コラム/経済先読み

安倍内閣の「新3本の矢」と“Industrie4.0”

グローバル産業雇用総研所長 小林 良暢

安保法案の仕上げを強行し、経済重視に舵を切った安倍首相は「新3本の矢」を発表した。GDP600兆円、出生率1.8、介護離職ゼロの3本である。発表直後の日経平均先物は、実現性に乏しいとして100円近く下げ、市場の反応は鈍い。

それでも、安倍首相は新たな会議体「官民対話」の場で、名目GDP600兆円の実現のため、「生産性革命」に取り組むと述べ、産業界に直接要請した。「生産性革命」とは一般には聞きなれない言葉だが、安倍内閣が今年の6月に閣議決定した「日本再興戦略・改訂2015」のサブタイトルに「未来への投資・生産性革命」として登場しており、これを「新3本の矢」の中心に据えてきたのである。「生産性革命」とはなにか。

アベノミクスも3年になろうとしているのに、未だ日本経済の潜在成長力は1%以下に止まっている。それ以上に問題なのは、OECD各国の単位労働時間当たりの労働生産性のランキングでは、34カ国中で20位、G7ではビリのままで、これでは異次元緩和だろうが成長戦略だろうが、何をやっても無理である。政策当事者としては、男子サッカーよりはましだが、なでしこジャパンとはいかないまでも、せいぜい今度のラグビーワールドカップのエディJAPANくらいのトップ10位を目指して、「生産性革命」に挑もうというわけである。「再興戦略・2015」は言う。世界に迫る「産業革命」への挑戦に手をこまねいていると、我が国の「企業や産業が短期間のうちに競争力を失う事態や、高い付加価値を生んできた熟練人材の知識・技能があっという間に陳腐化する」と、その意気たるや壮である。

世界は新しい産業革命=“Industrie4.0”の時代を迎えている。「インダストリー4.0」というドイツ生まれのこの言葉、日本では「第四次産業革命」と訳されるが、今、史上4回目の産業革命が世界で始まろうとしている。

第一次の産業革命は、言うまでもなく17世紀の英国で起った石炭と蒸気機関を活用した産業革命で、英国が18世紀・ヴィクトリア女王時代に「世界の工場」となり、ロンドンの「シティー」は世界の金融覇権の中心になって、ポンドが基軸通貨になった。いわゆる“パックス・ブリタニカ”で、英国が世界の覇権国として君臨したのである。

第二次は、アメリカ合衆国のフォード・モーター社が開発・製造した「T型フォード」。電気エネルギーによるベルトコンベアーを駆使した大量生産方式で、20世紀の初頭に米国が世界の産業覇権を握る。さらに、2つの世界大戦を経て世界の「金」と資金がニューヨーク・ウォール街に集中・集積してドルによる基軸通貨体制を確立、“パックス・アメリカーナ”として米国が世界覇権を奪取した。

第三は、コンピューターとロボット技術を活用したマイクロエレクトロニクス(ME)革命による自動化工場で、エレクトロニクスや自動車などの産業では「メード・イン・ジャパン」が高品質の代名詞となり、1980年から四半世紀は日本がテレビ、VTR、ウォークマン、バイク、小型乗用車などが次々と“JAPAN as NO1"に駆け上がり、世界市場を席巻していったが、アメリカの覇権体制は変わりなく、日本はそれを補完するに留まった。

そして21世紀の現在、“Industrie 4.0”と呼ばれる第4次の産業革命は、ロボットや工作機械などの自動化機械とコンピューター制御技術に加えて、業種や企業の枠を超えて工場・店舗同士、もしくは工場と消費者などを情報テクノロジーでつなぐIoT(Internet of Things)で、市場や在庫に応じて生産量の自動調整からラインの組替え、さらには研究開発まで連動した究極のシステムの時代に入りつつある。

この先陣を切ったのはドイツ。ドイツ政府は、産・官・学で2011年から国家戦略として新たな技術政策を立て、Industrie4.0にむけ邁進している。

また、情報大国アメリカも電機の巨人・GEが同社の製品の稼働データを収集・分析し、顧客企業に対して効率的な運用を支援するサービスを提供、さらにシスコ、インテルと連携してインダストリアル・インターネットOSのビジネス化をめざしており、京都の歯科用超小型レンドゲン装置や燕三条の金属加工メーカーなど日本の中小・ベンチャー企業にM&Aの触手を延ばしている。昨年4月、オバマ大統領が来日して東京・有明の日本科学未来館のロボットフェアに訪れ、東大を辞めてベンチャー会社を設立した2人の若者と握手をした。この会社、ビルの壁面を蜘蛛のように上がっていくロボットを開発、それを米グーグルが買収したのでこの訪問となった。これを買ったグーグルはまさか窓拭き会社をやろうというわけではなく、実はグーグルは第4次産業革命に備えてこういう面白いことをやる人材を世界から買い漁っているのである。

一方、GDP大国・中国は、GDPがアメリカを凌駕する2040年代に狙いを定め、まず製造業の高度化をめざす行動計画「中国製造2025」でIT技術の活用を図り、35年までに米国やドイツ、日本など世界の先端「製造大国」に仲間入りし、さらに建国100年に当たる2049年には総合力で世界のトップ級の「製造強国」になることを目標としている。

他方、我が日本は産業用ロボットやセンサー技術、電子部品などで世界に誇る技術を持ちながら、IoTのような統合システムで後れを取っている。

産業革命は、その度ごとに社会構成を根底から覆えしてきたが、今度のIndustrie4.0の最大の問題は雇用・労働のあり様に衝撃を及ぼすことである。

第一次産業革命のイギリスに例をとれば、農民層の分解で人々が農村から都市に流入、ルンペン・プロレタリアートを生み出した。その搾取から保護するために国家が工場法を制定したが、どうにか労働基本権を確立したのは1874年、産業革命の開始から100年も経ってからだった。

第二次産業革命のアメリカでは、電機・機械・自動車産業の勃興で、チャップリンが映画「モダンタイムス」で痛烈に批判した単純労働者を生み出すが、それでも近代工業は次第に、熟練技能者を企業内にも保持することで経営効率を上げる手法を開発、長期安定雇用の労働者の時代を切り拓いた。

第三次産業革命は、1980年代に日本が主導したコンピューターとロボット技術を駆使した工場のマイクロエレクトロニクス(ME)革命と呼ばれた産業革命で、それと併行してグローバリゼーションの波を受けて、製造工程の自動化が長期雇用の熟練労働者を駆逐して、低労働コストで有期ないしは限定雇用の労働者にシフトする時代に導いた。

そして、今始まる第四次産業革命は、第三次までの文脈とIoT(Internet of Things)技術の特性からして、長期雇用労働者の時代、日本的に言えば正社員が雇用の中心を担う時代を終焉させ、それでも残る人手を必要とする作業は多様な働き方と柔軟な雇用スタイル、これも日本的な言い方では非正規労働者が広範な雇用を担う時代になる。その中では、正規と非正規、男性と女性、総合職と一般職、さらに人種差別など、かかる日本的な雇用のヒエラルキー構造を改革してこそ「生産性革命」が成就することを「肝に銘ずべし」である。

こばやし・よしのぶ

連合総研、電機総研を経て、現在グローバル産業雇用総合研究所長。著書に『なぜ雇用格差はなくならないか』(日本経済新聞社)など。

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