追悼
生協運動の可能性を広げ続けた人
横田克己氏の訃報に接して
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
先月末、生活クラブ生協神奈川から名誉顧問を務める横田克己さん(84歳)が亡くなられたという知らせが届いた。数年前から体調を崩して、体力の衰えを嘆いていた横田さんではあったが、私も理事長を務めさせていただいた参加型システム研究所の理事会や研究会にはほとんど欠かさず出席され、その度に酒席を共にしていた。そんなこともあって、コロナパンデミック下で、直接お会いすることがなくなっても、なんとなくお元気で過ごされていると思い込んでいたのかもしれなかった。突然の訃報に、改めてコロナパンデミック三年の時間経過の重さを感じさせられた。
横田さんと最初にお会いしたのは、私が安東仁兵衛さんの主宰する現代の理論社で編集の実務を担当していたころで、四十余年も前のことであった。当時、生活クラブ生協は、地域の班を中心として活発に活動を展開し、新しいタイプの市民活動として注目されるようになっていた。その生協の中心人物というので、身構えていたところが、温和で、紳士的な話しぶりにホッとした覚えがある。横田さんは、その頃から、市民の自立の必要性、特に女性の役割の重要性を強く意識され、政党や労働組合中心の革新派の運動論の不十分性を指摘されていたと記憶している。
その後、時たまの交流はあったが、親しく意見を交わすこともなかったが、私が神奈川大学を退職し、今は故人となった後藤仁さんに誘われて、参加型システム研究所の理事に加えてもらってからは、前述のように会議のたびに酒席も含めてかなり長時間意見を交わすようになった。それと同時に、横田さんが創設以来かかわってきた生活クラブ生協は、生産者と消費者を直結する新しい流通形態を実現しただけではなく、ワーカーズコレクティブや福祉生協など、市民生活全体を市民による市民のために組織化するとでもいうべき分野に進出していたことにも驚かされた。これは、共同購入を基本とした生活協同組合のイメージを一変させるもので、研究所の理事としても、その活動の全体を把握するのに一苦労させられるほどであった。その変化を主導したのは、他ならぬ横田さんであった。
振り返ってみると、横田さんは、アイデアの人でもあった。生協という原点を踏まえての上であったが、普通の市民が、普通に安心して暮らしていけるようにするにはどうすれば良いかを考え続けていたようであった。近年は、しきりに「寄付文化」と「コモンズ」について語っていた。その一部は、生協組合員の拠出金を基礎にした「市民基金」の創設や「子ども食堂」など各種の「居場所作り」として結実している。
横田さんは、私が神奈川大学日本常民文化研究所の所員として地域の歴史を掘り起こしてきたことを知って、コモンズの考え方や寄付文化に発展する要素が、日本の文化・歴史の中に存在しているのではないかとたずねてきたことがある。普段、カタカナ言葉が多かった横田さんであったが、その関心は日本の歴史にも及んでいたことが、思い出される。その時、横田さんを満足させるような話ができたか、心もとない限りではあるが。
突然の訃報に接して、もう一つ心に浮かんだことは、最近、高名な思想家や研究者が生活クラブ生協の活動に注目し高く評価していることをどう思っているか、という疑問である。運動の現場で、一つずつ積み上げてくる活動の中で横田さんに見えていた問題、生活協同組合として確実な地歩を築き上げるために、時間の経過とともに変質させざるをえなかった問題、そういう事を含めて、外側からの評価をどう見ているのか、聞いてみたかった。
常に新しいアイデアを出し続け、前を向き続けてきた横田さんのチャレンジ精神はどう受け継がれていくのか。そういう横田さんの跡を継げる者は、簡単にはいそうもない。「横田の前に横田なし、横田の後に横田なし」と思うと、残念さと悲しみが募るばかりである。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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