コラム/ある視角

歴史のなかの小さな光源

“10・8羽田”―とある党派の総括から

本誌編集委員 池田 祥子

「1967年10・8羽田」、何と今から50年前である。10代後半で、それを見聞きした人ですら、現在は60歳後半。ほとんどの人が「それは何?」と首を傾げることだろう。

それでも、1967(昭和42)年という年にスポットを当ててみれば、あの歴史的な反対運動だった「60年安保闘争」からわずか7年ではあるが、世は「高度経済成長」ただ中である。しかも翌68年には、日本のGNP(国民総生産)はアメリカに次いで世界第2位となっている。また、62年から「高校全入」運動も組織化され、67年には高校進学率はほぼ75%に達している。この波は、徐々に大学にも及んでくるのであるが、67年時点ではまだ20%強である。

一方、米ソ冷戦体制は世界を覆い、ベトナムでも、フランス撤退の後、アメリカが軍事介入を行い、南部の「南ベトナム解放民族戦線」との泥沼的戦争状態が続く。挙句にアメリカはついに65年、北ベトナムへの爆撃を開始する。それ以来、アメリカでは北爆反対、ベトナム戦争反対の大衆的な運動が繰り広げられるが、日本でも、同年「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が結成されている。

ところで、もう一つ、60年安保闘争で「全学連」(全国学生自治会連合)を指導した「共産主義者同盟(ブント)」は一時、解体状態となり、その後、「関西地方委員会」(62年に「関西ブント」)および関東中心の学生組織「社会主義学生同盟」(「社学同」)の結成に及んで、66年全国的な「第二次ブント」となる。

片や、「日本トロツキスト連盟」(1957年)を前身とする「革命的共産主義者同盟」は1963年の第3次分裂によって、「革命的マルクス主義派」(革マル派)、「全国委員会」(中核派)、「日本革命的共産主義者同盟」(第四インター)となり、この革共同の中の一派である「中核派」と、ブントの「社学同」および社会党内の社会主義青年同盟(社青同)解放派がいわゆる「三派全学連」を結成している(1966年)。

1967年10・8羽田闘争

以上の入り組んだ政治諸党派は、元を辿ればマルクス・レーニン、社会主義・共産主義を掲げる日本共産党と同根ではあるが、路線の違いから、強烈な「反スターリン主義」を掲げ、日本共産党と相容れない。同じく日本共産党も、彼らを「トロツキスト」「過激派」「暴力学生」とレッテルを貼り敵対する。いずれにしても、「左翼」イデオロギーに根強い「権威主義的権力支配志向」「セクト主義」ゆえなのであろうが、ほとんどの「左翼」(旧左翼・新左翼とも)にまつわる負の遺産である。

さて、1967年10月8日、佐藤栄作首相は南ベトナムを訪問する。これは、北爆を続けるアメリカに抗議するどころか、アメリカに追従し、南ベトナムの「新政府」を世界に先駆けて承認し、政治的・経済的な環を強化しようとするものであった。ところが、この日、共産党は多摩湖畔で「赤旗まつり」を設定している。三派全学連、革マル派、構造改革派、反戦青年委員会など、佐藤首相の南ベトナム訪問を許し得ない人々は、「出発を実力阻止」の方針を立てた。しかし、60年以降、先鋭的な学生デモを迎え撃つ機動隊は、ますますその装備を重厚に強固なものにしていた。棍棒、靴、脛当て、手っ甲、ヘルメット、ジュラルミンの楯、頑丈な装甲車、放水車、催涙弾・・・などなど。

この日、三派全学連を中心として、党派間ですでに用いられていた「角棒」と「ヘルメット」が、街頭闘争にも初めて持ち込まれた。闘争スタイルの転機ではある。だが、機動隊も徹底的に容赦ない攻勢にでた。その結果、失明や障害を負う大勢の凄惨な負傷者、逮捕者100名近く、そして中核派の部隊にいた京都大学1回生山﨑博昭の命が奪われた。

一つの羽田闘争総括―『嵐をついて』(統一社会主義同盟立命館大学学生支部)

私の手許に、ガリ版印刷の『嵐をついて』という冊子がある。「新左翼」のなかではややマイナーな、イタリア共産党のグラムシの思想に依拠する構造改革派のひとつ「統一社会主義同盟(通称フロント)立命館大学学生支部」の機関誌だったのであろう、「vol.74」とある。日付は「羽田ジュッパチ」の直後「10月12日」となっており、緊急に出されたようだ。

私自身はこの年24歳だった。テレビで学生たちと機動隊の激しい攻防の様子を見て、学生の「捨て身」とも言える果敢な姿に圧倒されたのは事実である。しかし、三派全学連がみずから「武装」と称する「角棒・ヘルメット」は、機動隊に向かっては「武器」などといえるものではない。にもかかわらず、時の権力は、相手のオモチャのような形ばかりの「武装」を口実に、容赦なく徹底的に戦闘態勢をとってくる。「チャチな武装」が逆手に取られる。「恐い」と思った。その恐怖は、命のやりとりに絡むものであると同時に、武装(暴力、軍事力)を無条件に前提にする三派全学連およびその他若干の党派に導かれる運動の行く末に対してであった。

「歴史の後知恵」として眺めれば、確かにこの「10・8羽田」は、明らかにこの後の新左翼を中心とする全国の大学闘争(「全共闘運動」)、三里塚闘争、沖縄闘争、70年安保闘争などの大きな盛り上がりの突破口であったのは事実である。ただ、その時点で私は、漠然とではあれ、目の前の党派の思想と運動の不毛を予感し、恐れた。

私のこの様な思いに共鳴する歴史的・政治的な知見が、この統社同の冊子にも散見される。一、二拾ってみようと思う。

① 1人の学生の死をどのように受け止めるのか?

60年安保闘争での樺美智子の死や、67年11月11日の第二次羽田闘争前日のエスペランチスト由比忠之進の焼身自殺など、政治的な死は、往々にして政治的に操作される。

権力によって無視されてしまいがちな一人の命の死を、「憤り」「悼み」「記憶する」ことは、もちろん当然である。その上で、この冊子では、「羽田闘争の意義は学生が警官に撲殺されたことである」と冷然と書かれている共産同(ブント)関西委員会の「一人の命」の位置づけに愕然と驚き、すかさず異議を申し立てている。

冊子は言う。山崎君の死を政治利用するな・・深く哀悼の意を捧げる、と。その上で、左右は川という「橋の上」で、装甲車と機動隊に前後を挟まれるという「戦術」の問題も含め、やはり、「佐藤首相の訪ベト実力阻止」という戦略が、どのような状況の、どのような力関係の中で、どのような内容として具体的に考えられていたのか、そこが問題であろうと指摘する。さらに、「闘い」とは、どのような「力」をもってなされるべきなのか、そこを問うている。

「安保以后いっそう反動化し徹底した反動的治安対策を進め、ブル新(新聞のことー引用者)を支配下におくことによって世論の名を借り、学生を暴徒視することによって社会的市民権をはく奪することをねらっている。そうした世論形成を背景に、「全員検挙」の方向や破防法の適用を検討し始め、さらには一連の学園闘争に対する弾圧や、・・・「大管法」の成立を着々と準備し実質的に学生運動を非合法化する試みを行っている。」

このような彼我の力関係や厳しい状況の中で、「大衆性」を持つこと、すなわち「集団の意思の力こそが“物質力”になりうるのである」と、改めて自らの統社同の立場を確認している。

②「革命」とは何か?―「問い」の端緒

三派全学連や革マル派など、マルクス(エンゲルス)はもちろん、レーニンやトロツキー、中には毛沢東に理論的に依拠する新左翼は、「国家権力」や「革命」を改めて問うことは稀である。というよりも、「国家権力=暴力装置」を打倒することがすなわち革命であるという図式を前提にしている。冊子でも、次のように批判している。

「国家を単なる階級抑圧の暴力装置としてしか規定しえず、機動隊を国家権力の本質にまでわい少化してとらえ、それと全面対決し突破することがストレートに革命につながるかの様な幻想をふりまいている。」

これに対して、冊子では、グラムシの理論に依拠しながら、「高度に発展した市民社会」の変革は、「知的・道徳的ヘゲモニー」を不断に獲得することによって、初めて大衆的な力を得ることができる、と述べている。さらに「ロング・レボリューション」という言葉を提示して、「長い時間的な後に、革命があるのではなく、長い過程そのものが革命なのだ」とまで述べている。もちろん、ここでも「革命」とは何か?が十分深く捉えられている訳ではないし、なお「革命」という言葉を前提にしてはいる。にもかかわらず、あの「10・8羽田」闘争の直後に、「闘う」とは何か、「革命」とは何か、を問うこと自体は画期的であったと思う。このような問いを抜きにして、主体的な歴史をつくることはできないだろうからである。

にもかかわらず、この後、新左翼諸派は、「暴力」や「武装」をさらに拡大・激化させる党派を生み出すことはあっても、暴力・武装路線それ自身を問い直すことはなかった。しかも、自己絶対化のセクト主義ゆえに、他党派には、相互に、極左冒険主義、極左小児病、唯銃主義、敵権力の手先、など、構造改革派には一貫して日和見主義、修正主義、・・・などのレッテルを貼り、その暴力はいっそう過激に、さらには内部のメンバーにも振るわれ続けた。

大学生が未だエリートでありえた時代の特権的な学生運動、卒業後の労働運動、そして革命を目指すという運動。それらを一つひとつ問い直し、社会を一人ひとりの力の束で作り変えるためにも「民主主義」を鍛え直そうとする幽かな光源を、私はこの冊子に見つけたと思った。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

コラム

ページの
トップへ