寄稿/墓碑銘――ある歴史の記録

さよなら、セルバンテス

幻の爆弾教本『薔薇の詩』のこと

ジャーナリスト 池田 知隆

Ⅿが亡くなった。2022年11月、75歳だった。団塊の世代として1960年代後半の過激な大学闘争、爆弾製造にかかわり、後年は政財界や裏社会の”フィクサー”として生きた。晩年、家族とは絶縁状態で、葬儀はなく、遺灰は琵琶湖にひっそりと撒かれた。死亡の知らせは、30年近くつきあってきた私と、Ⅿの中学時代の友人Kの2人にだけ伝えるように、というのがⅯの遺言だった。彼の数奇な生涯にわたるエピソードの数々を貴重な歴史の記録として残したいとの思いもあり、Ⅿの了解のもとに記録した数十時間に及ぶ録音データが手元にある。その一部をⅯの墓碑銘として書き留めておきたい。

幻の爆弾教本『薔薇の詩』

「あの爆弾教本『薔薇の詩』の作者、セルバンテスは僕のことなんだよ」

Ⅿと親しくなってまもなく、雑談の合間にポロリとそう語った。予期もしない告白に私は腰を抜かさんばかりに驚いたことがある。

『薔薇の詩』は、ネットではこんな解説が流れている。

<『薔薇の詩』(ばらのうた)は爆弾教本。 「中南米ゲリラ戦士セルバンテス」と称する著者によるもので、ダイナマイト、黒色火薬、ピクリン酸の取扱い方法や時限装置の作り方などを図入りで説明し、爆弾の製造方法が解説されている。1968年、新左翼系出版物を扱う書店で販売され、新左翼系革命組織が買い求めた。東京における過激派の爆弾闘争で1971年には38件の爆弾闘争があり、そのうち24件で合計26個の爆弾が実際に爆発し52人が死傷したが、それらの爆弾は『薔薇の詩』を参考に作られたと考えられている。

 (昭和51年 警察白書、第7章 公安の維持 警察庁ホームページ。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

爆弾(武器)教本としては、1950年代の、まだ過激だった共産党が地下出版したといわれる『球根栽培法』や、70年代の東アジア反日武装戦線“狼”による『腹腹時計』が有名だ。だが、爆弾の製造法については、純然たる技術書たる『薔薇の詩』にゆずるとされている。

この『薔薇の詩』は大量にアングラ出版された後、オリジナル版が総会屋系雑誌『構造』71年6月号に全文が転載された。総会屋が広告料の名目で企業からカネを得るために発行していた雑誌だが、常識に外れた大胆な編集をしていた。日本国内で出版される全ての書籍を納本させている国立国会図書館では、『構造』は71年5月号で廃刊されたことになっており、その6月号は『薔薇の詩』を転載したために存在を消されている。

作者の中南米ゲリラ戦士、セルバンテスは、いうまでもなく小説『ドン・キホーテ』の作者名をもじっている。アメリカの裏庭といわれた中南米で革命戦争にかかわっていたエルネスト・チェ・ゲバラと、ベトナム戦争を展開するアメリカとの”無謀な”戦いに挑んでいく姿を、風車に立ち向かう『ドン・キホーテ』になぞらえたのだろう。

しかし、『薔薇の詩』は日本語版の体裁をとっているが、原版のスペイン語版や英語版の存在は確認できない。ここに記された爆弾の製造法は手作業的なもので、小規模ゲリラに適していても、本格的なゲリラ戦争には不適だ。いずれにしろ、中南米ゲリラ戦士の教本とみるのは不自然だとされていた。

60年代後半、ベトナム反戦運動と大学闘争が激化していた。機動隊の抑圧に学生たちは角材を振りかざしても対抗できず、武装闘争がエスカレートし、火炎びんから爆弾まで登場していく。そのとき、爆弾教本『薔薇の詩』を書いた中南米戦士、セルバンテスが僕だ、というのである。執筆当時、20歳前後。「いったい、どうして爆弾教本を?」と聞けば、Ⅿは当時を振り返りながらいう。「まあ、若気の至りだね。あのころ、社会への激しい怒りを持って行く場がなかったからね」

そのころ、ベトナム反戦運動などに深く共感していた私も、爆弾の登場にたじろぎ、身を引いていった。それにしても、どうしてⅯは爆弾製造に深くかかわりながら、罪に問われないまま生きてこられたのか。それが不思議でならなかった。

京大パルチザンの裏方として

Ⅿは京都市の生まれ。60年代半ば、府立高校生のときに、独自の世界資本主義論を構築していた岩田弘(経済学者)に傾倒し、ブント(共産主義者同盟)系の活動に加わった。関西ブントのたまり場となっていた京都・吉田山の「白樺」店主で、学生運動を率いていた高瀬泰司の活動に共鳴。いつしか京大パルチザンのコミュニティの一員となった。

映画「パルチザン前史」のDVD版表紙

京大パルチザンとは、「日本のゲバラ」とも呼ばれた新左翼活動家、滝田修(本名:竹本信弘)の革命理論の影響を受けた京大内のノンセクト・ラジカルのこと。京大経済学部助手だった滝田は、68年から69年の京大紛争を通じて、革命のためには既存党派とは一線を画し、「パルチザン」を組織してゲリラ闘争をしなければならない、と説いた。

その京大パルチザンの日常を描いたドキュメンタリー映画に「パルチザン前史」(69年)がある。後に水俣病を主題にした作品を多数制作し、国内外で高い評価を得た土本典昭監督の作品だ。火炎瓶の作り方も具体的な薬品名をあげて解説し、機動隊による時計台への放水場面などの鮮烈なシーンを映像に収めている。公開当時の土本監督はこう語っていた。

「京大全共闘は、のぼりつめた東大、とくに日大の闘いのあとをうけつぎ、功罪ともに六十年代の歴史であった『新左翼』のあとを受けつがんとした地点から闘いをはじめた。“真に闘うものが、革命期に際し、何を、何故、いかになすべきかを、眼のうろこをとってみつめる時期に来ている"と彼らは云う。それがどんなに苦しい作業であろうとも、実践し行動しようとする映画の中の人々」

革命の理想を追いながら生を完全燃焼しようとしている若者たち。Ⅿはいう。

「あの映画のなかにも、私の声が入っていますよ。70年には日本で革命が起こる。そのために純粋に、死んでもいい、と思っていました。その決意をするまでに2カ月ほどかかりましたけど。どうやったら、美しく生きられるか。そのことばかりを考えていましたね」

数学や物理、化学が得意で、研究心はすこぶる旺盛だった。火薬工学から燃焼工学まで独学で勉強し、爆弾の原料はすべて京都大学の構内で調達した。

「爆薬として使われるアジ化鉛なんかを扱い始めると、周囲の仲間はなにやっているのだろうと集まって来たが、爆弾とわかるや、すぐに散っていきました。車に一緒に乗っていても、ちょっと用事があると、仲間が次々と降りて行きました。でも、そのときの爆弾は当時、世界で最高の品質でしたよ」

Ⅿさんは爆弾製造工場の責任者となった。爆弾教本『薔薇の詩』を書き上げ、製造した爆弾は各党派を超えて供給した。後に、安全処置や細かな注意の記載が少なく、線を引っ張った図と簡略な説明だけでは初心者には不親切、との指摘を受ける。実際に、『薔薇の詩』を参考に爆弾の製造をしたグループが、誤爆により工場にしていたアパートを吹き飛ばし、5人が爆死する事件が起きた(75年9月、横須賀市の緑荘誤爆事件)。爆発したペール缶爆弾は、三菱重工ビル爆破事件(74年8月)の2倍の威力を持ち、『薔薇の詩』の爆薬調合方法をまねるとき、不慣れだったために誤って爆発させたという。

「都市ゲリラ」戦に敗れて

爆弾は、何のためのものなのか。爆弾の使用によってどんな結果が得られるのか。政治的、軍事的な戦略なしには爆弾を安易に扱えない。そのころ、チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』とカルロス・マリゲーラの『都市ゲリラ教程』などの実戦的なゲリラ戦教本が続々と翻訳出版されていた。「ゲリラ部隊はいかに装備すべきか?」「個人的にできる破壊工作は何か?」……具体的なゲリラ戦術を指南し、破壊活動の方法などが詳細に図解されており、Ⅿもまた、爆弾を使ったゲリラ戦略から軍事学へと関心を深めていく。

『序章』第7号目次

「学生運動は、まるで革命運動もどき。要はデモンストレーションをやって組織をつくり、組織をつくりながらデモをやるパターンじゃないですか。でも、国家には圧倒的な力があり、盾にフードのついたヘルメット、防毒マスクなどを作り、こちらは圧倒的に負けてしまう。そこから軍事のことを日本の歴史に立ち返って調べ、世界のことも調べました。これまた、独力でやりました」

当時、京大内で発行していた『序章』という雑誌がある。第1号は、『大学ー叛逆への招待』(京都大学出版会)として69年4月21日に発刊されている。関西ブントの理念を継承し、「革命戦争」派の記事が多く、ここでⅯは「小林ちよじ」のペンネームで「軍事ノート」を書いた。第3、4、7号に3回連載している。

「そのあと、『クーデター東京夢物語』というタイトルで、東京でクーデターを起こすプログラムをつくって公表しようとしたら、これはぜったいだめだ、破防法の適用を受ける、とやめさせられた。原稿も残していては危ないと燃やしちゃいました」

(『序章』は第9号(72年9月30日)以降、発行元は京都大学出版会から序章社に変わり、京大校内から退去させられた。)

69年7月、赤軍派が発足する。武装蜂起と臨時革命政府樹立を唱え、その前段として「大阪戦争」「東京戦争」の遂行を呼びかけた。9月、「大阪戦争」と称したゲリラ闘争、蜂起に失敗。続く「東京戦争」は、大学紛争に乗じて大規模な街頭闘争を展開し、都内の警察署を襲撃し、後楽園競輪場の群衆を巻き込んで武装蜂起をする計画だったが、これも不発に終わった。

さらに「11月闘争」と称して鉄パイプ爆弾・火炎瓶などで武装し、首相官邸および警視庁を襲撃し、人質をとって獄中の活動家等を奪還するという作戦を立てた。そのための武装訓練を大菩薩峠周辺(山梨県)の山中で行うために山小屋『福ちゃん荘』に潜伏していたが、11月5日早朝、警視庁と山梨県警などが突入、その場に居たメンバー53人が凶器準備集合罪で現行犯逮捕された。

「首相官邸襲撃の作戦も練ったとき、300人の中から40人を選び、この作戦で死ねるか、と問い詰めた。8割が死ねると答えたが、さらに追及していくうちに、次々と脱落していきましたね」

当時、Ⅿは別行動で各党派に爆弾をおろして回っていた。三菱重工業社長の末子(四男)で「爆弾屋」の通称を持つアナーキスト、牧田吉明(1947~2010)や、京大パルチザンのTとともに動いていたエピソードも愉快そうに話していた。

「活動するには資金がいる。牧田とTと3人で、銀座の有名な月光荘画材店の横にあったエジプト専門の美術商に僕の自宅にあった美術品を持ち込んだ。それはミイラの内臓を収める容器(「カノポスのつぼ」とよばれるものらしい)です。ちょっと待ってください、といわれ、その後に電話に出てきたのは親父でした。お前、なにをしているのだ、と怒られました。美術商の間のネットワークで、何がどこにあるのか、わかっているのです。その美術商は松下幸之助(パナソニック創業者)の外にできた子どもで、京都からいかれた方でしたよ」

欧州へ逃亡し、軍事学を学ぶ

やがて赤軍派は、革命路線をめぐって内部分裂する。リーダーの一人、重信房子は世界革命に向けた「国際根拠地論」に基づいて71年2月、パレスチナに向かった。京大パルチザンの奥平剛士との婚姻届を提出、「奥平房子」という戸籍を得て出国することができたのだ。奥平は翌年5月、テルアビブ空港乱射事件に加わり、死亡する。

重信の出発を見送ったというⅯは、捜査の網が身近に迫ってきたため同年6月、欧州に逃走する。まずロンドンに向かい、その後、デンマークの首都、コペンハーゲンを拠点に活動する。日航機をハイジャックして北朝鮮に行った「よど号」グループや、パレスチナの日本赤軍との連絡役を担っていたようだ。さらに、ドイツやイタリアの過激派との連携も探っていたのだろうか。欧州でどんなことをしていたのか、Ⅿは口を閉ざし、その詳細はわからない。

刻々と変わっていく国際政治。さまざまな力関係のなかで、いかなる政治的選択をするのがいいのか。なにが「正義」なのか。それらの正解を見つけ出すのは難しい。日々の過ちを繰り返しながら、その時々に最善のものを選んでいく生き方しかないとMはいい、軍事学のほか核の問題も独自に学んだという(核廃棄物の処理状況も調査し、帰国後、むつ小川原の核廃棄物処理計画にも深くかかわった)。

それから7年後の78年、帰国する。Ⅿが欧州にいた間、赤軍派の流れをくむ連合赤軍が12人もの仲間を総括の名の下に殺した山岳ベース事件やあさま山荘事件が起きた。地下に潜ったグループが連続爆弾テロを起こし、数多くの仲間も失っていた。目立った爆弾テロは78年10月の建設会社間組の第2ハザマビル工事現場爆破以降、終息を迎えていた。

帰国理由は「父が亡くなったから」と説明していたが、どうして帰国が可能だったのか、よくわからない。無名を貫き、赤軍を含め過激派の各文献やドキュメントなどにⅯの名は一切出てこない。爆弾製造者としての国際手配の網から漏れていたのだろうか。それとも、世界の軍事情勢を深く研究している人物として権力側から一目置かれ、なにか取引らしいことがあったのかもしれない。爆弾製造などの経歴は不問とされた。

その後の80年代、Ⅿがどのように生きていたのか、私は知らない。いつしか極左の活動家とは正反対の行路を歩み、自衛隊との深い人脈を築いていた。

『世界軍事略語辞典』

「陸上自衛隊今津駐屯地(滋賀県高島市)の饗庭野演習場で戦車大隊の実践訓練を見る機会がありました。そこで作戦参謀の3佐と仲良くなり、伊丹駐屯地の中部方面総監部でもいろんな作戦内容を教えてもらいました。それから1年間ぐらい猛烈に勉強しましたね」

91年3月、自衛隊教育において重要な参考書ともいえる「世界軍事略語辞典」(国書刊行会)を出している。この本の帯には

<軍事略語は、ほとんど米軍を中心とした略語である。各国軍事関係者から経済・外交・報道等の専門家でも困る英文略語のフルスぺルに邦訳語を付す。独語・仏語・露語の重要略語も収録。>

とある。収録語数は8500語で、歴史的意義のある旧日本軍略語も収録。陸・海・空・海兵隊別の分類表示しているのも特色だ。防衛大学校陸上防衛学教室教授や陸上自衛隊少年工科学校第一教育部長(一等陸佐)が監修している。

Ⅿは各地の自衛隊駐屯地で講義を行っている。

「でも、いくら軍事学を熱心に講義しても、隊員たちにはいまひとつ切実感に欠けるのか、あまり理解してもらったようには思えませんでしたね」

欧州で知った冷戦下の深刻な軍事状況と、日本の自衛隊の現実にⅯは大きな落差を感じていたという。

私がⅯと出会ったのは93年12月、京都ドイツ文化センター(現・ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川)で開かれたシンポジウム「1968年における学生運動の政治的な影響」の会場でのこと。傍聴者として発言したMに関心をもち、声をかけたのが始まりだった。そのころ、Ⅿは日本の政財界との深い人脈をもち、京都の不動産業者という表の顔とは別に裏社会での足がかりを築いていた。バブル景気の波にのり、地上げに暗躍して大金持ちになっていた。大手銀行の負債処理、裏社会における交渉、米国の巨大穀物会社の日本側代理人……などを手がけていくが、ここではその詳細を省く。

無名の戦士として

Ⅿは、「猛烈」ともいえる読書家だった。哲学、数学から経済、金融工学にわたるまで詳しく、美術、音楽への造詣も深かった。膨大な蔵書と高名な絵画や美術品に囲まれ、多くの詩を書いていた。右から左まで不思議な人脈をもち、会えばいつも、数時間にわたって雑談し、話題が尽きなかった。

爆弾製造、軍事学、金融処理、国際的な交渉力……。Ⅿの明晰な頭脳、旺盛な探究心。その博識ぶり、教養の深さにいつも教えられることが多かった。その才能をもっと社会に生かせないものか、と思うこともあったが、Ⅿは自嘲気味にこう語っていた。

「右であれ、左であれ、爆弾製造にしろ、軍事問題や金融処理しろ、僕は頼まれたらなんでも、一生懸命にその期待に応えようとしてきただけですよ」

かつて革命的ロマン主義に魅かれ、爆弾製造に身を投じたⅯ。いつも「美しく生きたい」と語っていたが、絶対的な価値観が失墜したあとも、美的な「生き方」を必死に探し続けていた。彼の前と後ろに数多くの無名ゲリラ戦士の死が横たわっていたことも忘れてはいなかった。

舞踏家、麿赤兒が率いる暗黒舞踏集団「大駱駝艦」の公演をⅯといっしょに観たことがある。公演後の打ち上げの席ににこやかに加わったⅯは、数十人に及ぶ懇親会の費用を全額負担していた。19年5月、「白樺」の高瀬泰司の33回忌のイベントが京大西部講堂で開かれたとき、友情出演した麿赤兒はソロ舞踏を演じていたが、「白樺」時代からの人脈は続いていた。京大パルチザンの滝田の裁判費用や過激派仲間の生活費も応援し、ブント仲間が選挙にでると、その活動資金も支援していた。

01年にⅯの紹介で、赤軍派リーダーだった佐野茂樹(20年1月死去)と京都・蹴上の都ホテルで会食したことがある。重信房子をブントにオルグした佐野は、60年安保で亡くなった東大生、樺美智子と神戸高校の同級生で、樺の恋人だったともいわれる。そのころ、佐野はネパールの植林活動を支援していたが、佐野とⅯが懐かしそうに60年代の思い出を語る姿を見ているうちに、やはりⅯがセルバンテスであることを確信した。

『薔薇の詩』などの地下出版物で爆弾を製造していた時代は遠くに過ぎ去った。いまやインターネットの普及で、爆弾製造の詳細な情報が手軽に入手できる。ヘルメットとゲバ棒で騒いだ「昭和」とは隔世の感がする。過激な政治活動もすっかり鳴りを潜め、「ローンウルフ」(一匹オオカミ)による事件が目立つようになった。若い世代が実にさまざま目的で爆弾を製造している。

例えば、群馬県高崎市の高校2年生の男子生徒が東京都の新交通システム「ゆりかもめ」の駅構内に仕掛けた時限式爆弾を爆発させている(99年7月)。04年10月には、埼玉県所沢市の男子生徒(15)が、自宅で花火の火薬を詰めた鉄パイプ爆弾4個を製造。05年6月にも、山口県光市で県立高校3年の教室に火薬入りの瓶を投げ込んで爆発させ、58人にけがさせた。09年2月、クラスメートを殺害する目的で爆弾を作ろうとしたとして、札幌市の高校1年生の男子生徒が殺人予備の疑いで逮捕された。爆弾は未完成だったが、完成していれば家1軒を吹き飛ばすほどの威力があった。

そして22年7月、安倍晋三元首相が選挙活動中、山上徹也被告(当時41)による手製の銃で殺害された。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)によって家族そして人生を破壊されたことによる「恨み」による行動だと見られる。今年4月には岸田文雄首相が鉄パイプ爆弾で襲撃された。木村隆二容疑者(24)が製造した爆弾の材料もホームセンターなどで簡単に手に入り、自作はそれほど難しくないという。閉塞感にみちた社会の片隅で、生きづらさを抱えた多くの若者が、やり場のない怒りを抱え、爆弾を作っている。

奥琵琶湖のほとりで

今年6月下旬、Ⅿの遺灰が撒かれた奥琵琶湖の海津大崎を中学時代の友人、Kさんと訪ねた。琵琶湖の北端に位置する海津大崎は遅咲きの桜の名所と知られている。Ⅿは生前、湖岸に添って咲き誇る桜が好きだ、といっていたが、陸上自衛隊今津駐屯地に近く、自衛隊演習を観たときに立ち寄ったのだろうか。

Ⅿは晩年、普通の暮らしを望んでいた妻子とは疎遠になっていた。心臓病のほか糖尿病が進行し、足を切断。3年前からは人工透析を続け、スマホのメッセージメールで私によく近況を語っていたが、敗血症で急逝した。

奥琵琶湖の湖岸にて

梅雨に入っていたその日、桜通りにはほとんど人影はなく、ひっそりとしていた。朝、雨が上がり、遺灰を撒いた湖岸の近くに百合の花と遺影を添え、線香をあげた。すると、どこからか一羽のモンシロチョウがひらひらと近寄ってきた。百合の花の香りに誘われたのかもしれないが、モンシロチョウはあの世のⅯの化身のように思えた。

「よくここまで来てくれましたね。いろいろ語ったけど、もう忘れてくれてもいいよ」

モンシロチョウがやさしく、そう語っているように聴こえた。

私たち団塊の世代も大半が後期高齢者になった。「世界を変える」と熱く叫んでいた「政治の季節」ははるか遠い過去のこと。いまから思えば、あのときみんな、大いなる勘違いをしていたのだろうか。いや、少なくとも時代と社会と正面からひたむきに対峙していたのは確かだ。さまざまな出来事に直面して、自己を貫徹する価値観を見失い、そのあとをどう生きるのか、迷い続けてきた人は少なくない。

Ⅿの人生行路を辿ると、揺れ幅が大きく、いかにも「場当たり」的に見える。だが、首尾一貫した人生などは誰にもできるものではない。矛盾にこそ人間の本質があり、過去の夢にとらわれ、葛藤に苦しみ、迷走しながら現実に向き合って生きるしかない。Ⅿのことを思うたびに、お前はこの50年、おのれの倫理に従って生きてきたのか、という自問につきまとわれる。

Ⅿはあの世に旅立った。自我を離れ、ものの執着を離れ、自己の欲望も消え去り、いまや「無」の世界に安住しているのかもしれない。「一切皆空」。森閑とした湖畔を渡るそよ風がそうささやいている気がした。

さよなら、Ⅿ。さよなら、セルバンテス。

いけだ・ともたか

大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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