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辺野古の無惨と無慙の安倍的日本人

米兵による日本人女児強姦事件を、日本の自然破壊であがなう結末。これを「恥ずかしい」と思わぬ方が、よほど反日・売国的である。

作家 笠井 一成

辺野古埋め立て用の土砂搬出。その予定港=本部港塩川地区が、台風24号で壊れて使えなくなった。

さて、安倍政権が求めても、壊れた港湾施設の使用許可を本部町は出そうとしない。すると安倍政権は、山口県宇部興産の元子会社・琉球セメントの桟橋から土砂を搬出するという奇策に出た。民間企業の桟橋だから自治体の許可は不要という屁理屈である。(ちなみに宇部興産とは、安倍の祖父・岸信介の長男=岸信和が長く勤務した企業である。)

バレると奇策は奇策でなくなる。だからバレないよう実行直前まで箝口令を敷く。「沖縄に寄り添う」を常套句としつつ同時にだまし討ちを実践するこの体質。実にいやらしく安倍らしい。

(注…安倍や菅が本当に「寄り添って」きたらキモいので、みんなで身をかわしましょう。)

沖縄県知事の決定ムカつく!と、安倍政権の国土交通相が同じ安倍政権の防衛相に「行政不服審査請求」をした「奇策」、というより茶番もあった。行政不服審査請求とは、弱い市民が強い国家に対峙する際の武器であるが、安倍政権によれば「国土交通相も市民だから請求できる」のだと。「政府権力イコール市民」と来ては、もはや屁理屈ですらない、論理そのものの崩壊である。

そもそも1995年。小学生女児強姦事件の際、村山総理は毅然として「米軍は出ていってくれ。以上」と吐き捨てればよかったのである。あんな、マーカス・ギルその他(=加害者ども)みたいな下等人間を飼っている米海兵隊など沖縄の土を踏むな空気すら吸うな、即刻出ていけと。フィリピンやイラクや独伊のように、自国の立場、政治家としての思想と理念と哲学とビジョンを明確にし、自分自身に誠実な態度を取ればよかったのである。そうしておればクリントンも恐縮しきりだったろう。

ところが日本の政治家に「毅然」は、ない。尻尾振って胡麻擦って、ヘイコラペコペコと「普天間の代替え地=辺野古」なんて自分から切り出す始末。なんと、女児強姦が自然破壊に帰結するお粗末である。「日本人は組し易い」と、アメリカが侮る所以はここにある。曰く「日本人にはインテグリティ(=自分自身への誠実さ)がない」。

その人の誠実は、その人が持つ歴史観や人生観や道徳観に由来する。

言葉の意味において誠実が誠実たり得るには、その人の歴史観や人生観や道徳観が、人類共有の財産である「知識」に淵源するものでなければならない。インテグリティとは従って、世界の知性に裏づけられた自信の意味である。

女児強姦を自然破壊であがなう話のどこに誠実さがあるといえるか。日本の青い海に日本自身が茶色い土を流し込む無惨の奈辺を誠実と形容できるのか。

安倍的=愛国、反安倍=反日と、短絡スイッチしか備わっていない「安倍的日本人」が、性別年齢差を問わず日本に蔓延っている。安室奈美恵が翁長前知事に哀悼の意を表した際、ネット上に「アムロって反日なの?」が飛び交ったようだが、これなどまさに安倍的日本人の典型的な動向例である。

日本の青く美しい海に日本政府自身が茶色い土砂を、しかも他地域の土砂だからどんな生物が付着付随しているとも知れない土砂を流し込むブザマ。

辺野古のこの無惨な光景に、慚愧も忸怩も覚えない方がよほど反日・売国的なのであるが、それが安倍的日本人には分からない。なぜか。安倍的日本人は無慙だからである。

安倍的日本人は、「慚愧」「忸怩」を「残念だ」の意味に取り違えて使う。だから例えば明仁天皇の退位希望発言を指して「慚愧に堪えない」「忸怩たる思い」と口にする(二階俊博その他)。これは「明仁天皇は恥ずかしい」の意味であるのを、言う当人は気づかない。無教養だからである。斯様な無教養では、無惨と無慙の違いも判別し得ないだろう。

ところで。

日米修好通商条約もタジタジの、最悪不平等条約は日米地位協定。これにより、米軍は日本国内で事実、治外法権を付与されている。その醜態への日本政府による言い訳がコレ。

「一般に外国軍隊は受け入れ国の法律・裁判から免除されると考えられています(外務省ホームページ)」

二点、指摘する。

一点目。「一般に考えられています」という言い方。子どもはよく「何々だってミンナ言ってるよ」と口にする。「ミンナが言っている」の大人版が「一般に考えられています」だ。「ミンナ」「一般」とか言うのだが根拠は示さ(せ)ない。外務省ホームページはこのように、児童心理レベルで書かれていて笑える。

二点目。そもそもアメリカ政府は、世界各国政府と結ぶ地位協定で「受け入れ国の法適用が原則」としている。それなのに日本だけが、「日本の法律は適用しませんよ(=米軍は好きにふるまってくださいね)」なんて媚びるように自ら言い、国を差し出す。これを主権の放棄、売国行為と呼ばずして何と呼ぶべきか。

歯舞・色丹を巡ってプーチンが「日本に主権はない(から簡単に渡せない)」と見下すのも無理はない。そこへ輪をかけるように、無慙な安倍と安倍的日本人は、見下されていることにすら気づかない。この鈍感の所以はインテグリティの欠如であるのは言を俟たず、その「見るも無惨さ」を私は笑う。

さて。

辺野古埋立てを止める手立ては、ある。WE the PEOPLEの署名活動もいいが、もっといいのは実力行使だ。

別に荒唐無稽をほざいているのではない。相手が無茶苦茶やってくるのなら、こちらにも等価に対抗する権利は天賦のものとして、当然ある。

但し絶対に死傷者を出さぬ細心の配慮が必要なのは、これもまた言を俟たない。あらずもがなの締め括りである。

かさい・いっせい

1959年生まれ、京都市左京区出身。旧ペンネームはヨーゼフ・Kまたは闇洞幽火。1990年「犬死」が第22回新日本文学賞候補作。1992年「希望」が第23回新日本文学賞候補作。1993年「特殊マンガ家の知性」が『ガロ』第1回マンガ評論新人賞最終銓衡作。著書、『形見のハマチ』(近代文藝社 1995年)、『はじめての破滅』(東京図書出版会 2009年)、『父と子と軽蔑の御名において』(牧歌舎 2011年)、『不戦死』(風詠社 2016年)、『血魔派の三鷹』(幻冬舎 2017年)。

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