特集 ●総選挙 結果と展望
のど元過ぎても忘れてはならないことがある
コロナ以後の世界に不可欠な記録と記憶
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
すべては結果オーライ?
七月から八月にかけてのコロナ感染第五波では、それまでに日本では経験したことのない速度で感染者が増大し、一日に二万五千人を越える水準にまで達した。医療体制の全国的な崩壊はなんとか避けられたものの、大都市圏を中心に自宅療養を余儀なくされ、事実上医療放棄による犠牲者は数百人を数えるに至った。
ところが、九月から感染者は急速に減少し、今では最大時の百分の一以下にまで下がってきた。全国の感染者が、一日に二百人を切る日も出てきた。この急速な感染者数の減少は、何によるものか、どうにも判然としない。ワクチン接種の急速な進行によるとか、それに加えてマスク着用・手洗いなど、基本的感染対策の広範な浸透、あるいはウイルスの変異が感染力の低下の方向で起こったとか、集団免疫が獲得されたとか、様々な見解が提出されているが、どれもまだ決定的要因と断定されるまでのエビデンスは示されていない。
他方、日本以外の世界では、ワクチン接種が進んでいない国・地域はともかく、ワクチン接種率は高いのに依然として感染の収まらない国・地域もあり、新しい変異株の報告もあって、感染が収束に向かっているとはとても言えない状況が続いている。これまでも世界最多の感染者と死者を出していたアメリカ合州国は、最新の数字でも日に感染者七万人以上、死者二千人以上、累計の死者は七十五万人を越えるという有様である。ヨーロッパでもワクチン接種が進んでいないロシアでは、感染者・死者とも増加が止まらず、英仏独伊などの主要国でも、一時感染者は減少に向かったが、冬に向かって増加傾向に転じ、WHO欧州地域事務局はヨーロッパが再び感染震源地になり、来年二月までに五十万人の犠牲者が出る可能性があると警告を発するに至っている。中華人民共和国やニュージーランド、オーストラリアなど厳しい出入国管理や感染者隔離を実施している一部の国を除いては、感染拡大は依然として抑えられていない。
そういう世界の感染拡大を招いている一つの要因が、合州国のトランプ前大統領やブラジルのボルソナロ大統領のようにコロナを軽視し、経済活動重視と称して感染症対策を忌避する勢力が依然として強い影響力を持っていることにあるのは間違いない。この勢力は、概して勝ち負けにこだわるマッチョ主義的傾向が強く、反対者を弱虫と非難し、強さのあかしとしてマスクもワクチンも拒否する者が多い。それが、一部の国では社会に分断を持ち込み、社会的対立を深刻化させ、感染症対策を一層難しくしているように見える。
そういう世界的状況の中で、日本は、緊急事態宣言を解除し、「人流」は明らかに増加したが、大多数の人々はマスクを着用し、できる限りソーシャルディスタンスを保ち、換気に気を使うなど、感染症対策の基本をしっかり守っていることもあってか、依然として感染者減少傾向を維持し続けている。こういう状態がしばらく続くと、必ず起こってくる声がある。ウイズコロナへの転換を図るべきだ、感染法上の二類扱いを止めよう、経済活動再開のための基準を明確にしろ、規制緩和のための社会実験を実施しよう、ゴーツートラベル・ゴーツーイートの再開を、などなどコロナ・パンデミック前の日常を「取り戻そう」という声が一斉に上がってきた。
そういう声に押されてか、スポーツ観戦・コンサートなどのイベント再開のための社会実験が各地で実施され始め、自治体の中には、独自のゴーツーを開始するところも出てきた。政府は、諸外国からの入国規制を緩和し、ビジネスのための入国者に対する隔離期間を大幅に短縮することを決めた。事態の緊急性判断の基準について感染者数を外して、医療の逼迫度を重視するように変更するという。
もちろん感染症の危険性が低下してくれば、人々の動きを活発化させることに異議はない。面会もかなわなかった親族が再会したり、学生が講義やサークルで直接交流できたり、子供たちも自由に動き回れたり、子ども食堂や「居場所」での様々な活動が再開できたり、人間が人間らしく生きていくための人間同士の直接的接触・交流を取り戻すことの重要性は強調しても強調したりないほどである。
しかし、様々な社会活動の再開が、急激に拡大していくには、まだ不安も残る。感染者が予想に反して急速に減少しても、それが日本だけの現象であれば、いつ諸外国のように増大に転じるか分からない。何しろ、どの専門家に問い合わせても、原因は明確には分からないという答えしか返ってこない。しかし、昨年によく言われた「ファクターエックス」は今でも「エックス」のままだが、今度も似たような仮説が提示され、社会的雰囲気に影響を及ぼし、それも手伝ってか時間の経過とともに不安感は解消されつつあるように見える。
今までもそうだったが、政府・行政が十分な対策を実施してこなかったにもかかわらず、何故か、国際的に見て、感染が比較的低い水準で抑えられ、社会的混乱も免れてきた。オリンピックにしても、「オリンピックによる感染の拡大のエビデンスはない」と国際オリンピック委員会の豪語を許すような水準にとどまった。ワクチン接種に至っては、明らかにオリンピック実施のために地方自治体に無理を押し付け、強引に接種数を増大させたが、結果として現在の感染者の急速な減少につながったとすれば、オリンピックもパラリンピックもやってよかったということになりそうである。結果オーライという訳だ。
政治は結果がすべてであるといわれるが、コロナ対策が重要な争点になると言われていた総選挙も、与党側の打撃は予想外に小さかった。選挙後に発表された会計検査院の報告によれば、2019-20年度コロナ対策予算約65兆4165億円のうち21兆7796億円が使い残され、1兆763億円が不用額とされたが、「やってる感」だけの政治の実体をよく現わしているが、野党にとっては選挙後では後の祭りでしかない。与党にとっては、これほどの結果オーライはなかったであろう。
炙り出された問題を忘れるな
原因は特定できないながら、感染者は減少し、ワクチンの開発・接種も進み、治療薬の実用化の目途がたったことで、パンデミック収束の方向が見えてきたといわれ始めているが、その終息後にどういう状態を見通すべきかについてはあまり明確なイメージはどこからも提示されていない。ただ漠然と、「パンデミック前の日常を取り戻す」という言葉がメディア上で繰り返されているだけのようでもある。一時、相次いだ「コロナ後の世界はどうなるか」ということをテーマとした書籍の出版や雑誌の特集も、このところ低調になった。
そういう状況では、感染者が急速に減少するようになると、トランプのようなコロナ軽視派や当初からの「ウイズコロナ」派が元気になり、社会的雰囲気も「日常を取り戻せ」という声に流されるようになる。コロナによる「逼塞」「分断」に耐えてきた人々の意識が、そこからの解放を期待する方向に急速に傾くのも理解できないわけではない。しかし、その解放が、単なる欲望の解放にとどまるなら、それはあまりにも軽率過ぎるだろう。マスコミで伝えられるヨーロッパやアメリカの一部に見られる開放的過ぎるはしゃぎぶりと感染の再拡大を考えれば、その軽率さの問題は誰にでも分かるだろう。
しかし、解放された、自由に動ける、どこにでも行ける、誰とでも会える、経済も動かせるということで、深夜まで飲んで騒いだり、物見遊山の旅行に出かけたり、カラオケ、そしてスポーツ観戦、コンサート、観劇などばかりに焦点が当てられるのは、はたしてどうなのだろうか。「経済を回す」という言葉で、飲食業、旅行業などのサービス業の窮状ばかりが取り上げられ、機械・建設・電機・自動車など生産活動の主要な分野の状況はマスコミではほとんど取り上げられないから、経済の基幹部分で何が起こっているか分からない。自動車や電機などは史上最高の売上を記録したなどということが注目されないのと同じように、どういう活動の規制緩和が優先されるべきかがほとんど問題にされない。
このままでは、大学生が飲み屋に集まって自由にコンパはできるが、講義や実習のために自由に大学には行けないとか、ワクチンを接種した先生たちは忘年会も送別会もできるが、子供たちはマスクに黙食を強いられ続けるというような本末転倒した状況が生まれかねない。来日外国人についても、ビジネス関連(実態は技能実習生という名の労働力らしい)は三日の隔離期間に短縮されても、留学生は十日で隔離と移動にかかる費用は自分持ちという状態でいいのか、検討されたという話は聞こえてこない。
思い出さなければならないのは、パンデミックの初期によく取り上げられたエッセンシャルワーカーの問題である。当時、百年前のスペイン風邪以来の感染症パンデミックで、ほとんど未経験の状態で対応しなければならなかったこともあって、医療・介護現場は緊迫し、保健所なども過剰業務で一部は機能停止に陥り、保健用品・食料など生活必需品の供給も滞り、ごみ収集、交通運輸、配達などにも過重な負担がかかる事態になった。人間が安全に生活していくための最低限の条件を支える人々をエッセンシャルワーカーとして敬意を払おうという動きが始まった。さらに、エッセンシャルワーカーの処遇も、改善しなければという声も上がった。また、人間の社会生活にとって何がエッセンシャルか、という問題もより深く考えられるようになった。
コロナ感染症パンデミックは、その意味では社会に潜在していた様々な問題を炙り出した。感染症は、自然災害と同様に、老人・障碍者・不安定被雇用者など、社会的に弱い立場にある人々により甚大な被害を与えた。経済重視の規制反対派が、経済活動が停止すると、中小企業、商店主、飲食店などに打撃を与えるだけではなく、そこで働いていた派遣・アルバイトに大きなダメージを与える。自殺者も増える。だから、経済活動の再開を急がなければならないという議論までなされたように、格差問題もクローズアップされた。
コロナ後の社会が論じられる場合にも、単純にコロナ前の日常に復帰するのではなく、何よりも人間を大事にすることを中心課題とし、社会的連帯を回復し、それを人類規模に広げ、自然や環境を利用の対象とするのではなく、保護・保全を可能にする生活スタイルを確立することの緊急性が意識されていたはずである。ウイルスは、もとはと言えば自然界を撹乱する人間活動によって、増殖し、変異し、転移し、人間にとって病因となり、国境を越えて感染を拡大していく。だからこそ、コロナ後を考えることが、人間と社会そして世界の根本問題を考えることにつながるという論調が広がっていたのであろう。しかし、現状は、それ自身、意識や意志を持たないウイルスの蔓延に右往左往しているようにしか見えない。そういう人間の姿は、人間の傲慢さと愚かさを映し出しているようにすら思われてならない。
それはともかく、感染が収まりを見せ始めたこの時期に、せめてどういう活動を優先的に実現するのか、そして実現するためには何が必要なのかだけでもきちんと考える必要があるだろう。エッセンシャルワーク中でも医療に関する状況の改善は最優先事項であろう。治療設備、スタッフの確保はいうでもないが、保健所も含めた情報・連絡体制の整備も欠かせない。新自由主義改革で整理・縮小を余儀なくされた保健所が、特に大都市部で機能の限界に達し、一部業務の停止に追い込まれ、治療を受けられない犠牲者を出した事態は、記憶に新しい。二類指定を外すなどは、感染の実態把握を難しくするだけで、濃厚接触者の調査を絞り込むのと同様、問題を見えないようにするだけである。実態の把握ができる人材の養成も含めた体制の整備に必要な予算を付与すべきではないか。
さらに、保育園・小中高・大学など、人間の成長と人材の育成にかかわる施設のできる限りの活動の再開も優先度が高いはずである。そこでは、集団行動が多いため、感染リスクが高くなるという問題がある。しかし、人間同士の直接の関係が最も必要とされる成長過程を確保するためには絶対不可欠の施設であることは言うまでもない。だとすれば、どうすれば活動が再開できるのか。できる限り早期に感染者を発見し、感染者に適切な医療を提供し、感染防止の体制を確立することが必要であるが、そのためには何よりも迅速かつ徹底した検査と調査を実施するしかない。ワクチン・治療薬が迅速かつ自由に接種・使用できるようになっても、感染力の強いウイルスに対しては、精度・スピードを高めた検査は必要不可欠である。
また、ひとり親家庭、独居老人、失業者、苦学生、留学生、失業技能実習生など貧困や生活条件の悪化に苦しむ人々への支援も急がれる。経済が動き始め、繁華街や行楽地に人が戻ってくれば状況は改善されると言われても、食事すら満足にとれないという切迫した状況にはとても間に合わない。感染が深刻化し問題が指摘され始めてから一年半は経過している時点で、またしても一律給付金でもあるまい、選挙目当ての人気取りか、今まで何をしていたんだとは思うものの、とにかく切迫している事態の改善は急がれなければならない。
感染が曲がりなりにも減少している状況だからこそ、何が急がれなければならないか、最も基本的な感染症対策の体制をどう整備するか、そこにどれ程の資金と資源が必要か、政治家や行政当局は真剣に検討しているのか。少なくとも、ゴーツーではあるまいし、マイナンバーカードの普及に三万円分のポイントを付与し、数兆円の予算をつぎ込むことではないことは明白であろう。
記憶は消えても記録は残る
以上に述べてきたように、感染者の急激な減少によって、日本のパンデミック的状況が急速に変化し、社会の雰囲気を変え、そのことによって検討されなければならない問題が先送りどころか忘れ去られようとしているのではないか、ということを指摘してきた。しかし、問題はもう一つ、我々一般人には見えにくいところでも起こっている。それは、いわゆる専門家と称する人たちの世界に関わる問題である。
コロナ感染症パンデミックに直面して、政府・行政当局も自分たちだけの知見では、対応しきれないことを自認してか、多くの専門家を招集し、感染症対策を検討する場を設定した。また、マスコミにも専門家と称する研究者・医者が次々に登場し、解説・コメント・提言など多様な見解が披露された。
そうした中で、まず分かったことは、専門家といってもこれほど多様であったかということであった。一口に感染症の専門家といっても、扱う対象、対象分析の方法、対象へのアプローチの仕方などによってさらに専門分野が分かれる。たとえば、熱帯地域の感染症を専門とする研究者と温帯・寒帯地域を中心とする研究者では同じではないだろうし、感染症の病因(原虫・細菌・ウイルス)によっても違う。そもそも病因を扱う研究者と公衆衛生上の問題を扱う研究者、治療を主体とする医学専門家、ワクチンの専門家と治療薬の専門家でも相違がある。遺伝子の生化学分析と感染症蔓延の社会的メカニズムを分析するのでは方法的には全く無関係である。
ざっと素人考えで分類しても想像を越えた多様性がある。そして、それぞれの専門家の意見も、それぞれの専門性によるバイアスを必ず持っている。そこに、それぞれの専門家の置かれた社会的立場、たとえば、大学教授か、専門官僚か、民間の研究所勤務か、公的な審議会などに関わっているか、直接医療に携わる医師か、などによっても意見が異なってくる可能性も加わる。
したがって、感染症の原因、感染のメカニズム、感染症の症状の判断、治療法からその感染症の重大性の評価など、多岐にわたる論点について極めて多数の意見が多様な形態で発せられることになる。コロナに関しても、人類滅亡とまではいかなくても、取り返しのつかない甚大な損害を与えるという見解から、普通のインフルエンザ程度かそれよりももっと軽い普通の風邪のようなものだという見解まで、対策を考えた時に絶対に両立不能な極端に相違した見解が専門家の名を借りて発せられてきた。それらの極端な見解の対立は、世界的にはいまだにコロナ対応についての混乱の原因になり続けている。日本では、専門家同士の見解の相違は、少なくとも政府や政治家を動かし、公然と感染症対策の方向に影響を与えるところまでには至っていない。しかし、一部のコロナを軽視する専門家の見解が、社会的に「経済」を優先しようとする雰囲気を醸成する効果を発揮していることは否定できない。
事は言論の自由にもかかわることなので、軽々に扱うべきではないが、審議会のような公的な機関に所属している専門家が、デマまがいの見解に対しては惑わされないための警告を発するぐらいのことはあってもいいのではないか。もちろん、専門家が構成する公的機関が、公正さを疑われるようなことがあっては、それは逆効果になることもありうる。したがって、問題はその発言をする公的機関及びその構成員が、専門家としての十分な能力を備え、社会的にも信頼に足るものであることが明白にされなければならないことは言うまでもない。
それでは、その専門家の公正さ、信頼性を担保できるにはどうしたらよいか。それは、判断にふさわしい量と質をそなえた対象に対して実施した調査によって取得したデータを正確に分析した上での結論を踏まえていることが第一。第二に、その調査自体について第三者による検証を受けること。第三に、発表した論文は査読済みであり、発表媒体も広く信頼されているものであることなどの要件を満たすことが求められる。また、専門家の機関であれば、その構成員の任免について、学問研究の観点が貫かれており、その選出の過程に透明性があることも、信頼性を担保するであろう。
さらにいえば、感染症パンデミックのような複雑な対応を要求される問題には、質量ともに十分な多角的データが必要になる。そして、その多角的データは専門の異なる多くの研究者のネットワークが無ければ集積することができない。日本には、こうした調査データの集積を可能にする条件がない。国立の感染症研究所はあっても予算は限られ、大規模な検査体制すら構築できない。大学や研究所などに分散している研究者も、組織横断的ネットワークの構築よりも、自分あるいは自分たちだけの研究成果にしか興味が無いようにしか見えない。感染症は、多くの異なる領域での研究成果を総合しなければ、何が分かっていて、何が分かっていないのかさえ分明にならない問題である。多角的観点からできるだけ多量のデータを集積し、そのデータをできるだけ広く共有し、多角的観点から検討の俎上に載せること、専門家が「蛸壺」に閉じこもっているような状態では、パンデミック克服への筋道は見いだせない。そうなれば、結果オーライに虚しい期待をかけるしかなくなる。
政府が設置している専門家による分科会は、ご多分に漏れず、経済活動の再開の方に軸足を移したようであるが、何故こういう余裕が生まれた時に、じっくり腰を据えた専門家としての体制構築の課題に取り組まないのか。専門家の役割は、政治家に知恵を付けることではなく、専門知に基づいたできるかぎり正確な判断を促し、将来に向けて本質的問題に取り組むための提言・要求をすることにある。
また、専門家は、政府行政機関の取り組みやそれへの自分たちの関わり方について、常に検証を続けなければならないはずである。やってきたことへの真摯な反省がなければ、失敗はいくらでも繰り返される。それを避けるためには、できる限り詳細な記録を残すことである。いくら詳細な記録をのこしても、思い出して利用する者がいなければないも同然だという意見もありうるが、記憶は時に自分を裏切ることもあれば、いつかは薄れ、消えてしまう。記録さえあれば、何時かだれかが発掘し、そこからその時に有用な情報を獲得できるかもしれない。しかし、それよりも、もっと重要なことは、詳細な記録が残るということが、記録を残す者に誤りがあれば率直に反省し、常に公正であろうとする意志を喚起し、そのことが記録を残す者に対する信頼性を担保する最終的な根拠となるということである。
専門家の集まりである政府分科会も、分科会として今最優先すべき課題が、日本ではイギリスやアメリカに比べて感染症研究のための基礎的データの集積量が圧倒的に少ないこと、研究者の研究論文評価システムが十分とは言えないこと(たとえば、イソジンの予防効果についての記者会見などがおこなわれてしまうような事態)、いまだに会議の正確な議事録すらないこと、専門家としての信頼性が高いとは言えないこと、など専門家だけが問題を自覚し、政府から独立して解決策を提示できる問題にあることを自覚すべきであろう。政府のやることにお墨付きを与えるようなことをしてばかりでは、結果オーライか、という専門家には全くふさわしくない批評を受けるばかりであろう。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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