特集●闘いは続く安保・沖縄

戦争はさせない! 新たな可能性

戦争法反対運動の高揚からみえるもの

ルポライター 鎌田 慧さんに聞く

聞き手 本誌編集部

1.戦争法の強行は議会制民主主義の崩壊

――まず一連の戦争法をめぐる動きについて、全体を俯瞰してどのような事態が起こったと理解すべきなのか、どう思いますか。

鎌田この10月に岩波書店から『戦争はさせない デモと言論の力』を出版し、戦争法成立という時代の分岐点に立って、ここまでの闘いと今後の展望まとめました。短時間のインタビューでは尽くせないことがらは、その本をご覧いただくとご理解いただけると思います。

鎌田慧さん

鎌田慧さん

安倍首相はとにかく「安全平和法制」であるとのウソを言い張ることによって、国会審議を乗り切ったのですが、乗り切った途端にその説明を完全に放棄してしまいました。彼は国民をすごくなめていて、大江健三郎さんの言葉を借りるならば「主権者を侮辱」していて、野党もまた完全になめられている状況があります。安倍首相の意識の中には、自分達は公明党を巻き込んで国会内の多数を占めているから、どう批判されても大丈夫だといった横暴な考えが強く、それが染み渡っていると思います。

たとえ批判されて論破されたとしても、国会の多数決で勝てるんだと安心している。はじめから多数決、強行採決で勝てるという確信があるから、何を言っても全く動じないわけです。安倍首相と官邸を固めている、日本の歴史の総括に鈍感な連中、ウルトラな非民主主義的感覚を持った連中がたかをくくった政治をおこない、それを自民党全体が、保身のために白紙委任してきた状況が問題だと思います。

本来であれば、これだけ反対の声があがれば、自民党内部が動揺して割れたり、脱落したりするのですが、今回は見事にそうならなかった。総裁選においても少数派の対立候補さえ作れなかった。作らせなかったし、作れなかった。それは保守政治の退廃であるといえます。現在の日本はそういう極端な状況に来ている。官邸があらゆる決定権を掌握して、自民党にも公明党にも、さざ波程度は立ったでしょうが、結局割れなかった。

そのような状況への危機感からか、国会では民主党も遅ればせながら法案反対の行動に出るようになったし、連合もさすがに何かやらないと組織の体面が保てないということで街頭に出た。それではっきりしたわけですが、つまり強行する側は思いどおりに強行し、強行される側は全く歯止めになれなかった。

そこに安倍政治の暴政ぶりが現れていたといえます。元の法制局長官や最高裁判事、憲法学者や弁護士など、法律に関わるほとんどの人たちが「憲法違反である」ということを警告しているにもかかわらず、数の力で強行した。これこそ議会制民主主義の崩壊です。戦後70年、いままで例がなかった。多数を占めていても、少数の意見を聞かなければならない。それが本来の民主主義です。少数が反対しても多数決で決めれば良いという姿勢は、議会制民主主義そのものに対する否定であり、憲法の否定でもある。さらには、人間の生き方の否定ですよ。反対があっても押しつぶしていく、という強権的な政治のやり方というのは、例えば土地の強制収用もそうです。農民が少数で反対していても、とにかく権力・行政が強制的に土地を取り上げる。それは法律で守られているのでしょうが、基本的人権を尊重する立場から考えれば強制収用などできるはずがないわけです。

安倍首相の掲げる「積極的平和主義」についても、その言葉を生み出したガルトゥング博士によると、そもそも積極的平和主義は対話を重視する立場であって、他者・少数者の意見を尊重し、いかに平和的に調整していくのかが重要となる。その立場にも違反しているということです。

2.挫折しない運動―60年安保闘争からの飛躍

戦争法案反対で全国から12万人が国会を包囲する

戦争法案反対で全国から12万人が国会を包囲する(8月31日)

鎌田ぼくは60年安保世代なので、あの頃と比較しながらみてきたのですが、今回と同様に60年安保闘争も成立直前まで反対運動は動いていなかった。59年後半にはまだほとんど動いていませんでしたね。その中で、国会突入という事件が起こりました。59年11月だったと思います。これは労働者などが中心となってワーッと入っていった。そこから一気に高揚が始まって、5月の岸内閣の強行採決のあと、ご存じのように樺美智子さんが亡くなる。再度の国会内突入というのが起こったわけです。その頃の学生はとにかく戦闘的で、デモの際には旗竿を持っていたので、旗竿で突っついたりして実力的に突破して入ろうとしました。

その一方で、それに対する反動として右翼が出てきて、棍棒でデモ隊を殴り倒すということがありました。有名なのは新劇人会議という新劇の関係者、役者さんたちのグループがあって、私は彼らが私の後で殴られて倒れる姿を目にしました。その意味では、極めて暴力的な時代だった。

1960年は三池闘争もあった。三池でピケをはっていた労働者が殺された。それも右翼が匕首を持ってピケに襲いかかった。それから、アメリカ政府のハガチー報道官が大統領の前触れで来たときも、右翼が空港周辺に来ていまして、デモ隊の学生が殴り倒されていました。ぼくも現場にいたのではっきりと覚えています。

そういう暴力的な出来事が続く中で、最終的に自然成立しました。いまはほとんど報道されないのが不思議なのですが、岸首相は右翼に刺されたんですよ、強行採決で批判されて退陣したときに。そういう時代状況の中で、岸首相や佐藤栄作などは「自衛隊を出動させる」と言っていたわけです。そのことについて、安倍首相は自身の著作『美しい国』などで書いているのですが、兄弟である岸と佐藤がワインを飲みながら「死んでも頑張ろう」と語ったといいます。同じような美学で安倍首相も頑張っているのでしょう。

いずれにしても、そのような時代の緊張感というものが現在よりあったということですね。強行採決の岸は退陣したけれども、安保は平然としている。当時は大衆動員という考え方があったし、やはり戦後労働運動の名残もあって、60年安保闘争は労働組合の政治闘争という側面が強かった。やはり民主主義は労働組合が守るという意識が機能していましたね。

それに対して、今回の場合には、分かりやすい右と左の対決のような政治的に明確な運動という形とは、違う形になっていますね。安倍首相は今回の運動の盛り上がりは60年安保ほどではないとたかをくくっています。当時は岸首相や佐藤栄作は外出することもできなかったが、いまの自分は平気で外出できていると語っています。

安倍首相にとってはその程度の認識なのですが、今回の場合はじつは非常に根が深いのです。60年安保の根が浅かったということではありませんが、今回は個人個人の中に、やはり許せないという気持ちが非常に強まっている。60年安保は政治闘争で負けたという感覚があり、潮が引くようにサーッと引いていった。そして、西田佐知子の「アカシヤの雨に打たれて」という歌謡曲が流行って、挫折ムードになっていました。60年安保は学生たちが運動の前面を担っていたということもあって、学生の方は「まぁ、やるだけやったけど負けたんだ」という感じの挫折感がすごく多かった。

一方で、労働組合の場合はひとつの目標に向かって総動員していますので、その次の一手がなかった。大衆運動として次に打つ手がなかったわけです。学生たちの中には、これはやはり地域民主主義の問題であり地域に帰って運動をしようと、ふるさとで民主主義をつくる「帰郷運動」をやった連中もいましたが、結局少数にとどまりました。

しかし、今回の場合は、個人個人の中にずっと燃え残っているんですね。これはひとつの可能性であり、安保法制が成立したあとも、まだ運動の勢いが残っている。現在では次の参議院選挙がひとつの課題になっていて、それに向けて何をするべきかの議論が盛り上がっています。敗北(安保法制の成立)はしたけれど、挫折感がないという現状は60年安保の際と全く異なる状況です。それは、組織の指導者が方針を出したり考えたりしているわけではなく、皆がそれぞれの立場で集まってきたからだと思います。

つまり、「許せない」「なんとかしたい」という人たちが、個人で小さなリュックサックを背負って、ペットボトルを入れて、動けるような形でデモに参加している。何度か来ているうちに、あそこは水がないとかトイレがないとかいうことも考えながら、それに対応しながら集まる参加者がピークで12万人になりました。その中で組合としてどれだけ来たのかはわかりませんが、圧倒的に個人で参加しているわけです。その点が、1960年と2015年の安保法制をめぐる運動の明確な違いです。

3.新たな運動の形を示したSEALDs

鎌田国会前集会でも話したのですが、60年安保闘争の頃と同じようなことをやっているということは、この55年間さぼっていた部分があったと思うんですね。つまり、追撃しなかったということです。それは安倍首相の側近たちも総括していて、岸の後を継いだ池田勇人が経済政策重視に転換して、所得倍増計画を打ち出すことによって局面が転回した経験から、今回もその方法でいけると思っているようですが、全く時代が違っています。

自主的に結成されているシールズの仲間

新たな可能性を持って沖縄から北海道まで自主的に結成されているシールズの仲間

いまは高度成長する条件は全くないわけですから。あの頃は消費に対する志向というものが強かったわけですし、日本の産業が活性化していた時代ですからいまとは全然違うんですよ。いまはむしろ衰退している状況ですから。安倍首相周辺は、くるっと舞台が回転してみんな経済一直線で進めばいいという願望ですが、くるっと回転できないのが現状であり、同じ舞台のままで芝居を続けて、そこで経済だと言っても、全く笛ふけど踊らずという状況になるのは当然です。

それに怒っている人たちの運動がこれからどう始まっていくかということですが、ひとつはSEALDs(シールズ)が現れたということです。これはSEALDsそのものというより、SEALDsに表れている新しい運動というふうに考えなくてはならないと思います。彼らの運動が登場した頃には「SEALDsは嫌いだ」などと言う連中も結構いましたね。昔の若者はそうではなかったという反発だったのですが、やはり状況が違ってきているんです。その違ってきた事実をちゃんと認識しないと運動にならないと思います。

過去には、60年安保闘争があって、全共闘運動・70年安保があって、その後も実力闘争で頑張っていけるという形になって、結局、爆弾闘争までいったわけですね。それは力には力でという運動だったといえます。だから、60年安保闘争の際に権力側は自衛隊の出動まで考えていたし、一方で運動側も組合が動員費として相当な金額を使ったと思います。とにかく三池闘争は総資本対総労働という大闘争だったわけですが、それと同じような形で大闘争を組んだのが60年安保闘争でした。

しかし、これからはそのようにはいかないわけです。時代は変わりました。それはいかにして一人一人の意識を強め、運動を強めていくかという、そういう運動のつくり方に変わったということです。その象徴としてSEALDsが現れたということです。

そして、SEALDsが今後どれほどの力を持つようになるかは未知数ですが、高校生が参加し始めるなど、彼らの周辺でも様々な運動が現れてきている。その点がこれまでの運動と違うところで、いろいろな運動を自分たちでやろうという、そしてそれが結びついていけるという、その実感ができてきたということなんです。つまり、かつてのブロック的な運動、社・共・総評ブロックという砦みたいな存在を中心とした運動ばかりが想定されましたが、ようやくもっと広くあまねくいろいろなネットワークがつながり合い、それが何重にも重なり合っていくというイメージの運動が可能になったといえます。

昔からの左翼の方たちは自分たちの運動を金太郎飴だと表現することがあります。以前からいろいろな運動はあったけれど、やっている人はほとんど同じだった。だから金太郎飴だといってみんな自嘲していた。しかし、最近の運動は明らかに異なってきていて、既にいろいろな模様が現れてきています。

現状における当面の課題といえば、戦争法と原発再稼働、そして沖縄の辺野古の3つがとても重要なのですが、それと同じような形で労働法制の改悪という問題があり、TPPによる農村の荒廃や離農がさらに加速するといった問題もある。60年代には離農者は労働者への道が開かれていましたが、いまは受け皿がなく、フリーターや残業代ゼロのブラック企業など、残酷な未来が待つばかりです。

以前は資本側も、一方で厳しい政策をとれば他方は穏やかにするといったような余裕があったのですが、いまはそのような余裕がなくなってきた。例えば工業分野では、産業構造の転換という形で石炭から石油に転換したとき、石炭産業は衰退させる一方で、石油産業については手厚く保護する。その結果、炭鉱労働者が石油工場の守衛さんになるとか清掃の人間になるとか、資本間で労働者が移動していたわけです。いまはそれもできない状況になっている。

つまり、もはや状況はどん詰まりに来ていて、誰もが矛盾を抱え、矛盾の犠牲になるという、矛盾の連帯感が強まってきている。そこに金太郎飴ではないネットワーク型の運動が生み出されてきたという、そういう転換期であるということを強調したいですね。

4.「命を守れ!」と「民主主義とはデモだ!」

――これからの運動はどのように展開しますか。

鎌田戦争法に反対する運動として、今度自衛隊を中心にした集会をやろうと思っています。戦争法に反対する元自衛隊員は結構現れてきている。元自衛隊員とか家族とか。できれば、現役の自衛隊員も参加してもらいたいのですが、とにかく出兵反対の運動をいまのうちからつくることで、自衛隊の中に亀裂を与えたい。

一方で、左翼は、自衛隊は敵だから「自衛隊員の命を守ろう」と言っても、「そんなの自衛隊死んで当たり前だ」くらいに思っている。「自衛隊に行かなければいいじゃないか」と。しかし、やはりいまはそれも転換する必要があって、自衛隊員を殺させないということが、つまり戦場に送らせないということが戦争をさせないということになる。それを、自衛隊員や家族の中から「戦争はいやだ」という厭戦気分をつくろうと、そういう集会をやろうと準備しています。

それからもう一つは、違憲裁判が準備されていて、違憲訴訟を全国的に支えるような運動をつくっていこうということがあります。

それからぼくが強調したいのは、じつは今回の運動は反原発運動が培ってきたひとつの水路の上にあるということです。とにかく個人で参加していくというスタイルは、福島原発事故後の反原発運動からはじまったわけです。その反原発運動を支えたのはお母さんたちの、女性たちの危機感です。子どもをどうするかとか食べ物をどうするかとか。それが下支えになっていたわけです。それが今度は戦争の問題になり、自分たちの子どもがどうなるのかという危機感から、それまでの反原発運動によって拓かれた水路、その流れが広がってきたという、そういう感じですね。

さらにその前に水脈みたいなものがあったとすれば、2008年末の日比谷・年越しテント村ですね。あのときにフリーターの人たちの運動がはじまった。あれは基幹産業の組合じゃなくて、個人参加の労働組合が中心になって組織された運動だったわけです。あまりにも悲惨な状況の中から、そういった運動が現れてきた。まさに労働者の命がギリギリのところさらされた状況で、命を守る運動という形ではじまり、反原発運動も命を守る運動として変化しながら広がっていった印象があります。単なる原発反対から「命を守る」というシュプレヒコールに変わってきた。そして、今回の戦争法反対につながってきている。

一番変わったのは、SEALDsの「民主主義とはなんだ」というコール。それに対して「これだ」とみんなが言うわけです。「これ」というのは、デモでしょう。民主主義はなにかという問いかけを、左翼はやらなかった。左翼は革命をしないと自由と民主主義が手に入らないと、教条主義だった。いまは、社会の現実に声を上げてそれが支持されることになっている。いままで運動をやってきた人たちはやっぱり初心にかえらなくちゃいけない。左翼ははじめから諦めているんです。いまは民主主義社会じゃないからそれをもう一度奪還するというふうには考えなかった。そう考えるといまは民主主義社会じゃないのが明確になったんです。

それから運動の形態が60年間変わっていなかったことが決定的です。ちょっと気が利いたところでは、「この運動はちょっと古いな」とか「なんかいやだな」というのがあったわけです。ぼくも、シュプレヒコールや、大きな音の宣伝カーでガンガンやってもさして効果がないというのには気がついているのだけれど、やっぱり集会は変わらずに続いてきた。でもあれは全然受け入れられていなかったのでしょう。うるさいばかり。

福島原発事故のあとは「シュプレヒコール・原発反対」というと、みんな拍手することはあった。当初は危機感が強かったから関心も向けられたけれども、そのうちにみんな見向きもしなくなった。それまでは、そういうパターン化した運動で、一方的な示威運動だったわけです。示威というのは、たとえばクビを切られたときに、クビを切った企業・会社・工場にデモで行って、クビ切り反対とガーガー騒いで文句を言うという運動です。それはいいのですが、政治闘争になると、参加する人が増えなくてはダメですね。コミュケーションのためにやっているわけだから、支持されなくちゃいけない。

でも支持されないですよ、ガーガーでは。それから横断幕は先頭にあるけれどよく見えないし、わからない。シュプレヒコールはやるけれど、ほとんど無言の大衆として歩いていくから、なんのデモか全く分からない。それも真っ黒い、異様な集団のようなイメージで。中に入っている人には違和感はないけれど、周辺にいる人からはすごく違和感がある。それが、いまはみんなでプラカードをつくったりして、そのプラカードも多くは自分たちで自由に書いて、いろんな表現が出るようになってきた。表現の仕方が変わり、広がってきた。デモをパレードと言ったりする。「パレード」か「デモ」かというすごい論争があって、ぼくもやっぱりデモだなとは思うけど、やっているうちにパレードじゃないとダメだな、と分かるようにもなった。

繰り返しますが、これは2008年末の年越し派遣村の非正規労働者の運動から始まったと思います。前の方に楽隊がついたり、乳母車を押したりと、なにか若い感覚が広がった。それを古い運動家たちが採用しなかったわけです。自分たちの運動はやっぱり宣伝カーを手配して、「梯団」を組む。だから軍隊の行進と似て、もう戦闘デモですね。小銃担いで戦車を前にして進んでいくという、そういうイメージだった。

それが、みんなが勝手にしゃべって勝手に入ってきて、そして宣伝して歩くということになった。風船を配るようになったりもした。これまでの集会は、演壇に政党代表者が並んで、組合だと三役とかがひな壇に並んでいた。中国共産党とかソ連共産党の大会ですね。それも変えた。それでマスコミも下から幹部の人たちの写真を撮すんじゃなくて、参加している人たちのプラカードを撮す。それがだんだん進んで、いまは全員同じプラカードをワーッと上げるようになってきた。あれもパターン化してきたようですが、でも視点が逆転したことは確かです。個人個人の意見で参加している集会をどう表現するのかというところが問われるようになってきました。

とにかく宣伝カーはやめて、シュプレヒコールもやめて、プラカードをいっぱい自分たちで書いて、というふうになってきています。もうそれが受け入れられるのが分かってきました。個々の運動の多様性が求められてきた、ということですね。その代表例がSEALDsの若者感覚、ラップ調のシュプレヒコールになってきています。運動がようやく時代に追いついてきたということでしょう。その結果、古い運動も変わってきていると思いますよ。

5.自立した個人の幅広い運動へ

――自立した個人が、自身の意見をもって参加するように、運動が大きく変わってきたということですね。

鎌田それでもう一つ、大きな課題がある。連合の組合員がどうするのかという、大きな課題があるんです。国会前などに来ていた連合組合員はもちろんいると思います。連合でも自治労と日教組は来ているわけだし、中小労組でも連合に入っていても、参加してきているところは多いけれど、問題は民間大単産ですね。そこに働く労働者がどうなるのかということです。

ひとつは、原発。重化学工業が原発関連産業で、原発関連産業は兵器産業です。重なっています。三菱、東芝、石川島播磨、日立、あとは日本製鋼とか。室蘭の日本製鋼は大砲の砲身を削っていた会社で、それでいま原発の容器をつくっていて、世界の8割くらいを占めている。そういうふうに技術が一体化しているし、原発と兵器の両方を輸出産業にしていくという形で進む。そこに秘密保護法があるから、さらにいままでよりも厳しい環境になるということがある。

その頃を振り返ると、ぼくは実際に知っていますが、60年安保闘争のときに、造船、電機は中立労連だったんです。総評じゃなかった。で、中立労連の彼らが、安保反対闘争で国会前に来ていたんです。闘争中から経営者たちは「なんだよ、うちの連中が国会前に行っているぞ」と危機感をもった。そして当時の資本側の労務対策を担っていた日経連が、安保闘争のあとにそういう組合をつぶしたんです。石川島播磨とか、三菱重工とか、造船中心でした。造船は、そのころは兵器工場のようなもので、潜水艦から、戦艦、魚雷から、ミサイルにまで関与していた。それで、そういうふうに日経連がびっくりして、全部組合潰しをやった。

そのやり口は、経営が労働者たちに講習会をやった。一斉に2泊3日の研修会。組合は2泊3日くらい行ったってそう変わらないからって、反対しなかった。するとそのあとに、参加した連中がサークルをつくったんです。行った連中は同期で、同期の連中のサークルをつくって、それで報告会をやったりする。それからQCサークルをつくったりした。いままで組合が掌握していた労働者と職場の秩序を会社側が掌握したわけです。レクリェーションも、組合がやっていたのを会社がレクリーダーというものをつくって、全部組合から会社に主導権が移る。それで、兵器工場では全造船が解体状態になって造船重機労連になったし、電機メーカーも組合にてこ入れした。

長々と説明しましたが、そういうことになったから、それをどう奪還するかということが問題なのです。連合は650万人くらい組織していると思うんですが、そのうちのほとんどが、ぼくから見れば機能していない。それをどうするか。組織でくるのは無理だから、どう個人的に参加させるかというところが課題だと思います。個人で来ていたとして、公安だって全員の写真を撮して会社の人事に配るわけにはいかないから、彼らが人間的な声をどう上げられるか、その保障をどうつくっていくのか、それが最大の課題だと思います。

労働者が6000万人いる中で、戦争法案反対で全国の集会に参加したのは10万とか20万でしょう。その人たちを地域の運動体がどうやってつなげるか。それはその地域の人間ですからね。従業員でも労働者でもある、けれど普通の家庭生活をやっている人間です。それをどう参加させていくのか、それからその家族がどう参加するのか。だから、まだ無限に宝庫が残っているということです、運動の宝庫が。

それが選挙に投票するわけです。職場の選挙は狭い単位内で投票するから、変な投票があらわれるとすぐ分かる。組合選挙は、大企業では管理されている。でもさすがに公職選挙法の選挙は管理されていない。その選挙に運動をつなげていくことが展望できると思います。

会社派の労働組合といえども、そんなに徹底的に機関紙で思想教育をやっているわけではありません。だから、今後の展望はやはりマスコミの問題に関わってくるわけです。それから文化の問題。そういう人たちに向ける文化。それからやはりぼくたちの書くものがどう伝わるかということです。

だから、いつも言うのですが、労働組合の機関紙は重要なのです。労働組合はいままでそういうことをずっと教宣でやってきた。昔から労働組合の運動方針というのは、世界情勢・国内情勢からはじまって、みんな読まなかったとしても、ちゃんとしたことを書いている。少しは読まれるから、それなりに影響していたわけですね。それが、すべてとはいわないけれど、なくなってきている。そういう文化の問題、ジャーナリズムの問題が重要です。小説なども、フリーターの小説があらわれてくるような状況になってきているので、広く文化の問題にどう取り組めるか、ということだと思います。

とにかく新しい時代に、新しい言葉と新しい運動が出てきて、やっぱり変わってきたんだ、というところだと思います。それをさらに拡げていこうということです。それで、政治的には選挙の話になるのでしょうが、それは他の皆さんが語っておいでだと思います。

かまた・さとし

1938年、青森県弘前市生まれ。ルポライター。トヨタの季節工として働いた経験をルポした『自動車絶望工場』(1973)で注目を浴びる。90年、『反骨鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞、91年、『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞受賞。2011年から「さようなら原発1000万人署名運動」の呼びかけ人として、全国の集会、デモなどの反原発運動に携わってきた。また、昨年から「戦争をさせない1000人委員会」の呼びかけ人として、戦争法反対運動の先頭に立ってきた。その現場からの考えを『戦争はさせない―デモと言論の力』(2015年10月 岩波書店)にまとめている。

特集・闘いは続く安保―沖縄

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