この一冊

『女帝 小池百合子』(石井妙子著/文藝春秋/2020.5/1650円)

騙す方が悪いのか、騙される方が悪いのか?

出版ジャーナリスト 日高 有志

『女帝 小池百合子』

『女帝 小池百合子』(石井妙子著/文藝春秋/2020.5/1650円)

いったいこの本をどう読んだらいいのか。すべてを虚構の小説として読めば、とんでもない冷血、嘘つき、そしてメディア操作に長けたアンチ・ヒロインの登場ということになる。しかし、現実は小説よりも奇なり。これは、小説ではなく実在の政治家を描いたルポだ。

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陳情にやってきた阪神大震災の被災者の前でマニュキアを塗り、塗り終わったとたん追い返した。拉致被害者の横田夫妻らとともに写真におさまった後に部屋に戻ってきて忘れていた自分のハンドバッグをみつけて「拉致されてなくてよかった」といった。この本におさめられた冷血そのもののこれらのエピソードはすでになんども紹介されている。

つねに疑惑がつきまとうカイロ大学首席卒業問題も、当時いっしょに生活していたという日本人女性の話をもとにくわしくとりあげている。この話をよめば、やはりアラビア語を習得して大学を首席で卒業したということがかなり怪しいと思わざるをえない。もっとも、今回の都知事選挙広報をみると、カイロ大学卒業となっていて、首席の文字は消えている。

週刊誌に掲載された卒業証書をめぐって、本物のカイロ大学大学院卒業者・中田考は、この証書を本物だろうと推測している。ただ、小池が以前いっていたような首席卒業ではなく「外国人の客人として特別扱いをしてもらって卒業したんだと思います。それは全然おかしなことではなくて、アラブでは普通のことです」(ヤフーニュース、2020年6月16日配信)といっている。

本にも登場するが、小池の父親がエジプトの高官とのつきあいがあったためにいろいろな便宜を受けていた。あくまでも客人として卒業を与えられたのだろう。しかし、学としてアラビア語やイスラーム理解は、同居していた女性のいうとおり「あまりにも拙いアラビア語」(『女帝』)に過ぎなかった。卒業は証明できても、首席はまずいということになったのか。

「政治家をめざす人は、若い頃に別の社会を見ておく必要がある」といった自然科学の研究者がいた。日本に留学し、近代化過程を見つめた周恩来、船員としてフランスをはじめ欧米を見てきたホーチミンなど、外国での体験をのちの政治家としての人生に活用した例は枚挙にいとまがない。しかし、小池の場合、エジプトのサダト大統領夫人来日時にアテンドしたとか、飛行機事故を2度も回避したとかというエピソードはあっても、中東、イスラーム社会にたいする深い理解のうえでの政治活動というものがあるのだろうか?

カイロ大学首席卒業、大統領夫人のアテンド、飛行機事故を2度も回避……。いくつもの物語に彩られた人生。しかし、本人の語りは別にして真実はどこにあるのか。 

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小池にとって留学後につかんだテレビ番組のアシスタントという仕事が政治家への大きなステップになったことはまちがいない。1979年4月、情報番組「ルックルックこんにちは」のなかのコーナー「竹村健一の『世相講談』」に起用された。竹村はこういっている。「テレビは何を言うかやないんや、視聴者は、そんなことよりネクタイがどうだ、とか、髪がはねているとか、そういうことを気にするんや」。こういう見せかけをよくすることは小池の資質によくあっていたのだろう。

カイロ時代に同居していた女性がこういっている。「つぎつぎと訪問客がやってくる。皆、男性だった。小池はコケティッシュな振る舞いで彼らを翻弄し、魅了していた。大きな眼で上目遣いに見つめる。小首をかしげて、目をクルクルと動かす。独特の身体のしな。ダジャレの切り返し」(『女帝』)。いまでも、こうしてテレビに登場する女性○○がたくさんいることに気づくだろう。そういえば、東大出身のある国際政治学者もこういう仕草が多いのではないか。

この部分を読んでいてある小説を思い出した。

「おれたちは、お前がおれたちの前では絶対に唇を閉じ合わさないこと、絶対に脚を、膝を閉じあわさないことを命令する。……お前はおれたちの顔をけっして正面から見てはいけない」(ポーリーヌ・レアージュ著、澁澤龍彦訳『O嬢の物語』、河出書房新社)

自由を捨てて奴隷状態を受け入れ、男たちに強いられる性、屈従、拷問のさなか(SM小説仕立ての見せかけ)で人間の奥底にひそむ非合理な衝動をえぐった(文学的主題)作品だが、この男たちの命令は、その後の私たちの文化を縛っている。ファッション雑誌の女性モデルの姿勢や表情をこの文を思い描きながら見てみるといい。テレビに登場する女性○○の姿にも、本人がこの小説を読んでいるいないにかかわらず、この一文が浸透している。いや、むしろ、それを積極的に利用しているというべきかもしれない。

「何をいうかではない」、どういう見せ方をするかを知るものが視聴者を支配する。それをもっとも理解した政治家が小池百合子なのだろう。

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政治家としての小池について考えるとき、「彼女は、『敵』を作り出して攻撃し、『敵』への憎悪を人々の中にも植えつけ、その憎悪のパワーを利用して自分の支持へとつなげていくという手法を何度となく駆使している」(『女帝』)という著者の指摘に多くの読者が納得するだろう。

前回の都知事選を思い出す。自民党に所属していながら都知事選に立候補し、他の候補を考えていた自民党都連の石原伸晃と対立した。このけんかに元都知事で伸晃の父親・石原慎太郎まで参戦することになった。この事態を巧妙に自民党のオヤジと闘う女性政治家という構図(物語)に誘いこみ、石原慎太郎の「大年増の厚化粧の女」発言を誘発した。

これに対してテレビに向かって小池はこういった。「実は私……、この右頬に生まれた時から、アザがあるんです。それを化粧で隠している。だから、どうしても化粧が濃くなってしまうんです」(『女帝』)。この一言で、「石原は女性の容貌や年齢をあげつらったという罪を超え、許しがたい差別者として糾弾され」(『女帝』)ることになった。

このときだけに着目すれば、すべて石原の醜悪な女性蔑視だ。しかし、この本を冒頭から読めばわかるとおり、小池と石原慎太郎との確執の背景はもっと複雑だ。政治や事業(石油関連)に色気を示していた小池の父親・勇二郎は、「石原先生のお手伝いをさせてもろうて、自分も選挙に出た(落選)」(『女帝』)こともある。 

往時をしる人物は、「勇二郎はなけなしのカネを使ったろう。でも、石原からすれば、タニマチでもなんでもない。石原も勇二郎を利用したし、勇二郎も石原を利用した」「(高校生だった百合子は)父親の法螺を信じよったのかもしれん。石原に金をつぎ込んで家が傾いて破産したと信じ込んだ」(『女帝』)と語っている。深い因縁をもった仲というべきか。

すべては小池百合子という政治家を彩る物語に語り直され、しかも物語には、かならず手強い(しかも極悪)の敵が現れて、さっそうとして敵を退治する大団円が待っている。

この間のコロナ問題でも、第1次の流行がおさまり、第2次の流行がはじまったようだが、感染者が多めに出ている新宿・歌舞伎町などを敵に見立てて「夜の街」攻撃をくり返している。いったいコロナ問題で小池がなにをしたのか。オリンピックの延期が決まるまでは、ほとんど現れることもなかったのに、延期が決まった瞬間に「ロックダウン」「オーバーシュート」といった都民にはわけのわからない英語をもちだして、毎日のようにテレビに登場するようになった。新たなウイルスという敵に立ちむかう知事を演出したコロナを奇貨とした選挙運動だったのではないか。そのおかげなのか、都知事選挙では、はなから当選の予測が出ている。だますほうが悪いのか、だまされるほうが悪いのか。(ここまでを都知事選挙前日、7月4日までに書いた)。

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さて、今日は、都知事選挙の投開票日。私は午前8時過ぎに投票所に行った。毎回のことだが、投票所は、高齢者が多い。若い人は選挙に無関心なのか、それともさっさと期日前投票をすませているのか。今日の投票率は、「午後7時半現在の推定投票率は37.32%で、 前回2016年の40.14%を下回っている」という。これだけ低い投票率のなかで選ばれた知事が民意を反映しているといえるのか。

マスコミは、開票がはじまったと同時に小池当確の報を流している。

そもそも、今回は、マスコミが事前に小池有利を流しつづけていたことと、コロナ対策を理由に選挙運動そのものが低調で、しかも小池がほとんど出てこない(街頭に出ないのは勝手だが、公開討論などにもほとんど出ない)状態だったうえに、投票所でも感染の可能性がとまでいわれ、投票率が上がる要素はなかった。

この結果を受けて、過去の4年間の延長の都政がつづけられるのだろう。新たな問題をあげれば、オリンピックが本当に開催できるのか、コロナ対策で大幅に減額した都の財政問題がどうなっていくのかだろう。もう一つあるか。小池がいつ国政に色気をだすかだろう。

都知事選挙の結果をみると、もう一つ気懸かりなことがある。当選した小池(366万票)のほかに主要候補に続いて5位の日本第一党・桜井誠が17万8千票をとっている。桜井はこの10年あまりのあいだ、在日コリアン、在日中国人に対する悪質な排外主義運動をくり返してきた。

小池にも同様の傾向を認めることができる(『女帝』では、こうした小池の思想傾向にはあまりふれられていない)。顕著に現れたのは、関東大震災のときの朝鮮人虐殺をめぐる追悼式典に対して圧力をかけていることだろう。1974年以降、この式典に歴代都知事は追悼文を送っていた(石原知事時代すら)が、2017年、小池は突然とりやめた。

こうした動きは2009年に工藤美代子の名前で出た『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、のちにワック出版から工藤の夫・加藤康男の名で改訂版が出た)を背景にしている。これまでの歴史研究の成果を無視して朝鮮人虐殺を否定し(犠牲者の数が多すぎるというような細かい事実を否定=事実はなかったという南京虐殺、ユダヤ人虐殺を否定するのと同じ論法)、朴烈・金子文子裁判(当時の日本の権力者が朝鮮人暴動はあったと根拠づけようとしたデッチあげ裁判)をもちだして「朝鮮人暴動はあった」という珍説を開陳した。今の日本には、出版の自由があるから、どんな珍説でも本にすることはできるが、これを一つの学説だといって一部の都議会議員などが議会で質問に使っている。2017年の小池の追悼文とりやめは、こうした動きにつらなるものだろう。

そして、この小池の動きに連動するように排外主義を振りかざしている団体「そよ風」(2010年にこの団体主催の集会で小池が講演したことがある)が9月1日の追悼式典に隣接する公園で「朝鮮人が暴動を起こし、日本人を虐殺した」「日本人が朝鮮人を殺したのは正当防衛だった」というデマをたれながす集会をはじめた。こうした悪質なデマに抗議する声に対して、東京都は逆に、昨年12月に「朝鮮人犠牲者追悼式典」実行委員会の許可申請に対し「公園管理上支障となる行為は行わない」「拡声器は集会参加者に聞こえるための必要最小限の音量とする」などという条件に従うよう圧力をかけている。

小池の票のなかの一部はこうした傾向に同調する票といえるだろう。都民のなかに数十万の規模で排外主義や歴史修正主義に同調する層が生まれているといっていい。こうなると、たんにだまされているともいえないだろう。権力のうそに乗って、あるいは、そうした権力のうそを自らの政治的な願望(野望)に利用しようとする勢力がそれなりの規模で根づいているということになる。

憂鬱な日々がつづく。(7月5日21時、7月20日)

ひだか・ゆうし

出版社の編集部長を経て、ジャーナリスト、フリー編集者として活動。

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