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モンゴル雑感 チンギス・ハーン広場から

日本労働ペンクラブ幹事 小畑 精武

モンゴルの民主化は今から27年前、1989年12月10日にウランバートル・スフバートル広場から始まった。武力衝突なしに体制転換が行われ、権力を握っていた人民革命党はそのまま権力の座に居座った。戦後71年の日本、安倍首相は「戦後レジームの打破」などと言っているが、モンゴルは「体制転換」からまだわずか27年、「民主革命」がジグザグしながら続いている。

チンギス・ハーン広場(スフバートル広場)

スフバートル将軍像

ウランバートル市の中心部にあるチンギス・ハーン(スフバートル)広場からのながめに沿って「モンゴル雑感」を綴ってみたい(この9月に日本労働ペンクラブのモンゴル訪問団に参加して)。この広場は、陸上競技場がはいるほど広い。南北200m、東西100mもあろうか。東南アジアなら子供たちが絵葉書やTシャツを「10枚1000円」などと言い寄ってくるが、モンゴルでは大人が草原と馬の絵を売っていても子供の姿は見られなかった。

2013年にスフバートルからチンギス・ハーンに広場の名称が変わってまだ3年しかたたない。「えっ?広場ができた時、なぜ最初から民族の英雄チンギス・ハーンの名前を使わなかったの?」。日本人でも知っているモンゴル民族の英雄の名は、人民を苦しめてきた為政者として、長い間使ってはならなかったのである。12世紀から13世紀にかけて中央アジア、さらにロシアへと進出、南の中国にも孫フビライが元をうちたて支配した。ロシアを征服したチンギス・ハーンの名は禁句だったのである。さらにチンギス・ハーンの名前自体が人々の脳裏から消えていたらしい。

政府庁舎とジンギス・ハーン坐像

名称は譲ったが広場中央には馬にまたがり右手を高く掲げたスフバートルの銅像が勇ましい。スフバートルは1921年のモンゴル革命時に活躍し「近代モンゴル軍の父」といわれる英雄だが1923年に30歳で亡くなった。像は1946年に建てられた。広場で堂々と人々を鼓舞している。その台座には「わが人民が一つの方向に、一つの意志に団結するならば、われわれが獲得できないものはこの世に一つとしてない」と書かれている(そうだ)。

このスフバートル広場から1989年の民主化要求デモは広がっていったのである。

チンギス・ハーンの像はどこ?

郊外にも観光用チンギス・ハーン

ちゃんとあります。広場北側にある政府庁舎のど真ん中で南を向いてどっしりとスフバートルを見下ろすかのように鎮座している。以前はなかったそうだ。

モンゴルの人は、こうした像の扱い方にものすごく気を使っている。今回の訪問を前に、司馬遼太郎の「街道をゆく」の「モンゴル紀行」DVD版を借りて観た。そこにはスターリンの銅像が1990年2月にウランバートルから撤去される場面がある。しかし、壊されることなく木箱に収められ国立中央図書館に丁寧に保管された。担当者は「いつかまたこの像が使われることがあるかもしれない」と言っていた。

レーニン像は2012年10月14日、広場の南東部に近い老舗ウランバートルホテルの前から姿を消した。像は1954年に建立されウランバートルの象徴的存在だったという。スターリン象は撤去されたがレーニン像は生き延び活用される。民主化1年目の1990年に人民革命党は、生誕120周年を迎えたレーニンの像を「レーニンに帰れ」と利用したのである。だが22年後、そのレーニン像も父親が革命時に「日本のスパイ」として粛清されたウランバートル市長によって撤去された。

粛清した張本人の像は健在

政府宮殿の北東部角にあるモンゴル国立大学には大粛清を行ったチョイバルサン像が今も青空を見上げている。チョイバルサンは1921年の革命期に人民革命党の創設にかかわり、1939年から52年にかけて大統領、首相を経験し、その間に大量粛清を行い、日本軍とも闘っている。

「政権崩壊後の現在でも、チョイバルサンに対する評価は徹底した親ソ路線をとりながらも独立を維持し、後の諸外国との国交関係樹立と国際連合加盟の基礎を築き、モンゴル国立大学の創設や識字率の向上に代表される教育政策、民間航空運送の開始や鉄道建設のようなインフラ整備など国内の近代化を推し進めた点で必ずしも低くないという」(ウィーキペディア)。その歴史的評価は難しい。

ウランバートル(赤い英雄)を建設した日本人

モンゴルの首都ウランバートルの建設には、多くの日本人が酷寒のなか従事した。このチンギス・ハーン広場、広場周辺の政府庁舎、国立大学、科学アカデミー、オペラ座、ウランバートル市街の建設など。ウランバートルだけではない。第2次世界大戦でソ連の捕虜となった日本人抑留者は各地で労働に従事した。その数は1万2千をこえる。農業や医療などを含め、モンゴル各地で捕虜労働を強いられた。ウランバートルで亡くなった人の遺骨835体は市内の墓地に埋葬された。

現在は、郊外に立派な慰霊碑と記念館が建てられ、モンゴル地図には日本人が捕虜となって抑留された地域が示されている。亡くなった年が刻まれている。1946年、1947年。戦後間もなくだ。マイナス30~40度になる酷寒の冬だけではない、夏でも食べ物が不足し、飢餓状態にあったという。われわれも慰霊に訪ずれた。ASEMに出席した安倍首相の花輪もあった。戦争への道を歩み続ける安倍首相は何を学んだのだろう。

立派な労働会館、雑居ビルの一角に経営者団体事務所

政府官庁横の労働会館

広場の政府官庁西側通りの向かい側に、白い5階建てのロシア風労働会館がある。日本では考えられないシチュエーションにある。「社会主義は労働者国家だ」を誇示しているかのように政権中枢のど真ん中にある。労働会館に並んで南側はウランバートル市役所、壁はうすい緑に緑の屋根。その南側は中央郵便局だ。労働会館と市役所の狭い敷地に数本のギリシア風柱、何があるかと覗いてみるとなんとビヤホール。労働会館の1階は少し洒落たレストラン。「社会主義時代」には考えられない。ビヤホールも、レストランも「体制転換後」につくられたにちがいない。銅像だけではない。体制転換は、旧と新が共存しながらモンゴルでは進行している。

立派な労働会館に比べ経営者団体は「まだ」独自ビルを持っていない。広場の東側、レストランも入る小さな雑居ビルの一角にあった。だが、応対に出た経営者団体(MONEF)のガンバートル副会長は太り気味の体で「ゴビ砂漠の砂はエネルギーだ」と石炭だけではない風力発電も強調し、日本の投資への期待を示し、明るいモンゴルの未来について熱弁をふるった。「彼は労働副大臣でもあった。今回の訪問団の中に旧知の人、長谷川真一元厚労省審議官がいた。ILOでの仕事が長く、民主化間もないモンゴルを政労使のセミナーなどにより支援してきた。その功を称える勲章を頂いた。日本人は勲章に縁がないせいか、長谷川さんがすばらしく偉大に見えた。

モンゴルの労働組合は「体制転換」をどのように潜り抜けたのだろうか? モンゴル労働組合連盟(CMTU)のアムロン・バートル会長は「民主化後自由経済のもと困難を乗り越えてきました。日本の労働組合が民主化後に支援してくれたことに感謝します。モンゴル経済は4年前の成長率17.3%が今は2.3%に落ち込んでいます」と挨拶。運動路線は、以前は賃金と権利の獲得のためにストを打ってきたが、今は政労使の三者合意システムづくりを重視しているそうだ。

来年CMTUは結成100年を迎える。ロシア革命と共に誕生した労組は産別毎に組織され、労働力人口は115万人、組合員は45万人、組織率39%と「資本主義国」としては高い。女性比率は50%、35歳までの若者が50%を占める。ここにもモンゴルの体制転換後の旧新共存がみられる。

「若者の参加、運動への理解をさせることが課題である」と委員長。選挙のたびに人民党(2010年に人民革命党は人民党に名称変更)と民主党が政権交代を繰り返してきた。従来CMTUは人民革命党に近かったが、今は労働者の支持が二つに割れている。「モンゴルの組合と政治はいっしょではありません。どちらかの党を選べば、労働組合は割れてしまうでしょう。労組法も委員長、副委員長、書記長の政党所属を禁止しているのです」

ウランバートルを見下ろす戦勝記念碑

広場の南側の大通りは「エンフタイバン(平和)大通り」と名付けられ、車がひしめき合っている。よく見ると昔懐かしいトロリーを屋根上に二本出したトロリーバスが静かに走っている。この通り脇の公園にはかつてレーニン像が置かれていた。焼き討ちを受けた人民革命党(今は人民党)本部ビルも広場1ブロックで近代ビルになっている。

広場から真南の方向にある丘の上には1971年に建設された「第2次世界大戦戦勝記念碑(ザイサン・トルゴイ)」がある。高層ビルが次々と建設され、チンギス・ハーン広場から一見しては見えない。その丘に登ってみた。低い山に囲まれたウランバートルが一望できる。高層ビジネスビルとともに丘の麓には高層マンションが建設されている。経済成長が止まり、建設がストップしたマンションも散見される。ビルの建設で広場は見えないが、望遠鏡で覗いてみるとビルの合間になんと政府庁舎が見えるではないか。鎮座しているジンギスハーン像がハッキリと見えた。

この戦勝記念碑はソ連とモンゴルがファシズムや日本軍国主義と闘って勝利したことを記念するもの。麓にはソ連製戦車がきれいにペンキを塗りなおして置かれていた。頂上をぐるりと囲んで「第二次世界大戦勝利」の壁絵が描かれている。そこには踏みつけられた旭日旗もあった。

スターリンやレーニン像が撤去されているのにソ連モンゴル戦勝記念碑が残っているのはなぜか? そこには、一挙には撤去しないで時間をかけて撤去していくモンゴルの「体制転換期の旧新共存」の知恵を読み取ることができた。この知恵は歴史的な“旧新共存“だけではない、大国ロシアと中国に挟まれた”隣人友好“関係づくりにも表れてくる知恵でもあるのだと、一人でガッテンした次第である。

おばた・よしたけ

1945年生まれ。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ、公共サービス民間労組協議会事務局長。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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