コラム/百葉箱
小日向白朗の謎(第3回)
満州馬賊を破滅に導く
ジャーナリスト 池田 知隆
満州から華北へ
「アラビアのロレンスよりも偉い」と、匪賊に誘拐された英国人少女を救出した営口事件(昭和7年9月)で英国大使に称賛された小日向白朗。その決着をつけると、満州国政府や関東軍幕僚から対匪賊工作への協力を求められていく。
満州に侵攻した日本軍には土匪、匪賊、馬賊、山賊、良民の区別がつかない。銃器をもっていれば、誰彼問わず討伐の対象にしていた。日本軍の正規兵は銃器、火器のレベルが格段に優れ、小銃と拳銃しか所持していない匪賊や馬賊などを討伐することはいともたやすいことであった。
それでも、乗馬で移動する馬賊は山間地でも自分の家の庭のように軽々と移動し、日本軍を悩ませた。日本軍は鉄路の点と線を確保するだけで、満州の荒野は匪賊や馬賊が支配していることに変わりはなかった。
満州の民衆にとって圧倒的な武力を備えた日本軍に抵抗するのは難しい。あえて抵抗すれば、その犠牲はあまりにも多すぎる。
「満州には約300万の匪賊がいるというが、その300万を討伐するということは、結局3000万民衆をことごとく討伐しなければ、満州には平和が来ないということだ。姑息な帰順工作で匪賊が消滅するものではない」(自伝『日本人馬賊王』)
白朗はそういってまずは、満州国政府の名において、匪賊に帰農布告を出す一方で、各地域に治安維持会を設け、各地の村長が身分保障するものは良民とみなすように措置すべきだ、と軍に提案した。
「匪賊の多くは、過去のいきさつや面子もあって簡単に矛を納めないかもしれない。それに対して、小日向白朗の責任をもって、満州国外に退去し、全部華北方面に移動させる。日本軍が直接手を出すことは遠慮してほしい」(同)
満州の地で生き抜いてきた白朗は大見得を切り、軍に馬賊討伐をやめるように説得。まるで出来レースかのように日本軍はそれを全面的に受け入れた。
1933(昭和8)年春。雪解けとともに、「東北抗日義勇軍」に集まった闘将や部下たちはそれぞれの家族とともに移動を始めた。その数、老若男女をあわせて約10万。馬賊とその家族らが万里の長城を越えて華北に移り、満州馬賊はこれによって満州の地を引き払って終わりを遂げた。白朗は、
「それぞれ正業について、満州仁侠の道を外さぬように待期(待機)すべし」(同)
と華北に移動した馬賊に伝え、新京の地で華北の情勢の推移を見守った。
日本人でありながら満州の民間軍事組織・義勇軍の総司令の立場で、日本軍と義勇軍の融和に努めても、常に日本の側に立って行動している。「戦火を避ける」との名目を掲げて白朗は満州での日本軍の治安工作の大役を担ったことに違いない。
常にアラブの側に立ち、祖国イギリスの不正に苦しみ、最後に自己を崩壊させてしまったロレンスに比べて、白朗はそれなりの葛藤を抱えても、どこまでも楽天的だ。数えきれないほどの同志たちの死を見つめながらも、くじけない。満州から馬賊を連れ去ったときでも、白朗は、将来、華北の地に馬賊の理想国(自治国)を作ろうとの夢を見ていたという。それは、あまりに身勝手な空想ともいえるが、白朗が次々と苦難を乗り越えていく精神の強靭さに驚かされる。
蒋介石との仲介役に・・・西安事件秘録
それから3年後、1936(昭和11)年12月12日、西安事件が起きる。
東北軍閥の張学良が、西安に滞在中の国民党トップ、蒋介石を逮捕、監禁し、国共内戦の中止を求めた一種のクーデターで、中国現代史の大きな岐路となった歴史的事件である。これを契機に国民党軍と共産軍は歩みより、翌年の盧溝橋事件後、第2次国共合作と抗日国民革命軍(抗日民族統一戦線)の結成につながっていく。
その西安事件のわずか2週間余り前のこと。白朗の仲介で、関東軍と蒋介石との間で、「日中和平」の密談が行われていた。白朗に蒋介石との仲介を依頼したのは、関東軍司令部の奉天特務機関長、土肥原賢二大佐(後に大将、A級戦犯で刑死)。白朗の若き日、北京の「坂西公館」で「軍事探偵でもやってみないか」とけしかけた人物である。
「その年の11月25日は、私にとって忘れられぬ日となった」というのは、密談で伝令役を担った木原喜一氏(元共同通信社員)。満州中野学校生として無線技術の猛特訓を受け、陸軍少佐だった木原氏は、土肥原大佐の指示で白朗に蒋介石との会見の斡旋を依頼していた。土肥原大佐はかねてから、馬賊や白系ロシア人に巨額の資金を流し、ソ連軍の動向を探っていた。(「昭和史と歩んだ数奇な経験」新聞通信調査会報、平成15年9月1日、第491号)。
その日、木原氏は西安の華清宮客殿で蒋介石を待った。華清池といえば、唐の玄宗皇帝と楊貴妃が過ごしたところである。奥の扉が開き、中国服で身を固めた白朗が入ってきた。すぐ背後に軍服姿の蒋介石の姿があった。
「毛沢東、スターリンがあなたを狙っている。日本よりそちらに目を向けないといけない」
木原氏は土肥原大佐の「伝言」を伝え、ソ連軍の動向、「中ソ共産党の密約」に触れた極秘文書を手渡した。
蒋介石は答えた。
「分かりました。日本とは戦争しない、と土肥原さんに伝えてほしい」
そして蒋介石は「便布(中国服)を用意してあります。それからこれを持ってお帰りください」と手帳のページを切り、なにか書いて渡した。「蒋介石は温かみのある、魅力的な人物だった。私たちの安全を気遣い、帰りのパスポートを自書してくれた」と木原氏はいい、こうも述懐している。
「蒋介石と白朗さんは、あっという間に消えました。私は某中尉が運転するサイドカーで宮殿をあとに、ひたすら原野を進みました。しばらくは頭が真っ白でした。そのうち軍服の下の腰巻をはずしました。そこに私は爆弾を隠し持っていたのです。交渉が不首尾の時は、その場で爆死するつもりでした。土肥原閣下からいわれていたわけではありません。とにかく、そういう事態になれば蒋介石も白朗さんも死んでいたでしょう。奉天にもどって閣下(土肥原大佐)に報告したところ、御苦労といわれて100万円の現金を渡されました」(木原喜一談、関浩三著『「日本軍の金塊』)
華北地区に移動した馬賊集団を率いていた白朗と蒋介石は互いにどのような策略をめぐらせていたのだろうか。いずれにしろ白朗が国民党とも太いルートを持ち続けていたのは確かだ。
蒋介石はそのころ、配下の将軍たちに「共産軍を追いつめ、最後の5分間の段階にきている」と豪語し、日本との和平に傾いていた。張学良によって蒋介石が逮捕・監禁されたものの、張学良の工作は不調に終わる。中国共産党は蒋介石殺害を検討したが、ソ連のスターリンの鶴の一声でそれは立ち消えになった。共産勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続させることで、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避するのがスターリンの思惑だったという。また蒋介石の息子、蒋経国が留学中のソ連で政治的人質となっていたことで、蒋介石はその帰国を条件に国共合作を認めたといわれる。
張学良も蒋介石も西安事件の詳細について何も語ろうとはせず、その真相は不明とされているが、この事件を機に白朗が間に立った日中の和平工作は微塵となって消え、中国全土で抗日の気運が高まっていく。
「興亜挺進軍」を旗揚げ
翌1937(昭和12)年7月7日、日中戦争の泥沼に引きずり込んだ盧溝橋事件が起きる。その張本人とされる牟田口廉也大佐(当時、支那駐屯部歩兵第1連隊長、最後は陸軍中将)と、その部下、一木清直少佐(同連隊第3大隊長)の2人は、白朗にとっても天敵でもあった。白朗率いる馬賊集団は牟田口大佐らの数々の謀略によって最終的に破滅させられる。
盧溝橋事件は、戦史をかいつまんでいえば、盧溝橋付近で日本軍伝令の2等兵1人の姿が消えたことから始まる。現場の中隊長が上司の大隊長・一木清直少佐に報告。一木は北京城内にいた連隊長の牟田口大佐に「中国軍と談判する」と連絡し、承諾をえたが、現場ではまもなく行方不明の2等兵が無事に戻っていた。用便を済ませるために持ち場を離れていたのだ。
そこに闇夜に銃声が響いた。一木は応戦の指示を牟田口大佐に仰ぐと、牟田口は「よろしい」と即答。日中双方は緊張状態でにらみ合い、当然、起こるべくして起きた事件だが、戦火拡大のきっかけは、一木隊からの一発だったといわれる。
後に牟田口大佐は「大東亜戦争は俺が起こしたのだから、俺の手で終わらせなければならない」と口癖のように語り、神がかり的な精神主義でビルマ戦線におけるインパール作戦を強硬に主張し、凄惨な地獄絵巻を繰り広げた。また大佐に昇進した一木もガダルカナル作戦を現地で指揮し、多くの兵士を死に至らしめた。
この盧溝橋事件勃発の情報をつかむと、白朗は新京から華北に飛んだ。旧知の青島特務機関長・谷萩那華雄中佐(当時、北支那方面軍司令部付、戦後BC級戦犯に指名され、スマトラ島で刑死、最終階級は陸軍少将)から秘密電報が届いたのだ。その文面には、
「万里長城付近に出没している数万の馬賊が日支どちらにつくかが大きな問題である。よって満州馬賊を日本軍の友軍、義勇軍に編成し、日本軍の脅威を取り除いてもらいたい」
とあった。
満州を追われ、華北に移動していた馬賊、匪賊の中には、共産軍と国民軍の消耗戦で中国全土が焦土と化していくことに絶望的している者も少なくなかった。戦火を避け、日本と平和を維持することは祖国への裏切りにはならない。かえって民衆の犠牲を抑え、祖国のためになると考えていたという。軍部の計画を知った白朗は、
「この土匪を編成して一軍を創り、民衆の匪賊化を防ぎ、これをもって辺境の治安の維持に当たりたい」
と申し出て、4年にわたって潜伏させていた全馬賊に号令をかけ、集結を命じた。
「それは日華衝突を機に、両者の間にあって、われわれだけの理想国を作ろうと思ったからだ」
谷萩中佐は白朗の提案を大いに喜び、この馬賊軍を「興亜挺進軍」と名付けた。谷萩中佐自らが顧問になり、黄色布地の四分の一の片隅に日の丸をつけてその軍旗とした。
この馬賊の軍の旗揚げを聞き、関東軍の御用新聞「新京日報新聞社」の従軍記者、野中進一郎がかけつけた。谷萩中佐の行動を怪しんだ支那派遣軍が、その諜報活動のために野中に白羽の矢を当てたのだ。
「面会したのは小日向の部屋であった。馬賊というから相当獰猛な人間でインテリジェンスのカケラもないだろと進一郎は想像していたのだが、案に相違してなんと小日向の机の上には『改造』と『中央公論』が置いてあった。
どうやら普通の馬賊とは違うな、インテリかどうかは別にして勉強はかなりしているようだ」
白朗の第一印象を野中はそう語っている(「日中戦争時代の父・野中進一郎」、野中の長男、雄介氏のブログhttps://plaza.rakuten.co.jp/shinichirononaka/)
初対面の野中に白朗はいつもの自説を論じた。
「シナの国土をこれ以上戦乱の巷にしてシナの民衆の生活を圧迫してはいかん。毛沢東や蒋介石の反日運動をこのまま看過していると、シナは焦土と化してしまう。シナの庶民の生活をこれ以上悲惨にしてはいけない。だから今は日本軍と妥協してでもまず平和を実現することだ。これが今、シナの民衆を救う一番の早道だ。野中君、分かるか」
この論理に賛同して多くの馬賊が白朗につき従っているのを知り、野中は決然と興亜挺身軍に身を投じ、友人の大陸浪人たちを大勢引き連れてきた。
興亜挺進軍では白朗自らが総指令となり、副指令に馬賊の大頭目が就いた。野中はジャーナリストとしての経験から秘書兼記録係を務めた。これは関東軍から馬賊帰順工作を監視する秘密命令を受けていた野中にとって絶好の役割でもあった。集まった馬賊は16000余、全体を11個総隊(日本でいう支隊)にまとめあげた。
日本軍による騙し討ち
だが、この興亜挺進軍の行く手にはことごとく妨害する日本軍の姿があった。
「もし生死を預けて華北に移動してきたあまたの義士たちに不信の念を抱かせたら、折角のこれまでの苦労も水の泡となり、彼らは直ちに土匪と化してしまう」
白朗は狼狽した。野中も「日本人の島国根性のせいか、日本軍は一方の機関が作戦を旗揚げしようとすると、功名争いに浮身をやつした色々な機関が足をひっぱり、作戦の成功を阻止する癖があった」とのちに語っているが、日本軍は立身出世のためなら同じ日本軍の破滅にも手を貸すという人物の集団であった。
興亜挺進軍の規模の大きさ、規律の良さ。それがかえって日本軍を不安に陥れたともいう。はたして日本軍が挺進軍をどこまで支援してくれるのか。白朗たちのそんな不吉な予感が的中し、突如として北京の警備指令官山下奉文の名によって興亜挺進軍の集結禁止の命令が発せられる。白朗は谷萩中佐を通じて山下奉文に連絡をとろうしたが、最終的に日本軍から「興亜挺身軍を匪賊と見做して討伐する」との宣告を受けた。
この宣告に白朗は激怒した。日本軍と一戦を交える気にもなった。だが、この戦いを聖戦と信じて闘う日本兵に銃口を向けることができず、鉛を呑む思いでこらえたという。ついに牟田口廉也大佐の要求によって武装解除に応じることを決意した。
37(昭和12)年10月8日、日本軍の武装解除を受けるために一部の歩兵と騎兵3500騎の計6500をつれて約束の地に向かった。最悪の事態を予想して挺進軍の大部分を残していた。
閲兵に指定された楊房は周囲を山に囲まれた平地だった。北京から牟田口連隊長と山下兵団の鈴木宗作少将(中支那派遣軍参謀副長)、昌平駐屯の一木大隊長も来ていた。そこで日本軍は、遠巻きにして秘かに軽戦車や機関銃を備え、武装解除部隊の包囲体制をとっていた。
白朗配下の歩兵と騎兵は整然と整列した。その直後、惨劇が起こった。野中は、朽木寒三の『馬賊戦記』で次のように話している。
「私は、前夜からおこなわれていた日本軍の包囲に気づいていたが、あくまでも、単なる武装解除だと信じていた。が、日本軍は、包囲殲滅の腹づもりだったのだ。小日向総指令が前に進み出て、これから軍の閲兵があると演説をブチ始め、次に、日本軍はこのあとわれわれを武装解除する、と言ったとたん、全軍にものすごい動揺が起こった。至るところで先を争ってガチャガチャ、ガチャガチャ鉄砲にタマをこめ始める。騒然たる戦闘準備だ。
そのとき、日本軍の信号弾がドーンと上がった。攻撃命令だ。私は、あらん限りの声で、
『逃げろッ』
と叫んだ。すると、最も親しくしていた陳継武があわただしく馬を寄せてきて、
『逃げて大丈夫かッ』
『逃げろッ、走れ』
となおも私は叫びつづけた。山をめがけて真先に走りだしたのは李景勲の部隊だった。同時に騎馬の全軍が山に向かって驀走を開始した。私は乱軍の中を、縦横に馬で乗りまわし、のども裂けよと叫びつづけた。
『馬隊は走れッ』
『歩兵隊はしゃがめッ。伏せッ、伏せッ』
日本軍の将校団は、護衛兵にとりかこまれ、総指令(小日向白朗)を捕虜にして大急ぎで退避していた。私は奴らを射って、自分も山に入り、馬賊になりたいと思った。日本軍を憎悪し、馬賊をなつかしむ激情の発作は、圧倒的なつよさで私をとらえた。そのとき、一群の軽戦車が土煙りをあげて走り出した姿が、ちらと横目に映じた。私は、もう逃げられぬと思った。日本軍の重機関銃はすでにこの前から、轟然と火を噴いていた。それに戦車隊の火器が加わり、すさまじい殺りく戦が始まった。
私は畑の中の窪地に身をひそめ、この光景を我が眼底に焼き付けて残し、もし生きて脱出できたならば、いつの日か必ず、日本軍の暴虐と背信をバクロしてやるぞと思った」
馬賊集団の終焉
生き残った興亜挺進軍傘下の馬賊集団は各地に散り、日本軍に対するゲリラ戦に挑んでいく。白朗はその場で逮捕されたが、まもなく釈放される。日本軍がそこで奪った馬の数は4500頭にのぼり、これらは挺進軍に従軍した日本人が北京に連れ去ったという。
白朗は『日本人馬賊』のなかでこう書いている。
その夜、白朗は北京東城の隠れ家で、最後まで従ってきた日本人同志と満州以来の血盟の義士たちを集め、決別の宴を張った。日本人同志には
「日本の同志よ、日本と中国は一つである。歴史は不幸にして二つの民族を相争わせている。きみ達は出来るだけ日本の第一線に参加し、誤れる日本軍の民衆虐殺から中国人民を守れ! いまわれわれ日本人にできることはそれ丈である」
満州以来の義士たちには
「大勢に逆うことは愚である、自然の成行に従え、日本の覇道は当分続くであろうが、それも行きつくところが来る。日本の特権意識では、とうてい中国四百余州は救えまい。一時、馬上天下をとるであろうが、必ずかれらは馬上で、天下を亡ぼすであろう。また国民政府も国民党も日本軍人以上に貴族化している。かれらにも四百余州を救う素質はない。ただ一つここに八路(パーロ、紅軍)が残っている。八路に留意せよ」
と別れを告げ、手塩にかけて育ててきた側近の徐春甫(義娘)に愛用の拳銃「小白竜」を渡した。
「満州の国定忠治」といわれた白朗による満州馬賊終焉のシーンだ。「縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ」とばかりに、日本の仁侠の徒、国定忠治が「赤城の山も今宵限り」と語る名場面を想起させる。この本を最初に手にしたとき、白朗の波乱万丈の生き方や活躍に目を奪われたが、再読するうちに白朗の語りにどこか自己陶酔の極みを感じさせられる。
中国人と日本人との混血児であると自称し、20年に及ぶ馬賊暮らしを通して見事に馬賊集団の大頭目となった白朗。多くの匪賊、馬賊の間で何度も捕まりながらも、死を迎える直前に必ず助けられる奇跡の数々。「日本軍との戦火による犠牲を抑えてほしい」という民衆の期待を集めながら、満州の馬賊集団を一斉に連れ去り、奈落の底に突き落とした。いつしか日本軍の”隠れ工作員”として日本の特務機関の指令で動いていたことが浮かび上がってくる。
この満州馬賊の壊滅を書き、白朗は自伝『日本人馬賊王』を終えた。その「あとがき」にはこうある。
「思えば私の奇しき四十年の大陸生活は、波瀾につぐ波瀾をもって終始した。それはまた激動して壊滅した日本軍国主義の運命の蔭に躍った一つの影法師にも似たものであった。私は知らず識らずのうちに大陸の尖兵になって居ったのかも知れない」
といい、こう締めくくった。
「最後に『アジアは一つ』といわれた岡倉天心先生の一言を、若き世代の人々に贈ってこの稿を了えることにする」
川合貞吉との接点
馬賊が壊滅した後、白朗は天津、上海などの特務機関で数々の謀略活動に加わっていくが、そのことは次回に譲る。
敗戦から5年後の50(昭和25)年ころに台湾経由で帰国した白朗。55(昭和30)年ころに上京し、東京・中野の野中進一郎宅でこの自伝の執筆にかかっている。白朗のほか野中と川合貞吉が加わり、3人の共同作業として完成させたという。「当時、野中家に寄宿し、本の執筆に協力していた」(野中雄介氏)という川合は、ゾルゲ事件に連座し、10年の刑期を務めた筋金入りの共産主義者である。川合と白朗との接点はいつ、どこでできたのだろうか。歴史をたどる作業は、思いがけない人物と出会うから、おもしろい。
川合は白朗より1歳下。白朗が馬賊を率いていたころ、中国共産党に身を投じ、中国軍の側から馬賊や日本軍を見つめていた。手元にあった川合の著書『匪賊―中国の民乱』(新人物往来社、1973年刊)によると、川合は自らの略歴をこう紹介している。
「1901年、岐阜県大垣在に生る。1925年明大卒業後、日本新聞社に入社。間もなく辞めて自由労働者の群れに入り組合運動に身を投じた。1928年北京に渡り、その後中国共産党に入って日華闘争同盟その他の組織により反帝国主義運動をつづけた。1931年リヒャルト・ゾルゲ、スメドレー、尾崎秀実らを知り、コミンテルンの活動に参加、10年にわたる。1941、ゾルゲ事件連糸として検挙され10年の件をうけ、戦後出獄。著書『支那の民族性と社会』『女将―自由の嵐に立つ女』『北一輝』『ある革命家の回想』」
ゾルゲ事件とは、ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして1941(昭和16)年9月から翌年4月にかけてその構成員が逮捕された事件。尾崎秀実は、近衛内閣のブレーンだった元朝日新聞記者(同事件で死刑)。米国の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーは、中国共産党に関する著作で知られ、ソ連崩壊後にコミンテルンの工作員であったことがわかっている。
先の西安事件当時、朝日新聞記者だった尾崎は、ソ連のためのスパイ活動をしていた。スターリンが蒋介石暗殺を望んでいないこと、蒋介石の生存や国共合作による抗日統一戦線の結成を予測していた。その冷静な情勢分析を目に留めた近衛文麿と親しくなっていく。以後、日本政府中枢の極秘情報がゾルゲ情報団を通してソ連に筒抜けになる。中国共産党、ゾルゲに連なる川合の眼には、日中戦争の間、白朗の動きはどう映っていたのか。
川合は敗戦後、占領国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政治犯釈放指令により釈放されたが、晩年に至るまで「ゾルゲ事件の生き証人」として執筆活動を繰り広げた。「伊藤律は共産党の裏切り者で、尾崎の絞首刑に責任がある」と語り、上海時代のスメドレーが「ゾルゲの諜報団メンバー」とした証言が波紋を呼んだ。2000年に米国で成立した「日本帝国政府情報公開法」に基づいて公開された機密資料によると、川合はGHQ参謀第2部(G2)のエージェントとなって報酬を得ていたことが明らかになっている。
そのころの野中宅には、5・15事件で犬養毅首相を射殺した三上卓、東京駅で浜口雄幸首相を銃撃した護国団の佐郷屋留雄、浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢を指導した杉本広義など右翼関係者の出入りが多く、野中進一郎は自宅を「梁山泊」と称していたという。中国やアジア情勢にも詳しく、著作も多い川合は、米軍情報機関のエージェントとして右翼関係者の動向を探りながら、この『日本人馬賊王』にかなり手を加えていたとみられる。
『日本人馬賊王』は、57(昭和32)年11月15日に刊行。第1刷3000部。東京都世田谷区の第二書房刊で、刊行者は伊藤祷一氏。出版記念パーティは新宿の鰻屋で行われ、右翼関係者が多数出席した。
台湾の国民党政府、中国共産党、日本の左翼と右翼の関係者、そしてGHQなど白朗の周囲では戦中、戦後にかけて様々な謀略が繰り広げられていた。
参考文献
・『馬賊』渡辺龍策著、中公新書、1964
・『馬賊で見る「満洲」』澁谷由里著、講談社選書メチエ、2004
・『馬賊頭目列伝』渡辺龍策著、秀英書房、1983
・『馬賊戦記上・下』朽木寒三著、番町書房、1975
・『日本軍の金塊―馬賊王・小日向白朗の戦後秘録』関浩三著、学研、2013
・『アジア主義―西郷隆盛から石原莞爾へ』中島岳志著、潮文庫、2017
・『キメラー満洲国の肖像(増補版)』山室信一著、中公新書、2004
・『満州国演義(全9巻)』船戸与一、新潮社、2007~
いけだ・ともたか
一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
コラム
- 沖縄発/コロナ禍 追悼のあり方に影響沖縄タイムス学芸部/内間 健
- 深層/朝鮮戦争勃発70年―秘められた日本「参戦」の事実が明らかにジャーナリスト/西村 秀樹
- 百葉箱/小日向白朗の謎(第3回)ジャーナリスト/池田 知隆
- 温故知新/日本の盛り場―浅草の争議を巡って現代の労働研究会代表/小畑 精武
- 若者と希望/どんなに小さな言葉でも歴史知研究会会員/川島 祐一
- 若者と希望/息苦しい今の世をぶちぬきたい舞台役者・肢体不自由児支援事業職員/笠井 幽夏子