特集 ● 黄昏れる日本へ一石

考えてみよう、経済が節約から始まった意味

経済が回っても、人間が衰弱したのでは何にもならない――三つの ”E” から考えるコロナパンデミックの教訓・その3

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

「経済を回す」という御呪い言葉の役割

三つの”E”という言葉の中で、エコノミー(economy)という言葉は、他の二つの”E”とは、コロナパンデミックとの関係において、少しばかり位相が異なる。エビデンスもエッセンシャルも、感染症そのものにどう対応すべきか、という問題に直接かかわってくるのに対して、エコノミーは感染症そのものよりも、感染症がもたらす社会への影響にかかわっているという違いである。

この違いは、この言葉が、パンデミック対策として欧米諸国や中国でとられたロックダウン・都市封鎖に対する反対・批判の文脈で語られることが多かったという事実に現れている。パンデミック対策としてのロックダウンの有効性はともかく、それが、人々の移動を制限し、社会的存在としての人間の自由な交流を妨げるものであったことはいうまでもない。だから、それは自由を尊重する人々から激しい反発を呼び起こした。その反発は、政治的立場の相違を超えて、広がる様相さえ見せた。

それにとどまらず、ロックダウンは経済活動の大幅な停止を意味し、その長期化は経済成長に重大な影響を及ぼすおそれがあった。そして、経済活動の停止は、日々の稼ぎに収入を依存している、臨時雇用労働者、各種個人事業主、小規模自営業者など所得の低い階層に深刻な生活上の危機をもたらしかねなかった。実際、格差社会の非情な論理が、日常生活上の剥き出しの現実として、つまり、感染症のみならず、ロックダウンすらも生命の危機をもたらす現実として突き付けられたのであった。

日本では、欧米諸国や中国のような厳しい強制を伴うロックダウンは実施されなかった。三密回避やソーシャルディスタンスの確保、マスク着用、手洗い・うがいの励行など、推奨・勧告による個人の自主的な行動抑制、さらに支援金の支給とセットにした在宅勤務・時差出勤の奨励、サービス・エンタメ興業などの営業自粛要請など、基本的には法的・権力的強制を伴う規制は実施されなかった。したがって、欧米諸国のような過激な規制反対デモは起こることはなかった。

もちろん、それほど強くはない規制ではあっても、批判・反対の声が無かったわけではない。マスク強制反対とか、同調圧力批判とか、コロナの感染症はインフルエンザと変わらないのに過剰反応ではないかとか、エビデンスのない、根拠薄弱な、論理的一貫性を欠いた、中には陰謀論まがいなものまで、いろいろな批判や抗議が現れた。しかし、それらの批判や抗議は、SNS上の意見表明にとどまるか、散発的かつ個人的な嫌がらせレベルの抗議行動がせいぜいというところであった。

そのような日本で、規制に対する反対あるいは抵抗の論拠としてよく使われた言葉が、「経済を回せ」という言葉であった。検査・隔離・治療体制の整備が要求されても、それが整わない段階での行動規制の強化の要請に対しても、「経済が回らなくなると大変なことになる」、「自殺者が増加することが心配だ」として、極力強い規制を忌避しようとする意見が、新聞・テレビ・週刊誌などで発表された。政府が設置した感染症対策の専門家会議へも、経済の専門家を参加させるべきだという声が高まり、かなり早い時期から経済学者も加えた会議がおこなわれるようになった。その経済の専門家も「経済を回す」という言葉を繰り返していた。

ようするに、日本では、「経済を回す」という言葉が、感染症対策のための体制整備を遅らせたのではないか。すなわち迅速にエビデンスを収集・整理・分析し、情報を広く開示すると同時に、対策決定過程を公開すること、感染防止のために防疫・医療活動に必要な人員・設備を確保すること、マスク・防護服・解熱剤・人工呼吸器などの医療器具類から、リモート授業・勤務用のIT関連装備の調達に至るまで緊急事態に必要な対応を遅らせる、あるいはそういう対応策の優先順位を下げるための御呪い言葉として機能したのではないか。少なくとも、そういう問題を検討することが求められていることはまちがいない。

経済を「回す」とは、どういうことか

ところで、「経済を回す」という言葉は、いつごろから使われるようになったのだろうか。経済学者でもないし、経済に特に関心を持ってきたわけでもないので、昔から言われてきたと聞かされると、そうですかと引き下がるしかないが、私には、どこか違和感が残る言い回しである。特に、コロナパンデミックの最中に、テレビニュースで、レポーターのインタビューに答えて、これから酒が飲めるところを探そうという若者が、「経済を回さないと困る人が増える」などと言っているのを聞くと、「経済を回すっていうのは、酒を飲みにゆくってことかい」などと揶揄してみたくなる。

しかし、「経済を回す」という言い方は、経済という人や金や物の複雑かつ巨大な動きであり、一人の人間にとってはどうすることもできない得体の知れない事象であるものを、日常卑近の出来事として一挙に感得させてしまうような効果がある。そのために、そういう言い方が誰でもが使える言葉として広がったのであろう。考えてみると、「経済」と「回る」という言葉には、親和性があるから、それほど違和感をもたれることもなく受け入れられたと言っていいかもしれない。

好況・不況の景気循環とか、物価上昇と賃金上昇の好循環とか、経済は循環するものであるぐらいのことは中学校の教科書にも出てくるし、経済的にうまくいっている状態を「金回りがよい」と表現することもある。だからというわけではないが、経済は回すことによってよくなる、あるいはよくなるはずだ、という感覚が生じるのであろう。実際、タンスにしまい込まれた金は、絶対に増えることはない。どこかに投資して、動かさないことにはふえることはない。動かし、回す速度が上がれば上がるほど増える可能性は増大する。

かつて、所得倍増を掲げて「高度経済成長」を実現した政権があったが、今の政権は、資産倍増の掛け声で投資を促し高度経済成長の再現を目指すという。その政権にとって、「経済を回す」という発想が浸透することは、願ったりかなったりであろう。

それはまだ先の話になるのでともかくとして、コロナパンデミックの下で、経済を回すためとしてどんなことが実行されたかを具体的に見ておこう。

個人の生活や企業の経営の維持のための給付金や補助金・資金貸付などは別として、「経済を回す」ためとして政府が実施したのは、旅行や飲食への出費を誘導するためのクーポン券や割引券の発行であった。ゴーツートラベルとかゴーツーイートとか、政府も自治体も競って各種のサービスを提供した。立案者は、コロナのせいで閉じこもりがちであった人々を外に引っ張り出し、消費を促し、経済を回すための妙案と考えたに違いない。

一律給付金の効果については、政府内ですら、消費に回るより貯蓄に回される方が多いと、その経済効果については疑問視する声があった。また、出入国の制限によって極度に落ち込んだインバウンド需要を補い、中小零細事業者、不安定雇用労働者の救済のためにも、旅行・飲食の需要を喚起する必要があった。こういう事情を考えると、こういうやり方にも一定の意義と効果があったことは認めてもよさそうではあった。

しかし、実施に移した時期がよくなかった。世界的にはコロナウイルスの新しい変異株が次々と現れ、その変異株の国内への感染を防ぐことは不可能であったし、その感染力について十分な情報が無い段階で、多少の感染者数の減少を過大評価し、人流の増大を容認したことによって、感染者数・死者数ともに急激に増加した。そのため、事業は中止、縮小に追い込まれた。また、その効果は、大手の高級ホテル・レストランなどに厚く、中小以下には十分には及ばなかった、といわれている。もともと、インバウンドはともかく、国内の旅行や飲食の需要は、それなりに高い水準にあり、コロナパンデミックが収まりさえすれば、特別の手を打たなくても、急速な回復も予測できたはずである。

結局、「経済を回す」ためと称して政府が実施した政策は、実質的な効果の面ではほとんど評価に値しない程度のものに終わったといわざるをえない。効果があったとすれば、「もうかった」とか「得した」とかいう「お得感」を刺激し、政府や自治体の「やってる感」を演出することだけではなかったか、と言わざるを得ない。

しかし、そういう個々の政策の効果に関する問題よりも、もっと大きな問題は、「経済を回す」という発想が、コロナパンデミックによって課題として浮かび上がってきた経済全般に関わる、より重要な問題を考えることから目を逸らさせてしまったことであろう。この感染症は、その拡大を阻止し、犠牲を最小限にとどめるために必要な処置と、その処置によって停止ないし放棄せざるを得ない活動とを比較し、どちらを選ぶかが問われるような局面を作り出した。さらに、その事態に対応する場合、ゼロサム的・二者択一的に考えるのか、両立の方向を模索するのか、あるいは視点を変えてまったく別の解決策を探るのかなど考えなければならない複雑多岐にわたる問題が発生した。そういう問題に自覚的に取り組まなければならなかったにもかかわらず、「経済を回す」という発想は、あまりに問題を単純化し過ぎてしまった。金の回りを良くして、その回転速度を上げて、もうけを最大化することを目的にしようという発想に極めて近い。

実際、コロナ後を見据えて、最近政府が始めた全国11か所を「モデル観光地」に指定し、施設の整備などを推進しようという事業など、その意図の露骨さにあきれるばかりである。一旅行当たり百万円以上の費用をかける外国人富裕層を呼び込み、消費額増加を狙うという事業は、経済の活性化とか地方の創成などという名目をかぶせても、金が欲しいという本音が丸見えで、品が無いことおびただしい。コロナパンデミック下のゴーツートラベルの発想が、インバウンドの回復過程ではこんな形で現れているとしたら、それはあまりにも貧困な発想というものだろう。

「経済」の原義

「回す」ことによって維持される「経済」は、金の回りをよくし、利益を上げることに直結しているように思われるが、「経済」というのは元々そんな狭い意味の言葉だったのであろうか。とりあえず手元にある国語辞典(『大辞林』三省堂)によると、最初に[「経世済民」から]とあって熟語の由来を示し、意味として「①[economy]物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体。②世を治め、民の生活を安定させること。③金銭の出入りに関すること。やりくり。④費用や手間が少なくて済むこと。節約。」と四つの意味があげられている。

ここから分かることは、まず日本語の「経済」という言葉は、中国語(漢語)の経世済民という言葉と英語のエコノミーという言葉という二つの由来を持つということである。歴史的に言えば、近世に「経済」という二字熟語が成立し、儒学者の間で使われるようになった。例えば、近世中期の儒学者太宰春台には「経済録」という著作がある。春台は荻生徂徠の弟子で当時有名な儒学者であったから、この著作もかなり広く知られていたとおもわれる。その後幕末維新期に西洋学術が移入され、西洋の学術用語の翻訳が試みられるようになり、英語のエコノミーの語に「経済」という漢語があてられた。その訳語は西洋思想の紹介に力を尽した西周によって選ばれたという(ちなみに、福沢諭吉は「理財」の語をあてた)。

この「経世済民」とは、「経国済民」ともいわれ、社会・国家の筋道を正し、道理を確立し、民の生活を整え、救うことを意味する。その具体的内容として、為政者の奢侈を戒め、無駄を省き、節度ある秩序を確立すること、すなわち節約という行為も含まれることになる。

他方、エコノミーは、これもありあわせの英和辞典(『新グローバル英和辞典』三省堂)によると「節約、倹約、経済性、(時間、労力、言葉などの)効率の良い使用」などの語が並べられ、最後の方で「(世帯、企業、国家などの)経済、理財という語が出てくる。また、これは経済学の教科書には出てくることであるが、エコノミーという語は、ギリシャ語のオイコスあるいはオイコノミアに由来し、オイコスとは家という集団・経営体を指し、オイコノミアはその経営体たる家の秩序・規律を保つ行為(物資の効率の良い使用、すなわち節約)=家政を意味するという。

経済とエコノミーは、それぞれ別の由来を持ちながら、内容的には重なり合って、ほぼ置換可能な言葉として使われるようになった。そして、その原義においては、両者ともに現代の経済が連想させる利益とか儲けというようなニュアンスはほとんど含まれていないこと、まして、「回す」という言葉と結びつく要素もまったくないことに気付かされる。それが、そういう言葉と経済が結びつき、あるいは経済活動の目的となり、価値として評価されるような関係は、いつごろから、どのようにして形成されたのか。おそらく、その過程は、資本主義という経済システムが利潤の最大化を求めて動き出した時から始まり、その動きが地球規模に拡大してゆき、あたかも限界がないかのような幻想すら作り出すに至った現代まで続いている。その全過程を分析・叙述することは到底不可能だ。また、そういう問題を論じることがここでの目的ではない。ここでの目的は、経済の原義を振り返りつつ、コロナパンデミック下の経済ということを考えてみることにある。そこで、以下、そうすることによって、今風に言えば、どんな景色が見えるのかを示してみよう。

原義を念頭に、コロナ下の経済を考える

感染症の蔓延という事態を前にして、民を救う、構成員が安心できる家政を実現するという経済の目的を達成するためには何が必要で、何ができるのかを明らかにすることが何よりも求められることはいうまでもないであろう。そのためには、感染症の実態を明らかにし、どれほどの危険性があるかを知らせること、それを明らかにするために時間がかかるのであれば、まずできるかぎり予想される危険を避ける行動をとらせること、感染症対策に必要な予防・治療のための物資、設備、人員の確保・配置を迅速に実施すること、有効なワクチン・治療薬の開発・普及に最大の努力を払うこと、ようするに感染症の拡大を防止し、犠牲者をできる限り少なくするために、もっとも合理的で効率的な方策を確立し、実施すること、そうしたことが原義で示された経済活動そのものだということになる。

したがって、「経済を回す」ということを理由にして、感染症対策の基本をおろそかにし、保健所や医療機関の逼迫を理由に検査体制の拡充や隔離施設の設置などにブレーキをかける、などという奇妙な事態はあってはならないはずのことであった。経済と感染症対策とは、連続してとらえられるべきものであって、対立関係に置かれるべきものではないからである。

にもかかわらず、この両者は二律背反的関係にあるかのように論じられることが少なくなかった。幸いにもというべきかもしれないが、日本では物資の生産・流通の現場では、リモートワークや時差出勤などの工夫もあって経済活動はそれほど収縮することはなく、コロナ下にあっても過去最高収益をあげる企業すらあった。それどころか、企業の内部留保は増加し続けた。旅行・飲食など大きな打撃を受けた業種もあったが、経済全体としては民を不安に陥れるほどの落ち込みは無かったといってよい。

「経済を回せ」と主張する者が、コロナの危険性を誇大に騒ぎ立て危機を煽っていると感染症対策の不備を指摘する者を非難することがあったが、事態はどうやら逆であったようである。オリンピックをやりたかった者、ゴーツートラベル・ゴーツーイートの推進者などは、経済の原義など考えたこともなかったに違いない。彼らは、金を動かすために人を動かすことを考えるが、原義を知る者は、人を適正に配置することを考え、その後に金を配分する手立てを考える。

また、コロナパンデミックは、様々な分野で物資の不足・逼迫という問題を引き起こしたが、その問題への対応についても発想の貧困が問われることになった。食料にせよ、エネルギー資源にせよ、医療用機器・物資にせよ、単純な経済論者はすぐ自給体制の確立というような発想をするが、それは本当の解決策になるかといえば、そうはいかない。

コロナのように世界中がほとんど同時にパンデミックに陥ってしまった場合、自給論や先行確保論は時に犯罪的ですらある。そういう自国第一主義的対応は、国際的格差を拡大させ、そのことによって世界に不安定要因を付け加えることになるからである。長期的に考えれば、そうした対応は、安全確保のためとして軍事力の拡充に努め、そのことが敵対関係の水準を高め、さらなる軍備の拡大を要求するという軍拡悪循環と同じ悪循環に陥る可能性を高める。

経済を金の動きに還元し、金を動かすことが利益を生むと考えるという発想は、格差を作り出し、人間や社会・国家の関係を不安定化させ、結局無駄なコストを作り出すことにしかならない。金の動き以外の多様な関係性の構築が、関係の安定性を高め、競争のための無駄なコストを省くことができる。経済の原義を念頭に置けば、文化・芸術・教育など多様な交流も、経済の重要な一部を構成することが理解できるはずである。

コロナ下で、「経済を回す」ことばかりを主張することは、金の動きと経済活動を同一視することによって、経済の観念を狭小にするばかりではなく、人間や人間が構成する社会の安全・安定を確保するという大きな目標を見失わせることになる。経済は回っても、想像力を枯渇させた人間が蔓延ることになれば、それは人間を衰弱させるだけであろう。

 

コロナ感染症が広がり始めて3年が過ぎ、初期の動揺・不安感はある程度払拭され、社会は活気を取り戻しつつあるように見える。まだ、新しい変異株の出現による感染爆発の危険がないとは断言できないところではあるが、人間の側の対応力もそれなりに上がってきたといってもよいかもしれない。ごく初期に指摘した人間の愚かさも大分影を潜めたようでもある。少なくとも、愚かさの大体のパターンは出尽くしたとはいえるだろう。まだ、最初に宣言したような観察は続けるが、コロナ感染症パンデミックについての評論は本号をもって一応の終わりとする。喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざのようにならないために、状況を超えた問題提起を心掛けてきたつもりであるが、はたしてその意図が伝えられたかどうか。読者諸氏の明察を乞う。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

特集/黄昏れる日本へ一石

第34号 記事一覧

ページの
トップへ