コラム/歴史断章

ロシア革命100年の歴史から学びうるもの

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.

ロシア革命から100年、ソ連邦崩壊のきっかけのひとつであったペレストロイカから約30年が過ぎた。その歴史からわたしたちは何を学ぶことができるのか。わたしはロシア革命やソ連邦の歴史そのものについて、語り得る立場にはない。しかし、それらが現代に残した負の遺産や、学ぶべきことについては、広く議論されなければならないと考えている。

ソ連邦と東欧の旧社会主義圏の崩壊によって、日本では社会主義が過去のものとなったような雰囲気がつくられてきた。それ以前からも、そしてそれ以後も、新しい社会主義論の構築が叫ばれてきたが、政治・社会情勢に圧迫されて、その営みはあまりにも細々としたものであった。

ソ連邦を社会主義とは認めない議論は、スターリン批判直後からあったが、社会主義とは何か、どのような社会主義に未来があるのかについて、レーニン主義はもちろん、マルクス主義をも所与のものとしない論争が必要であったのだが、根源的な課題にふれないまま、左翼の多くの人々が眼の前の課題的要請から社会民主主義に雪崩をうった。

根源的な課題とは、「人間の解放とは何か」ということである。マルクスも共産主義社会の青写真は描けないといったし、マルクスに近い立場のウィリアム・モリスが著した『ユートピアだより』にしても、芸術的作品である。共産主義は運動の過程のなかにあるというマルクスの問題意識は、わたしも共有する。重要なことは、その過程とは、社会変革の過程であって、政治変革の過程ではないということである。

ロシア革命の失敗は、それが徹底して政治革命として実行されたところにある。強力な反革命と対峙するなかで、それがやむをえなかったとしたら、そこに至る過程こそが問題だったともいえる。政治革命と社会革命の関係は、わたしの記憶では、日本でも1970年頃から意識されてきた。しかし議論は深まらなかった。

その原因は、日本全体で、国家と社会を明確に区別しない習慣が根強いことである。それは、日本という国家が天皇制とともに連綿と続いてきたという思いこみと表裏一体である。明治維新についても、第2次大戦後にしても、新しい国家が建設されたのではなく、新政府が作られたという意識である。

人類において、国家は数千年の歴史しかないが、人類社会は人類の誕生とともにあり、社会は人類以外の生物も持っている。国家は社会を支配する装置である。社会は国家と対立するものであり、人間は社会に生きるものでありながら、国家のなかで生きることを強制されていることを自覚しつづけなければならない。このことを根底に置くことが、文字通り社会主義ではないか。

政治革命重視派は、政治革命と政治教育によって社会をも変革しようとする。それは社会を国家に従属させる発想である。政治と社会が連関していることを、わたしも否定しない。しかしソ連邦70年の歴史は、国家が社会を変えることは困難であること、あるいは不可能であることを教えたのではなかったか。

2.

前衛党無謬論や一党独裁について、今更ここで論ずるつもりはない。しかし一党独裁こそがわたしのいう「社会主義」に反するものであることはいうまでもない。もっともロシア革命において、共産党独裁がなぜ可能になったのかを、共産党サイドだけではなく、弾圧されたマフノ運動やアナキズム、弾圧を許した人民の側からも分析することが必要である。

日本の新左翼の一部では、1980年代の後半からだと記憶するが、「我党は正しい、しかしそれは部分的な正しさでしかない」という自己認識が生じてきたとわたしは感じている。それは共闘関係の深まりと相互に関連していると思われる。

問題はそれぞれの組織のなかで、指導する―指導されるという関係や発想を克服できなかったことである。組織の弱体化のなかで、指導・被指導関係が希薄化した場合は多いだろうが、意識的にそれを克服しようとした組織は少ない。

革命、とまではいかなくても、変革をめざす場合、それが実現したあとの社会は、実現するための運動のスタイルを反映することは、アナキストならずとも承認するのではないか。アナキズムでは、運動そのものが次の社会をあらわすと考える。鉄の規律、外部注入、指導・被指導の関係を持つ党が政治革命を実現した場合、その党が社会変革を実現すれば、新しい社会はそのような傾向を色濃く持つだろう。ソ連邦70年の歴史は、そのような党は70年かけても社会変革ができなかったことを示している。もちろん、福祉や女性の権利など、ロシア革命の前後で大きく変化した分野があることは否定しない。しかしそれはブルジョア民主主義革命の課題であり、安倍政権でさえ口先ではそう主張する。

3.

10月革命の評価について、さまざまな意見がある。その場合に必要な視点は、世界情勢はもちろんとして、ロシア資本主義の成熟度、労働者階級の階級意識の深化度合い、農民の置かれた状態と意識であろう。10月革命で左翼が権力を奪取できたのは、ケレンスキー政府が弱体であったからである。それはレーニンの革命家としてのセンスもあろうが、ブルジョアジーが政治的にも、階級としても成熟していなかったからにほかならない。

10月革命がクーデターだったと主張する向きがあるが、それには無理に反論する必要はない。ツァーの政権は権力集中的であり、工業が発展していたペテルブルグとモスクワを押さえれば権力の交替は可能だったのだろう。しかし、ブルジョアジーが未熟だったということは、労働者階級の階級意識、自分たちが新しい社会の主人公になるのだという自覚もまた未熟だったのではないか。ペテルブルグやモスクワの労働者の数や戦闘性を持ちだす論者もいるが、1920年代の日本は、今とは比較にならないほど、歴史に興味のない人には想像もできないほど労働争議と小作争議が頻発し、労働者と農民は戦闘的で、死者も出した。戦闘的であることと、階級意識の深化の度合いとは別問題である。ロシア研究者から学びたい。

農民の状態について、研究の蓄積はマフノ運動以外でもそれなりにあるようだが、農奴解放からまだ50年、土地所有や占有権と社会主義との関係について、農民の意識はいかようであったのか。「労農民主独裁」というとき、レーニンやトロツキーはどのような展望を持っていたのか、スターリンは集団化を強行するとき、農民の願望をどのようにおもんばかったのか。

ロシアのことはよく知らないと自制するマルクスも晩年、ナロード二キとの交流のなかで、ロシア農村共同体を革命の基盤とすることの可能性を認めていたという。マルクス主義者はそれをマルクスの後退と批判するようだが、ロシアのクロポトキンも同じ認識というか、願望を持っていた。クロポトキンを敬愛する人たちも、それについては楽観論だと疑問をいだく。では、農民が革命の主体となる可能性はどのように切り開けたのか。

10月革命は早すぎたのではないかという思いがある。権力奪取は今しかないと判断したレーニンの革命家としてのセンスは鋭いことは確かである。しかしそのことによって、革命政権は皇帝派とブルジョアジーの双方を反革命にまわした。ケレンスキーは7月危機のとき、クロポトキンに直接面会して、入閣を要請した。クロポトキンは「靴みがきの仕事のほうがまだまし」とことわったという。アナキストとしては当然としても、ボルシェビキのケレンスキー政権への対応は、別の道もあったのではないか。ブルジョア民主主義革命を進行させ、そのあいだに労働者階級の力をつける。とすれば、メンシェビキの主張を評価し直すことも必要だろう。もっとも、ブルジョア的民主化が進行すれば、労働者の一部が支配階級に取り込まれてしまうというのは、現在の日本が証明している。

4.

マルクス主義は歴史を必然性で解釈する。たしかに、西郷隆盛がどこかでミスをしたり、また徳川慶喜と勝海舟が西軍と決戦をすれば、強大な海軍を持っていた徳川軍は勝っていた可能性は大きいが、しかし徳川幕府はいずれ滅びたであろう。その必然性を否定するものはいないはずである。しかし、偶然もまた歴史で役割を果たす。関ヶ原で、家康の顔の数センチ横を銃弾がかすめたが、それが当たっていたら、どうなっただろう。実は当たった、関ヶ原以後の家康は陰武者だというロマン的仮説は実に楽しいのだが、それも結局は必然論のなかに納まる。

歴史は基本的には必然性と、若干の偶然性と、そしてその時代の人間の意思によって決定される。人間の意思に注目したのは、日本では経済学者の河上肇であった。1916年、『貧乏物語』の大ベストセラーで注目された河上肇は、弟子というか弟分の櫛田民蔵からヒューマニズムであって科学ではないと批判され、マルクス主義とロシア革命の研究に没頭する。そこで着目したのがレーニンという一個人の「意思」の力であった。

若い人たちに共産主義、スターリン主義、ソフトスターリニズムの問題点について語ると、青年たちは真に受けて社会主義そのものに嫌悪感を示す。わたしはあわてて、時代の制約から、彼らがそのような行動をとったとしても、変革への熱情は理解して共有したいと口説く。わたしのこれまでの人生で最大の喜びのひとつは、大講義で労働基準法を解説して、「アルバイトにも有給休暇があるんだよ」といった半年後、「バイト先の就業規則を調べて、バイト生全員で店長と交渉して、有給休暇が取れました」という報告をもらったときである。若者が分断された現代、団結して交渉して要求を実現する、バイト学生の熱情と意思が歴史を変えた瞬間であった。

ダーウィン主義者たちが必死に隠したダーウィンの最終結論は、生存競争はいずれは終了し、共生の社会が到来するというものであった。そこに光をあてたのは、終生自然科学者でもあったクロポトキンであった。

わたしが知りたいことの羅列に終わったが、ロシア革命とソ連邦の歴史を、それがいかに問題点が多かったにせよ、犠牲が多かっただけに無駄にしてはならない。人間にとって、失敗こそが糧である。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て昨春より 名誉教授。日本国公立大学高専教職員組合特別執行委員。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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