この一冊

『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(安田浩一、朝日新聞出版)

沖縄の事実・歴史が記者を鍛える

本誌編集委員 黒田 貴史

三角ビルの思い出

琉球新報の本社が那覇市のバスターミナル近くから移転する前後、そのころつくっていた何冊かの本の打ち合わせや原稿づくりのために沖縄には年に数回通っていた。当時、全国紙といわれるような新聞社の東京本社はすでにどこもピカピカのビルで、受付で厳重にチェックされて(無理からぬところはある)からでないと記者と面会もできないようになっていた。琉球新報社のビルは三角形の面白い形でその鋭角のところに受付はあった。受付の人はいるけれど、およそ厳重なセキュリティチェックというものではなかった。

『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』

たぶんに都市伝説化されていると思うが、「新報の記者には、それぞれ情報提供をする市井の人が何人かいて、ときどきふらっと三角ビルにやってくる。たいていはお茶を飲んでおしゃべりをしてそのまま帰るが、ときどきとんでもないネタをもちこんでくる」という。三角ビルの近くには見た目には地味だが、うまい定食を出してくれる店も多く、私も那覇の空港に着く時間を昼食時間にあわせて、琉球新報の近くを目指して移動したものだった(本社が移転したあとに行ってみると、多くは閉店していた)。ゆし豆腐、チャンプルー、レバー炒め、沖縄ソバなど、沖縄の家庭料理が定番で、私の沖縄の味覚は多分に琉球新報本社近くの店によって養われた。そういう思い出もあって、私は東京にいながら電子版琉球新報の愛読者である。

百田発言

いま、沖縄でなにがおきているか、それに対して沖縄の人たちはどう対処しているのか。全国紙を読むだけではほとんどわからない。いくら戦争法案反対で国会包囲をしても参加者を縄で縛って排除するなどということは、東京の真ん中ではやらないが、沖縄では警察がそうした暴力をふるっている。どうして東京でできないことが沖縄ではできるのか。

2015年6月25日に、自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席で、講師に呼ばれた作家の百田尚樹が次のような発言をした。「(沖縄の)あの二つの新聞社(沖縄タイムス、琉球新報)から私は目の敵にされているんで。まあほんとに、沖縄のあの二つの新聞社はつぶさなあかん」「沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば(沖縄人が)目を覚ます」「もともと普天間は田んぼの中にあった。周りは何もない。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、いまや街の真ん中に基地がある」。

よくもここまでというレベルの「床屋政談」の見本のような発言だが、自民党の政治家たちがこんなレベルの低い話を黙って聞いていたというのも驚きだ。いかに辺野古の工事が思うように進まないからといって八つ当たりとしかいいようがない発言の異常さに、参加していた40人あまりの国会議員のうちの誰もが気づかなかったとすれば、議員を務められるだけの素養と判断力があるのか疑わざるをえないだろう。

沖縄の現実によりそう記者たち

さて、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(安田浩一著、朝日新聞出版)は、この発言をめぐって、おもに百田が「つぶさないかん」といった沖縄タイムス、琉球新報両紙の記者に対する取材を軸に書かれた。文字どおり、この二紙が本当に偏っているのか、愚直に問いかける(ときには変化球-「安全保障の問題を考えたら、米軍基地が必要だとは思いませんか」-ともいえる質問を投げかけ、取材相手の記者ににらまれて「では、応分の負担をお願いします」と返されながらも)。

いまをときめくベストセラー作家があれほどきらう両紙の記者たちだから、いずれ劣らぬ学生運動の闘士が満を持して入社して大いにペンを振るっているとつい思いがちだが、現実はそんなに単純ではない。登場する多くの記者は沖縄出身者だが、他県出身で沖縄の新聞記者になった例もある。

登場する一人の記者は、1995年の米兵による少女暴行事件のときに中学生だった。「同世代の少女が暴行された。住んでいる沖縄が蹂躙された。怒りと悔しさで胸が苦しくなった。……だから彼女は記者になることを決めた」。

別の記者の来歴はこんなぐあい。大学卒業をひかえて就職が決まっていた日本語学校が入社前に廃業してしまい、やむなく自宅近くの新聞社の校閲部に嘱託ではいり(歩いて通勤できるので深夜の勤務時間でも問題なかったという偶然のおかげ)、その後採用試験を受けて正式に記者になった。

登場する一人ひとりの記者は、それぞれちがうかたちで新聞記者になった。しかし、ほぼ異口同音に語られるのは、沖縄がおかれている不条理、現在進行形で進んでいる基地建設現場で理不尽にふるわれている暴力に対する怒りだ。

「『銃剣とブルドーザー』によって追い立てられ、土地を奪われ、基地建設を強行され続けてきたのが沖縄だった。今度は辺野古の海が奪われようとしている。それに反対し、キャンプ・シュワブのゲート前に座り込む人々は機動隊にごぼう抜きにされ、排除される。もみ合いでけがをして病院に運ばれるのは、いつも市民の側だ。……海上でも反対派のカヌーやボート(抗議船)が海上保安庁によって、暴力的に転覆させられることが珍しくない。『落とせ』という号令のもと、海保職員に海へ突き落とされたもの者もいる」。

かつて共同通信の名物記者だった斎藤茂男は自著を『事実が「私」を鍛える』と名づけたが、文字どおり沖縄の事実・現実が記者たちを鍛えるのだろう。

沖縄の記者たちは、現場にたって、事実によりそって記事を書いている。しかし、それが政府や中央官庁の意に沿わないために偏向だといわれているだけなのではないか。いや、政治家や官僚だけではないのかもしれない。著者の「古くからの知人でもある全国紙記者(リベラルなスタンスで記事を書くことの多い彼)に、沖縄の新聞について取材していると話したら、『あそこは特殊だから』といった言葉が返ってきた」という。

一見リベラルなスタンスに立っているとしても、沖縄は特殊だといいきってしまう中央(全国○○)にいるかぎり、沖縄の地元二紙はあくまでも偏向しているとみえるにちがいない。多少調べればすぐにわかることだが、歴史も文化も、戦後の政治過程も本土と沖縄では大きくちがっている。しかし、それを捉えて沖縄を特殊だといえるのだろうか。沖縄は特殊だ、偏向だといえるほどにリベラルな記者は沖縄のことを知っているのだろうか?

まき散らされる差別

沖縄からみれば、日本の国土全体からすればごくわずかな土地(1パーセントにも満たない)になぜ日本全体の75パーセントもの米軍基地を沖縄に押しつけなければならないのか、安全保障のために必要だというなら、本土も応分の負担をすべきではないか、と考えるだろう。むしろ特殊で偏っているのは、中央(全国○○)の沖縄認識のほうではないか。算数の初歩を身につけた子どもにこの算術を納得させる説明を一点の恥じらいもなくできる政治家、官僚、ジャーナリストはいるのか。もっとも現実に存在するのは何の恥じらいもなくこの欺瞞を押しつける「特殊で偏向した」政治家、官僚、ジャーナリストばかりだが……。

本のなかに面白い記述をみつけた。私が以前、共同通信の記者たちと話をしているときに「○○くんは最近、遊軍をやっているね」という発言が出てきた。そのときすぐに意味がわからなかったが、話をつづけていくなかで、特定の持ち場をもたず、機動的に動く役割をする記者のことを指していることは理解できた。しかし、こんな所に軍事用語かと、びっくりしたことがあった。ところが、沖縄の新聞社はこの軍事用語をきらって「フリー」と呼んでいるという。これも沖縄が特殊なのだろうか。

インターネットのヘビーユーザーとはいえない私にとって驚きだったのは、ネット右翼のあいだでとんでもない沖縄言説(基地の周りが商売に有利だから大勢の人が移り住んだというような)が飛びかっていることを改めてこの本に教えられたことだ。百田の発言もそうしたネット上の与太話にもとづいている。ネット右翼たちが、その種のばかげているとしかいえないレベルの話を本気で信じこんで、沖縄差別をまき散らしている。同じように、もっとも在日特権を享受する米軍には何も言及せず、在日朝鮮人や中国人に矛先を向けた「在日特権」という「ヘイトスピーチ」があふれている。それと同根ともいえる与太話がベストセラー作家によって拡大されるという信じられない言論空間が広がっていることが確認できた。言論とも呼べないレベルのウソがこの国・社会の知的レベルを確実に押し下げている。

最後に一言。ことの性質から基地問題に特化してこの本は書かれているが、沖縄二紙は沖縄の子どもの貧困問題など、基地問題に限らず沖縄が抱えている深刻な問題でも大きな連載にとりくんでいる。こうした報道姿勢が沖縄の人びとに支えられる大きな要因になっているのだろう。そういった側面への言及があれば、なお立体的に描かれたのではないかと思う。

本誌読者にもぜひ一読をおすすめしたい。(沖縄県外に住んでいる読者には、インターネット版の琉球新報、沖縄タイムスの購読もおすすめします)。

くろだ・たかし

フリーランス編集者。歴史、人文科学、教育関連書籍の編集を30年近く続けている。最近は音楽関連の書籍の編集も手がける。

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