論壇

「ストの時代」の痕跡を読む(中)

シリーズ⸺ちんどん屋・みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

靖国法案

前回に続いて、1974年4月の巨大ゼネスト春闘のどさくさに紛れて、4月12日衆院内閣委員会で強行可決された「靖国法案」について触れる。この日の審議は保革入り乱れもみくちゃの中、議事の概略は「徳安委員長『これより会議を開きます。(聴取不能)』 中山委員『靖国……(聴取不能)』 徳安委員長『(聴取不能)散会いたします』」で終了(『靖国戦後史-A級戦犯を合祀した男』毎日新聞「靖国」取材班 毎日新聞社)。

実質審議無しで中山議員の「可決しましたから」の声のみで可決した。これにより「野党の審議拒否必至」(1974年4月13日朝日朝刊)。5月25日に衆院で野党不在の中、自民党単独で可決したが、参院では、河野議長が参院審議正常化のため、「『靖国法案』は、参院に送られてきても審議未了とする」と妥協案を提示した上での「各党 暗黙の了解」によるものだから、「『靖国』結局不成立へ」が前提でのことで(5月25日朝刊)、6月3日の国会閉幕と共に廃案となった。では何故どうせ通らない「靖国法案」を国会に上げたのか。そもそも「靖国法案」とは何か。

明治2年に「東京招魂社」として戊辰戦争の官軍側の死者3588名を「招魂」して以来、「太政官沙汰書」により「招魂社の年間予算として一万石が永久に下付されることになったが、政府の財政逼迫のおりから招魂社はこのうち半額を返上した」(靖国神社遊就館特別展パンフレット「かく戦えり。近代日本」2001年より)。靖国神社と名を改めてからも、「陸軍省・海軍省所管の国家機関」として一貫して日本帝国軍人・軍属の戦没者を合祀してきたが、「敗戦後、GHQが発した『神道指令』によって国家神道の解体と政教分離の導入が図られると、靖国神社は単立の宗教法人として存続する道を選択した(1946年9月)。しかし、日本遺族会が1956年1月、靖国神社の『国家護持』要求、すなわち国家が靖国神社を管理運営する体制にすべきだという要求を決議すると、自民党はそれを受けてただちに『靖国社法草案要綱』なるものを発表した(同年3月)。」(高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書)。これが国家護持法案のはじまりである。

ここにいう「日本遺族会」とは、「『大東亜戦争』戦没者遺族の全国組織」で、「28(1953)年3月、財団法人として認可され」ている。「戦没者遺族にとって大きな打撃となったのは『神道指令』でした。靖国神社が、国との関係を絶たれたのです。また、自治体の慰霊祭、追悼式も禁止され、恩給も停止され、社会的冷遇をうけました。」(日本遺族会HPより)と、遺族への援護と共に靖国神社を拠り所にした国家から戦没者への顕彰を謳い文句に活動してきた。しかも歴代会長は主に自民党国会議員が占め、自民党の支援団体としても大きな力を持っている。

この日本遺族会の後押しで、招魂社創立以来100周年の1969年6月30日、自民党は「靖国神社法案」を国会に上げたが、会期末のため一度も審議せずに廃案。「いったん出してしまった以上、日本遺族会という自民党の最大最強支持組織への手前、簡単には引き下がれない。以来、毎年のように提出と廃案を繰り返すことになった。」(『靖国戦後史』)。

そもそも「靖国法案」には憲法20条の「政教分離」に反するのではないかという根本的問題があり、法案にも、第1条には「英霊に対する国民の尊崇の念を表すため」「儀式行事等を行い」といいながら、第2条には「『靖国神社』という名称を用いたのは」「靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない」、第5条は「靖国神社は、特定の教義をもち、信者の教化育成をする等宗教的活動をしてはならない」(『靖国問題』)と、いったいどういう施設とするのかさっぱり分からない文言が並ぶ。要するに自民党も本気では取り組んでいないことが明らかなので、「いつしか自民党は、靖国法案を審議しない代わりに、他の重要法案を通過させてもらうという野党への『あめ玉』として利用するようになる。」(『靖国戦後史』)その結果が1974年春闘時の強行可決と廃案という茶番劇である。国会閉会後は参院選挙が控えていたため、大票田の遺族会の顔を立てただけというのが真相だ。

しかしこの日本遺族会の考えが戦没者遺族の総意であると解釈してはならない。日本遺族会の活動方針に対して異を唱える団体も複数存在する(「平和遺族会全国連絡会」など)。戦争で亡くなった方に対しては、軍人・軍属だけでなく、一般の戦争被害者への追悼・補償、他国へ攻め入って、または拉致・強制労働させて殺害した人々への追悼・謝罪・補償、歴史的検証など、様々な位相で語られなければならない。ましてや政争の具にするなどとは、英霊・英霊と言いながら誰も死者を思っていないことの現れではないか。祀る施設や制度の論争ばかりの間に、今も膨大な数の死者が、振りかえられず宙に浮いている。

スト権スト

労働者が経営者側に対し待遇その他で不満がある場合、「団結」し、「団体交渉」し、その実力を行使するために「ストライキ(争議)」をする。その欠かせない労働運動の武器(争議権)が公労法によって奪われているのが三公社五現業であり、ストをする度に違法行為をしたことになるので処分される。「スト権スト」とは、その「スト権」を奪回するためにストをすることで、賃金闘争の春闘と違い、政府にいわせれば労組の範疇を超えたいわゆる「政治スト」だ。

1975年11月26日から8日間もの「スト権スト」の間、私は学校に通学しなくて済むのでいつまでもストが続けばいいと天国のような気分だった。一方みどりやは何の問題もなく仕事をこなしている。なかなか「仕事帖」の記述に戻れないが、この「闘争」は日本の労働運動において、悪い方へ舵を切る大転換点になっているので取り上げない訳にはいかない。

「スト権」に関しては1年半以内に解決を図る――という1974年春闘での共闘委と政府間の了解事項に対し、「政府が期限を切ったのは初めてのことであり、公労協はこれを『スト権回復への道を切り開いたもの』と受けとめた」「5月10日、政府は『三公社五現業等のあるべき性格と労働基本権問題について協議する』ことを目的に、官房長官を長とする『公共企業体等関係閣僚協議会』の設置を決定し、続いて8月2日には、実質的な審議をおこなう⦅中略⦆閣僚協専門懇が発足した。」(升田嘉夫『戦後史のなかの国鉄労使』明石書店)。

升田氏によれば、国鉄当局は「主体的に労使関係の正常化を進めるという意図をもって」「明確にスト権回復をめざして動き出す」。ストを巡って、ストー処分―ストの繰り返しのうちに、現場は「険悪で不毛のやりとりが繰り返され、無用の対立、相互の不信と憎悪が増幅された。(中略)国鉄の現場管理者にとってもスト権回復は悲願だった。」そして「国鉄当局は、ついに『条件付きスト権容認論』という大きな賭に打って出た」。10月21日、「衆院予算委員会でも、国鉄総裁は『条件付きスト権付与』が国鉄の真意であることを表明し、電電、専売の各総裁も同様の発言をした」が、以降は先の「閣僚協専門懇」(座長は小野NHK会長)がスト権論議の「正式の場」として、「労働、郵政、運輸各省スト関係者らも完全に締め出」して行われた。

11月20日の朝日朝刊の1面見出しは「専門懇意見書 全容固まる」で、6面全面を使って意見書の全容を掲載(実際の提出は26日)。理由を述べた部分を省いて簡略に要旨をまとめると、スト権の「条件付き一括付与」を「その場しのぎの策」と一蹴、スト権は認めず、スト権より経営形態の変更が先決、アルコールやたばこ専売は民営化もあり、また、国鉄は分割して縮小や一部民営化もありだとし、スト権ストのような労使で決められない権限を求める「政治スト」は到底認められない、何でもストに訴えるな、ストに対し厳罰化する(確実な賃金カットをする、処分の減免をなくし、組合の団結権禁止や解散、組合に対しストの損害賠償請求を容易にする)といった木で鼻を括るような「意見」の数々で、そもそも民営化へ向けた話し合いだったのよと言わんばかりの内容だった。

対する公労協は当然「空論で実現不能」、そもそも専門懇には公労協側の代表は岩井総評顧問1人しかおらず、四面楚歌の状態で既に辞任。「今後は政府を直接の相手に引き出すほかはない、との決意」(20日朝日朝刊)で、予定していた26日からのスト突入は必至の情勢となった。

11月26日、公労協は「来月5日まで史上最大規模の統一ストに入った」。国鉄は全線ストップ、郵便・電電、五現業も拠点波状スト、都市交通は7大都市で半日、31都市で時限スト、全水道が半日、自治労が時限スト。他ボーナス闘争の民間が医労協や全金属などで時限ストなどを行った。首都圏では私鉄や地下鉄などに乗客が殺到、乗換駅が大混雑、道路が渋滞。ストの長期化を見込み、物流への影響が懸念されるため、政府は「生活物資確保本部」を発足させ、「魚・肉緊急放出」や「出荷団体、運送業者と」「計画的な振り替え輸送を行う」など決定。全日本トラック協会は、運輸大臣の命令が出た場合、2200台のトラックを動員して首都圏や近畿圏への生鮮食品の輸送に当たる用意をした。(26日朝日夕刊)

28日、公労協ストは続行。都市交通はこの日再びスト。解決を図らなければならない政府側は「三木首相は自民党機関の意思決定を待ってこれに従う(三木派総会)」他派は「首相の行動に厳しいわくをはめながら、自らはそ知らぬ顔をする」。もともと「スト権問題で柔軟な姿勢を打ち出そうしていた」三木首相だが、「スト回避の気持ちはあっても、うかつに動けないのが実情」。一方、田中派はスト権全面否認の署名活動をはじめた。派閥の争いと共に、自民党内では「スト権問題を治安・労組対策としてとらえる動きも強い。」「公労協をたたくにはスト権問題は絶好の機会」「国労は公労協を事実上支配しているので、きびしく対処すべき」「ストをぶち抜かせれば、国民の労組批判は強まるばかり」と見て、「強硬論ぶち、あとは『静観』のかまえ」でいる。一方野党は「『公労協は社会党』といわれるだけに」「社会党の熱の入れ方は大変なもの」だが、他党とは「歩調バラバラ」。(28日朝日朝刊)

28日、公労協は「ストが中休みするはずだった30日からの3日間もストをすることに戦術強化を決めた」。これにより、ストは12月5日まで続行の予定になり、少なくとも「1日までは続行確実に」。首相は自らへの「一任とりつけ」を図って意見を集めたが、大平派も強硬「田中派見解に同調へ 署名集めにも参加」。社会党には「打開責任」が生じ、呑気ではいられなくなってきた。「みずからの陣営が仕掛けたストが、逆に社会党にのしかかっているという事実」が突き付けられる。総評は民間労組へも「支援闘争 1日から一斉休暇など」を呼びかけた。民放労連は「スト権闘争を支持」声明、国際公務員連盟などが来日して国際的支援を表明など。(ここまで29日朝刊)

公労協に共闘の声がなかったわけではないが、升田嘉夫氏によれば、このストは「公労協の独走に終わった」。升田氏の引用する総評内の共闘組織、全交運(全国交通運輸労働組合協議会、国労、動労も参加)の黒川武元議長は、「国労と動労が公労協の立場でストに入ったときに、全交運としてたとえばトラック、バス、私鉄とか他の鉄道が一体、どういうようにサポートしていくかという議論はほとんどおこなわれていなかった」と述べる。

29日朝日夕刊には郵政のストで「郵便滞貨が急増」と、運輸省が「トラック業界に野菜と果物の緊急輸送命令を出した」が、既に「東京都内への生鮮食品の入荷はトラック輸送などを主に比較的順調」で「全般的に安価」と生活への影響の有無を報じている。

12月1日の朝刊では、「混乱のない通勤・通学の足」と題し、既に私鉄・地下鉄、マイカー、バスなどの足に比べ、京阪神は13.5%、首都圏でも24.2%と「国鉄の比重が低下」。また貨物では、生鮮食品産地によっては100%近い国鉄依存度の地域もあり、積み残しや卸値下落で「深刻な打撃」を受けるが(1日朝刊)、「そもそも国鉄貨物が物資の輸送を一手に握っていた時代は終わっていた。1965年に30.3%あった国鉄の貨物輸送シェアが75年には12.9%にまで落ち込んでいる。輸送手段の主流は自動車に替わっていた。」(森功『国商―最後のフィクサー葛西敬之』講談社)共闘の体制を取らず、自らの力を頼みにした闘争はむしろ影響力の低下を露呈した結果になった。ちなみに森功氏によれば、「全日本トラック協会に頼んで生活物資を輸送させた」のは、「自民党幹事長の中曽根康弘」だった。

「三木内閣支持、28%に」(12月1日朝刊)の逆風の中、12月1日、自民党の見解を丸のみにした首相声明が発表された。要約すれば、専門懇の意見書を尊重し、公労法の改正を検討し、審議会を設置して早期に結論(1日夕刊)。「違法ストを中止」、「(ストの)処分はされなければならない」という首相の「タカ派的発言」に、公労協は「『時代逆行』と反発」(2日朝刊)も、公労協共闘委は3日スト中止命令指令、12月4日から9日ぶりに国鉄は運転再開した。公労協としてはストの中止はあくまで自主判断であり、政府の方針は容認できないとしたが、完全なる敗北だった。

労組に対し強硬派であった田中首相が金権問題で退陣した後、「三木首相は労働組合側からは、なんらかの形でのスト権付与論者とみなされており、組合側はスト権問題を政治的に決着する機が熟したと勢いづい」(升田)たが、田中派の暗躍、特に升田氏の引用する中曽根幹事長の回想録によれば、「三木、長谷川(労働大臣)が妥協案でなんとか切り抜けようとしたのを、私と椎名(自民党副総裁)さんとで蹴とばして出させなかった。それで、12月4日ママにゼネストは中止された。全面敗北させたわけですよ」(「天地有情」)。

いずれにしろ、この敗北によって社会党、それを支える総評、その屋台骨の公労協、その最大組織の国労、というラインが突き崩され、労働運動の衰退を促す流れを作ったことはこの後を追えば明らかになる。2日夕、中曽根は国鉄総裁を呼び、処分の厳正化を求め、また「ストによる営業収入減について損害賠償を組合側に求めることを検討するよう求めた」(3日朝刊)。専門懇の意見書にも盛り込まれていた事項だが、実際、早くも民間から「各地で損害賠償求める動き スト権スト“迷惑料”払え 請求先労使双方、当局、組合 すでに訴訟は4件 」(12日朝刊)が起きている。翌1976年1月31日に、国鉄は「解雇15人を含む5405人に戒告以上の処分を通告し、同時に、このストによって当局が被った損害として202億4827万8千円の支払いを国労、動労両組合に求めた」(1976年1月31日夕刊)。

1976~79年

みどりやの「仕事帖」には、1976年から79年まで続けて、「スト」の記述がある。すべて春闘だ。76年4月14日は「国鉄私鉄スト休み」で、等々力の「八百時」という八百屋の仕事を休んでいるが、他の現場には行っているので、休んだのは八百時の事情でもあろうか。金属四業種大手の回答が14日なことから、これをにらみ、私鉄総連が半日スト、公労協が私鉄に呼応して国鉄ローカル線半日ストなど、これに加えて動労が独自に、ロッキード事件で遅れていた予算案の自民党・民社党による国会強行採決に抗議して、首都圏国鉄で始発から午前8時までスト、動労千葉地本は船橋事件(前号「順法闘争」の項で述べた船橋駅での列車追突事故)に対する運転士への有罪判決⦅76年4月1日⦆に抗議し千葉管内での半日ストを行う予定だった。スト権ストを敗北させた政府は公労協に対し「違法ストを背景にした要求は認められない」と強気だった。

また私鉄に関しては、昨年「平均運賃24.6%値上げ」を認め(75年12月3日朝刊)年末値上げしたが、いらい運輸省の運賃査定方式が変わり、「各社の経営内容を公開し、経営内容の悪い私鉄には、合理化が進まない場合は次回の運賃改定に条件をつけるようになった」(4月14日朝日朝刊)。合理化とは人件費の節約を多く含む。つまり経営指数のいい小田急や名鉄と下位の東武や京成は同じような賃金体系を求めるべきでないと暗に言っているようなもので、この記事の見出しは「曲がり角の私鉄統一交渉」。私鉄総連の分断の布石だ。また、電電公社は14日、スト権ストで「組合員の95%処分」発令(14日朝刊)。停職処分は360人、解雇はなく、訓告など軽い処分の者がほとんどだが「処分の規模としてはかつてないもの」。スト権ストの影響がじわりときいてきている。

14日のストは予定通り行われたが、何故か動労は8時までのストを緩め、早めに復旧、動労千葉地本も半日ストを回避したため、大した混乱は見られなかった。20日から予定されていた72時間交通ゼネストは48時間で決着したが、要求通りの数字は得られず、「低成長時代が続くとすれば、過去のような高率賃上げは望めない」(22日朝刊)。

1977年4月20日、みどりや「仕事帖」に「スト」と一言。仕事は休んでいない。この年の春闘の特徴は、私鉄総連が、賃金回答を得た大手各社はスト回避、得られなかった京成と中小各社がスト突入と割れたことだ。「表情深刻な組合員」「『申し訳ない。しかし、クビがかかっているし……』と京成の組合員」(4月20日朝日夕刊)と、昨年より運輸省から合理化を迫られている京成や中小が私鉄の結束から切り崩されて、厳しい闘いを迫られている。

同日スト決行の公労協も、例年私鉄の賃上げ回答を受けて交渉する段取りだったのが、私鉄がさっさと自主解決してしまい、結果、賃上げ率9.18%か9.12%かを公労委とぐずぐず争ってスト突入。「今後とも春闘で私鉄と統一闘争が組めないことになれば、公労協のストの威力は半減する」(21日朝刊 稲永金仁記者)。街角で聞いた市民の意見は「当社も春闘中ですが、百円玉の数にメンツをかけるなんて甘えの構造もいいところですね」「うちは平均以下の零細企業。ストやったらつぶれちゃうもんね。親方日の丸がうらやましい」(21日朝刊)と手厳しく、つぶれない公共体と零細民間が反目する傾向が強まっていることをうかがわせる。

1978年4月25日、「仕事帖」には「スト私鉄国鉄」の文字。仕事は浦賀まで出かけている。この年の春闘では、大手私鉄の賃金交渉に政府が賃金を抑え込むよう経営側に圧力をかけたため、交渉がこじれ、スト回避が出来なかった。「経営側の意向打診に対し、首相周辺は5%を割り込む7800円を示した、といわれる。」(4月27日朝日朝刊)。結果、最終回答は5.5%、8800円で私鉄のストは1日で中止されたが、公労協ストは2日目まで続いた。

さらなる大きな出来事は、全逓がストを中止、公労協の結束が崩れたことだ。前年の1977年5月4日に「全逓名古屋中郵事件」(1958年名古屋中央郵便局において2時間ストを教唆したなどとして組合員が起訴された事件)の「最高裁判決で郵政労働者のストに刑事罰の適用が認められた」(27日朝刊)ため、「ストに対する刑事罰の適用を回避するためにとった緊急措置」だが、「公労協統一ストがこのような事態でスト突入直前にくずれたのは春闘史上でもきわめて異例で、他の公労協各組合に与える影響は少なくない」(25日朝刊)。

「労働側完敗の政治春闘」と題して、藤井昭三記者は「民間大手についていえば、企業業績に応じた分散回答になったのが今年の特色だ。好収益を誇る自動車、関西家電の8%前後を頂点に、不況に苦しむ鉄鋼、造船の4%まで、基幹部門の金属産業がバラバラになった。」「総体としては、実質生活水準の維持を労働側は果たせなかった。」この当時円高不況で「危機意識に支えられた政財界の高姿勢に対し、労働側の対応はバラバラに終始」、労組内部の政治対立に民間大手対官公労の幹部対立、民間の金属労協内では鉄対車と「守勢に立たされた企業内組合の弱点が、一挙にさらけ出された印象」「わが国の労働運動は、選挙母体として政治に傾斜した半面で、賃上げを主軸にする春闘方式をあみ出した。しかし、その双方が完全に行き詰まった」「基幹産業で賃金水準が世界最高クラスに近づ」き、「高率賃上げは」「経済的にも期待薄」「とすれば、労働界が目を向けねばならぬのは賃金格差である」と、パートや未組織の女性労働者の例を挙げ、減税や年金などの「制度闘争に本気で取り組む必要」雇用保障などの「企業内問題についても、企業のワクを超え本腰を入れた統一闘争を行わねばならぬ時期」「高福祉時代実現をめざす労働界に春闘方式に代わる新しい共闘が不可避」(27日朝刊)と様々な指摘と指針を提示している。

狂乱物価でも74年春闘で大幅賃上げが実現出来たのは、まだまだ経済成長が見込めたからだ。不況になれば、企業は賃上げを渋り、企業別労組は自らの賃上げや雇用だけを守り、共闘出来なくなる。藤井記者の提案は、賃金格差解消や高福祉社会実現のために、政党に頼らず、頭打ちの賃上げ闘争だけでない企業のワクを超えたまとまり方を考えろという、労働者がバラバラにされきった今日こそ必要な共闘への移行を示唆している。

1979年4月25日、「仕事帖」には「交通スト」と一言。休まず玉川学園など4か所へ仕事に出かけている。

この年、今度は公労協の中で全電通がストを離脱した。「全電通は昨春、『闘争の軸足を公労協統一闘争から産業別統一闘争に移す』とブチ上げ、“公労協離れ”を鮮明にした。」「低成長下、産業間業績格差が広がる中」「個別調停実現」「賃金決定基準を」「同種の情報通信産業に」と要求、電電当局がこれに応じた。基準内賃金は国労より全電通の方が安く、「赤字国鉄も黒字電電も」「一括調停方式に不満が出てくる」「全電通が『公社との自主交渉』を主張するのも、労働界では右寄りとされる労使協調路線を取っているからだ」(4月25日朝日朝刊)。労使協調は企業に抱き込まれた御用組合の特徴だ。自己保身に走ってとうとう公労協の統一闘争から抜けてしまった。

一方、私鉄では京成が経営困難に陥り、希望退職を含む330人の削減と不動産売却を取引銀行に提案。一昨年、青い顔でストをしていた職員の首に本当に縄がかかってしまった。昨年ストを中止した全逓は出勤時から30分未満の時限スト。私鉄の交渉妥結より先に珍しく公労協(全電通除く)へ回答が出、国労、動労は昼過ぎにスト中止。私鉄も交渉再開して午後4時スト中止。前年より上回った回答(公労協9641円、私鉄9700円)だった(25日夕刊、26日朝刊)が、そういえば「総評」の文字が記事にほとんど現れない。

日航や国際電電など、みな企業毎、バラバラに交渉やストをしている。動労からは千葉地本が「千葉動労」として分離独立し(組合員1400人)、48時間ストを「当局に新組合の『認知』を求めて26日から」独自に予定したが、千葉鉄道管理局との交渉の結果スト回避。今まで国鉄労組の分裂問題には触れてこなかったが、この後の国鉄の分割・民営化には労組の対立が大きく関わっている。

(以下、次号)

 

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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