論壇
資本主義の不条理な苦痛に立ち向かう思想
早川行雄『人間を幸福にしない資本主義』を幸福論として読む
元亜細亜大学非常勤講師 小林 保則
倫理学を学んできた者としての報告
「最大多数の最大幸福」を妨げる資本主義
不平等と格差の是正へ
幸福を実現する「パラダイム転換」
資本主義世界の黄昏に思うこと
追記・パンデミックが炙り出した「人間を幸福にしない資本主義」
倫理学を学んできた者としての報告
あなたが、いま、自分は自分の働きに見合った報酬・賃金を得ていない、あるいは、安心して働くことができていない、生活に不安があると感じていて、なおかつ「それはいったい何故なのだろうか」と疑問に思っているのなら、あなたは本書を読むべきだ。なぜならば、この本はそれらの理由を考える手掛かりを与えてくれるからである。「なぜ賃金は上がらないのか」(P.116)や「働き方改革批判」(P.146)など、今のこの国の暮らしに直接関わる諸問題が論じられている。以下は、本書をこのように読んだ、このようなことを考えさせられた、というひとつの報告である。
本書は、労働運動の中で「40年以上にわたって我流の経済分析」(P.201)を続けながらそれを支えてきた著者が、ほぼこの10年間に発表してきた論考を集成したものである。著者は労働運動とそれをめぐる政治状況のまっただなかで、歴史的な視点を踏まえて、時局的な論点を取り上げ、この国の暮らしのありようを考察している。古今の広範な文献を数多く参照しながら、とくに現代日本の政治状況への批判と、それに対抗していかなくてはならないこの国の運動の実践的な課題を見据えようと試みられている。改めて歴史に範を見出そうとする著者の姿勢は、ともすれば目新しい刺激的な論議のみが耳目を集める、近年のマスコミ的な論調に抗するものであろう。
さて、現代日本の政治・経済的な情勢分析と労働運動の指針の書という本書の「正面」については、倫理学を学んできた論者の任ではないので、専門家に批評を委ねることとして、ここでは『人間を幸福にしない資本主義』という書名から、本書を現代の「幸福論」として読んでみたい。書名に対して、では、資本主義に代わって人間を幸福にするのは何なのか、という反問がすぐに頭に浮かぶが、とりあえずこれは措いておこう。
「最大多数の最大幸福」を妨げる資本主義
本書の提起する「わたしたち」の幸福に関わる課題は、端的に言ってしまえば、現代日本の「賃金」と「働き方」だ。わたしたちが幸福になるためにはどれだけ賃金が必要なのか。わたしたちにとって幸福な働き方とはどんな働き方なのか。
まずは本書における幸福論議の方向を確認しておく。「わたしたちが構想する新しい社会は、・・・そこそこの能力を持った労働者が、ほどほどワーク・ライフ・バランスを保って働くことで生活の安定と将来への安心が得られるような社会なのである。少なくともわたしたちが構想の中心に措くべきなのは、そうした普通の労働者でなければならない」(P.40f.)。つまりは「労働市場の最大多数を占める普通の労働者」(p.41)が、幸福になるためにはどうすればいいのだろうか,という実践的問いかけが、全体を貫く軸である。
「最大多数の最大幸福」という近代国家・社会の大原則が、本書でも幸福論=幸福観の基盤である、と言い換えてもよいだろう。「政治学」「経済学」とこの原則とは同時に誕生した。さらに改めて確認しておけば、この原則を成立させているのは幸福の「計量可能性」というもう一つの前提である。経済学は幸福の量を測るために、政治学は国家の最大幸福を実現するために生み出されともいえる。
著者が繰り返しさまざまな観点から言及しているとおり、現代資本主義というシステムは、多様で複雑な意匠をまとって、なかなかその本性を露わにはしない。例えば、いわゆる金融工学と称されるバーチャル経済の仕組みやそれを支える経済思想について、本書の各章からわたしたちは学ぶことができる。わたしたちの暮らす現実の経済社会から乖離したところで成立しているとしか感じられない仕組み、さらにこれを支えるこの国の現政権の政策への批判の根拠などについても繰り返し述べられている。
現代の市場経済というシステムについて、さまざまな調査研究や学説などを広く紹介しながら、その現状が批判的に考察されている。それらを踏まえると、わたしたちはいま幸福とはいえないのではないか。その原因は「社会を経済の好循環により安定的に持続させるシステムとしての資本主義」が「完全に機能不全をおこしている」からだ、というのが著者の見立てだ。
この「機能不全」によって、最大多数のはずの「中間層」が分解し、格差が増大している。富の寡占、貧困の深化、不平等の拡大などなどを目の当たりにしている。多くの人々が豊かであると満足するには足りない低賃金、その意味での富の不公平な分配やさまざまな不平等に満ちた現状とその状態を是認するばかりか拡大させ続ける現体制、これがわたしたちの現実だ。
何で十億円以上の年俸が当たり前の経営者がいるのに、このわたしの給料は増えないのか。給与や買い物は増税されるのに、どうして投資で、つまり労働もせずに、得た「儲け」への課税が低いのか。
わたしたちの暮らす社会は幸福な社会とはいえない。わたしたちがなすべきは、だから、もっと賃金を上げさせよう、公平な分配をさせよう、さらにそれが保障されるように体制を変えよう。ごく単純化すればこんな図式が見えてくる。
不平等と格差の是正へ
ところで、最大幸福とその量り方をめぐっては、古来、さまざまな議論が重ねられている。すでにJ・S・ミルは「量より質」を強調していた。一般的には、例えば、GDPという経済指標が国の幸福量の目安とされる。GDPの増大が国の幸福の増大だ、つまり国民の幸福の増大だ。しかし総量が増えても国民一人ひとりの幸福がそれに比例する保障はどこにもない。それどころか、GDPの増大が貧富の格差の増大と並行するという皮肉な事実も、とくに近年指摘されてきている。幸福であるはずの「最大多数」がどこかに消えてしまっている。これらについて本書では、A・センをはじめとして不平等と格差の是正のための改革思想についても論究されており、現代の代表的な考え方を知ることができる。
しかしながら、わたしたちの実感では、この国の幸福ではない状態が改善される見通しはいまだにない。何故か。問題の核心はどこにあるのか。「経済成長」(GDPの増大だ)という現代資本主義社会の幸福基準が、そもそもおかしいのではないのか。その基準をやめよう。経済成長万能、というよりむしろその強迫観念に対して、それに代わる基準を提起しよう。経済の「定常状態」を「成長」に代わる基準としてみよう、と著者は主張する。経済の定常状態をもって幸福への新しい一歩とするのは、目新しい考えではなく、J・S・ミルなども提起していた。これを再評価しよう。たしかに「経済成長」に替わって「定常状態」を幸福へのポジティヴな基準とするのは、「経済成長」にだけ目を向ける政策、またそれを支える考えへの有効な批判たり得るだろう。
そして「今日の定常状態論とは資本主義没落の認識であると同時に、新たなシステムの下における市場経済再生の構想である」(P96)と宣言される。
ではその新たなシステムとはどういうものなのか。資本主義に代わる市場経済システムは可能か」(P.110)と問うて、「本稿では資本主義を広義の市場経済を稼働させるオペレーションシステム(OS)のひとつと把握し、資本主義に替わる新たな市場経済のOSへの転換の必要性を強調したい」して、都留重人、宇沢弘文らの経済学説を評価している。OSの更新によるシステム改革が、具体的にどのような「市場経済再生の構想」になるかについては、今後の大きな課題であるだろう。
幸福を実現する「パラダイム転換」
さて、わたしたちは、より良い暮らし、幸福への欲望をもっている。このわたしたちの「欲望」を縦横に操り、それによって仕立て上げられた「欲望」の網にわたしたちを絡め取り、支配しているのが、現代の資本主義市場経済だ。むろんそこがわたしたちの現実の暮らしの場でもある。そこから離れて暮らしはあり得ない。だが、わたしたちがこの体制に無自覚である限り、その支配から逃れられない。本書が多面的に指摘するとおり、わたしたちは資本主義というシステムに支配され、資本主義はわたしたちを幸福にしていない。
本書は、繰り返し、現代の幸福実現のためには「パラダイムの転換」が必要だと強調する。パラダイムとは、わたしたちの暮らしにおいて「幸福観」を支えている諸々の価値体系、例えば、いま触れた「市場経済における経済成長」や「最大多数の最大幸福」などだ。パラダイムを転換するとは、これらを無効にするということであり、わたしたちは、行動においても、思考においても、これらに寄りかからない、ということだ。
これから「幸福」を実現するためには、わたしたちは自分の価値観を支えている根拠自体を転換しなくてはならない。わたしたち自身がその実現に向けて努力をしなくてはならない。しあわせは歩いてこない、のである。著者のことばを引用する。
「労働生産性の向上、すなわち科学技術の進歩や労働の質の改善の成果を、雇用の質の改善(ディーセントワークの普及)および労働時間短縮や実質賃金水準の引き上げなどの労働条件の向上に充当し、結果として幸福で豊かな勤労者生活を実現することによって、経済を成長なき好循環の軌道に乗せること、これこそが持続可能な社会に移行するための必須の礎であり、その結果として国民生活の全般的厚生を底上げすることにもなるだろう。しかしそれは体制変革を伴う経済史的なパラダイム転換であり、歴史の進歩を妨げる抵抗勢力に対する、明確な対抗軸を持った意識的政治闘争を介してはじめて可能となるのであって、予定調和的に実現されるものではない」(P.97)。
資本主義世界の黄昏に思うこと
先に、本書を幸福論として読むと、ただちに書名に対して、では「何が人間を幸福にするのか」と反問が浮かぶと述べた。操作された欲望に基づく「幸福」というポジティヴな価値を追求している限り、つねにその幸福自体が相対化されるということから逃れられない。ここでパラダイムの転換という発想が大きな意味をもってくる。
本書の著者や論者が学生の頃に、市井三郎は『歴史の進歩とは何か』(岩波新書1971)の中で、「幸福の増大」ではなく、「不条理な苦痛、つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛を減らす」ことへと価値基準を転換しよう、と提起した。従来のあらゆる「進歩史観」に対する、そしてそれに支配されたわたしたちの歴史観、幸福観のパラダイム転換の試みだった。当時のベトナム戦争ばかりではなく、古今東西「大義」をめぐる争いは尽きることがないからだった。
この視点から、「幸福の増大」を目指してきた、さまざまな運動をもう一度見直すと、どのような流れが見えてくるのだろうか。本書の提起を継承して、さらに今日、わたしたちは「不幸を減らす」ために、積極的に何ができるか、何をすべきか、と問いの向きを転換してみることも、意味のあることだといえないだろうか。
この資本主義世界の黄昏時に飛び交っているのは、現状、つまりわたしたちの幸福とはいえない状態を是認するまことしやかな言説や様々な流言蜚語ばかりで、智恵のフクロウの声や羽ばたきなど聞こえてこない。このようななかで、いまは著者が長年にわたり自らの研鑽で築き上げてきた考察に耳を傾け、さらに将来を見とおそうとする努力に学びたいものだと思う。
(JAM労組発行の『月刊JAM』2020年.3~4月合併号に掲載)
追記(2020.6)
パンデミックが炙り出した「人間を幸福にしない資本主義」
新型感染症のパンデミックという思いもよらなかった状況に世界中が大混乱に陥り、その混乱の中でたくさんのひとびとが倒れ、亡くなっている。大きな災厄が多くのひとびとを不幸に陥れている。今後さらにこの状況はグローバルな規模の深刻さを増すと思われる。この事態に直面して、『人間を幸福にしない資本主義』を突破する道を模索する本書の提起(とくに第6章「ポスト資本主義の働き方」)を思い起こしたので、今回『現代の理論』への転載を機会に一言書き添えさせていただきたい。
☆1☆
本書の副題は「ポスト『働き方改革』」だ。働くことは、わたしたちにとって、生きることであるから、働き方改革は生き方改革でもある。本書で指摘されているとおり、現実の政策としての「働き方改革」は、あたかも個人の自由で多様な生き方を尊重するかのような意匠の下に、ひとびとの働き方を働かせる側の都合に包摂するものだった。自由や専門性の名の下に、つまり個々人の労働の質を価値(差異)として認めるかのように装いつつ、労働量=時間の規制を、雇用する側の都合のよいように、外してしまうことなどその最たるものだろう。
今回の災厄をとおして如実に露わになった社会のなかの矛盾はいくつもあるけれど、とくにこの自由で多様な働き方を目指したひとびとが直面した困難には,改めてよくよく留意しておくべきではないだろうか。なぜならば、早くも「新しい」働き方がさかんに喧伝され始めているからだ。曰く、在宅勤務やテレワークの拡大、常態化とそれに伴う固定的な勤務場所の柔軟化、従来型の雇用関係=労働時間、評価の見直し、さらにAIの活用、ロボットの開発・導入による労働環境の改革などなどだ。また都市部一極集中からの脱却など、従来から問題視されてきた働き方をめぐるさまざまな課題が、これを機に「改善」されていくかのようだ。
しかし、わたしたちがいま目の当たりにしているのは、働き方改革で脚光を浴びた働き手たちが、職を失い、収入を絶たれた現実だ。災厄のしわ寄せを集中的に背負わされるのは、いつでも、どこでも、社会的に弱い立場のひとびとだ。先に称揚された働き手たちは、その華やかな見た目とは裏腹に、社会的な状況の変化に雇用と収入の両面をただちに直接左右されてしまう不安定な、その意味では、弱い立場のひとびとだということになる。
本書の「ポスト資本主義の働き方とは、端的にいって賃労働と資本の関係それ自体を止揚することにほかならない」(P.146)というテーゼは、同語反復的な表現ではあるけれど、社会関係そのものの再構築が、「ポストコロナ」「ウィズコロナ」、何と呼ぼうが、今後の社会の必須条件であるかのように示されているいま、その条件を検討するための大切な論点を提起している。賃労働と資本というシステムでは克服できない事態にわたしたち自身が立ち会っているからだ。
巷間流布しているように、コロナウィルス感染以後はそれ以前とは別の社会関係が要請されるというのはほんとうだろうか。いい方を変えれば、今回の危機の後には新しい幸福な社会が来るのだろうか。
あるべき働き方と賃金との関係、すなわちあるべき社会的平等と配分についての考え方の一つとして、本書で評価されているA・センの「幸福」についての理解(P.153 f.)に鑑みれば、「以前」「以後」が本質的に異なる社会関係として構想されるというよりも、むしろこれまでの根本的な課題がより先鋭に明らかになるとともに、その克服の方向性もまたいっそうはっきりしてくる、と考えた方が適切なのではないか。元からある課題をあたかも新たな課題であるかのように誤解してはならない。
本書を注意深く読めば、まさしく流言飛語の飛び交う現在の状況を見誤らないようにするためのいくつかのヒントを得ることができる。これからの課題としてマスコミなどでいま言挙げされている問題のいくつかは、「働き方」や「賃金」を含めて、本書で問われ、分析されているわたしたちの幸福についての、元からあるわたしたちの社会の根本課題だ。
☆2☆
もうひとつだけ例を挙げる。感染症に対応する医療機関が、その社会的責務を果たせば果たすほど、人的にも経済的にも損害を受けるという事態が起こっている。感染症との戦いの最前線で、自らの危険を冒して職務を果たしている医師、看護師、検査技師、のみならず事務職、保安職などすべての医療機関のひとびとが、その献身的な努力にもかかわらず、労働に対する正当な賃金、手当を保障されず、また医療機関自体の存続も危うくなっている。加えて、医療に従事するひとびとが、守ろうとしている当の社会の中で、まさに不当というべき差別を受ける。職務を担う医療機関とそのスタッフたちが経済的に追い詰められ、さらにひとびとから忌避される。
このことは、現在のわたしたちの社会システムが、医療的にも、経済的にも、さらには倫理=道徳的にも、ひとびとのいのちを救うために機能していないということを示している事態なのではないか。「人間を幸福にしない資本主義」の姿がここに、端的に、しかもはっきりと露呈されているのではないのか。医療関係だけに留まらず、同じようなことは社会のいくつもの場面で起きている。なぜ、こんな理不尽なことが起きているのか。立ち止まって改めて問題の所在をよく考えてみなければならない。
本書では、書評で紹介したとおり、経済的にも、政治的にも閉塞状況にあるこの社会の中で、わたしたちの幸福を追求するために求められているのは「パラダイム・シフト」だ、と繰り返されている。経済=社会システムの変革の動因のひとつたるべき労働運動を支えてきた著者の痛切な問題意識が強く伝わる。
ところで、わたしたちは、感染症は病気の原因が判明しているのだから、治療しやすい、特効薬ができれば万事解決、と単純に思い込んではいないだろうか。しかし「病気」もまた人間の「医療」に応じて変容していく。感染症には、人間自身の活動によって発生し、拡大するという面がある。「類的存在」としての人間に不可避的に付随する存在なのかもしれない。
感染を防止するために、人間同士の接触の機会、つまり社会的、経済的活動を抑制すれば、社会、経済が機能不全に陥る。また、抑制を緩和すれば感染が拡大する。その意味では、感染症は、自然的要因というよりも人間の社会活動と連なっている。病気及び感染拡大の因果関係は一重ではないし、たんに因果関係では捉えきれないともいえよう。
さらに、この感染症危機は環境危機と連なっているようにも見える。近年とくに顕著になっているいわゆる異常気象による「自然災害」が、人間の経済活動による地球環境の破壊に起因する「人為災害」だということと軌を一にしているかのようだ。
自然災害と呼ばれる災厄もまた、人間の従来の社会的、経済的活動に端を発し、それと並行していることは明白だ。感染症対策が、結果として、大気汚染を僅かながらでも抑制するというのは、皮肉な結果であると同時に、わたしたちの採るべき方向を期せずして示唆するものでもあるといえる。逆に、例えば、これまで抑制策が採られてきたプラスティック製品の増加という反対の現象も起こしている。いずれもわたしたちの社会的な行動規範を考える上では見逃すことができない。
いま、感染症による危機を体験しているわたしたちは、社会の変革という課題が、抽象的な思想の問題や他人事の社会運動などではなくて、わたしたち自身の生活のあり方を変革する現実の課題だと、意識し始めている。危機とは抽象的な事態ではなくて、いま生きているこの私の、そして同時にあなたの生命が脅かされていることである。わたしたちの幸福が否定され、さらに幸福の可能性が閉ざされることである。
米国の一事件に端を発した人種差別問題への意識変革の世界的な広がりも、この危機の中での出来事の一つだ。「変革」という本書の著者の思いを、より広い意味で、共有することができる状況に、わたしたちはいるのではないだろうか。
こばやし・やすのり
1949年生まれ。1982年専修大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。1984~1992年藤田保健衛生大学(現藤田医科大学)講師、助教授を経て、1992~2013年文科省主任教科書調査官。2013~2020年亜細亜大学非常勤講師など。専門は西欧近代哲学、倫理学研究。著書に『ドイツ観念論哲学の原理』(共著・高文堂出版社)ほか。
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