コラム/温故知新
東洋モスリン争議と帯刀貞代の「労働女塾」
下町の労働運動史を探訪する(5)
現代の労働研究会代表 小畑 精武
日本初の「女工外出の自由」獲得
1929年の世界大恐慌は下町にも押し寄せ、下町の企業は人員削減、労働条件の切り下げを強行する。細井和喜蔵が「女工哀史」で描いた下町は、山内みな、高井としを、丹野セツが働き活動した鐘紡、日清紡、東京モスリン、東洋モスリンなど紡織産業の工場街であった。亀戸町の労働者の4割が女性だった。後に合併して江東区になる深川、大島、砂町の女子労働者は1割にすぎなかった。
現在でも跡地は大きな団地としてまとまって残っている。そのなかで東洋モスリンだけは団地、マンション、中小工場などいくつかに分かれ、その地区の一角亀戸9丁目には今も日立労組の本部があるのは日立製作所亀戸工場が東洋モスリンのそばにあったからだ。前号で取り上げた亀戸事件の犠牲者平沢計七が関わった争議の現場であった。
当時は、28年2月20日に第一回普通選挙が実施され、3月15日には1600人に及ぶ共産党員が検挙され、労農党や評議会に解散命令が出され、6月には治安維持法に死刑、無期懲役条項が緊急勅令として公布された。しかし、労働運動は前進を続けていた。労働組合組織率は、1928年6.3%、29年6.8%、30年7.5%、31年7.9%と拡大活性化を続けていた。争議件数と参加者数も28年397件、46,252人、29年576件、77,444人、30年906件、81,329人、31年998件、64,536人と戦前のピークを迎えていた。
東洋モスリン争議
東洋モスリンは1907年に大倉系財閥資本の会社として設立されたモスリン(羊毛)、綿糸、綿布の会社で、亀戸第二工場になる松井紡績を買収するなど拡大を続けていた。1909年1月には男女職工ほぼ全員800人、賃上げを要求してストライキに入っている。
労働組合としては、26年3月に全員が加盟する関東紡織労組城東支部が組織され、27年5月に亀戸第1、第2工場の約5千人が待遇改善の要求を出し、不思議なことにわずか1日ですべての要求が認められた。そのなかで日本初の「外出の自由」が勝ちとられた写真①。30年2月には工場法改正により午後11時から午前5時までの深夜業が禁止となる。会社は資本金の減資、亀戸第2工場(女性601人、男性200人の綿糸部)廃止の合理化を進めるとともに、組合幹部の解雇による組合つぶしをはかる。これに対し組合は連日のデモ、そしてストに入った。
しかし、会社は男性従業員100人の出勤停止、女工の外出禁止、組合活動家の120人の解雇、暴力団の導入と徹底して組合つぶしを続けた。そして少数組合総同盟84人のうち17人の復職、金一封で覚書を結び解決。多数派の組合同盟は一人の復職も認められず、2月争議は敗北に終わる。1930年2月の争議は亀戸第二工場の閉鎖大量解雇、9月には第2次整理を通告、亀戸第3工場を閉鎖、職工488人の解雇、賃下げを計った合理化に対する闘いであった。
半年後30年9月に会社は綿紡部500人の解雇を強行。組合は妥協案を会社に要求、交渉を申し入れた。会社は組合つぶしを念頭に頑なに拒否、組合派23日からサボタージュ、26日からストライキに入った。
市民、地域労働者が押しかけ“亀戸市街戦”
10月7日組合は工場代表者会議を東大セツルメント(柳島)で開催し支援決議をあげ、21日全国労働組合同盟(全労)東京連合会の組合代表者会議は24日夜の「亀戸市街戦」となる一大デモを決定。
「24日夜、亀戸ダー、洋モス争議団に押しかけろ、逆襲戦だ、デモテロだ、労働者武装して総動員しろ!」と写真②にあるように勇ましく「市街戦」が全労から発せられ、2000人が結集、警察官3百数十名と衝突。騒じょう罪が適用され争議の指導者と洋モスの4人を含め197名が逮捕された。
女工たちは寄宿舎で待機する方針だったが、外勤の女工たちが労働歌を唄ったり、デモ隊を激励したり、亀戸地域の人たちも街頭に出て女工たちを応援した。
労働 女塾 の 帯刀 貞代は「日暮れとともに西から、東から、南から、あらゆる街道から、黙々として亀戸に向かう労働者の群れがあった。7時10分、街の灯がいっせいに消えると、五ノ橋付近は、潮のような人の波であった。この人波は、不気味な沈黙のまま、洋モスへ!すすみはじめたが、水神森にさしかかるころ、待機した警官の大部隊の阻止にあい、大衝突となり、もみあいとなり、乱闘となって、検束のトラックのあわただしい往来のなかに、争議団側は20数名の重軽傷者と197名の逮捕者をだし、騒じょう罪が適用されるというきびしい弾圧を受けた。この事件によって争議団は指導の中枢を失った。」と書いている。(帯刀貞代「ある遍歴の自叙伝」)
「ゼネスト」の敗北 争議の終結敗北へ
その後も10月31日までに帰郷者890名、退職者390名、就業者179名と増え、争議から引いていった。「地域ゼネスト」をめざしたにもかかわらず、結局争議団は指導部を大量検挙で失い、力を失っていく。同時に追求されていた「地域ゼネスト」はどうなったか?加藤勘十は全協(共産党系労組)が進めていた工場代表者会議 を「全協では人が集まらない」として「われわれ合法性を持った」争議の起っている工場労働者を工場代表者会議に集めようとしたが、規模の大小による意識の差などがあり、うまくはいかなかった。
また、女工たちの田舎では「争議後に至らば女工員中妊娠者は300人を下らざるべし」とスト切り崩しの手紙やデマを流し、旅費まで支給して父兄を呼び連れて帰らせた。こうした帰郷者が890名に及んだのだ。
争議の収拾に日本紡織労組藤岡文六組合長が関西からやってくる。藤岡は1892年長崎に生まれ16歳から坑夫となり1917年に田川炭鉱に入り総同盟の組合活動に参加。そのため19年8月に解雇され、その後筑豊の坑夫の組織化に尽力した。20年2月の八幡製鉄争議では指導部の一員となった。この時も検挙され懲役1年、執行猶予判決を受ける。その後21年5~6月の藤永田造船争議を支援し検挙され、その後大阪機械労組役員になって、多くの争議を指導した。総同盟第一次分裂では総同盟にとどまった。26年日本労農党結成に積極的に参加し総同盟から除名された。その後も無産党の執行委員、組合同盟の中央執行委員に。神戸、大阪での争議など経験豊富であった。
藤岡はまず争議団を無責任に扇動する応援団を黙らせ、そのうえで争議団の結束を固め、調停による解決をめざして警視庁官房主事にかけあった。11月19日に会社、組合と警視庁官房主事の連名により解決条件が合意確認された。解雇は撤回しないが退職金を上積みする内容で敗北に終わる。
加藤勘十が考えていた工場代表者会議に基礎を置く地域ゼネスト体制は、当時下町に広がっていた東洋モスリン、大島製鋼、第一製薬、大和ゴム、東京真綿争議団による5大争議共同闘争委員会の結成はじめ、鐘紡などの紡織産業、城東電車、青木ロール(戦後江戸川で大争議となる日本ロールの前身)葛飾汽船など中小企業争議が土台に構想された。しかし、「経済闘争から政治闘争へ」の道は敗北に終わった。解雇撤回の要求実現について展望を開くことができなかったのだ。
ストライキで激しく闘い、第三者に調停を求めるというスタイルが戦前の特徴だが、その背景には「争議を政治闘争へ」結びつける指導があった。しかし女性たちのすばらしい戦闘性を階級教育し、女性指導者を作り出すことができなかった。労働争議の公的調停は1926年の労働争議調停法により個別に組織される調停委員会が調停を行うとされていた。しかし実際には調停官吏その他の警察官吏が行い、労働組合法がない時代の限界でもあった。
全国婦人同盟の書記長・帯刀貞代
こういうなかで、争議を担った女性活動家を育てたのが労働女塾だった。1930年の東洋モスリンの争議は下町女性労働史のハイライトといえる。2000人を超える女性たちの闘いを支えたのが1929年に設立された「労働女塾」。帯刀貞代はその設立者(写真③の右端)。
彼女は島根県で生まれ、小学校の代用教員になる。わけがあって東京へ。納豆売りやウエイトレスをしながら上野の図書館で社会問題の本を読み、そこで東大新人会の織本侃 と出会い、結婚。織本が1926年に結成された日本労農党(日労党)の活動に参加し、彼女も日労党系の全国婦人同盟を結成、書記長に選出される。2人は工場街の亀戸に移り住み、モスリン工場、染色工場などを見て回わった。
織本が結核で倒れ、市川に転居。帯刀は生活のため日本紡織労組の常任書記に。そこで東洋モスリンの女工、小林たねと出会い、小林から「いろいろな覚えごとや社会勉強ができる塾みたいなことを始めたい」といわれ、裁縫や家事を教え、組合の話もできる塾を始めることになった。
1929年8月、大恐慌が起こる直前、帯刀は労働女塾を亀戸7丁目224番地、「モスリン横丁」に設立する。
「近来資本家の飽くなき合理化運動は抵抗力の弱き婦人労働者の上にその嵐の如き毒牙を磨き、低廉なる賃銀は益々切り下げられつつあり、労働の強度はいやが上にも強化せられて、工場に於ける婦人の呻吟は日に日に深刻の度を加えつつあります。かかる時あたかも合理化の嵐に直面する婦人労働者がその全力を挙げて自らの防衛に、解放のための闘争により 鞏固 なる組織と鉄の如き訓練とを持つことの緊急必要なるは、多言を要しない処であります。我々が開設せる労働女塾はかかる時機に際し、従来とかく婦人労働者にかけたる教育機関の欠を補い、もっぱら婦人闘士の養成を使命として生まれたものに他なりません」と女性活動家の養成をめざす設立の趣旨を明確にしている。
しかし、黒板もなく机も不十分だった。その窮状を訴え、ミシン、裁縫用具の整備に「むこう6か月間に月1円」の資金カンパを訴える。さいわい堺利彦、丸岡秀子、河崎なつ(津田英語塾)など広い層から支援をうけることができた。塾は帯刀の自宅で八畳、六畳と台所、家賃は月25円、維持費30円だった。メンバーには東洋モスリン、東京モスリンなどから約30人が集まり、運営は帯刀主事、小林たね書記、委員が東京モスリン2、東洋モスリン亀戸第一、第二、第三工場から各2名、会計2名によって経営委員会が構成された。
亀戸に「労働女塾」を開設―資本主義のからくりと裁縫、手芸、割烹も学習
労働女塾は婦人闘士を養成するために帯刀自らが教壇に立った。帯刀自身は自ら書いた「労働婦人問題」(1929年9月、無産社パンフレット)をテキストにして、女性の地位の変遷、資本主義のからくり、賃労働と資本の話を週一回講義した。さらに、要望にこたえて裁縫や料理も教えた。
教授科目は時代を反映している。
1、イ、学科(一週間四時間、月曜日、水曜日)テキスト「婦人と労働組合」
「プロレタリア経済学」「婦人運動の当面の諸問題」「科外講話」
ロ、裁縫 常時 和服、婦人子供洋服
ハ、手芸 常時 編物、刺繍、袋物
二、割烹 一週一度 土曜日
2、労働婦人文庫の完成
3、労働婦人ニュースの発行
帯刀は難しい話をやさしくかみくだき、学科を学ぶとともに裁縫など当時の女性が身に付ける科目を重視した。帯刀は当時の中学程度の裁縫実科を習っており、要求が強い裁縫の先生にもなれる。時には彼女たちの希望で、大船の撮影所を見学したり、鎌倉を見物したり、あちこちでかけた。何も知らされていなかった彼女たちには、一般教養としてそういうことも大事な学習だった。
塾が生まれた背景には、29年7月に婦人と青少年の深夜業が禁止され、10時間2交替制から8時間半二交替制になったこともある。女工たちは多少の自由時間を得て、これまでできなかった裁縫などを求めた。会社側も対抗して裁縫はじめ様々な会をつくって女工を会社側に組織化していった。労働女塾は裁縫に終わることなく女工たちの解放にむけた学習の場であり、行動の場であり、東洋モスリン争議に大きな役割を果たしたといえよう。
無産婦人同盟の役割 労働女塾の閉鎖
政治組織全国婦人同盟と無産婦人聯盟が1927年に合同して結成された無産婦人同盟(帯刀書記長)も洋モス争議を支えた写真③。圧倒的に女性が多い争議とはいえ、争議の指導は男性幹部に委ねられていた。そのなかで無産婦人同盟は女性組合員への激励教育、ビラまき、争議資金の募集、亀戸町内をまわっての救援米等の要請、演説会の開催、弁士派遣、家族会の組織化、警官に暴行された若い女工を引率しての内務省への抗議など、全力をあげて争議支援に取り組んだ。労働女塾はこれらの行動のセンターになった。しかし、争議は敗北、労働女塾は一年足らずで活動の幕を閉じる。
争議は敗北したが、労働女塾は東洋モスリン争議に大きな影響を与えた。争議団本部の争議方針戦術は工場内で闘っている女工たちに必ずしも受け入れられず、労働女塾の女工たちが中心の争議集団が形成された。彼女たちは「⑴争議勃発時組合幹部が示した妥協案の拒否、⑵本部指令前にスト突入、⑶本部役員への女工参加の要求、⑷本部の警視庁への調停依頼の拒否等々」を主張した。(「日本労働運動の先駆者たち」労働史研究会編集)しかし、結局取り上げられないまま争議は終結していった。
帯刀は、「残されたものがか弱い少女たちだけに、打撃の深さははかりしれぬものがあった。私が改良主義幹部の行き方に、いろいろ疑問をもちはじめたのは、このころからであった。洋モス争議は、その外観からすれば、はじめからじつに戦闘的であった。しかし、全然素人の私にも、これを『市街戦』にみちびく前にもっとしなければならないことが、たくさんあるように思われた。しかし、それにしても、この争議の経過と、まったく自発的な少女たちの勇敢な行動とは、階級的闘争そのものについて、わたしにかずかずの教訓をもたらさずにはおかなかった。」(「ある遍歴の自叙伝」帯刀貞代)と総括し、やがて彼女は共産青年同盟に参加、労働女塾は閉鎖となった。
【参考文献】
村岡悦子「婦人解放にかけた『労働女塾』のリーダー」『日本労働運動の先駆者たち』労働史研究同人会、1985
鈴木裕子『女工と労働争議』れんが書新社、1989
帯刀貞代『ある遍歴の自叙伝』草土文花、1980
おばた・よしたけ
1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)
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