被ばくへの恐怖感が強い世代、は戻ってこないだろうが、その孫たちは戻ってくるかもしれない。彼らが戻ってこられるように村を廃村にしないように頑張るというのだ。田尾さんと菅野さんとの話し合いの中で、連帯に基づく新しい共同体、例えば「新しき村」運動のような共同体、が飯舘村に誕生し、若者たちを惹きつけられるようになれば、再生の可能性があるという点では考えが一致した。

福島では政府や東電の対応の不味さ、遅さ、隠蔽行為が確かに重なったが、チェルノブイリ事故後の対応とは比べ物にならない。時代の違いも大きい。放射能に関する知識も違った。マスコミやインターネットの果たした役割も大きいし、日本で市民社会がそれほど発達していないといっても、80年代のソ連体制と同じレベルでは論じられない。日本社会のように一度規則が決まれば、それが守られる社会も食品汚染に関してはプラスに働いたようである。ソ連体制では罰せられない規則は守られないのが通常であったと聞いた。

結論を言うと、チェルノブイリのような規模と深刻さに匹敵する健康被害は、福島では起きないだろうと筆者は考えている。

(注7)ヤブロコフ+ CO『チェルノブイリ被害の全貌』256頁、2013年、岩波書店

(注8)小出裕章:「福島事故による汚染」

(注9)福澤啓臣『チェルノブイリ30年とフクシマ5年は比べられるか』74頁、2016年、桜美林大学

ドイツ中心主義と脱原発

ドイツ人はチェルノブイリ以来放射能恐怖症と言ってもいいくらいに放射能を怖がっている。さらに、原子力問題に関して、脱原発を成し遂げたドイツから見て、日本の状況はひどいし、不可解だという考えを多くのドイツ人が持っている。日本の状況がひどいのは事実であるが、ドイツは成し遂げたのに日本はどうしようもないと批判されると、時々、つまり余りにもドイツ中心主義的な見方をするドイツ人に出会うと、筆者にもどこかに潜んでいた愛国心が頭をもたげてくる。

筆者が福島に関して話し、最近は 魚を食べても問題ないというと、とても疑わしそうに見る。あるいは信じないとはっきり言うドイツ人もいる。そのような時には、Greenpeace Japanの調査結果を教える。同団体は、2011年秋から2013年春まで定期的にスーパーマーケットで売られている食品、主に魚の汚染度を調べ、「シルベク(放射能測定室)(注10)」と言うサイトで公表していた。しかし、汚染度が下がり、ほとんどの検品がNot Detected(不検出)になったせいか、2013年4月30日を最後に検査を止めてしまった。だから、食べても問題ないよとドイツ人に伝える。流石にGreenpeaceの検査には文句は言えないので、半分納得したような顔をする。

そのような時に筆者の悪いくせだが、追い打ちをかける。まずドイツの食品における放射能汚染の限界値を尋ねるのだ。その前に日本はほとんどが100ベクレル/kgであると断っておく。ほとんどのドイツ人は、ドイツは50ベクレルか30ベクレルぐらいだろうと答える。600ベクレルだと教えると、そんなに高いのかと絶句する。さらにバルト海と太平洋ではどちらの海がより放射能に汚染されているかとの質問に、通常は太平洋と答える。だが、頭のいいドイツ人だったら、筆者の顔を疑い深そうに見てから、バルト海と答える。

ドイツのキールにある海洋研究所が2012年に発表した論文で、そのように発表している。内海に近いバルト海はチェルノブイリ事故によるセシウム137の汚染値があまり下がっていないが、大きな海であり、海流の流れも強い太平洋の方が希釈されて、汚染値が低いのだそうだ。

放射能恐怖症と言ってもいいくらいのドイツ人だが、興味深いことに、原子力関係の従業者には日本より高い被ばく量を要求している。実は、筆者が主体的に取り組んでいる岩手県からの被災地高校生招待プログラムで昨年ベルリンの消防署を訪問した際に、驚いたことがあった。案内してくれた普通の消防員が、放射能関係の事故では、例えば 放射性物質の輸送事故が路上であった場合、250 mSv/時まで被ばくしても対応しなければいけないと言ったからだ。日本では100 mSv/時である。

福島第一事故の際にベントをするために格納容器の周りに行った作業員は、放射線量が100 mSv/時を超えそうになると、アラームが鳴り、退却したのだ。米国でも同じように人命救助などの際には原子力作業員には250 mSv/時までの被ばく量が要求されている。そのような高い被ばく量がドイツの普通の消防員まで要求されていて、それを日常的に意識しているドイツの徹底した訓練レベルに感心した。

(注10)「シルベク(放射能測定室)」

ゴーストタウンでショック

翌日我々は飯舘村を離れて、福島第一の近くまで車を走らせた。帰還困難区域に入り、立派な家が建っているのに人が見当たらない無人地区を延々と走った。これらのゴーストタウンにはショックを受けたようだ。福島第一原発の煙突が見える1キロメートル地点ぐらいまで近寄った。メインの車道から横道は全て通行止になっていて、大きな通りの交差点には警備員が二人で見張っていた。

これらを見て、ドイツ側は日本人の規則を守り、また守らせる徹底ぶりにも感銘を受けたと言っていた。もしドイツで同じような規模の大災害が生じたら、これら以上の対応はできないだろうとも。確かにドイツでは東日本大震災のような地震・津波・原発事故の三重の大規模災害は全く起きないだろう。地震は小規模からせいぜい中規模の地震しか起きないし、台風もこない。時々大洪水が起きるぐらいだ。オフレコの発言だったが、東日本大震災当時の日本政府の対応を評価しているようにも受け取れた。数日後に菅直人氏を表敬訪問した際に、そのことを伝えたら、菅さんはそうですか、ドイツから評価されるとはと言っていた。

日本における最大の問題は菅直人さんが首相の時に脱原発を決められなかったことだろう。ドイツ側が強調していたのは、あれだけの大きな被害を与え、日本が滅びるかという瀬戸際まで行きながら、未だ持って脱原発に踏み切れない日本が理解できないことだ。国の責任者はまず脱原発を決めるべきだったとも。菅直人さんはそれを試みたが、まだ十分残っていた原子力村の政治的な攻勢に敗北してしまったのだ。

ワーストケースへの想像力

原子力専門家でもない筆者が言っても意味はないかもしれないが、福島第一事故の規模および深刻さは、あれだけの大規模な被害にもかかわらず、ワーストケースの10分の1程度の事故で済んだと思っている。だから実際の規模から出発して、原子力エネルギー使用の存続を考えてはいけない。

「原子力事故は、それが最悪の場合(ワーストケース)にどんな結果になるかは未知であり、また、評価がもはやできないからです。その結果は、空間的にも時間的にも社会的にも、限界づけることはできません(注11)。」

事故の過程で何度かさらに被害が拡大する瞬間があった。菅直人首相が密かに依頼した近藤駿介氏による「最悪のシナリオ」では、福島第一の原子炉が蒸気爆発して、敷地内の放射線量が数シーベルトにも高くなり、免震棟の作業員も全て引き上げざるを得なった状況で起きる。すると1号炉から4号炉までの数千トンにも至る核燃料がむき出しになり、敷地一帯が汚染される。さらに5号炉、6号路も、さらには福島第二の1号から4号炉まで影響が及び、最終的に10機の原子炉がメルトダウンを起こす。すると、半径250キロ圏内の5千万人もが避難を余儀なくされる。でも、5千万人もの住民を短期間にどこにどのように避難させられるというのだ(注12)

菅直人さんをドイツに招待し会ったときに、この悪夢のような報告をお読みになってどのようにして過ごされたのですかと聞いたことがあった。菅さんには、「妻からあなたの取り柄は鈍感力だと言われています」と交わされたが。

逆の考えもあり得る。東電が冷却水のポンプに使う電気代を惜しまないで、本来の高さの35メートルの高台に原子炉を設置していたら、さらに2006年の国会の質問の後、数百億円を出し惜しみしないで、防潮堤を5メートル以上高くしていたら、設計者あるいは現場の技術者が気づいて、非常用ディーゼル発電機や非常用蓄電池や配電盤を海側でなく、山側に取り付けていたら、東電の作業員が日本の原発の安全神話に惑わされずに、米国では行われている全電源喪失の状態での非常用訓練(東電ではいつも電源が確保された状態でベントなどのスイッチを押して、非常用訓練をしていたそうだが、笑い話にもならない)をしていたらとか、いくつかの「もししていたら」が考えられた。しかし安全神話にどっぷり浸った東電や経産省の保安院の専門家たちは自分たちの義務と責任を果たすことはなく、大事故が起きてしまった。完全な人災であった。

肝心なのは、ワーストケースを想定して、原発をどうするか決めることである。日本の政治家や経済界に想像力を期待するのは無理なのは、わかっているつもりだが、何度でも繰り返したい。
                  2018年4月15日  ベルリンにて

(注11)安全なエネルギー供給に関する倫理委員会:49頁

(注12)菅直人『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』20頁、2012年、幻冬舎

ふくざわ・ひろおみ

1943年生まれ。1967年に渡独し、1974年にベルリン自由大学卒。1976年より同大学の日本学科で教職に就く。主に日本語を教える。教鞭をとる傍、ベルリン国際映画祭を手伝う。さらに国際連詩を日独両国で催す。2003年に同大学にて学位取得。2008年に定年退職。2011年の東日本大震災後、ベルリンでNPO「絆・ベルリン」(http://www.kizuna-in-berlin.de)を立ち上げ、東北で復興支援活動をする。ベルリンのSayonara Nukes Berlin のメンバー。日独両国で反原発と再生エネ普及に取り組んでいる。ベルリン在住。

出版・ドイツ語:

 『Aspekte der Marx-Rezeption in Japan (日本におけるマルクス主義概念受容の検討)』

 『Samurai und Geld (サムライとお金)』

 『Momentaufnahmen moderner japanischer Literatur (現代日本文学のポートレート)』(共著、

日本語:

 『現代日本企業』(共著:東大社研、有斐閣)

 『チェルノブイリ30年と福島5年は比べられるか』 (桜美林大学出版)

特集●“働かせ改革”を撃つ

第15号 記事一覧

ページの
トップへ