特集●闘いは続く安保・沖縄

近代沖縄と日本の国防

断ち切られるべき蔑視と依存の構造

流通経済大学教授 宮平 真弥

1.安保・平和憲法・沖縄

「日本国憲法の9条を変えないほうがいいと答える日本人は64%(朝日新聞2009年4月)だが、日米安保条約がアジア太平洋の安全に貢献していると答えるのは75%(読売新聞-ガラップ、2009年12月)である」。「沖縄での安保支持率は7%だ(琉球新報2010年5月31日)。安保条約は、米軍基地を日本領土に置く、という条約だ。安保を支持することは、米軍基地を置いてほしい、という意味以外の何物でもない」。「その基地を『欲しくない』人のところよりも、『欲しい』と言っている人のところに置くのは……当たり前の考え」(ダグラス・ラミス『要石:沖縄と憲法9条』)。

憲法9条(「戦力を保持しない」)と安保条約(米軍基地、兵器を領土内に置く)を同時に支持する日本人が過半数を超えていることをダグラス・ラミスはいぶかっており、次のような例を紹介している。日本には、憲法9条を守る組織が数千もあり、9条を世界遺産にすべきだ、という運動もある。ある本土の女性がラミスに、憲法9条が世界遺産になれるかと尋ねたところ、「安保がある限り、それは無理だろう」と答えた。するとその女性は「安保をなくすんですか。だって日本は無防備でしょう。……危ないじゃないですか」と反応した。このような分裂した考え方は「沖縄を利用して」可能になっていると、ラミスは述べる。

すなわち、日本は平和憲法を持っている→平和憲法を維持するためには日米安保が必要である(軍隊がないと危ないから)→安保条約=米軍基地を日本の領土に置く→米軍基地は沖縄に置けばよい、という論理である。まさに、「沖縄を利用して」自己の安全をはかるという発想である。本稿では、このような日本人の発想の歴史的淵源を考察する。

2.国防の要地

琉球は「非武の文化」を持つ国だった。尚氏によって統一国家が成立してから、王府は国内の按司勢力(豪族)から武器を取り上げ、国家の一元管理の下に置いた。1609年、薩摩島津氏は琉球を侵略し、琉球国に武具統制策を実施した。結果的に、琉球国には非武装文化が定着し、19世紀には欧米にも広く知られた。また、琉球国の「士」は武士ではなく、「刀剣を身に帯びることはなく、文を尊び、科挙(科試)に及第して王府の官吏になることを目指して研鑽するのを本分とし」ており、「武器を持たない琉球が、国を守る手段としたのが、外交術であった」(波平恒男「沖縄がつむぐ『非武の安全保障』思想」、『日本の安全保障4 沖縄が問う日本の安全保障』)。

琉球国には、1840年代以降、しばしば異国船が訪れ、開国を迫ってきた。琉球王府は「徹底的な平和外交」という方針を貫き、マニュアルとして「異国人への返答の心得」を作成した。王府は、異国船が必要な品々を無償で与えて対立を避け、異国人に「産物は」と聞かれたら、「黒砂糖、アワなどで、しかも出来高は少ない」と、「貧乏な国」であることを強調した。1844年以降、異国人と交渉する臨時の官職を設け、按司や親方を当てた。王府首脳は臨時の官員が時間稼ぎをしている間に、異国の要求を検討し、対応策を考える時間を確保した(琉球新報・新垣毅編『沖縄の自己決定権』)。

しかし、「琉球処分」により日本国に併合されて以降、琉球国の「非武の文化」、「徹底的な平和外交」は否定される。日本国は、日本国の侵略行為に沖縄住民を加担させ、また、日本国の戦争遂行のために沖縄住民に犠牲を強いていく。

まず、日本国の国防における沖縄の位置づけに関する意見を概観しよう。

福澤諭吉は、1886(明治19)年9月21日の『時事新報』で以下の意見を発表している。

「兵備拡張の事は我輩の常に言う所にして」、「八重山の港に軍艦を繋ぐか、又は陸上に兵隊を屯せしめ、八重山より宮古沖縄を経て鹿児島に電信を通じ、軍艦をして常に其近海を巡廻せしめることが至急の急要」(「宮古八重山を如何せん」)。

福澤は、欧米列強の東洋進出に備えて防備を固めよとの主張の中で、八重山への軍艦配備、兵の駐屯を訴えている。この福沢の意見に影響を与えた人物は、田代安定である。福澤は、上述の「宮古八重山を如何せん」において、「鹿児島の士人田代安定に面会し、其言を聞くに付けても……」と記している。

田代安定は1882(明治15)年に、農商務省農務局陸産係として沖縄県に出張し、さらに1885(明治18)年から1886(明治19)年にかけて2度目の沖縄調査を実施している。

田代安定「沖縄県管下八重山群島急務意見」(成城大学民俗学研究室『伝承文化7号』)は、1886(明治19)年8月に明治政府に提出した意見書で、八重山の防備、「島民の鎮定」、産業育成等を提案している。その中から防備を中心にみていこう。

意見書の「第一項 第一条」は、「軍備拡張ノ事」である。

「八重山ノ群島タル我カ版図ノ南門ニ当リ直ニ隣敵ニ臨ムノ地ナレバ今日ノ急務ハ兵営ヲ設置シテ其鎖鑰ヲ固フシ一ハ以テ外寇ノ予防ニ備ヘ一ハ以テ島民ノ方向ヲ鎮定スルニ在リ」。「船浮港ニハ四時交代ノ軍艦弐艘ツヽヲ繋泊シ水雷船ト小飛脚船若干艘ヲ附添シ此軍艦ハ即チ南海巡邏艦ノ一ニ属シテ常ニ台湾及ヒ支那福州近海ヲ巡航シ傍ラ海岸測量等ヲ為テ……」。

以上のように八重山の防備を強調しつつ、「島民ノ方向ヲ鎮定スル」ことを主張している。これは「皇化」を進めるということであり、沖縄は「皇化ノ洽カラサル」地域であるとの認識があった。教育は「皇化」の手段とされ、「青年ノ徒ハ人物ヲ選択シテ内地殊ニ東京辺ニ遊学セシメテ頑夢ヲ覚醒シ皇化ニ帰セシムルヲ先務トス」と提案している。 さらに「八重山群島ハ総テ内地人ヲ以テ埋填シ益々国権ヲ拡張スベシ」、「女子ノ如キハ成ル可ク内地移住民ノ配偶ニ充ル様ニ漸次此属民ヲ内地人に向化親睦セシムルコト」と主張しており、国権拡張を目的とした八重山の「内地化」を説いている。

また、「其事業ヲ中央政府殊ニ内務省ノ直轄ニシテ一ノ事業管理所ヲ設ケ之ニ内務幷農務兼任ノ理事官ヲ置キ同島管理ノ全権ヲ此理事官ニ委任」と、八重山の防備・改革事業を政府直轄とすることを提案している。

また、事業遂行のために警察権を拡張し、警察官に裁判権までもたせ、沖縄住民の諸活動に対する取り締まり、監視を強化する必要があると説いている。以下のように、警察権の拡張は、人権の制限、停止をともなう。

「本島ノ事業ヲ拡張スレバ随テ警察ノ権利ヲ拡張セサルヲ得ズ」。「警察官ヲ増加シテ各自裁判事務ヲ兼任セシメ同島従来ノ律例ヲ損益シテ訴訟商業其他諸般ノ法度ヲ更生シ山林船舶等一切ノ取締ヲ厳密ニスルニ在リ即チ非常ヲ戒ムルニハ営兵アリト雖モ常ニ警察官ヲ以テ惣体ヲ監視セシメ……」。

田代の訴えを、時の政府は「時期尚早」として退けた(清国との沖縄領土問題があったため)。しかし、田代は品川弥二郎、森有礼、松方正義、井上馨、山県有朋ら、政府要人に強く働きかけており、前述のように福沢諭吉にも影響を与えている。そして、田代の構想は沖縄戦における、沖縄守備隊第32軍の創設、軍機保護法による特殊地域指定、日本軍による沖縄住民虐殺行為を想起させる。沖縄戦は日本軍による究極の直轄支配であった。日本国の国防のために、沖縄住民の権利は侵害してもよいとの発想が明治期に芽生えていた。

山県有朋内務大臣は1886(明治19)年2月に沖縄を巡視し、県治の状況と国防について視察した。同年5月、明治政府に対して「復命書」を提出し、その中で沖縄の軍備拡張を主張している。

「沖縄ハ我南門、対馬ハ西門ニシテ最要衝ノ地ナレハ……南海諸島常備軍隊ノ制ヲ確定シ、電線ヲ布設シ、其通信ヲ便ナラシメ、益々人心ヲ撫安シ、以テ外寇防禦ニ充ツヘシ」。宮古・八重山には「軍艦ヲシテ時々諸島ヲ巡視セシメ、一ハ以テ航海ノ針路ヲ明カニシ、一ハ以テ防護ノ準備ニ注意セシムヘシ」。

なお、山県の沖縄住民に対する印象は頗るよろしくない。「徴兵ノ召集ニ応セシメ、各隊ニ編入スルノ法ヲ設ケ、常ニ各鎮台ニ分派シ、我内地ノ制度風俗及ヒ、兵制ノ大要ヲ領知セシメ新陳交換シテ以テ星相ヲ経ハ、其愛国ノ気風自カラ振作勃興シ……」。すなわち、沖縄住民は、軍隊に入れて「内地ノ制度風俗」を叩き込み、愛国心を養う必要があると認識している。前提として「其土人ノ心術情状ヲ察スルニ、維新ノ恩典ヲ顧ミス両属ノ念頑然猶絶エス」という沖縄イメージがあった(福澤諭吉、田代安定、山県有朋については三木健『八重山近代民衆史』参照)。

山県の沖縄住民に対する印象は、のちの日本軍部の沖縄観と類似する。沖縄住民は愛国心に乏しく、信用できないとする軍部の沖縄観は、沖縄戦時の日本軍ももっており、その不信感が沖縄住民をスパイ視し、虐殺することにつながっていく。

3.沖縄の軍事施設

上述のように、明治政府は沖縄を国防上の要地と認識していたが、アジア太平洋戦争末期まで、本格的な軍事施設は建造しなかった。沖縄は歩兵連隊が設置されなかった数少ない県の一つであるが、日本軍が沖縄出身兵に不信感をもっていたことが原因だといわれている。よって、沖縄で徴集された兵士は九州各県に派兵された。

1876(明治9)年に熊本鎮台の分遣隊が沖縄に派遣され、1879(明治12)年の「琉球処分」の際に、320人の陸軍部隊が派遣されている。また、1896(明治29)年まで九州から歩兵一個中隊が交代で派遣されている。沖縄への派遣隊の目的は、山県有朋によると「本県ノ民心ヲ鎮撫スルカ為」、すなわち沖縄内の治安維持であり、「隣敵」に備えるものではなかった。いわば沖縄の抗日運動への備えだったといえよう。よって、1895(明治28)年、日清戦争で琉球国復活の可能性がなくなると、派遣隊は引き揚げた。

大規模な軍事施設は、太平洋戦争直前から建設されはじめ、1941(昭和16)年7月、臨時要塞建設が発令され、10月に中城湾臨時要塞司令部と船浮臨時要塞司令部が沖縄に到着した。陸軍は、1943(昭和18)年、不時着用の飛行場(読谷)の建設に着手した。海軍は、1942(昭和17)年に石垣島平得、1943(昭和18)年に宮古島、石垣島大浜などに飛行場建設をはじめた。日本国が沖縄に本格的な軍隊を配備するのは、1944(昭和19)年3月、沖縄守備隊第32軍の創設以降である(『沖縄県史 各論編5』、林博史編『地域の中の軍隊6 九州・沖縄』)。

沖縄の軍事施設について、我部政明の次のコメントが参考になる。「(1922年のワシントン会議において)琉球以南に日本の基地は造らないという条件で、南太平洋の日本の委任統治を認めるという取引が行なわれている。これは日本の膨張を抑えるため、フィリピンを拠点にしていた米国が太平洋の支配維持の見地から行なわれた。……沖縄の戦略的位置はそこに住む人間の意思に関係なく決定されている。決定するのは、沖縄の人間でも地理的位置でもなく、周りから見て勢力圏を描く人々の考え方である」(琉球新報社『新南島探験』)。

4.徴兵制の施行と徴兵拒否

1898(明治31)年、日本本土より25年遅れて沖縄に徴兵令が施行された。しかし大陸への脱出を試みたり、身代わりをたてたりする徴兵忌避者が続出した。徴兵令施行から1915(大正4)年までの間に774名の者が、徴兵忌避で逮捕、告発された(琉球新報社『新南島探験』)。

また、移民に徴兵忌避の意図があるとみなされることもあった。海外に在留しているために徴集が延期された者は、1935(昭和10)年時点で全国に5万1722人いたが、府県別では沖縄県がもっとも多く9472人であった。1940(昭和15)年、留守第6師団長河村薫は、陸軍大臣に以下のような報告書を提出した。海外渡航者が「事変前ノ3倍ニ激増」していることを指摘した上で「間々合法的徴兵忌避ノ悪質ニ基ク渡航トモ思考セラルル向アリテ徹底的方策ヲ講スル要アリ」。沖縄県は1939(昭和14)年に「徴兵検査未済者の海外渡航防止」の通牒を市町村に出しており、「徴兵忌避の疑いある者、又は其の誤解を受ける事情のある者は極力阻止方法を講ずること」とし、市町村会議でも「19歳以上の徴兵検査未済者の海外渡航は禁止」することを指示した(林博史編『地域の中の軍隊6 九州・沖縄』)。

吉浜忍「明治期の沖縄における海軍志願兵」(『南島文化24号』)によると、1899(明治32)年の沖縄県の海軍志願者は13名であるが、同年、宮崎県は379名、鹿児島県は922名である。1906(明治39)年には、沖縄県の志願者は40名に増えたが、宮崎県は712名、鹿児島県は1455名に増えた。大正から昭和初期にかけて、沖縄県の海軍志願者数は40名前後から80名前後で推移している。ただし徴兵制施行により、「沖縄でも毎年のように徴兵検査、入営、出征、帰還、戦死などの軍事にかかわる風景がみられたはずだ。これらの延長線に沖縄戦があるという認識を持つ必要がある」。

以上の状況を踏まえて、軍部の沖縄県民観を、石原昌家「沖縄戦の諸相とその背景」(琉球新報社『新琉球史 近代・現代編』)からみていく。1910(明治43年)度「沖縄警備隊区徴募概況」では、沖縄県民は普通語を理解する者が少なく、徴兵業務に支障をきたしており、徴兵忌避の観念が強いと嘆いている(普通語を話せないと偽って徴集を逃れようとする)。沖縄連隊区司令部、1924(大正13年)12月発行「沖縄県の歴史的関係及人情風俗」でも、沖縄県民は教育程度が低級なうえ、皇室国体に関する観念が徹底していないことを短所と指摘している。さらに沖縄は移民県で、アメリカやハワイに多数出かけているので思想上に及ぼす影響が懸念されるとも記している。1934(昭和9)年、沖縄連隊区司令官の「沖縄防備対策」には、沖縄県民の国家意識、愛国熱は他地方と較べられないほど低く、外国からの支配をうけると容易にその支配に甘んじるだろうと記されている。

徴兵忌避は、「伝統的に『非武の文化』をもつ沖縄の人々の間には、徴兵に対する強い違和感があった。海外移民も、徴兵に対する消極的抵抗の一形態」という見方もできる(後藤乾一『近代日本の「南進」と沖縄』)。しかし、日本国特に軍部は、愛国心、皇室観念が希薄であることを沖縄住民の欠点ととらえた。沖縄戦における、日本兵の残虐行為の要因の一つは、このような沖縄住民に対する蔑視である。

5.沖縄戦と軍機保護法

日本軍の沖縄住民スパイ視及び軍機保護法についてみていこう。明治期の田代安定の構想にあった「警察権の拡張」が、日本兵によって極限まで拡大されて行使され、人権蹂躙という形で顕在化したのが沖縄戦である。

一部の日本兵は、言いがかり、腹いせ、食料を強奪する口実として沖縄住民をスパイ視した。負け戦を沖縄住民に責任転嫁する日本兵もいた。方言をしゃべる者、外国帰り、外国語を話せる者は特にスパイ視されやすかった。ペルー帰りのある人物は、収容所の班長をしていたが、それを知った日本兵が彼を呼び出し、スパイだといって日本刀で斬った。日本語を話せない老人が、3日ほど縛られた後、銃殺された。ある日本兵は、壕に避難していた老婆に「この壕から出なさいと」命じたところ、老婆が方言で返事をしたため、軍刀で首を切り落とした(沖縄探見社編『沖縄戦の狂気をたどる』)。

このような日本兵の残虐行為の法的根拠は軍機保護法である。我部政男「沖縄戦争時期のスパイ(防諜・間諜)論議と軍機保護法」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』42号)は、沖縄戦における軍機保護法の果たした役割を考察している。32軍のスパイ観については、「軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ(沖縄語デ談話シアルモノハ間諜ト看做シ処分ス)」(32軍参謀長 長勇)、に端的にあらわれており、この命令は「軍の自信喪失と住民への猜疑心を露呈したものであった」。

さらに、「沖縄秘密戦構想には、沖縄住民を戦力として利用する大がかりな作戦が予定されて」おり、「軍官民共生共死」によって戦争が進められていく。その際軍部は「皇民意識ノ徹底セザル」沖縄住民に不信感をいだきながら、その住民の協力を必要とするというジレンマに陥っていた。そこから「スパイ嫌疑」が発生した。

石原昌家「沖縄戦の諸相とその背景」(『新・琉球史 近代・現代編』)も沖縄戦における軍機保護法の影響を指摘しており、「陣地周辺をうろつくものはスパイ視されたという複数の証言」があり、「戦場でスパイ視されるということは『軍機保護法』が拡大解釈され、ただちに『処刑』されることを意味していた」。

軍機保護法は「軍事上ノ秘密ヲ探知シ又ハ収集シタル者之ヲ公ニシ又ハ外国若ハ外国の為ニ行動スル者ニ漏泄シタルトキハ死刑又ハ無期刑若ハ3年以上ノ懲役ニ処ス」という内容で、地上戦の舞台となった沖縄では「軍に協力していた住民が、米軍の進撃を目前にして、家族の避難壕を捜し回っているうちに別の部隊の兵士にスパイ視」された。単に戦場を逃げ回っていても、日本兵は軍事機密の探知、収集と受けとめることがある。これが、「軍官民共生共死」の実態である。

なお、日本兵の沖縄住民への不信感の要因として、日本社会における沖縄蔑視も考慮する必要がある(久志富佐子『滅び行く琉球女の手記』に描かれているような状況)。今日でも、オスプレイ配備に反対する沖縄の議員、首長達の抗議行動に対して、日の丸や星条旗を掲げた本土の人たちが、「非国民」、「反日」、「中国へ帰れ」、「ゴキブリ!」などの罵声を浴びせた例があり(2013年1月27日、日比谷野外音楽堂での「NO OSPREY 東京集会」。ウエブサイト「ヘリ基地いらない二見以北10区の会」参照)、ネット上にも沖縄人へのヘイトスピーチが溢れている。

6.沖縄利用・依存からの脱却

沖縄戦は、国体護持及び本土決戦を遅らせるための持久戦だった。日本国は沖縄住民を盾として利用した。冒頭で述べたように、憲法9条支持者の発想の中にも「沖縄利用」が存在する。背景には、沖縄住民蔑視があった。軽蔑しながら利用する、頼る、依存しているといってもいいだろう。なお、米軍統治の27年間、米軍は沖縄を「直轄支配」し(布令・布告)、沖縄返還後も日米安保、地位協定体制下に置き、沖縄住民の人権を侵害している(生存権、土地所有権、地方自治、集会結社の自由等。例えば辺野古基地反対抗議に対する海上保安庁による違法な弾圧やスラップ訴訟)。2013年、日本国の国会は特定秘密保護法を可決した。同法の悪影響を集中的に受けるのは軍事基地周辺地域である。沖縄はスパイ視される可能性がもっとも高い地域となる上、住民に必要な情報も「防諜」の名の下、今まで以上に入手しにくくなる。沖縄住民の犠牲と引き換えに、本土住民は「米軍に守ってもらえる」という安心感を得ている(巨大な軍事施設を維持するためには、直轄支配と警察権の拡張-監視、取り締まり-が必要と説いていた田代はさすがであった)。

かかる状況を良しとしない本土の住民も存在する。しかし、傍観は加担と大差ない。本土の住民(私自身も含む)に問われていることは、どのような方法で沖縄利用・依存を止めるか、利用・依存を促進する動きを阻止するかであろう。ヒントはある。

地方自治の尊重という価値を実現するために、議会決議を通じて、声を上げ始めた自治体がある。「アメリカのバークレー市議会、吹田市、尼崎市、岩倉市、武蔵野市、白馬村の各議会は、沖縄の自治の尊重を認め、沖縄の人々を支援し、辺野古・大浦湾の新基地建設に反対する決議を上げています」(琉球新報、2015年10月14日)。

辺野古基地反対国会包囲の例もある。「約1万5千人(主催者発表)が国会を取り囲み、『人間の鎖』を作った」(朝日新聞デジタル、2015年5月24日)。

また、辺野古基地建設反対活動を支援する「辺野古基金」への寄付金が、2015年4月の創設から3カ月弱で、3億5000万円を突破し、事務局によると「7割は本土からの寄付」(東京新聞電子版、2015年6月27日)。

本土のマスメディアは米軍基地関連のニュースをそれほど報じないが、少部数のメディアは積極的である。『DAYS JAPAN』 は、2015年6月号で「沖縄をかえせ沖縄のもとに」という特集を組むなど頻繁に沖縄を取り上げている。ホームレスの自立を支援する『THE BIG ISSUE JAPAN』も2015年8月1日号で「平和へ-米軍基地のたたみ方」を掲載している。

とりわけ興味深いのは、「信州発の産直泥つきマガジン」を称する『たぁくらたぁ 34号』である。「絶対に造らせない-辺野古の新基地」を掲載し、昆布土地闘争、104号線超え実弾演習阻止、安波ハリアーパッド建設など、「非暴力の抵抗運動」で基地拡張、新設を阻止した例を紹介している。デモでは何も変わらないという意見に対し、「沖縄にはあてはまりません」と記している。「非暴力の抵抗運動」の成功事例を伝えていくことは、今後の抵抗運動の励みになり、継続を促進するだろう。

また、のりこえねっと(ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)共同代表の一人で法政大学沖縄文化研究所兼担所員(法政大学総長)の田中優子は、「(集団的自衛権行使容認について)日本もまた平和実現の手段を『非戦』から『戦争』へと変えるという。……戦争という手段で平和を実現するという方法論が間違っている。……平和を叫ぶのは意味がない。『非戦』という手段を実現するしかない」と述べており、興味深い(『週刊金曜日』、2015年8月7日・14日合併号)。非武と非戦の関係について検討したいと思う。

本土住民が沖縄に関心を持つきっかけは、地方自治、自己決定権、民主主義、人権など多岐にわたる。いずれにしても、「沖縄問題」は沖縄住民の行為によるものではなく、戦前は日本国、戦後は日米両国が引き起こしたものであり、解決する責任は、主として日米両国の政府と住民にある。このことを認識し、請願、デモ、情報発信などの行動を起こす本土の人間はまだ少数である(日本には1700以上の自治体があるが、「辺野古基地建設強行」に対して請願・陳情をしたのは上述の5議会のみ。辺野古基地反対デモも、反原発や安保法制反対デモに比べて参加者は少ない)。これらの行動の輪をどれだけ大きくしていけるか。日本本土の「民度」が試されている。

みやひら・しんや

1967年、沖縄県生まれ。東京都立大学社会科学研究科博士課程(基礎法学)満期退学。現在、流通経済大学法学部教授。専門は日本近代法史(入会権、水利権、温泉権等)。著書に、『リーガルスタディ法学入門』(共著、酒井書店)、『部落有林野の形成と水利』(共著、御茶の水書房)、『現代日本のガバナンス』(共著、流通経済大学出版会)など。

特集・闘いは続く安保―沖縄

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