特集●闘いは続く安保・沖縄

沖縄はなぜ、いま、自己決定権か

アジアの平和を担う架け橋をめざして

琉球新報編集委員 新垣 毅

少女の人権

「行政をあずかる者として、本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを、心の底からわびたい」。1995年10月21日、米軍普天間飛行場のある沖縄県宜野湾市の宜野湾海浜公園。米兵3人に沖縄の少女が輪姦された事件に抗議するため8万5千人(主催者発表)が結集した県民大会の壇上で、当時の大田昌秀沖縄県知事はこう謝罪した。当時、東京で学生生活を送っていた私は、自分のふるさとを見つめ直さざるを得ない気持ちに駆られた。「沖縄問題とは何だろう」と。

あれからちょうど20年。私は2人の女児の父になった。上の子は、やがて輪姦された少女と同年齢になる。果たして私は父として彼女たちを守れるか―。大きな不安を正直、抱いている。そう、沖縄は当時と変わらない。良くなっているどころか、むしろ追い詰められている。

事件に対する怒りが爆発した県民に考慮し、日米が合意した普天間飛行場の返還問題は迷走した揚げ句、今では県民が配備に猛反対したオスプレイ24機まで配備されている。女性へのレイプ事件はいまだ絶えない。本土メディアではほとんど報じられないが、酔った米兵が沖縄本島中部や那覇市などのアパートやマンションをよじ登り、住宅に侵入する事件は頻繁に起きている。米軍基地が密集する本島中部から遠い場所でも、安心して眠れない。

米兵の酒酔い運転事故、傷害事件、米軍機の騒音、米軍機の墜落事故…。異常事態が「当たり前」に思えてしまうほど、あまりにも毎日のように起きている。麻痺を通り越し、県民の多くは我慢の限界に来ている。

さらに国会では安保関連法案が成立した。「集団的自衛権の行使」の名の下で、武力行使が行われた場合、真っ先に反撃の標的となるのは、米軍基地や自衛隊基地が集中する沖縄だ。沖縄は去る大戦で20万人余が犠牲になった沖縄戦を体験した。住民を戦場に動員し、県民の4人に1人が死んだ経験を、また次世代にさせるのか―。県民の中でそんな危機感が渦巻いている。

県民の意思を無視し、名護市辺野古への新基地建設を強行する日本政府やそれを支持する日本国民に対して、「また沖縄を国防のための捨て石にするのか」という差別を感じる県民は多いだろう。安保関連法案を見て、徴兵制を心配する母親たちが「わが子を戦場に行かせたくない」と思うように、沖縄県民の多くは、子や孫に二度と沖縄戦の苦しみや悲しみを味あわせたくないと思っている。いま、沖縄で大きなうねりとなっている新基地建設反対の動きは、県民にとってはまさに〝命の選択〟なのだ。

転換期

その新基地建設反対のうねりが起こる起点となったのは、先に触れた2012年夏のオスプレイ配備強行と、それに続く2013年1月28日の「建白書」提出といえる。建白書は、米軍普天間飛行場の県内移設断念とオスプレイの配備撤回を求めたもので、沖縄県内41市町村全ての首長、議会議長、県議会議長らが署名し、首相官邸で安倍晋三首相に手渡した。「沖縄の総意」を示した歴史的行動だったが、政府側は“無視”したまま、今日に至る。東京でデモをした代表たちは、「売国奴」などのプラカードで迎えられ、罵声を浴びせられた。

その年の12月、米軍普天間飛行場の「県外移設」を公約に掲げていた当時の仲井真弘多知事が、公約を破り、新基地建設に向けた辺野古沖の埋め立てを承認した。県民は強く反発した。翌年1月の名護市長選では、米軍普天間飛行場の辺野古移設阻止を訴えた現職市長が移設推進を掲げた候補に大勝した。

昨年11月の沖縄県知事選では、「県外移設」を公約する翁長雄志氏が約10万票の大差を付けて仲井真氏を破る。直後の12月の衆院選では沖縄全4選挙区で、翁長氏を支え「県外移設」を公約する候補者が当選した。「沖縄の民意」は明確に出た。しかし、その直後から日本政府は辺野古での新基地建設作業を強行し、今日に至る。

こうした状況を見ると、沖縄は日本の民主主義制度を享受できない地域なのかと疑いたくなる。このような形の訴えを打ち砕かれたら、いったいどうすれば自分たちの未来を担保できるのかという思いが県民の間で広がっている。

沖縄は戦後27年間、米国の統治下に置かれ、軍事政権による命や人権などの抑圧に苦しめられた。独立論や米国への信託統治論もあったが、9条など平和主義をうたい、人権を保障する日本国憲法が輝いて見えた。やがてその「憲法への復帰」を米軍への抵抗の旗印として掲げるようになり、日本への「復帰」運動が主流となる。その運動は1960年代後半には、ベトナム戦争の泥沼化を背景に、世界的な反戦平和運動と合流し、70年前後には「反戦復帰」の様相を帯びる。その運動の盛り上がりの中、沖縄で初めての公選による主席(知事)=それまで米軍が主席を任命していた=が誕生し、米軍基地の撤去を掲げるまでに至る。

米軍が絶対的権力を握る中、沖縄の人々は人権擁護や自治権を主張し、米軍と激しく闘った。

沖縄の戦後史は、民主主義を実践した、まさに権利獲得の歴史といえる。その要求はやがて「基地のない平和な沖縄」に至る。ところが、その要求は日米政府による沖縄返還協定で裏切られ、広大な米軍基地が残ることになる。米軍は日米安保条約や日米地位協定によって基地の「自由使用」や特別な地位などの恩恵を受けている。

この沖縄返還の在り方を、復帰運動を闘った人々は1879年の日本による琉球王国併合に例えて「第3の琉球処分」と呼んだ。その前の「第2の―」は、日本側が「沖縄を半永久的に米国へ租借する」という趣旨の天皇メッセージをきっかけに、統治権を米国に委ねた1952年のサンフランシスコ講和条約だ。沖縄を米国に〝売り渡す〟代わりに日本本土は独立した。

日本国憲法に「復帰」することで、憲法が規定する平和主義や人権保障の恩恵を受けることを目指した、日本への「復帰」とは何だったのだろうか。果たして沖縄で「平和憲法」は機能しているのだろうか―。こうした問いや疑問が繰り返されている。現在の辺野古への新基地建設強行は「第4の琉球処分」とさえ、いわれる。

そんな中、沖縄戦や、戦後も長期にわたり基地被害を経験してきた沖縄の人々が、子や孫に〝負の遺産〟を残したくないという強い思いから今、沸き起こっているのが自己決定権の行使を求める新たな動きだ。

自己決定権とは

自己決定権とは一般的にいえば「自分の生き方や生活について自由に決定する権利」だ。個人の権利の側面もあるが、国際法である国際人権規約(自由権規約、社会権規約)の各第1部第1条では、集団の権利として「人民の自己決定権」を保障している。日本語では一般に「民族自決権」と訳されているが、沖縄では沖縄戦における住民の「集団自決」(強制集団死)を連想する「自決」という言葉が含まれているため「自己決定権」という言い方が一般的になっている。

自己決定権は、自らの運命に関わる中央政府の意思決定過程に意思を反映させる権利だ。その権利が著しく損なわれた場合、独立が主張できる権利でもある。

国際法学者の阿部浩己神奈川大学教授によると、この自己決定権は今や国際法の基本原則の一つとなっており、いかなる逸脱も許さない「強行規範」と捉える見解もある。

沖縄がいま、直面している名護市辺野古への新基地建設問題に即していえば、外交や防衛に関しては、国の「専権事項」とされているため、国はその立場を利用し建設を強行している。しかし、その基地建設自体が、沖縄住民の運命を大きく左右することだと、沖縄住民が認識しているため、その意思決定過程に、沖縄住民の民意を反映させよという主張が自己決定権の行使だ。

沖縄住民が民意を反映してほしいと主張している問題(基地問題)が政府の「専管事項」とされているので、全国で叫ばれている地方分権論やその枠組みや考え方では限界があるといえるかもしれない。いま、日中間で紛争の火種となっている尖閣諸島で突発的な衝突を含めて紛争が起きれば、観光産業など経済も絡んで真っ先に巻き込まれるのが沖縄だ。中国脅威論が扇動され、軍備が強化されればされるほど、当事者として沖縄の人々の危機感は高まる。

沖縄の人々は、果たして国際法でいう「集団の自己決定権」を行使する主体となり得るのか。

国際法で規定する「人民」とは、一義的な定義はない。しかし、エスニック・アイデンティティーや共通の歴史的伝統、文化的同質性、言語的一体性、領域的結び付きなどの客観的条件と、その集団の自己認識が重要とされている。

それと照らすと、沖縄の場合、客観的条件や自己認識で当てはまる要素がたくさんある。ウチナーンチュ(沖縄人)というアイデンティティー(自己認識)が強く、米軍基地集中という差別的状況、琉球王国という歴史的経験、固有性の強い伝統芸能や慣習、しまくとぅば(琉球諸語)という言語的一体性、琉球諸島という領域的結び付きもある。

世界の潮流

国際社会のルールは国際法として、17世紀半ばにヨーロッパで出現し、主権国家を単位として19世紀に整備された。弱肉強食の論理で差別や暴力にまみれていた時代の国際法は、イギリスやフランス、オランダなど列強国による植民地主義を正当化する道具として使われた。

当時の国際法は植民地支配を認めていた。西洋の列強国はアジアやアフリカ、ラテンアメリカを植民地として支配し、文明の有無で人間を差別した。文明のない人に文明を施すのは良いことという考え方を国際法はサポートした。人間は平等で人権があるとの発想はなく、暴力的強者の論理だった。

20世紀に入ると、国際法は戦争を違法とし、平等を基本理念とする法体系に変容する。脱暴力の潮流が生まれる。第2次世界大戦を機に国際連合(国連)がつくられ、その最も大切な目的の一つに「人権擁護」が掲げられた。国連は暴力によって支配を広げていく植民地主義を認めない方針を表明した。

1920年代までは戦争や力による支配は認められていたが少しずつ変化し、45年の国連憲章では、脱暴力がはっきり打ち出される。「武力行使、武力による威嚇の禁止」は国際法の劇的な変化を象徴する。武力によって支配されていた側、威嚇を受けていた人々の声が大きくなり、武力の禁止を国際法でルール化するよう強く主張したからだ。

48年には世界人権宣言、60年には植民地独立付与宣言が国連で採択され、植民地支配の違法性が明確になった。65年の人種差別撤廃条約では、人間は平等との考えが示された。国際法は、国家や政府ではなく、人間中心の法へと根本的に書き換えられていく。

その流れの中で、先住民族から、自分たちの政治的、経済的、社会的、文化的在り方は自分たちで決めるという「自己決定権」=「自決権」が主張されようになる。これは国に与えてもらう権利ではなく、国際法で保障されている当然の権利なのだ。

一方、20世紀終盤~21世紀にかけて、歴史的不正義や、過去をどう扱うかという問題が国際社会に広がった。西洋が世界で行ってきたさまざまな不正義、植民地支配の問題が今日まで引きずっていることへの告発が活発化する。過去をどうやって現在の問題として扱い、過去と現在を結び付け、より良き未来をどう築くかが問われるようになる。(阿部浩己・基調報告「国際人権法と沖縄の未来」『けーし風』第79号)を参照)

2001年の「ダーバン宣言」は植民地支配の責任を追及し、過去の不正義を是正しなければ未来はないと明確にうたった。これをきっかけに過去の不正義をただす潮流が生まれ、侵略国が不正義の事実を認め謝罪する動きが活発化する。

例えば、ハワイの先住民は、ハワイ王国時代に国々と条約を結んでいたことを根拠に、米政府に対し、王国の併合や植民地化への責任追及を続けている。王国併合から100年後の1993年、米政府は王朝を不法に打倒したことを公式に認め、謝罪した。謝罪決議は「ハワイ先住民の自己決定権が侵害されたことを謝罪する」とし、王国打倒を「悪事」と承認したのは、米合衆国とハワイ先住民の和解のためだとしている。この決議で米政府が過去の責任を求めたことが評価された。ただ、先住民への土地返還や主権回復などの課題は残る。

こうした流れは東アジアにも及ぶ。2011年8月、韓国の憲法裁判所は「慰安婦」問題は未解決だとして、日本と再協議するよう韓国政府に求める判決を下した。12年には、最高裁判所に当たる韓国大法院が日本の朝鮮半島支配は違法だったとする判決を出した。

だが日本はこうした潮流に対応しきれていない。対内的には、アイヌ民族が生活していた北海道や、日本が併合した琉球王国について、日本政府は「植民地」と認めたことはなく、琉球が日本の領土にどう編入されたかも、明確には説明していない。編入の国際法的根拠も不明なままだ。(上村英明著『先住民族の「近代史」』平凡社参照)

「主権」の再発見

こうした世界的潮流を踏まえ、沖縄の自己決定権を考える上で今回注目したのは、琉球王国が1850年代に、米国、フランス、オランダのそれぞれと結んだ修好条約だ。複数の国際法学者によると、これら3条約を根拠に、琉球国が当時、国際法の主体であったことが確認できる。その観点から、1879年の琉球併合(「琉球処分」)を捉え直すと、その出来事は、沖縄の歴史の中で「沖縄の文明化のためには仕方なかった」「沖縄への薩摩支配からの奴隷解放だ」と見られてきた歴史観と全く違った様相を帯びる。

明治政府の命を受け、随行官9人、内務省官員32人、武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴った松田道之処分官が、琉球国の官員たちを前に「廃藩置県」の通達を読み上げた出来事が狭い意味での「琉球処分」だ。兵士らは首里城を占拠して取り囲み、城門を閉鎖した。このとき琉球王国は約500年の歴史に幕を下ろした。

「処分」の理由は、中国との外交禁止と裁判権の日本への移管に琉球が従わなかったことだった。琉球にとって中国との外交や裁判権は国権の根幹だったため、明治政府に抵抗していた。明治政府はその7年前、天皇の下へ琉球の使者を呼び、琉球藩王の任命を抜き打ちで一方的に実施した。天皇と琉球の王と「君臣関係」を築いたことにして、天皇の名の下で琉球国の併合手続きを着々と進めた。琉球国からさまざまな権利を奪い取る「命令」に琉球が従わないとして、最後は軍隊で威嚇しながら一方的に「処分」を実施したのだ。

琉球国の国家としての意思を無視して一方的に併合し、国を滅ぼした明治政府のやり方、すなわち「琉球処分」は後々、現在まで、沖縄の重要な歴史的節々で、沖縄に対する日本政府の態度を批判する言葉として生き続けることになる。

この「琉球処分」という出来事をめぐる今回の取材で、複数の国際法学者から新たな見解が提示された。「処分」の在り方は、ウィーン条約法条約第51条「国の代表者への脅迫や強制行為の結果、結ばれた条約は無効」とする規定に抵触するので、琉球併合の無効を訴えることができるというのだ。加えて日米両政府に対し、謝罪、米軍基地問題の責任追及などだけでなく、主権回復を訴える戦略が描けるとも指摘した。

ウィーン条約法条約とは、条約に関する慣習国際法を法典化した条約のことで、1969年に国連で採択され、80年に発効された。日本は81年に加入している。琉球併合当時、すでにこの条項についての国際慣習法は成立しており、それを明文化した条約法条約を根拠に、事実上、さかのぼって併合の責任を問うことが可能だというのだ。その歴史的根拠は、国際慣習法が成立していた当時、琉球国が米国、フランス、オランダと結んだ3修好条約であり、すなわち琉球が国際法上の主体=主権国家と見られていた事実なのだ。

沖縄の苦難の歴史的原点が指摘されるときには、よく406年前の薩摩侵攻までさかのぼっていわれることが多い。しかしこの3条約と琉球併合の関係に焦点を当てたのは、それらの歴史は決して単なる過去ではなく、現在の沖縄が置かれた状況を国際法の中に位置付けることが可能となり、さらに国際法を生かして主権回復や自己決定権行使を主張する議論の地平が開かれるからだ。

海外に学ぶ

沖縄の民意が反映されない今の状況の危機感から、どう沖縄の明るい将来展望を切り開くかを模索しようと、2014年5月1日から「自己決定権」をキーワードにした連載「道標求めて―琉米条約160年 主権を問う」を琉球新報の紙面で始めた。連載は開始直後から反響が大きく、読者の励ましの声にも支えられ、2015年2月15日まで、100回を数える長期連載となった。この連載は6月に『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』(高文研)として単行本にまとめた。三つの条約や「琉球処分」の歴史、自己決定権を主張する沖縄の展望について詳しくまとめてあるので、興味のある方は、ぜひ読んでいただきたい。

国連の人種差別撤廃委員会

連載の狙いは主に二つあった。一つは、足元の歴史を掘り起こすことで、その教訓から沖縄のいまを見つめ直し、未来を展望すること。二つ目は海外の事例から学べる素材を集め、国際社会との連携を模索することだ。歴史を振り返ることが時間軸で考える縦糸とすれば、国際社会への取材は思考空間を広げる横糸の関係といえる。

横糸となる海外の取材でも得るものが多かった。スイスの国連人種差別撤廃委員会やスコットランドの独立住民投票、米国から独立して20年の節目を迎えたパラオ、そしてEU(ヨーロッパ共同体)の本部があるベルギーを取材した。

国連は2008年に「琉球/沖縄人」を「先住民」と認め、2010年には米軍基地の集中は「現代的人種差別」だとして、日本政府に改善を求めている。

EU(欧州連合)の要・ベルギーの取材では、沖縄が東アジアの「平和・交流の要」になる可能性を念頭に置いて取材した。国境を超えた地域共同体の本部は小国に置いた方が、大国の利害調整に優位だという。日本国内で実現に向けて叫ばれてきた「東アジア共同体」がもしできるのなら、その本部は沖縄にこそふさわしいという確信を得ることができた。

スコットランド独立を問う投票が行われた投票所

人口約2万人しかいない島国・パラオがどうやって大国アメリカから独立を勝ち取ったのか。スコットランドの独立運動とも通ずるのが、市民による粘り強い草の根運動だった。何度も挫折を味わいながら、アイデンティティーの基盤を再構築し、国際世論に訴える運動を継続していた。いまの沖縄の課題にも通じる。

これらの取材を通して率直に感じたのは「沖縄は自立する可能性だけでなく、独立する資格さえ十分持っている。問題はそのビジョンを、現状打開や県民の幸せのためにどう生かしていくかが課題だ」ということだった。

沖縄は植民地

いまの沖縄の状況を分析する際、重要なのは「植民地主義」という概念だと考える。沖縄の本当の敵は「植民地主義=植民者」という見方を基に、植民者に向けて「植民地主義と決別しよう」と呼び掛けている識者もいる。野村浩也広島修道大教授はこう語る。

「植民地への搾取は、命も搾取する。日本人を守るために死ねと。それが沖縄戦で証明された。…いま、政府がわざわざ尖閣問題で騒ぐのは、沖縄だけを戦場にしたいからだ」「主権がなくても、人格権を認めさせることはできるし、それも基地をなくす方法の一つだ。…日本人が沖縄人を犠牲にするのをやめる可能性はないわけではない」。

野村氏は普天間基地の県外移設、すなわち本土の日本人が基地を引き取ることこそが、日本人が沖縄への植民地主義と決別する唯一の方法だと主張する。圧倒的大多数の日本人が日米安保を支持しているにもかかわらず、その責任を引き受けず、沖縄に米軍基地を押し付けるのは「差別」であり「植民地主義」に他ならないという議論だ。

在日米海兵隊の約75%が沖縄に集中しているという。米軍普天間飛行場は米海兵隊の基地だが、沖縄への海兵隊集中を「やむなし」あるいは提唱する抑止論者がよく沖縄の地理的優位性を論拠にする。しかしその論拠はさまざまな角度からすでに論破されている。(新外交イニシアティブ編『虚像の抑止力』旬報社など多数)。

植民地主義をめぐってはその常とう手段として、植民地現地において植民者への協力者をつくる分断統治の問題も含む。豊見山和行琉球大教授は、歴史学者のユルゲン・オースタハメルの学説(石井良訳『植民地主義とは何か』論創社)を引いてこう指摘する。

「植民地支配を続ける重要な方法の一つは、植民地の指導層に協力させることだ。その前提として植民地体制の存続が得策であると思い込ませることが重要となる。物力や圧力、金によって植民地の代表者に『本国へ協力する方が得策だ』と思い込ませ、本国による支配を貫徹する」

日本政府が沖縄振興策を政治の道具にして、沖縄に基地を押し付けてきた方法に重なる視座だ。

現在、沖縄では「オール沖縄」や「沖縄アイデンティティー」の重要性が声高く叫ばれている。昨年11月の県知事選で、翁長雄志氏は、選挙戦からこれらの言葉を強調し、大差で当選した。沖縄の人々は、これまで苦い目に遭ってきた、政府によるさまざまな分断工作から身を守ろうという意識が強まっている。しまくとぅばを普及する運動など沖縄の言葉や伝統文化を復興・重視する動きも、植民者からの分断を防ぐ民族的基盤を築く役割を果たすかもしれない。

ただ、沖縄の人々は琉球併合以降、日本人からの差別と同化志向によって、自らの言葉や文化をさげすみ、捨て去る傾向さえあった。このため、そうした民族的基盤は脆弱な状態にあり、再び取り戻すには、強力で持続的な公的部門の施策と、一人一人の並々ならぬ努力が必要となろう。

沖縄経済への誤解

いま、沖縄で叫ばれている「オール沖縄」がなぜ、分断を乗り越える力となり得ているのか。その背景には、「米軍基地は沖縄の経済発展にとって阻害要因」との認識が県民の間に浸透していることがある。

約百万人が住んでいる沖縄本島中南部には米軍普天間飛行場のほか、極東最大の米空軍嘉手納基地など数多くの基地があり、交通やまちづくりの障害になってきた。一方、返還された米軍跡地の経済波及効果は著しい。

那覇新都心で生産誘発額が返還前の57億円から28倍の1624億円、雇用者が168人から93倍の1万5560人に増加した。北谷町桑江・北前地区は生産誘発額が3億円から110倍の330億円、雇用者0人から3368人に増えている。

沖縄県の資料によると、県民総所得に占める基地関連収入の割合は、日本復帰時の1972年は15・5%だったが2012年は5・4%にまで減った。沖縄県の経済状況は「基地がなければ食っていけない」状態とは言い難い。現在、約百万人来ている外国人観光客が150万人以上になれば、基地経済効果を上回るという試算もある。

基地経済依存という誤解のほかにも「沖縄は国のお金をたくさんもらいすぎている」という見方がある。本当だろうか。

国からの財政移転を見ると、2013年度決算額で、国庫支出金は3737億円で全国都道府県で11位、地方交付税は3593億円で15位、合計7330億円で14位だ。人口1人当たりでは、国庫支出金は26万4千円で1位だが、地方交付税は25万4千円で17位、合計51万8千円で6位に位置する。こうして見ると、国からの財政移転は、他府県と比べて突出して多いわけではない。

ではなぜ、多くもらっているように見えるのか。それは、国道整備など他府県でもやっている普通の国直轄事業を約3千億円の沖縄振興予算の中に含ませているからだ。財政事情を知らなければ、沖縄は国の事業の予算とは別に、振興予算3千億円を純増でまるごともらっているかのように政府に宣伝されてしまっている。振興策の看板によって「純増の特別予算をもらっているから基地を受け入れろ」という誤解を喚起させ、基地を押し付ける恫喝に利用されてしまっているのだ。

世界は一つ

一方、沖縄では、基地の整理縮小・撤去は県民の負担軽減や攻撃の標的となる危険性を回避するだけではなく、跡地利用で経済振興の飛躍につながるという認識も広がっている。その沖縄にとって追い風となる世界の時勢がある。アジア経済の勃興だ。

航空の物流拠点(国際ハブ)、外資系ホテルの相次ぐ進出、米軍基地の跡利用が経済成長率を押し上げると推測し店舗を出す人気企業、最先端エネルギーやバイオ産業などの進出ラッシュ等々、沖縄は産業の場としてアジアを引きつける材料が抱負にある。

沖縄県の沖縄振興指針「沖縄21世紀ビジョン」は沖縄を「アジアの橋頭堡(ほ)」と位置付けている。振興基本方針も「沖縄はアジア・太平洋地域への玄関口として大きな潜在力を秘めており、日本に広がるフロンティアの一つとなっている」とうたい、潜在力を引き出すことが「日本再生の原動力になり得る」と強調する。沖縄はアジアの架け橋となって、自身だけでなく日本やその他のアジア諸国の発展を担えるという。

人、モノ、経済、情報のグローバル化の進展により、地球規模で国や地域の相互依存が深まっている。小国であっても一つの国が金融危機に陥れば、瞬く間に国境を越えて影響が広がり世界が風邪をひく。

欧州連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)のような国々の地域統合や経済連携のほか、アジアでも、アジア太平洋経済協力会議(APEC)、東南アジア諸国連合(ASEAN)があり、さらに自由貿易協定(FTA)を中心とする経済連携の動きが急速に進められ、政治・安全保障面でもASEAN地域フォーラムが誕生した。

環太平洋連携協定(TPP)もその一つだ。アジアのほぼ全域をカバーし、世界の人口の半分、総生産額(GDP)と貿易総額の約3割に達する自由貿易協定・東アジア地域包括的経済連携(RCEP)も進められつつある。

その状況下で、ASEANに日中韓を加えたASEAN+3(約20億人)を軸にした「東アジア経済圏」「東アジア共同体」構想が近年、提唱されてきた。人口約21億人に達し、EUの約4・4倍、経済規模ではEUを上回る。これが実現すれば、世界の経済・勢力の極が西から東へ移ると目される。

もし実現すれば、沖縄はその首府となり、これまでの「軍事の要石」から脱却できるとの議論がある。アジアの共生、物流などの経済、人や文化の交流という「平和の要石」としての役割を果たせるというのだ。そうなれば、軍事基地から派生する戦争への恐怖、日常の基地被害から沖縄の人々が解放されるだけでなく、現在、関係悪化が懸念されている日中韓の国民にとっても、EUのように、より平和で軍縮につながる良好関係を築くことができるだろう。

沖縄の青写真

沖縄のような人口わずか140万人余の地域が、アジアの大国を橋渡しするには、さまざまな問題の解決の場をつくるパフォーマーの一員にならなければならない。それには主体性や中立性の担保も重要だろう。このために必要なのが自己決定権の行使なのだ。

沖縄では市民団体や懇話会などの間で、沖縄の将来像について、既存憲法の枠内で自治権拡大を目指す案や、道州制をにらんだ沖縄自治州のほか、連邦制案、国家連合案、独立論も議論されてきた(詳しくは拙著『沖縄の自己決定権』を参照してほしい)。どれにも共通しているのは、「アジアの平和を担う架け橋役」という点だ。

いま、琉球民族独立総合研究学会で議論されている独立論をみても、単に日本への怨念を基にした〝離婚〟を意味するものではない。沖縄は、アジア・太平洋地域などと交流した大交易時代の歴史的経験を生かし、人や文化、観光・物流など経済の交流を促進し、積極的に「平和の要石」になるという主張では他の議論と共鳴している。

日米同盟の深化と軍事強化による「抑止力」で「積極的平和」を実現したい安倍政権とは、人や文化の交流・外交を重視する点で異なる。沖縄から見れば、集団的自衛権の行使を柱とする日米同盟の新局面は、東アジアにおいて沖縄の人々が求める道標とは明らかに逆行しているといえよう。

日本は今、歴史教科書や「従軍慰安婦」問題などの歴史認識問題や、尖閣や竹島などの領土紛争の火種を抱えている。取材を通して、これらの問題の解決に向けて「沖縄は対話の場になれる」という実感を持てた。対話が実現できれば、沖縄だけでなく、日中・日韓をはじめ東アジア全体の平和構築にとって有益だ。

グローバル化と世界の国々の相互依存関係はもはや不可逆的潮流だ。中国の脅威論などにみられる偏狭なナショナリズムの強調は、国家間の壁を高める、世界の潮流と逆行している。

沖縄が東アジアの平和の在り方や対話の場になることを提案するのは、そうした世界の潮流に沿っている。アジアの人々の共生と深い交流につながり、日本国民にも真の平和と繁栄をもたらすチャレンジや、その主体性を発揮するために沖縄が志向しているのが自己決定権の行使なのだ。

あらかき・つよし

1971年、沖縄那覇市生まれ。琉球大学卒、法政大学大学院修士課程修了。1998年琉球新報社入社。中部支社報道部、沖縄県議会・政治担当、社会部デスクなどを経て、2014年4月より文化部記者兼編集委員。2011年にはキャンペーン報道「沖縄から原発を問う」取材班キャップを務めた。

『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』

(高文研・1620円)
琉球新報・新垣毅 編著

<目次>

沖縄は、なぜ、自己決定権を求めるのか

I 琉球の「開国」

II 琉球王国――「処分」と「抵抗」

III 沖縄「自己決定権」確率への道

IV 自己決定権確立へ向かう世界の潮流

V 「自治」実現への構想

特集・闘いは続く安保―沖縄

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