論壇

朝鮮戦争に日本は「参戦」した

深く重い歴史問題に真摯に向き合い続けることが問われている

ジャーナリスト 西村 秀樹

「日韓関係は戦後最悪」と新聞は書きたてる。日本から韓国への半導体関連資材の輸出規制、元徴用工問題など安倍―日本政府の韓国攻撃の手法は常軌を逸している。一方、北朝鮮とアメリカは首脳会談を3度も開催、朝鮮半島をめぐって動きが急だ。そんな折、朝鮮戦争当時の日本国内の戦争反対運動=吹田・枚方事件に焦点を当てた著作『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房)が刊行された。著者は本誌の連載企画「抗う人」の筆者・西村秀樹さん。この機会に改めて日本と朝鮮半島の関係を考える一文を寄稿願った(編集委員会)

朝鮮は日本の鏡

なぜ朝鮮問題に関心を持つのかと、わたしはよく問われる。ちょっとだけ自己史を説明する。

わたしが生まれ育ったのは木曽川がつくった平野。父親は風呂桶職人。自宅には製材された木曽檜がつんであり、庭に木の香りがほのかにただよった。暮らしはいたって庶民のものだった。共に仕事をかかえた両親から「弱い立場の人を助けないとだめよ」とよく言われた。通った中学の通学エリアに部落解放同盟の県本部があり、中学時代、同級生によく弁当を盗られた。それが、わたしにとって「人権問題」の存在を肌で知るきっかけだった。

学生時代、映画のサークルに入った。OB会でサークルの先輩の野村芳太郎監督(松竹映画『砂の器』)と同じテーブルになり、わたしだけが自分の好きな映画について一方的にしゃべりまくった恥ずかしい思い出がある。同時に学生新聞のサークルに掛け持ちで所属した。新宿の花園神社の境内で唐十郎の赤テントの芝居を見て、その舞台の熱気にあおられたテンションで唐十郎の芝居に登場する在日朝鮮人をテーマに、日本と朝鮮の関係について学生新聞に記事を書いた。

ひょんなことから、大阪の民放会社に就職。鶴橋の韓国焼き肉食堂で、おじさんがまっ昼間から生レバー片手にビールを傾けているのを目撃し、なんて素敵な人生だろうとうらやましく感じた。

就職した1975年の秋(11月22日)、韓国で在日韓国人の学生たちがソウルの大学に留学中、韓国政府は学生たちを「北朝鮮のスパイ容疑」でつぎつぎと捕まえた「学園浸透スパイ事件」(別名11・22事件)を発表した。わたしは、手塩にかけて育てた息子や娘をスパイ容疑で獄中に捕らえられた留守家族を、在日が数多く住む大阪の生野区周辺に訪ね歩いた。

留守家族は「息子や娘がそんな北朝鮮のスパイを働くはずがない」と口々に訴え、そうした悲痛な声をニュースとして流した。高校時代、朝鮮文化研究会などでの活動が北朝鮮寄りと見なされたと説明があった。

パク・チョンヒ軍事独裁政権のもと、つかまった母国留学生は60人を超し、死刑判決を受けた人数も8人を数えた(在日良心囚同友会の李哲の証言による)。獄中の学生たちはそのほとんどがわたしと同じ学年か、せいぜい数年しか違わない同世代だったことが熱心に取材する背景にあった。

このスパイ事件の取材を通して、日本と朝鮮半島の歴史に関心をもった。祖国分断は本人の責任にあらず。わたしは在日コリアンに心を寄せた。

結論から言うと、「朝鮮は日本の鏡だ」と思った。朝鮮に写る日本の姿は醜い。

黒船来訪と逆のベクトル

ではどうして日本と朝鮮は今のようなもつれた関係になったのだろうか、なかなかやっかいなテーマだ。突破口は歴史に求めるしかない。

ちょっと面倒だが、東アジア160年の歴史にお付き合いしてほしい。

アヘン戦争で眠れる獅子=中国(当時は清)がイギリスに敗れた(1840~42年)。このアヘン戦争が東アジアに激変を呼び込んだ。東アジアの中で、中国周辺国家の日本と朝鮮の関係を考えるとき、この二つの国家は「東アジアの一卵性双生児」と分析したのは、朝鮮現代史の碩学、慶應義塾大学の名誉教授小此木政夫だが、その言説はわたしには説得力があると思える。

その一卵性双生児の似たもの国家の針路が分かれたのは、19世紀半ば、欧米諸国からのアプローチへの対応の差、黒船、砲艦外交がキーワードだった。

江戸時代、日本と朝鮮(いわゆる李氏朝鮮)は、鎖国体制を維持し永く安定していた。

日本にアメリカ海軍の黒船が来訪(1853年)したのをきっかけに、日本国内は「攘夷(外敵を撃ち払うこと)か、開国か」で、ゆれにゆれた。黒船は大砲をそなえ、イギリス海軍は薩摩藩との薩英戦争で鹿児島市内を大砲で撃った(1863年)。長州藩も下関戦争(同じ1863年)で、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合国と戦い、圧倒的な火力の前に敗北。薩摩藩、長州藩とも「攘夷」が不可能であることを知り、開国に向け動き出した。やがて、徳川慶喜が「大政奉還」し、王政復古した(1868年)。

なにが言いたいかというと、徳川政権は「鎖国」という国家方針を、アメリカやイギリスの黒船に象徴される軍事力と経済力をまえに転換し、しぶしぶながら「開国」を余儀なくされ、明治という中央集権国家に移行した事実だ。

こうして欧米の軍事力をバックに、無理矢理、「開国」し「近代化」を余儀なくされた明治日本が最初にやったことは、今度は隣国朝鮮に対する砲艦外交だった。

明治になってわずか8年目(1875=明治8年)、朝鮮の首都京城(現在のソウル)を流れる漢江(ハンガン)の河口に位置する江華島(現在の仁川=インチョン)で、日本の軍艦雲揚号と江華島の砲台が交戦し、鎖国をつづける朝鮮に対し、「開国」を迫ったのだ。

つまり、ベクトルというか、矢印の向きが、黒船来訪とまったく逆なのだ。

徳川幕府は黒船来訪=ペリーの江戸湾来訪のあと、日米和親条約、日米修好条約を結んだように、朝鮮は江華島事件のあと日朝修好条約を結んだ。こうして日本と朝鮮の「近代」がスタートした。

アメリカの歴史学者ジョン・ダワーが日本の近代を「セリフ覚えの早い役者」というのは、その通りだと思う。この「セリフ」が砲艦外交であり、帝国主義をさすのは言うまでもない(ジョン・ダワーは、日本がアジア太平洋戦争敗北後、連合国に占領された7年間を描いた『敗北を抱きしめて』の著者)。

征韓論の背景

江華島事件が起きる前、明治政府の指導者層の間に「征韓論」が台頭していた。

スタンダードな教科書はどう表記をしているかと思って、調べると次のように書いてある。「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮につよく開国をせまった。これを拒否されると、西郷隆盛・板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは、国内改革の優先を主張してこれに反対した」(『もういちど読む 山川日本史』山川出版社)。

一方、林哲・津田塾大学名誉教授らがまとめた本『東アジア近現代史 新版』(有斐閣Sシリーズ)には、征韓論台頭の背景には、明治維新で武士の職業がなくなり疲れはてた下級武士の欲求不満から目をそらすためと記載がある。

わたしには、後者の解説のほうに説得力があるように思う。社会が構造的に生み出す貧困や失業などの社会問題から市民の間の欲求不満がたまると、指導者層は仮想敵をでっちあげることによって別の熱狂を生み出し、国民の目をそらすのが支配者の常套手段だろう。

わたしは幕末に征韓論が台頭した背景には、次のような構造的問題があったのではないかと思う。それはアメリカやイギリスから軍事力を突きつけられ、心ならずも神国日本の長年の理想であった「鎖国」の国家方針を改めざるを得なくなったのだが、その時生じた「欲求不満=フラストレーション」を、自分たちよりも弱い相手(この場合は、李氏朝鮮)に対し、暴力的に振る舞うことで欲求不満をなくそうというのではないのか。

強いものにはペコペコへつらい、その欲求不満を弱い者をいじめることでフラストレーション解消を図るのは、いかにも醜い。

日清戦争と日露戦争

いまさらクイズというわけではないが、日清戦争〈1894~95年〉の原因はなにかご存じだろうか。そう、答えは朝鮮半島の支配権をめぐる戦いだった。

東アジアで中国は永く中心に位置した。日本も飛鳥時代、小野妹子を遣隋使として隋(中国)に派遣した記録が『日本書紀』に残っているそうだが、以来、遣唐使など、中国から国家として承認してもらう時代がつづいた。中国と接する朝鮮も「冊封(さくそう、さっぽう)体制」といって中国に貢ぎ物を持参することで周辺諸国の安全保障を維持するシステムが永くつづいた。

こうした東アジアの秩序を破壊したのが、冒頭に述べたアヘン戦争だ。アメリカやヨーロッパからの軍事的な干渉だ。

日本はいち早く「近代化」を推し進めた。日清戦争での清の敗北は、そうした近代化のスピードの差を世界中に知らせた。

日清戦争の10年後に起きた日露戦争の原因も、朝鮮半島の支配権をめぐる争いだった。この戦争で日本はかろうじて勝利、アメリカのセルドア・ルーズベルト大統領の仲介で、ポーツマス条約をむすぶ。

日本が朝鮮を植民地支配

日本と朝鮮の関係を考える上で、決定的になったのは1910年の「韓国併合」だ。実はその5年前に重要な前段となる話がある。「桂=タフト協定」〈1905年〉という。その内容は、アメリカがフィリピンを、日本が朝鮮を支配するのを互いに承認するという、帝国主義国間の秘密協定だ。当時の総理兼外務大臣桂太郎と米国務長官タフトが署名した。

日本は日露戦争にかろうじて勝ち、ロシアの朝鮮半島に対する影響力を排除し、アメリカの了解を得て、朝鮮半島への支配を強めていったのだ。

この年、日本は乙巳条約をむすび韓国の外交権を奪う。その5年後、韓国併合条約をむすび日本は朝鮮半島を植民地支配する。

韓国ではこの韓国併合条約締結から日本がアジア太平洋戦争で敗北(1945年)するまでを「日帝36年」とよび、21世紀の現在になっても日韓で問題になっている、いわゆる徴用工、従軍慰安婦などの歴史的な課題はほとんどがこの大日本帝国が朝鮮半島を植民地支配した時期に起き、戦後処理をめぐる日韓基本条約(1965年)が不十分な結果、今でもくすぶり続けるのだ。

アジア太平洋戦争

大東亜共栄圏の構築を目的にした「大東亜戦争(=アジア太平洋戦争)」は、日本人310万人、アジア諸国2000万人の膨大な死者をだし、日本は焼け野原になって連合国に敗北した。

アメリカのシカゴ大学で朝鮮の近現代史を教えていた歴史学者ブルース・カミングスの著書『朝鮮戦争の起源』に興味深いエピソードが載っている。それはある大学院生からの質問だった。

「なぜドイツは東西に分断されたのに、なぜ(宗主国の)日本が分断されず(植民地の)朝鮮半島が分断されたのでしょうか」という問いかけだった。カミングスははじめ驚いたけれど、すぐに朝鮮半島が分断されるより宗主国の日本が分断された方が理にかなっていると悟ったという。

そうなのだ、ようやく本稿の議論が深まってきた。日本と韓国、日本と北朝鮮など複雑怪奇な現代史の論点を整理していくと、結局のところ、この問題に行きつく。

なぜ朝鮮半島は分断され、日本は分断されなかったのか

第二次世界大戦は、ナチスドイツ、大日本帝国、イタリアの枢軸国と、対する連合国との戦いだ。その枢軸国のナチスドイツは1945年5月7日に降伏する。イタリアはすでにこの時期、連合国に寝返り、連合国の敵は日本だけになった。

1945年7月26日、連合国のうち米国大統領トルーマン大統領、ソ連首相のスターリン、イギリス首相のチャーチルが集まり、日本への無条件降伏を勧めるポツダム宣言を発する。

このポツダム宣言発表直後に、日本政府が受諾していれば、世界は大きく変わっていただろう。しかし、現実は、日本は「国体護持=天皇制の維持」をめざし、連合国との間で交渉をさぐり、ポツダム宣言の受諾を逡巡する。

日本政府が国体護持(天皇制存続)をめざし逡巡するわずか2週間の間に、8月6日ヒロシマに新型爆弾(=原爆)が炸裂して14万人が死亡する。すぐに日本政府はあわててこの三日後に御前会議(天皇をまじえた最高指導者会議)の開催を決定する。その8月9日、ソ連のスターリンは対日戦争にゴーサインを下し、ソ連赤軍は満州国との国境を越えた。昼前にはナガサキに二発目の新型爆弾が炸裂、7万人が死亡する。

日本政府は、8月14日深夜、ポツダム宣言受諾を決め、「終戦の詔書」を作成し、天皇ヒロヒトが皇居内の防空壕でその文書をレコーディングし、翌日15日正午をもって重大放送をすると予告する。

北緯38度線での分割

朝鮮分断のキーポイントは、ソ連が対日参戦した8月9日直後にある。

ワシントンではソ連が侵攻した満州国、そして朝鮮全体の占領をどこで食い止めるかに、頭を悩ました。軍部と国務省などが対策会議を繰り返し、その結果、ラスク大佐(のちケネディ政権で国務長官)ら若手将校がまとめた提案をそのままソ連に打診した。

その提案というのは、北緯38度線で、それ以北のソ連軍の占領地域と、38度線以南のアメリカ軍占領地域とに分けるというもので、ナショナル・ジオグラフィック社製のアメリカの家庭ならよくあるポピュラーな地図を見て提案をまとめたと、ラスクはのちに証言している。

北緯38度線ボーダー案をソ連はすんなりと受け入れないだろうと、アメリカ政府は危惧していたが、ソ連はすんなりとこの提案の受け入れを即答する。

なぜソ連は軍事的に優位のまま北緯38度線以南に軍隊を進軍させなかったのか、真相はよく分かっていないが、研究者はソ連のスターリンがアメリカのもっていた原爆投下を恐れたからだと説明する。

朝鮮戦争へ

アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)後、東アジアは大きく動く。中国では日本軍撤退後、中国共産党と国民党が内戦を繰り広げていたが、共産党が軍事的に勝利し、中華人民共和国の建国を宣言(1949年10月1日)。アメリカの軍政下の大韓民国(1948年8月15日)が、一方ソ連軍の指導のもと、朝鮮民主主義人民共和国(1948年9月9日)がそれぞれ独立を宣言した。

こうして誕生した分断国家、南北朝鮮は互いの勢力下での「統一」を志向する。北朝鮮の指導者金日成は、モスクワにスターリンを訪ね、そして北京に毛沢東を訪ね、朝鮮戦争勃発の許諾を求める。その結果、北朝鮮にはソ連から大量の最新鋭の戦車が贈られ、中国からは国共内戦を戦った優秀な朝鮮系の兵士が北朝鮮にもどった。

1950年6月25日未明、北朝鮮の人民軍は38度線を越え、また、日本海側の上陸作戦を実施し、開戦後わずか3日で、韓国の首都ソウルは陥落、三週間もすると、釜山周辺だけを残し朝鮮全土はほぼ北朝鮮の勢力が占領したのだ。

アメリカ・ニューヨークの国連では、北朝鮮非難決議、やがて国連軍結成の決議が裁決され、アメリカ軍と韓国軍を主力とする国連軍が反撃をめざす。

日本が朝鮮戦争に「参戦」

国連軍司令官のダグラス・マッカーサーは、韓国西海岸の仁川(インチョン、そう日本が江華島事件を起こした港町)上陸作戦を計画する。

潮の満ち引きなどの関係から9月15日を決行予定日に決めたが、そのとき、大量の兵士、武器弾薬を日本から搬送することを可能にしたのが、日本人の船員だった。

防衛省の防衛研究所がまとめた研究によれば(『朝鮮戦争と日本』、2013年)によれば、日本人で玄界灘をこえて、国連軍の兵站作業に従事したのはおよそ8000人。

このうち、輸送船が機雷に触れて爆発沈没するなど56人が死亡した。また朝鮮西海岸の元山上陸作戦では、日本の海上保安庁の特別掃海隊が出動し、ここでも掃海艇が触雷し、海上保安庁の職員1人が殉職している。

この朝鮮戦争開始後わずか半年間しかデータはないものの、船員など8000人の従軍と57人の死亡は、実質的に日本は朝鮮戦争に「参戦」したと表現しても、なにも過大な表記ではないことを示している。これらの事実を日本政府は必死になって隠そうとしてきた。

開戦から2年後には、大阪で朝鮮戦争に反対する吹田事件が起きている。戦争に反対する日本の労働者・学生と在日朝鮮人およそ1000人あまりが徹夜でデモし、国鉄吹田操車場になだれ込み、騒擾罪で111人が起訴されたが、永い裁判の結果、全員の無罪判決を勝ち取った事件だ。

上述のような歴史を踏まえ、わたしは最近、『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房)を上梓した。中国の満蒙開拓団から中国の解放軍とともに、鴨緑江を越えて朝鮮戦争に参戦した日本人多数のインタビューを含め、詳細はぜひ本書をお読みいただきたい。

日本と朝鮮の関係を考える

日本の植民地支配36年間、いわゆる従軍慰安婦そして徴用工などの多くの問題を抱えながらも、南半分の韓国は1965年日本と日韓基本条約を締結したが、北半分の北朝鮮とはいまだに国交は結ばれていないし、交渉すらしていない。もとより平和友好条約も未締結だ。

かつて中国辛亥革命の指導者孫文は、「大アジア主義」を唱えたことがある。シンガポールの首相リー・クワン・ユーは「日本は近隣諸国に心からの友人がいない」と日本を嘆いた。

いま、安倍政権はなりふり構わず韓国いじめに走っているように私には見える、アメリカから一機100億円の戦闘機100機、合わせて1兆円をドブに捨てながら、有権者の自民党への投票行動を確保するためには、韓国いじめをすることで、有権者の中にあるナショナリズムを揺り動かす必要が自民党の延命のためには必要なのだろう。

かつてナチスドイツの時代、ドイツ在住だったユダヤ人哲学者エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(1941年)を出版し、ベストセラーになった。その本の内容は、ドイツ国民がせっかく獲得した民主主義とか、自由を自ら疎んじる姿に警鐘を鳴らした。背景には、第一次世界大戦で経済が壊滅的になったドイツの貧困層がユダヤ人を敵だと叫ぶナチスを受け入れる「自由からの逃走」状態があった。

橋下徹・松井一郎維新政治が大阪の政治を席巻したのも、地方公務員をバッシングする「自由からの逃走」状態だし、7月の参議院選挙で自民党が多数を確保したのも、日本国民が「自由からの逃走」状態だと、わたしには思える。

安倍政権の韓国いじめは、政府による排外主義、政府による「自由からの逃走」状態に思えるだけに、いっそうやっかいなのだ。近隣諸国に敵対した唯我独尊の傲慢な排外主義国家日本が長続きするはずがない。

では対処策はあるのだろうか。歴史を真っ正面から見つめるしかない。

日本は歴史に真摯に向き合い、北朝鮮と国交交渉を開始し平和条約締結の過程で、韓国を含めアジア諸国との過去に誠実に向き合うしか、21世紀の日本の行く末はないのではないだろうか。今一度、朝鮮戦争と日本の実相を点検することはほんとうに大事なことだと思う。

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愛知の「表現の不自由展」中止が示す、危機的な日本の「表現の自由」 ―緊急発信―

いきなりプライベートなことから書き始めるのはルール違反なのかも知れないが、わたしは日本ペンクラブのメンバーだ。そのわたしのスマホにメール一本が届いたのは8月2日(金曜日)の午後。ちょうどわたしがこの雑誌に「朝鮮戦争に『参戦』した日本」の原稿を書き、締め切り間際の時期だった。

メールはペンクラブが「表現の自由を守れという緊急声明を出すべきかどうか」とメンバーへの意見集約を求めるもの。調べると、こんなことがわかった。

きっかけは、名古屋市長の河村たかしが国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の会場にある「表現の不自由展・その後」を視察、展示物のひとつ、元従軍慰安婦の女性を象徴した「平和の少女像」を見て、「日本人の心を踏みにじる」と述べたことだった。河村はこの少女像の展示中止を主催者の愛知県知事に要求した(産経新聞、8月2日)。

同じ2日、文化庁から国際芸術祭に交付金約7800万円がすでに決定済みなのをめぐって、官房長官の菅義偉が「交付決定にあたっては事実関係を確認し、精査し適切に対応したい」と、交付金の未払いを示唆する考えを記者会見で述べた(毎日新聞、8月4日)。

ペンクラブのメンバーの間でメールが飛び交い、緊急声明を発することが決まり、声明原案を作成後、30人いる理事に同意を得る作業がすすめられ、会長の吉岡忍の名前でペンクラブの緊急声明が発せられた。 (日本ペンクラブの緊急声明

アートの世界では、カメラメーカー「ニコン」の新宿サロンで「中国に残された朝鮮人日本軍『慰安婦」女性たち」の写真展が中止になったケース(1972年)などがあるが、ほとんどは民間の問題だった。

今回のケースの特徴は、政治家の介入にある。ペンクラブの声明はこう言う。「行政の要人によるこうした発言は政治的圧力そのものであり、憲法21条2項が禁じている『検閲』にもつながる」と。政治権力をもつ官房長官や名古屋市長の発言という点が、これまでと異なる。

8月3日午後5時、ペンクラブが緊急声明をプレス発表した。実はその同じ時刻。劇的な展開が待っていた。

今回の「あいちトリエンナーレ2019」の主催者である、愛知県知事大村秀章と芸術監督の津田大介が記者会見し、「表現の不自由展・その後」展の展示中止を発表したのだ。中止の理由に挙げたのは、愛知県に寄せられた約1400件の抗議電話やメールだ。翌4日付け朝日新聞は一面トップと第二社会面、毎日新聞も社会面トップ(いずれも大阪本社版)。このイベントの協賛企業にも抗議電話が多数寄せられた。

朝日新聞は社説で「市長独自の考えに基づいて、作品の是非を判断し、圧力を加える」(8月6日)と河村の言説を強く非難した。

7日には、愛知県警が稲沢市に住む59歳のトラック運転手を威力業務妨害容疑で逮捕した。警察によると、この男は「ガソリン携行缶を持っていく」と、35人が死亡した京都アニメーションの放火事件を思わせる脅迫のファクスを愛知県に送った疑い、この男のトラックの運転席から脅迫文が見つかり、男は容疑を認めている(毎日新聞、8月7日 ウェッブ版)。

愛知県知事大村は5日、名古屋市長河村について「公権力を行使する市長の立場で表現の自由の内容の是非に言及しており、検閲ととらえられても仕方ない。一連の発言は憲法違反の疑いが極めて濃い」と非難した(中日新聞、8月5日)。

表現の自由をめぐって、戦後最大の事件といえば、1987年5月3日の「朝日新聞阪神支局襲撃事件」があげられる。「赤報隊」を名乗る犯人が散弾銃を撃ち、新聞記者一人を射殺、もう一人に重傷を負わせた。赤報隊は犯行声明文で「反日朝日は50年前に帰れ」と主張した。事件の50年前、大日本帝国が中華民国との日中戦争を開始、首都南京で大虐殺事件を起こした年に当たる。

今回あきらかになったのは、日本では、南京事件とか従軍慰安婦の問題が、21世紀になってなお、左右のするどい対立軸になっていることだ。

日本はアジア太平洋戦争でポツダム宣言を受け入れ、極東軍事裁判(=いわゆる東京裁判)でA級戦犯らが死刑判決を受け執行された。7年間の連合国による占領を経て、日本が主権を回復するサンフランシスコ講和条約11条には、「(極東軍事など)裁判を受諾」と約束した(1952年4月28日発効)。

つまり松井石根は南京事件の残虐行為の責任を問われ死刑判決を受けたわけだが、しかし、河村たかし(名古屋と南京は姉妹都市関係)は南京事件を疑問視する発言をし、さらに、いわゆる従軍慰安婦の展示に反対する意見を公にしたのである。

何を言わんとしているかというと、日本の偏狭なナショナリストたちは歴史認識問題でアメリカやヨーロッパ向けには、日本の戦前の戦争犯罪を認め謝罪するポーズをとる。一方で、アジア民衆に対してはまるで南京事件や従軍慰安婦問題は「反日プロパガンダ」を意図してでっち上げられたと主張するという二重構造だ。強いものにはペコペコし、弱いものには居丈高に振る舞うことは名古屋市長たる公人・政治家のすることではない。ここにも、偏狭なナショナリストの屈折したコンプレックスが垣間見える。

1945年の敗戦後、「主権在民、平和主義、基本的人権の尊重」を謳った日本国憲法は前文で近隣諸国との友好関係をうたうが、日本政府は、かつての大日本帝国によるアジアの近隣諸国に対する犯罪行為への反省・謝罪を不十分にしか表明・表現してこなかった。その結果、大日本帝国が起こした「大東亜戦争は自衛の戦争」だと是認する勢力が、安倍政権の中枢や名古屋市長、さらには河村市長を応援する大阪の「維新の会」など、政治家に勢力をもっていることを顕在化させた。

フランス・パリに本部を置く国際的なジャーナリスト団体「国境なき記者団」が発表した世界報道自由度ランキングによれば、日本のそれは67位だという。今度の「表現の不自由展・その後」展示中止の事態は、改めて日本の表現の自由度のレベルを示した。

いま、民衆の「表現の自由」への回復力が求められている。名古屋では、展示再開をもとめる集会やデモが起きている。(文中敬称略。西村秀樹・8月10日記)

にしむら・ひでき

1951年名古屋市生まれ、慶應義塾大学卒業後、毎日放送記者。済州島からロシア国境の豆満江まで、朝鮮半島を南北に縦断取材を敢行する。主な単著に、『北朝鮮抑留第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争』(岩波書店)、最新刊に『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房)

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朝鮮戦争でアメリカの基地国家となった日本。その最中に、
  吹田枚方事件は起きた。いま、新たな戦前の雰囲気が漂い始めた。
    本書を支えているものは、著者の執念と情熱、そして対象への愛だと
      思う。                  金石範(作家)

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『朝鮮戦争に「参戦」した日本』

三一書房 西村秀樹著 2019.6刊 2700円

 目 次
第一部 三大騒乱事件の一つ、吹田事件

  第一章 吹田事件研究会
  第二章 吹田事件
  第三章 枚方事件
  第四章 裁判闘争
第二部 朝鮮戦争と日本
  第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか。
     なぜ日本は分断されなかったのか
  第六章 日本が朝鮮戦争に「参戦」した日々
     〜八千人の渡韓・五七人の死亡
  第七章 玄界灘を渡って「参戦」した日本人
  第八章 鴨緑江を渡って「参戦」した
第三部 吹田事件の解放
  第九章 在日朝鮮人と吹田枚方事件
  第一〇章 至純な歳月

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