論壇
愛と憎しみの現代史――そして資本主義だけが残った!?
『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(ブランコ・ミラノヴィッチ著)を読む
市民セクター政策機構理事 宮崎 徹
著者ブランコ・ミラノヴィッチは、世界銀行の主任エコノミストとして所得分配を中心にグローバリゼーションの影響を分析してきた。しばらく前に「エレファント・カーブ」で注目を集めたことはまだ記憶に新しいであろう。エレファント・カーブとは、全世界の所得分位別の動態を統計的に分析し、中国など新興経済諸国では中間層の所得が伸び、対照的に先進国中間層では低下していることを印象的に描き出したものである。これは全世界の所得が産業革命以来はじめて平等化に向かうという画期的な動きであった。しかし併せて、所得分位トップ1%の伸び率も高く、これが先進諸国内での格差拡大を生むというネガティブな側面も示している。このグラフの形状が象の鼻によく似ているので、この呼び名が付いた。
これに象徴される大変化を導いたのは、いうまでもなく経済活動のグローバル化=グローバリゼーションである。著者持ち前の格差や腐敗への問題関心を抱きつつ、グローバリゼーションのダイナミズムをシステムとしてトータルに分析してみようというのが本書である。グローバリゼーションについてはすでに多くの分析や研究があるが、その歴史的意義についての彼の見方は大胆明瞭で、刺激的だ。ただ、チャレンジングなだけに、にわかには首肯できないところも多いのだが。
タイトルからして挑発的である。『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(原題は CAPITALISM, ALONE)という。冒頭の節の見出しは「資本主義はただひとつの社会経済システムである」とある。いいかえれば、世界全体が同じ原理――営利を目的とし、法的に自由な賃金労働ならびに大半が民間のものである資本を用い、分散化されたシステムによって生産が調整される原理――に従って動いているのであり、これは歴史的に見ても先例のないことだと指摘している。
また、イデオロギー面でも「現代では金儲けがたんに尊敬を集めるどころか人々が生活するうえで最優先の目的であり、世界中のありとあらゆる階級の人間が納得するインセンティブ」であるという考えが「圧倒的優位を得ている」。つまり、個人とシステムの目的が合致することこそ、資本主義の遂げた大いなる成功なのだ。しかし、資本主義を無条件で支持する人たちがいうようにこの成功は資本主義の「自然性」から生じたのではない。そうした人たちが考える人間の内なる欲望――もっと取引をして、利益を得て、快適な暮らしを送りたいという欲望は決して自然的なものではなく、資本主義社会における社会化の産物なのだと注意を喚起してもいる。
それはともかく、資本主義による世界の支配は2つの異なるタイプの資本主義によって達成されたという理解を前提に著者の議論は展開していく。ひとつは、欧米で徐々に発展してきた「リベラルな能力主義的資本主義」であり、もうひとつは国家が主導する「政治的資本主義ないし権威主義的資本主義」である。前者の代表はアメリカ、後者の代表はもちろん中国である。
リベラル能力資本主義をめぐって
いわゆるリベラル能力資本主義については前号においてサンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か』を紹介・検討する中でかなり言及してきたので、ここではごく簡潔に要点を記すにとどめる。
とはいえ、ミラノヴィッチの定義を飛ばすことはできない。それは、モノとサービスがいかに生産され交換されるか(資本主義)、それらが個人間でいかに分配されるか(能力主義)、社会的移動性がどのくらい存在するか(リベラル)にかかわる特徴づけだ。資本主義であるからには、まず肝心なのは総所得が2つの生産要素、すなわち資本の所有者と労働者の間でどのように分配されるかが問題である。20世紀以前の明瞭なデータはないようだが、第2次世界大戦以後は両者の比率はほぼ安定していたという。しかし、20世紀の終わり近くから資本シェアが上昇傾向をみせ始めた。この傾向はこれまでのところアメリカできわめて強いが、大半の先進諸国でも認められている。ピケティが明らかにしたように資本所得の伸びが労働所得の伸びを上回り続けているからだ。
さらに新しい動きとして、資本豊富な人はすでに金持ちであるだけでなく、労働所得からみても相対的に裕福であるという事実がある。たしかに、古典的資本主義では資本家は、通常は労働からたいした所得は得ていなかった。だから有閑階級ともいわれていた。彼らは金融業者、大会社のオーナーといった不労所得者が大半だったが、今日では所得トップ層は高給取りの会社幹部、ウェブデザイナー、医師、そのほか専門職のエリートが多い。彼らは相続によって、あるいは自分で働いて十分な金をためたおかげで金融資産を保有し、そこからも多くの所得を得ている。
つまり、所得分布の上位に高い労働所得を得る人がいて、さらに同じ人が高い資本所得も受け取る場合、不平等が深刻化する。「これはリベラル能力資本主義に特有の性質である」。これに加えて加えて同類婚の増加という社会現象もある。金持で高学歴の男性ほど、同じような女性と結婚する傾向を示すデータもある。社会規範が変化し、高学歴の女性が増え、働く女性が増えているからだ。さらに、ミラノヴィッチは憶測をたくましくし、「人びとの好みが変わり、男性と女性のどちらも自分と似た相手と結ばれるのを好むからかもしれない」と指摘している。同類婚が増えれば、不平等を拡大する結果となろう。
そして、富と、教育を介した「人的資本」の世代間継承がある。これに関してはサンデルがさんざん論じていた。この点では、先のリベラル資本主義の3要件の一つ、社会的移動性に問題が生じてきているのだ。最近のアメリカの調査によれば、子と親の所得順位の相関、所得そのものの相関、どちらも時間の経過とともに上昇している。すなわち、世代間の移動性の低下である。
しかし、一筋縄ではいかない側面もある。例えば、リベラル能力資本主義のもとでの上位階層の特徴のひとつは部外者に開かれていることである。どうにかして金持ちになった個人にその門戸を閉じてはいない。彼らを見下すこともない。むしろ「尊敬のまなざしで受け入れることだろう」。それによって、下位層のうち最高の人間を取り込めるし、機会は閉ざされていないというメッセージを世間に送れる。こうして最上位層の支配を筋の通ったものにみせることができる。実際には、そうしたケースはごくまれなことであろうが、近年のように技術進歩が速く、莫大な富をすぐ築ける場合、新参者への扉が大きく開かれているかのようにみえる(IT長者!)。大きなトレンドとして社会的移動性は低下しているけれども、こうした特徴もリベラル能力資本主義のイデオロギーの一端を支えているのであろう。
政治的資本主義とは?
もう一つのタイプとされる政治的資本主義、その代表である中国経済に関するミラノヴィッチの分析は鋭い。まず、中国が資本主義であることには疑いがないと断定している。なぜなら、生産の大半が民間所有の生産手段(資本、土地)を用いて行われ、労働者の大半が賃金労働者であり、生産や価格設定についての決断の大部分が分散化された形で成されている。これら資本主義の3要件をすべてみたしているのだ。実際、改革開放の1978年以前には工業生産では国営企業のシェアが100%に近かったが、それ以後は毎年減り続け、現在は20%をわずかに上回るにすぎない。農業では改革以前、生産の大半は人民公社によって行われていた。78年以降、さらに土地の民間への賃貸借契約を許した「責任制」が導入されて以来、ほぼすべての農業生産が民間で行われている。
世間では、中国は本当に資本主義なのかという根強い疑いが消えない。あるいは支配政党が共産党であることだけで経済システムを決めつける偏見に対してミラノヴィッチは多くの事実とデータを対峙させている。何より重要なのは、1990年代半ばにはすでに「小売業の93%、農産物の79%、生産材料の81%において価格は市場で決定されていた。今日では価格はますます高いパーセンテージをもって市場で決定されている」という事実である。
政治的資本主義の特徴は3つある。第1は、テクノクラート官僚が優れた技量を持って高い経済成長を実現することである。第2は、法の支配、縛りがないことである。それゆえテクノクラートの裁量権が大きく、能力の高い人材を据えれば、うまく経済を回すことができる。第3は、国益に基づき、必要とあれば民間部門を抑制できる自律性を持つ国家権力である。ここでも法に縛られていないことがポイントになる。
当然のことながら、これは本質的に2つの矛盾を併せ持つと指摘される。1つは、テクノクラートと法の恣意的運用のあいだの矛盾である。テクノクラートであるエリートは本来ならば、ルールに従い、合理的なシステムの枠内で働くように教育されている。法の恣意的運用はこうした原則を損なうものだ。しかも絶えず高い経済成長を実現していないとその支配を納得させることができないという難しさもある。
2つめは、このシステムに固有の腐敗である。自由裁量を必要とするいかなるシステムも腐敗を抱えざるを得ない。ここではエリートは単なる官僚ではない。官僚の仕事とビジネスとを隔てる境界が曖昧であるからだ。個人がこの2つの役割を行ったり来たりするか、組織がある者をビジネスに、ある者は政治にと振り分けて代弁者とする。ミラノヴィッチは、こうした組織は「マフィァ」とさほど違いはないといっている。エリートと組織が「政治屋兼起業家の一族を築き、それが政治的資本主義の屋台骨となり、何もかもがそこにしがみつく」。こうした一族が累積し、「政治的資本家階級」というべきものが生まれるのだという。しかし、腐敗が手に負えなくなれば、システムは崩壊しかねない。つまり、一方では腐敗をともなう自由裁量とそれによる経済生活の向上、他方における許せる範囲への腐敗の抑制という不安定なバランスの上にある。
「共産主義革命」の歴史的意義
ところで、こうした政治的資本主義の起源、由来はどこにあるのか。ミラノヴィッチは、「中国のように植民地化された、あるいは事実上植民地化された社会で実行された共産主義革命の産物である場合が多い」と指摘する。そして、共産主義の、歴史的位置づけは、むしろそこにこそ見いだせるのだとする。つまり、共産主義とは、「発展の遅れた植民地社会で用いられる、封建制から資本主義への移行システムだった」と主張する。
たしかに、第3世界の課題は大きく2つあった。1つは支配的な生産関係を変えること。すなわち、地主を筆頭とする有力者の締め付けを排除することであった。もう1つは、外国の支配を覆すことであった。この2つの革命(経済発展をめざす社会革命と民族自決を目的とする政治革命)が一つに合わさったのが、第3世界の共産主義革命である。
社会革命と国民革命を同時に遂行することで、左派政党と共産主義政党は、「経済発展の障害となり、国民を分裂させていたあらゆるイデオロギーや習慣」を白紙に戻し、外国による支配を排除することができた。こうした革命は「長い目で見れば、自国の資本家階級の誕生にとっての必要条件となった」とまでいっている。そして、彼らがこれからも自国の経済を牽引していくだろうと見通す。この封建制から資本主義へのもうひとつの移行というべきプロセスはきわめて強力な国家の支配下で起きたのであり、この点で欧米諸国とは「根本的に違う」という。それゆえ、このタイプの資本主義は政治的ないし権威主義的傾向が強いのだ。
とりわけ中国においては形成期から国家が「無限の力」を持っていたのであり、それはどんな組織化された非国家的主体(聖職者、自由都市、ブルジョワジーなど)が誕生するずっと以前からのことだ。この早熟な国家形成が「清朝から毛沢東時代の中国に至るまで、権力が別組織に集中していくのを阻止していた」。例えば、宋や清の時代に商人は金持ちになったが、政治的代表権を勝ち取り政権をうかがうことはなかったし、「階級」を形成することもなかった。ヨーロッパのブルジョアジーとは違っていたのである。このことが現在の中国につながっているという。すなわち、「共産党が支配する現政権とすでに形成された資本家階級との間の政治的権力の分配模様は、この過去のパターンをしのばせる」。政府はブルジョアジーの利害に協力的ではあるが、それは国家の目的に反しない場合に限られる。逆にいえば、ブルジョアジーが中国を支配することはないだろうということになる。
深層底流としてのグローバリゼーション
2つのタイプの資本主義の推進力となっている深層底流は現代的な経済活動のグローバル化=グローバリゼーションである。本書では、ボールドウィンという人の「アンバンドリング」という概念を使って、グローバルなサプライ・チェーン(需要と供給を総合してバリュー・チェーンともいう)の現代的特徴からグローバリゼーションを説明している。要するに、経済活動が空間や時間の制約を克服してきていることである。
私なりにもっと簡潔に説明する。すなわち、資本主義はいつでも世界的な展開をみるものだ。かつてはモノのやり取り、すなわち貿易によって各国経済は結びついていた。ところが、現代では、それに加えてヒト、モノ、カネという経営資源そのものが国際的に移転するようになった。つまり、貿易という単線の線路でつながっていた諸経済が、海外直接投資というもう一つのチャンネルでもつながり、いわば複線化した。世界経済の結びつきは飛躍的に強まる。ここに至って、言葉の本当の意味でグローバル・エコノミーが誕生しつつあるとみなせる。一物一価の市場原理が世界的規模で貫徹する。例えば、賃金は市場の需給調整によって国際的に平準化していく(先進国労働者の既得権は浸食される)。
このグローバリゼーションの波にもっともよく乗ってきたのがアジア経済である。自国の経済を先進国世界に組み込むことで技術的・制度的な段階をどんどん飛び越えて発展する(蛙飛び)パターンだ。ここで思い出すのは1970年代前後の南北問題に関する議論である。
そのとき幅をきかせた、いわゆる従属理論はこういっていた。世界経済システムは中心と周辺から構成され、南の経済開発は結局「低開発の開発」に終わる。だから、このシステムからの離脱が必須だというものだった。しかし、事実の経過をみると、世界経済が新しい発展段階に入るとき、企業はその技術を最適な立地で活用したがるのは当然だったのである。従来、企業本社があった国家がむしろ、最新技術の周辺国への移転を阻止なければならなくなった。つまり、新技術を活用する者が受け取るイノベーションの果実は、これまでの中心から周辺へと分散しつつある。これが、富裕国の人間がいわゆるアウトソーシングに文句をいう理由である。新しい技術のもたらす収益は、たしかに中心にいる起業家や資本家のものになるが、生産を委託された後進地域の労働者のものにもなるのだ。
つまり、従属理論パラダイムとは逆に、先進諸国とつながることでアジアは絶対的貧困から中所得国へと驚くべきスピードで移行できた。グローバル・サプライチェーンの一翼を担うことで発展の動力につながることができた。富裕国の後追いをして、徐々に付加価値の高い段階に移るのではなく、中国が現にそうであるように技術面でリーダー的立場に立つこともできる。
資本主義システムの未来
長くなってしまったが、資本主義の未来についての議論もみておこう。まず、ウェーバーなどに言及しながら、改めて現在の資本主義には大切な2つの抑制(宗教と暗黙の社会契約)が欠けているという。「商業化社会」の繁栄には貪欲な精神が必要だが、それを牽制するものがなければならなかった。抑制という内部メカニズムが委縮するか消滅するか機能しなくなり、規制や法律といった外部からの制約のみに置き換わってしまったと指摘される。
そしてウルトラ商業化社会では「成功を判断する基準がお金になり」、階層を決める他の指標は消滅する。それはそれで良いことだが、「金持ちになることは栄誉あること」であり、違法なことをしてつかまらない限り、その栄誉を得るためにどんな手段を使おうとたいした問題ではないという考え方が広がる。事ここに至って、こうした道徳的退廃を含め、もう資本主義は行き詰っているのではないか、変化を求めているのではないかという議論が広がっているのは事実である。
こうした見解に対し、ミラノヴィッチは、「超資本主義の代わりになりそうなものが何もない」という。たしかに、すでに試した選択肢はどれもうまくいかなかったし、なかにはもっとひどいものもあった(社会主義計画経済)。なんといっても「資本主義に組み込まれた競争的かつ物質欲的精神を捨て去れば、結局は所得が減り、貧困が拡大し、技術進歩が減速ないし逆転し、超資本主義がもたらす他の利点(今や生活に欠かせないモノやサービス)を失うこと」になるだけだ。
このように資本主義の覇権がゆるぎないものとなるにつれて、その成功のゆえに家庭生活や親密な関係にまで商品化が進む。これは長らく維持されてきた友情や家庭のきずなといった規範とは相容れないものだ。これらの規範が「すべて利己心に取って代わられたことを大っぴらに認めることは容易でなかった」。そして、この「居心地の悪さが偽善のはびこる余地を広く生み出した」という。偽善は「半端な真実」(意図的に真相の一部しか明かさない説明)をいろいろと持ち出す。
彼の指摘のうち1つだけ挙げれば、「技術進歩に対する根拠のない不安」である。そういう議論は人間のニーズは限られているという認識を前提にしている。しかし実際には、歴史も示しているように新しい技術によってどんなニーズが生まれるかは知りようがないのだ。地球の限界に関しても、さまざまな資源をどう使えるかについての知識そのものが現時点での技術水準を前提にしているからにすぎない。「技術が向上すれば、発見するあらゆるものの貯蔵量が増え、それをもっと効率的に利用できるようになる」とまでいっている。さらに皮肉をきかせて、「成長に限界があるとか、人間がロボットに置き換えられると考えて自分を怖がらせることが私たちは嫌いではない」。それは「ひょっとしたら自分は世間知らずなどではなく、最悪のことを予想する立派な人間なのだと思えるからかもしれない」と。
より長期のタイムスパンのもとで
最後に、著者の専門である所得分析の視点からみた大局的な歴史的傾向についても一言触れておこう。この間のアジア諸国の経済発展という傾向が続けば、その所得水準は欧米諸国に近づく。この収束によって、世界は産業革命以前に存在した所得水準の相対的な均衡状態に戻るとみなされる(当時、中国とインドの所得は西欧のそれと似通っていた)。それは産業革命の影響がようやく相殺されつつあるということである。つまり、本稿の冒頭で触れたように産業革命以来のグローバルな所得不平等が初めて持続的に改善されているのが現在だ。このような全世界的な所得の上方への収束があれば、「歴史上はじめてグローバルな中間層の台頭」について語れるのではないかと期待している。ただ、サハラ以南のアフリカがこの収束に加わるかが懸念材料ではある。
この歴史的傾向は、繰り返すまでもなく資本主義のグローバル化がもたらしたものである。その資本主義はこれからいかに進化していくのだろうか。著者は、この点については抽象的に論じるにとどまる。一つの見通しは、「リベラル能力資本主義がもっと進化した段階、つまり民衆資本主義の段階に移行できるかどうかにかかっている」というものだ。この民衆資本主義はやや唐突で、明確ではない。彼の説明では、資本の集中や富の集中がより少なく、所得の不平等がより縮小し、世代間の所得の移動性がより高いという特徴を持つという。ここで紹介する暇はないけれども、これに至る4つの基本政策を提起しているのだが、練度が低いように思える。
もう一つの見通しは、リベラル資本主義と政治的資本主義が収束するかどうかにかかわる。リベラル資本主義が金権政治の様相を濃くしていけば、政治的資本主義に近づくだろうという見立てだ。エリート層の温存が確保されるためには、自分たちが政治的領域を支配することが必要になるからである。エリート層は政治的資本主義のテクノクラート的なツールを使うことで、自分たちがもっと効率的に社会を動かせると信じているかもしれない。そして、「民主主義的なプロセスが意味のある変化につながるという希望を人々が失ったとき」、こうした方向への歯止めがなくなるだろう。著者は警告する。「政治的資本主義の目的は、人々の頭の中から政治を消し去ることにある。それが容易になるのは、国内の政治に人びとが幻滅し、無関心がいよいよ広がったときなのだ」と。
さらに議論をすすめよう
ミラノヴィッチの問題提起は刺激的であり、さらに議論すべき論点はたくさんある。しかし、紙幅が尽きたので、ここではまとめとして大まかな感想だけを記しておこう。
たしかに、現在の資本主義に代わるシステムはほかにないというのは冷厳な事実だ。このシステムに内在する諸悪を著者も多く指摘しているが、一方で、それが経済成長を推進し、近年のグローバリゼーションによって世界的な所得不平等が改善されつつある成果が公平に評価されなければならない。グローバリゼーションに光と影があることはいうまでもないが。
資本主義システムの本質的機能は市場メカニズムによって担われている。そして、大きな経済社会における資源配分は、市場メカニズムによるのがベストではないかもしれないが、ベターなのである。しかし、経済人類学などの知見によれば、資源配分というものは歴史貫通的に交換、再分配、贈与(互酬)の3つの原理によって構成されてきた。時代によってどれが支配的なるかは異なるが、3つはどの時代にも併存している。
とすれば、交換=市場メカニズムがあまりにも肥大化するときには、他の2つの原理の拮抗が必要だろう。ミラノヴィッチは、資本主義の勢いから離れて暮らすといった暢気なことはいっていられないというが、果たしてそうか。彼のいう「民衆資本主義」を具体化するためには、3つの社会構成原理のバランスに十分配慮しなければならないのではないか。それはともかく、資本主義システムの現実を直視し、その功罪を公平に評価、分析することは、これからを考えるための前提である。ミラノヴィッチはその良い模範を示している。
みやざき・とおる
1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。
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