論壇
シェアリングエコノミーを考える
所有から共有へ、さらに分かち合いへ
市民セクター政策機構常務理事 宮崎 徹
はじめに――所有からシェアへ
今年の新聞の正月企画でもシェアリングエコノミーが大きなテーマとして取り上げられた。ちなみに、朝日では「エイジングニッポン」という企画物で「シェアする 自由も不安も」という紹介記事に多くのスペースを割いた。日経も同じく企画物で「シェア経済 成長止まらず」と論じていた。実際、テレビや新聞で民泊の「エアビーアンドビー」やライドシェア(相乗り)の「ウーバー」といった会社名を目にするする人も多いだろう。
シェアリングエコノミーに統一的な定義はまだない。用語的にも、共有経済、コラボティブ経済(協働経済)、コラボ消費などいろいろである。新しいコンセプトがまだ煮詰まってはいないことを示している。とはいえ、大まかなイメージは、遊休しているさまざまな資源(モノやサービスあるいは技能)を相互に活用するということである。週末しか乗らない自家用車の稼働率のことを考えれば、その意義はよく分かる。遊休資源の相互活用は、経済的には効率や生産性が高まることであり、環境論的にはエネルギーや文字通りの資源の節約につながる。
さらに文明論的に想像力を働かせると、人々の価値観が「所有」から「共有」へ、さらに進んで「分かち合い」というふうに変化しつつある予兆といえなくもない。たしかに戦後の高度成長期に顕著だったように、かつては人々が豊かさを享受するのはモノを買い、持つことを通じてであった。たとえば家電のような新製品を次々に購入することで豊かさを実感してきたのである。所得が伸びるとともに、より高い車に買い換えるというのも典型的な成長経済下の消費行動だった。
ところが一国の経済も人生と同じく、幼年期や青年期があり、日本をはじめ経済先進諸国はおおむね成熟段階に入っている。最近では格差や貧困が問題になってきてはいるが、モノの豊かさは昔とは比べものにならない。生まれたときからたくさんのものに囲まれて育ってきた人たちは、さらに多くのモノを持つことによって豊かさを感じることは少ないだろう。以前は多くの若者の垂涎の的だった車も、最近の若者はそれほどほしがらないという。豊かさは別の形で追求されているようだ。
さらに環境や資源の制約によって、これまでのような経済成長を続けられないこともますます明白になってきている。モノを作り続けながら成長路線を歩むことには限界がある。また、モノを作ればごみが出る。
改めて宇宙船地球号は、成長や増大ではなく分かち合いや自然との共生のうちに生きるしかない。そして、広い意味での経済的資源(人、モノ、カネ)をどう使うか、どう配分するかが経済文明の根本問題であるとすれば、シェアリングエコノミーはそこに重要な示唆を与えているのではないか。
シェアリングエコノミーの二つの道
シェリングエコノミーが存在感を増している社会的背景や文明史的意味のほうへ話が一足飛びになってしまった。しかし、いうまでもなく具体化の推進力は、情報化社会の進展、とりわけIT技術の急速な進歩である。オンラインネットワークの広がりやさまざまなソフト、プラットフォームの充実、そして使う側からすれば便利なスマホの普及によっていろいろな取引が個人間でダイレクトにできるようになった。これをP2P(ピア・ツウ・ピア)といって、中央の巨大サーバに多くのコンピュータがアクセスするのではなく、コンピュータ同士が直につながる方式である。
例えば、客を乗せたいと思うドライバーと車で送ってもらいたい利用者を結びつけるプラットフォームがウーバーのアプリだ。これを使って双方はただちに交渉できる。こうした方式のモノやサービスのやり取りは、もちろん自動車や自転車など移動手段だけではなく、物品販売、不用品の融通、宿泊サービスなどいろいろな分野に急速に広がっている。そのあたりの成功事例を取り上げた本や雑誌も大変多い。
しかし、シェアリングエコノミーに関する現状の議論はあまりに市場サイドに偏っているのではないか。ちなみに、日本にもシェアリングエコノミー協会という一般社団法人があるが、そこに参集しているのはベンチャー企業と思しきものが大半である。とはいえ、巨大なビジネスチャンスを生かそうとする動きを否定するわけではない。むしろ歓迎すべきだろう。
ただ、シェアリングエコノミーにはもうひとつの、つまり非営利的、オルタナティブな方向なり要素があることが、特に日本の議論では忘れられているのではないかと思う。しかも、営利と非営利という2つの方向は概念的には区別できるが、実際は交じり合っている場面も多々ある。最初は目にあまる無駄を何とかしようと考えた仕組みが、思わぬ広がりを持ってビジネスとして大成功という例は多い。また、儲かるからはじめたITを活用したビジネスが、結果的に生み出す資源節約効果が大きいこともまれではない。だから、市場的だから悪いとか、良いとか単純に決めつけるわけにはいかない。
この市場的なものと非市場的なものとの対比のうえで興味深い実例がある。いわゆる民泊にかかわる2つの事業である。そのひとつは「エアビーアンドビー」で、全世界的に広がる来客用寝室、あるいはアパート、家屋、別荘などを貸す多くのホスト登録者を擁している。一方には、スペースや施設を遊ばせている人がおり、他方に一定期間だけ使いたい人がいるのだ。双方を簡単なやり方でつなぐことができれば、お互いのメリットになるのは自明だ。ビジネスとしても十分においしい。結果的に遊休資産の稼働率も上がり、経済効率が高まる。創業者は、あるイベントに出張したときにホテルが満員で困り果てたことと「家賃を稼ぎたい」ことが最初の動機だったといっている。
もうひとつは、「カウチサーフィン」というグローバルなネットワークだ。旅行好きなある若者が「地元の人の家に泊まって、地元体験をする」という発想ではじめた。ただでカウチソファに泊まりたい旅行者と、彼らを迎えて寝場所を貸してあげようという人たちを結びつける。カウチサーフィンはインターネットで最も見られているホスピタリティ系サービスであるといわれる。つまり、経済的動機ではなく、社会的、文化的な動機、あるいは交流自体を目的としたネットワークなのである。
これら二つは基本的な目的や動機が異なり、どちらを選ぶかは各人の持つ価値観やニーズの違いによるだろう。ただ、市場志向的なエアーアンドビーの場合も、利用者の観点からいえば宿泊先の選択肢が格段と広がるというメリットを生み出している。遊休している施設やスペースの有効活用でもある。これだけの支持を得ているのは宿泊先の不足という「社会問題」を解決しようとする新しい手法だからであろう。従来型のホテル建設だけが解決策ではない。一方、カウチサーフィンのようなやり方は、若者をはじめ交流を求めて旅行をする人々の増大に応えるもうひとつの、社会性のある、さらに「贈与的な」手法として広がっていくと思われる。
取引コストと評価システムが鍵である
繰り返しになるが、こうした人々の需要と供給を個人間で簡便、迅速、きめ細やかにマッチングできるようになったのはデジタル技術の進歩のおかげである。少し経済学風に整理すれば、この進歩が「取引費用」の画期的な引き下げをもたらした。市場など取引の場にモノやサービスを出すには、価格付け、仕様や品質保証、さらに広告、場合によっては卸売り機能などさまざまなコスト(取引費用)がかかる。これが個人、あるいは小さな企業が取引に参加する障壁になっていた。ところが、P2Pのネットワークで個人が簡単にネット市場に出品できるようになったのである。
手作りのもの、中古品などまで業者に委託したり古物商の手を通さずに取引できるようになった。市場を通さない不用品の交換に際しても、以前には「あげたい人」と「ほしい人」をつなぐのには多くの手間や費用がかかったが、それもネットでのマッチングで大幅に改善された。
ネットを介したこうした取引が首尾よく遂行されるためには、信用、信頼がどう担保されるかが重要である。具体的に先のカウチサーフィンの評価システムをみてみよう。4つの機能が組み込まれている。1つはクレジットカードに小額の課金をし、ユーザーの名前や住所を確認する。これはシステムを運営するための寄付として扱われる。2つは、ウェブ上のユーザープロフィールに自己紹介を書いてもらう。書きやすいように質問形式にしている。たとえば、「どこで育ちましたか?」「今までで一番興味深かったモノやコトは?」という具合だ。これでホストと旅行者が知り合うヒントとする。
3つは、旅行の後にゲストもホストもコメントを書き、レーティングをつける。4つは、他のメンバーにヴァウチング(信頼の裏づけ)をしてもらうことだ。これが最上位の信頼機能である。ユーザーが他のメンバーのヴァウチングをするためには少なくとも3人のカウチサーファーと実際に顔を合わせていて、彼らからすでにヴァウチングしてもらっていることが条件になるという(この評価システムについてはレイチェル・ボツマンらの『SHARE』による)。
ソーシャルキャピタル(社会資本)との相互促進関係
ネットでの取引ないしやり取りを支えているのは、こうした評価、評判システムのうえに築かれる信頼、信用である。そして、とりわけ留意したいのは、人と人との信頼関係は、いわゆるソーシャルキャピタルの基本的な構成要素であるということだ。ソーシャルキャピタルとは、よき伝統や習慣、制度、道徳、信頼、それらに依拠した人々のつながりやネットワークなどを指す。日本語に訳せば社会資本となるが、それでは鉄道や道路といったイメージが強すぎるので、こなれないが社会関係資源といったほうがよいかもしれない。
ここでソーシャルキャピタルのことに深入りできないが、このようなコンセプトに注目が集まりはじめたのは、近年かなりの期間にわたって(福祉国家体制が揺らいで以降)市場主義が世の中を席巻したことへの反省からだと思われる。市場原理だけで経済全体を立て直したり、類縁の新自由主義や新保守主義(例えば自己責任論)で統治しようとするには無理があった。多くの国で経済成長率という統計数字のうえでは多少改善したかもしれないが、格差や貧困の広がり、そして社会的統合のほころびがめだつようになった。
そこから市場経済の論理だけを強めるのではなく、広く社会と経済の関係を考え直すべきだという深い反省も生まれたのだ。念のためにいえば、実は市場経済も約束や契約を守るというモラルや信頼関係、つまりソーシャルキャピタルの存在が前提となっているのである。市場経済もそれ自身だけで成立しているのではなく、その土台には社会関係があるとみるべきだ。つまり、どのような市場経済か(例えば、人の裏をかく投機的なものか、実りをもたらす投資的なものか)、ということもソーシャルキャピタルのありようやレベルに規定される。まともな市場経済のためには良きソーシャルキャピタルが形成されねばならないのだ。
話題が広がってしまうが、シェアリングエコノミーのもうひとつの可能性である非営利事業に絡めて、ソーシャルキャピタルの特質を整理しておこう。その前に一言すれば、いま世界中に営利目的ではなく、社会問題や社会的なニーズを事業として(寄付や慈善事業を超えて)解決していく経済活動が広がっている。一般の営利事業とは対比的だが、これもまた新しい動きでまだ統一的な定義はなく、社会的経済、非営利セクター、ボランタリー経済などと呼ばれている。
そのことを踏まえたうえで、営利と非営利事業をソーシャルキャピタルとの関連で対比すると、(1)非営利事業は、ソーシャルキャピタルに「直接的」に依拠し、しかもこれを増進する。(2)営利事業は、ソーシャルキャピタルに「間接的に」依拠している。間接的というのは先に触れたように、たとえば契約や約束を遵守するといった良き習慣や文化という土台のうえで市場経済も機能するということである。
(1)の「増進」とは、公共心や連帯感に基づく非営利事業はソーシャルキャピタルを強め、広げる度合いが高いという意味である。つまり、ソーシャルキャピタルは使えば使うほど豊かになるということである。たとえば、モノやサービスのやり取りが繰り返しうまくいけば、非営利では強く、非営利でもそれなりに信頼関係は強化される。 まとめると、シェアリングエコノミーは、ソーシャルキャピタルに依拠し、またこれを増進、強化するものである。
蛇足ながら、非営利活動(分野)の意味をもう少し歴史的ないし理論的に意味づけておこう。すなわち、経済人類学の知見によれば、一社会の編成原理(生活全体を回していく仕組みと原則。経済学的には広い意味での資源の配分方法)は、交換、分配、贈与(互酬)の3つから構成される。例えば交換は市場取引、分配は福祉国家の所得再配分、贈与と互酬は寄付や非営利活動など。この3つはどれも、どんな社会にも古代から歴史貫通的に必ず存在している。時代ごとの違いは、どの方式が支配的になっているかだけである。近代は、市場交換が支配的になっているが、分配や贈与もしっかりとそれなりに機能している。
そして、いまは市場交換が優位に立ちすぎているとすれば、贈与や互酬に相当するシェアリングエコノミーのオルタナティブ版は、社会全体のバランスを修正するという歴史的な意義を持つといえよう。その文脈では、シェアリングエコノミーは近頃ではまれな明るい話題ではないか。「明るい」という言葉に語弊があるなら、「興味深い、ないしは面白い」としておこう。
(本稿は以下の拙稿が元になっていることをお断りします。「シェアリングエコノミーのオルタナティブな可能性」『季刊 社会運動』2019年1月、市民セクター政策機構発行)
みやざき・とおる
1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」常務理事。
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