特集●次の時代 次の思考 Ⅲ
琉球独立論の歴史と現在
琉球のアイデンティティ確立への切なる願い
沖縄キリスト教学院大学名誉教授 大城 冝武
はじめに
1 開闢神話
2 島津の琉球国侵略
3 明治天皇による「琉球藩王」冊封
4 明治政府の琉球併合
5 沖縄独立のチャンス到来
6 琉球独立の思想
7 日本復帰以後
8 20世紀末から21世紀への独立論
おわりに
はじめに
日本の行政区分は、1都1道2府43県、都合47である。これらの47区画の中で日本国から分離独立を志向する区画があるだろうか。分離独立を志向する等問うも愚かな、と考えるのが一般的であろう。ところが、沖縄にその思想が伏流となって連綿と生きている。新川明(1996)の表現を借りれば、沖縄は日本国からすれば「反国家の凶区」なのである。では、なぜ分離独立の思想が生まれてくるのか。そして現在はどのようにあるのか。本稿は、その問いへの解を示すことを企図している。
1 開闢神話
『古事記』や『日本書紀』あるいは神話に見られるように、天地開闢の後、神々が幾世代か交替しながらイザナミ・イザナギの2神による国産みで日本国が形づくられる。この両神からアマテラスオオミカミ(天照大神)が生まれ、皇室の祖神となる。初代天皇が神武天皇である。
琉球の開闢神はアマミキョ(阿摩美久)である。アマミキョは天帝に頼み女神と男神を給う。2神の間に3男2女が出来た。長男は国の主の始まり天孫である。次男は諸侯の始まり、三男は百姓の始まりとされる。天孫氏は神話時代の王統である。その第25代目は利勇に殺される。天孫の王統は絶える。利勇を滅ぼし王位に就いたのが尊敦(舜天王)である。尊敦を源為朝の一子とする伝説がある。為朝は第56代の清和天皇の子孫だとされる。これは琉球最初の正史『中山世鑑』(1650)に見られる。配流され琉球に流れ着いた貴種が現地の娘と結ばれその地を統治するといった貴種流離譚である。日本人(天皇)の血が琉球に入ったことが含意されている。その王統も3代でもって終わる。紙屋敦之(1990)は次のように述べている。
1609年の薩摩の侵略まで日本から見て異国であった琉球に、日本の天皇を意識する条件はなかった。『中山世鑑』の為朝伝説は、明らかに「宗主国」薩摩藩の押しつけである(25ページ) 薩摩藩が「琉清」関係を牽制し、琉球支配を強化するためのイデオロギー支配の装置が為朝伝説だったと考えられる(同)。
『中山世鑑』が描く開闢神話から見れば日本と琉球は別系統である。異なる開闢神話の下にある。日本では神話に続く天皇の系統が続いている。琉球では潰えている。天孫の血脈は残っていない。尊敦を為朝の子とすることで、日琉一体論が試みられたであろう。しかし尊敦王統が英祖王に譲られることで琉球を日本と一体とし、日本国の支配下に接続する意図は打ち砕かれる。かくして、琉球が日本国の領土でないことが明らかとなる。
2 島津の琉球国侵略
本能寺の変後、羽柴秀吉は亀井慈矩の望によって扇子に琉球守殿と書した。秀吉は琉球を自らの領土の一部と見做していたのであろう。さらに秀吉は中国(明)出兵を画策し、琉球に出兵を要求した。島津は兵糧として米7千人10カ月を拠出するように琉球に伝えた。しかし琉球では、尚真王(在位1477-1526)の治政の世に刀狩りが行われ武装は解除されていた。軍備のない琉球に兵はいない。身分構造として士(サムレー)はあるが、武闘集団としての武士団は存在しない。また、中国(明)と「朝貢―冊封」関係を結んでいた琉球にとって明国と敵対する出兵や兵糧の拠出などとんでもないことであった。
薩摩の島津家久藩主は秀吉にとりなし琉球の負担を肩代わりした。琉球の動きは鈍かった。この間、秀吉は死に、豊臣政権は滅び、徳川の世になっている。薩摩の島津は徳川家康に琉球征伐を願い許されている。
周到な準備をした上、1609(慶長14)年、島津は琉球に侵攻した。表向きの理由は「琉球は薩摩の附庸であるのに、貢物を納めず、薩摩の使いに謝名親方が無礼を働いたことは看過できない。よって琉球を討つ」というものであった。
戦に敗れた琉球は尚寧王(1589~1620)始め、三司官(さんしかん)等高位高官が薩摩に連行された。王は駿府で徳川家康、江戸で徳川秀忠と謁見している。秀忠は「島津家久と尚寧を饗応し、中山王の改易を禁じて琉球王国の存続を命じ、島津氏には貢納を受けることを認めた。また、家康は琉球入りの軍功として島津氏に琉球の「仕置」(支配)を認めた(波平、34ページ)。この時尚寧王らは捕虜としてではなく外交使節として遇されたという。島津の武威誇示の思惑は外れたことになる。
尚寧王一行は薩摩に捕囚されること2年余、帰国に際し薩摩から「起請文」(きしょうもん)を書かされている(1611年)。
注目したいのは「琉球は昔から島津氏の附庸であった」との文言である。琉球国はこの時点でこれまで島津の附庸だったことはない。事実無根である。歴史の改竄である。この文言は1872年、明治天皇が尚泰王を「琉球藩王」に叙する際にも琉球国を版図化する根拠に使われている。「起請文」は、島津による徹底服従を迫るものであった。これを機に琉球は薩摩に自主権を奪われた。起請文の提出とともに琉球国王に「掟15ヶ条」が下された。「掟15ヶ条」の内容に関して大城喜信(2013)の主張をまとめるとつぎのようなる。
① 中国貿易の管理
② 自由貿易の制限
③ 自由な徴税
④ その他
大城喜信(2013)は「掟15ヶ条」について次のように述べている。
このように綿密で、根本的・長期的な視点からまとめられた搾取を目的とする公文書の立案は、 想像することすらできない。おそらく人類史の中における他民族征服の事件としては、最も過酷で強欲・非道なものであるといえよう(26ページ)
大城は続けてつぎのように述べている。
起請文によって主権を奪われ掟15ヶ条で莫大な資産が略奪された。このことが、現在、琉球人が直面している受難の真実の原因である。本来なら、この起請文は、廃藩置県の際に破棄されるべきものであったが、世代わりの混乱を受けて正式な破棄の手続きが行われなかった。現在でも形式的にはその効果を保持している。(27ページ)
薩摩が強要する起請文に抵抗し署名を拒否したのが三司官の一人謝名親方(じゃなうぇーかた)利山、中国名は鄭迵(ていどう)である。彼は琉球国の最初の正史である『中山世艦』(1650、羽地朝秀 1617~1675、編集)では悪しざまに記されている。すなわち、薩摩侵攻の原因は薩摩に対する礼を失した謝名親方にある、とされている。『中山世譜』(1701)は、鄭迵が三司官の翁寄松(おうきしゅう)を讒言し貶め降格させ自ら三司官に登ったと記載している。薩摩島津侵略期に尚寧王に臣従した喜安入道の『喜安日記』(成立年不明)も「こんど琉球の乱劇の根本尋るに、若名(謝名の別表記―引用者注)一人の所為也」と記し、また「大島割譲を拒否したことが薩摩侵入の発端であった」としている。琉球の正史は薩摩支配下において著わされたものでありその影響下にあったことを考慮しなければならない。編纂者の羽地朝秀は親日本国の政治家であり喜安は和僧である。鄭迵は親明派である。何らかの政治的意図が感じられる。宮田俊彦(1996、初出は1965)は鄭迵が「事大主義・向明一遍倒」としている。紙屋敦之(1990)は「国政を預かる三司官の職責を果たしたまでであり、なんら非難されるいわれはない」(61ページ)と鄭迵の名誉回復を図っている。
鄭迵は起請文の提出を拒み斬首された。彼は最後まで薩摩に抵抗を示した。
3 明治天皇による「琉球藩王」冊封
日本国の明治革命(明治維新)は琉球にも大きな影響を及ぼした。版籍奉還、廃藩置県によって薩摩藩は鹿児島県に変わり、琉球国は鹿児島県にあずけられた。維新を慶賀する琉球国の使節団は天皇に謁見する、その席で琉球王尚泰を「琉球藩王」に冊封し華族に叙した。不意打ちであった。賀表も書き換えられていた。すなわち、「琉球国中山王尚泰」が単に「琉球尚泰」に、「琉球国正使尚健」も「琉球正使尚健」などと書き改められていた。身分呼称を剥ぎ取られ「琉球国」が抹消されたのである。つぎに冊封の詔の一部を掲げる。
今、琉球近く南服に在り、気類相同じく言文殊なる無く、世々薩摩の附庸たり、而して爾尚泰能く勤誡を致す。宜しく顕爵を予ふべし。陞して琉球藩王と為し、叙して華族に列す。咨爾尚泰、其れ藩屏の任を重んじ、衆庶の上に立ち、切に朕が意を体して永く皇室に輔たれ。欽よ哉。
明治天皇が琉球国王に対して臣従せよとの宣託である。琉球国が日本国天皇の藩屏となり天皇の為に働き天皇を護持せよとの命令である。この時から琉球は天皇支配下に置かれることになった。日本国による琉球国乗っ取りである。国際的な陰謀であった。 多くの琉球史の研究者などには藩王冊封をもって琉球藩が設置されたと了解されている。しかし徳川幕藩体制の中に、「藩王」なるものは見られない。日本国が一方的に琉球国王を冊封しても国際的には、琉球国は中国(清)を宗主国とする一国であることに変わりはない。波平恒男(2014)は次のように主張している。
当時の琉球は、国際的には清朝中国を宗主国として仰ぐ朝貢国で、なおかつ独立した王国であった。独立国として諸外国と条約を結んでいた一方で、日本への従属は国際的には承認されていなかった。また、薩摩島津氏と琉球の関係について言えば、その支配の実態については一貫して隠蔽政策が続けられ、清国もまた公式に承認するところではなかった。(147ページ)
琉球国王を「琉球藩王」として冊封した後の明治政府は松田道之(1839~1882)を琉球国に派遣し(1875(明治8)年)、①中国(清)との関係を断つこと、②明治年号を使うこと、③日本一般の刑法を施行することなどを令達している。琉球国の主権を奪う明治政府の野心が明白である。 しかし、琉球国はそれに従うことがなかった。このことが天皇の命令に従わなかったと受け止められた。日本国の琉球国に対する振る舞いは君臣関係の前提で行われたが、琉球国にあっては天皇に畏怖することなく中国(清)を盟主と恃んで振る舞っていたのである。つまり、「藩王冊封」の理解に齟齬があったのである。
4 明治政府の琉球併合
天皇の命を遵奉しなかったとの理由で、明治政府は「琉球処分」のため処分官松田道之を琉球国へ派遣した(1879(明治12)年)。随行官、警察官約160人、兵員約400人を伴い王城である首里城に入場、「処分」を申し渡した。「琉球処分」とは日本国の呼び方である。明治天皇制国家は軍事力を背景に「廃藩置県」を断行し、琉球国の併合がなされた。廃藩置県によって「琉球藩」は廃され「沖縄県」とされた。しかしながら「明治政府から“琉球藩を設置する”という趣旨の法令の類が発布された史実は一切存在しない。天皇から尚泰が「藩王」に冊封されたので、彼が君主として支配管理してきた領域や王府機構が“琉球藩”と(公式文書でも)呼称されたにすぎない(波平恒男 2014、102-103ページ)。大城冝武(2014)も「虚構の”琉球藩“」としている(86ページ)。
この過程で琉球側は、非暴力の抵抗をした。琉球帰属問題について中国と交渉してくれと大久保利通(1830~1878)内務卿に嘆願したが、明治政府は「純然たる内政の問題」だとして取り合わなかった。駐日公使何如璋(かじょしょう)は、日本国の琉球国併合に抗議したが送った書簡に非礼があったとしてかえって中国を誹謗される始末であった。在京中の琉球使臣は琉球国と条約を結んでいた米国、フランス、オランダの公館に密書を届け、支援を頼んだ。だが、フランスとオランダは拒んだ。米国のみ取り合ってくれた。また、琉球国では清国へ脱出(脱清)して救国嘆願の運動を展開した。この運動は後日の琉球分島条約締結不成立の要因として奏功した。琉球分島問題とは、日本国が中国貿易において欧米諸国並みの特権を得るために琉球国の割譲を画策したものであった。帝国明治政府の酷薄さを示す外交政策であった。
琉球国(琉球藩)は強制的に「版籍奉還」させられた。擬制的に琉球藩王に封じられた尚泰王は天皇に土地と人民を奉還させられたのであった。波平恒男は次のように述べている。
歴史的に見ると、版籍奉還後の琉球の管轄権は、実態についてはあまり変化のないまま、鹿児島藩から同県を経て天皇政府外務省へ移されるとともに、従来、琉球が薩摩島津氏に負っていた上納(仕上世)の義務も巧妙に政府大蔵省に移されることになった(145ページ)
明治期に琉球藩「復藩」運動が起こったことがある。公同会運動である。琉球の旧支配階級が特権的地位を確保しようとし、尚家を沖縄県の世襲県知事とする特別制度の実施を求めるものであった。明治政府は一顧だにせず、国事犯扱いにすると警告した。在京の沖縄人達からも反対運動が起こった。「復藩」運動は終焉した(『沖縄大百科事典』中 74-75ページ参照)。
復藩運動は日本への同化、皇化運動であった。琉球国救国請願運動も分島化を阻止することに機能したであろうが中国との冊封関係維持を前提としたものであった。独立論の観点からは「琉球国」自立・独立の方向性が欠けていた、と言うしかないだろう。
5 沖縄独立のチャンス到来
琉球の廃藩置県後、明治政府の沖縄統治政策は苛斂誅求を極めた。「廃藩置県」後も「掟15ヶ条」並の収奪が行われていたことを忘れてはならない。沖縄県は困窮に喘いでいた。
1943年英、米、華の3国はカイロに集い日本に対する宣言を発表し、日本国に無条件降伏を求めた。「宣言」につぎの文言が掲げられている。
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ満洲,台湾及膨湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
この内容は「ポツダム宣言」に受け継がれた。
1945年、日本国はポツダム宣言を受諾し連合軍に降伏した。宣言第8項目に「日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」
(http://home.c07.itscom.net/sampei/potsdam/potsdam.html、外務省訳)と謳われている。同年に調印された「降伏文書」に「ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取る」と定められている。これらの関連文書から、沖縄が日本国の主権にないことが分かる。琉球は300余年にわたる日本国の桎梏から解放されるはずであった。しかしこの希望は砕かれることになった。日本国と連合国との間に条約が締結された。サンフランシスコ講和条約である。これによって日本国は占領を終わらせ独立し、主権を回復したことになった。しかしそれは、沖縄や奄美を米国に「割譲」する犠牲を伴うものであった。つぎに条約第3条を引く。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
本条によれば、米国が南西諸島その他を信託統治制度の下に置くことを国連に提案がなされ、可決されるまでは米国がこれらの諸島(以下沖縄と略記する)の司法、立法、行政の権利すなわち施政権を有するというものである。この条文はつぎのような構造になっている。
① 沖縄を信託統治制度に置く。
② 上記①を国連に提案する。
③ 上記②の提案が可決されるまで米国が同諸島の三権を行使する。
上記①には沖縄にとって希望と屈辱が込められている。希望とは、いずれ沖縄が独立できる可能性が読み取れることである。結果論ではあるが第二次世界大戦の戦後処理として信託統治下にあった地域は独立を果たしていることである。屈辱とは、沖縄には統治能力がないと認定されていることである。
上記②に関してはいつまでに提案するのか、期日が抜けている。この為に米国は未来永劫沖縄を占有することができることになっているのである。国連に信託統治の提案をしないことでこれは可能となる。
上記③に関しては実質的な植民地支配である。
この第3条は米国が仕掛けた沖縄支配のための罠であった。
6 琉球独立の思想
米軍は1945年3月26日慶良間諸島に上陸した。米国海軍元帥ニミッツは南西諸島における日本政府の行政権と司法権を停止する米国海軍軍政府布告第一号「権限の停止」を公布し沖縄での軍政を開始した。第10号まで布告されている。米軍による沖縄占領統治の基本法令であって、俗にニミッツ布告と称される。
米国の軍政は最初に海軍が次いで陸軍の管轄となった。米軍占領下、日本復帰運動が澎湃として起こった。1951年2月当時の沖縄の4政党が沖縄の帰属をめぐって論争がなされた。前年に対日講和7原則が発表されていたからである。その1つに、日本国はアメリカが施政権者となって沖縄を信託統治することに同意する、とされていたからである。各党の方針はつぎの通りであった。
社会大衆党:日本復帰
人民党:琉球人の自主性を前提とした日本との結合
社会党:米国による信託統治
共和党:独立論
独立論の観点から、共和党の桑江朝幸の「日本に復帰することは米国に琉球を租借され、かえって主権を失うことである」とする主張は注目に値する。『うるま新報』は、「琉球の独立 大きく出た共和党」と揶揄的に報じている(1951年2月19日)。20歳以上の有権者を対象に5月から始められた日本復帰署名運動は2か月で全有権者27万人の約72%の署名を集めた。米軍政下の沖縄の住民は復帰を熱願したのであった。このような政治社会状況にあって、独立論は琉球の帰属を巡って復帰論、信託統治論、独立論の三つ巴の論争の中にあった。
仲宗根源和(1895~1978)は、琉球は民主主義共和国として独立し、自由主義国家群の一員として国連に参加すべきである、という琉球独立論を提唱した。沖縄の主人は沖縄人であり、アメリカは絶対に沖縄から引き上げない、と確信する。アメリカは領土的野心はないと宣言しているので、沖縄を領土にしないで沖縄を利用する方法は、信託統治か租借かである。もしどうしても日本に返還しなければならない事情が生じたら、一旦日本に返して租借することになるだろう。つまり日本復帰すると租借される危険性がある、ということである。したがってアメリカとの関係は、独立国琉球共和国がアメリカの必要とする土地を条約によって貸与すればよいのである。日本統治下では1609年以来の薩摩による残酷な搾取政策によって沖縄は困窮し、廃藩置県後は沖縄に発電所も建設せず、鉄道も敷くことなく社会資本は貧困を極めた。そのような日本に復帰することはない。独立国琉球は土地狭小なので移民を奨励し、なにより精神的に独立することが急務である。従属心依頼心を払拭し、沖縄民族は沖縄民族の手で運命を開拓すべきであり、その能力と資質を潜在的にもっている。(1951、参照)
米軍政下、琉球列島民政府の下部組織に琉球政府があり、琉球人の行政の長として行政主席が置かれた。民政府の任命制である。立法院が置かれ議員が公選された。第1回立法院議員選挙が1952年3月に実施され31人が当選した。
当選者の1人に新垣金造(1895~1956)がいる。彼は異色の保守政治家として紹介される(『沖縄大百科事典』上巻 114ページ)。戦時中は大政翼賛会沖縄支部長平良達雄と連携し翼賛政治家となる。移民問題にも積極的に関与し、『移民の友』の刊行、『世界の沖縄』を発行した。独立論として特異な位置を占める。それは日本国憲法の「主権在民」ならぬ「主権在琉球人」論による。新垣の主張は第1回立法院定例会に上程され論議された(4月1日開会)。新垣の主張はつぎの3点に要約できる。
① 琉球人の主権は日本国民にあるのではない。ポツダム宣言によって日本国憲法は琉球人民に及んでいない。
② 日本国の主権が日本国民に存するが如く琉球人の主権は当然琉球人になければならない。
③ 琉球人の主権が琉球人にあることは民主主義の原理に基づくものであり琉球政府が樹立されると同時に発効すべきものだと信じる。
新垣の主張は、すでにして琉球国が存するかのごとくであるが、審議の最中の4月28日に前年調印の整っていたサンフランシスコ講和条約は発効したのである。現実的には新垣の議案は、そして主権在琉球人論(案)は宙に浮くことになってしまった。しかし、日本国統治下におけるような如何にも植民地的な感じにしないこと、今後行政権が日本から働いた場合においてはいわゆる沖縄を植民地的に考えてもらいたくないことに懸念を表明していた。新垣は日本国の沖縄統治が植民地的であったことを暗に指摘しているのである。尚寧王時代の起請文が時を超えても効力を発揮していたのであろう。
7 日本復帰以後
米国は沖縄を信託統治地域にするため国連へ提案することなしに日本に返還した。サンフランシスコ講和条約第3条とどのような折り合いをつけたのだろうか。米国の振る舞いは理解しがたい。沖縄県民というより復帰論者の願いは思わぬ形で実現した。
沖縄の祖国復帰運動に邁進した元コザ市長の大山朝常(1901~1999)は「沖縄独立」を宣言した。熱心に求めた復帰とは何だったのか、と。そして問う。沖縄は本当に日本の国なのかと。
なぜ沖縄だけなのか――この問いは、アメリカにというより日本本土、ヤマトに向けたものなのです。ヤマトは答える義務があります。
先の戦争で沖縄を自らのタテにし、犠牲にしたのは日本本土です。戦後二十七年間、米軍の占領下で苦しむ沖縄をタテにして繁栄を遂げたのも本土です。そして復帰の際、沖縄に「核抜き・本土並み」という約束をしたのも本土です。その約束を全く守ってこなかった日本本土、ヤマトは、いまこそ沖縄人の問いに、はっきりと答えるべきです。(大山、1997、60-61ページ)
復帰以降、本土の米軍基地はその約六〇パーセントが返還されましたが、沖縄ではわずか一五パーセントでした。つまり、沖縄を含む日本全体の米軍基地の整理縮小は、沖縄にシワ寄せする形で進められたのです。(167-168ページ) 要するに、復帰前となにひとつ変わらなかったのです。(168ページ)
復帰とは何だったのか。大山はつぎのように答える
私たちがあれほど思いを込めて復帰を望んだ「祖国日本」は、沖縄にとって何なのでしょうか。
幻だったのです。私たち沖縄人が悲痛な思いゆえに描いた、幻影だったのです。日本は帰るべき「祖国」などではなかった――いま、もっと悲痛な思いで、私たちはそれに気づかされているのです。(同)
復帰を望んだところが思い描いた日本の正体は醜く酷薄な存在だった。臍を噛む思いである。苦い思いとともに現実を知るのである。
8 20世紀末から21世紀への独立論
ミュージシャンの喜納昌吉は琉球独立に関心を持つ有志を糾合し、「激論・沖縄「独立」の可能性」激論会を開催した。1997年5月14・15日、那覇市民会館小ホールで延べ千人以上が参集した。激論会は沖縄人の胸中にある沖縄アイデンティティに火をつけた。世間で独立についておおっぴらに語る雰囲気を開いた。一部に居酒屋独立論だと揶揄する向きもあったが、独立論は沖縄社会に広がりつつある。
激論会をきっかけに数名の有志が集い「21世紀同人会」を立ち上げている。この会は不定期に会誌『うるまネシア』を発行している。
創刊号に発刊宣言(案)が掲載されている。
さらば、戦争と暴力と環境破壊と帝国主義、男権中心主義の20世紀よ。
私たちは琉球弧住民の解放と自治・自立・独立を求め続けた運動の成果を継承し、ここに新しい思想 同人誌「うるまネシア」を創刊する。
思想的、理論的成果を点検し、研究し、継承し、さらに新しい地平を目指して創造を重ねていく。そして、琉球弧の自治・自立・独立をめぐる論争を、広く、深く、活発にする文化・思想運動を展開していくつもりだ。(創刊号、2000より抜粋)
沖縄の自立独立論の論争の場としてのプラットフォームのようになっている。
激論会の主唱者であった喜納昌吉(2010)は参議院議員時代に、菅直人副総理大臣と交わした会話を暴露している。
政権を取った時期に菅直人と会ったんですよ。沖縄問題よろしくねって言ったら、彼は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と言うんです。内部で猛烈な戦いがあったんでしょう。それで最後に菅が何て言ったと思う?「もう沖縄は独立したほうがいいよ」って。すごいと思わない?そういうふうになってしまうんですよ。日米同盟派に勝てないでしょう。大変なことだよ。副総理が沖縄は独立したほうがいいよって言ったんだ。活字にはなっていません。私は「菅さんありがとう!」って言いました(笑い)。(194ページ)
松島泰勝は独立論を理論と実践でリードする。『琉球独立への道』(2012)で、琉球独立に関する包括的な整理と提言を試みている。その特徴は琉球のみに限定することなく世界に視野が広がっていることである。松島は「琉球が植民地である」と主張している。「植民地諸国、諸人民に対する独立付与に関する宣言(植民地独立付与宣言、1960)」に言及しながら次のように琉球独立の可能性について指摘している。
「復帰」後の「沖縄県」という体制は、琉球人民が希望し、自由に決定した政治的地位とはいえない。また、現在の米軍基地は琉球独立を抑制させる手段としても機能しており、琉球人の自決権行使を妨げているという意味でも国際法に違反している。(140ページ)
この指摘は注目に値する。「沖縄県」という呼称を使わなければならない義務はない。自由に決定してよいのである。
「琉球民族独立総合研究学会」が2013年5月15日に発足した。5月15日というのは「日本復帰」の日である。この日に発足するのはこだわりがあるからである。趣意書は、まず「琉球の島々に民族的ルーツを持つ琉球民族は独自の民族である」と宣言し「日米に よって奴隷の境涯に追い込まれた琉球民族は自らの国を創ることで、人間としての尊厳、島や海や空、子孫、先祖の魂を守らなければならない。あらたな琉球という国を創る過程で予想される日本政府、日本人、同化されてしまった琉球民族、各種の研究者等との議論に打ち勝つための理論を磨くためにも琉球民族独立総合学会が今ほど求められている時はない。」と琉球民族独立総合学会の存在理由を述べ「琉球の独立を志す全ての琉球民族に参加を呼び掛ける」と結んでいる。
独立論として、琉球民族独立総合学会の新しさはその設立趣意書が、(沖縄県)宮古語、奄美大島語、沖縄語、スペイン語、中国語、日本語、英語、グアム、の各バージョンが公開されている事である。(『琉球独立学研究』創刊号2014、参照のこと)
おわりに
歴史的に見て琉球は1609年の薩摩島津の侵略とそれに続く政治的経済的収奪、1872年と1879年の琉球国略取、1945年日本敗戦による米軍による長期占領と軍事基地の強要、復帰後も米軍基地の維持とオスプレイの配備、軍事演習の常態化など、苦難の連続であった。琉球の自主権や自己決定権の獲得、すなわち新垣金造の主張した主権在琉球人論のいわば公民権運動としてこのような境涯からの離脱と経済的自立、軍事基地ではなく武力によらない平和を求めることこそ琉球独立論の起こる原因である。ナショナルアイデンティティを確立するための切なる願いである。
参考引用文献
・新川 明 1996 『反国家の凶区』社会評論社
・比嘉康文 2004 『『沖縄独立』の系譜』琉球新報社
・笠原英彦 2001 『歴代天皇総覧』 中央公論新社
・紙屋敦之 1990 「薩摩の琉球侵入」琉球新報社(編)『新 琉球史』近世編(上)33-72ページ) 琉球新報社
・紙屋敦之 1990 「江戸のぼり」琉球新報社(編)『新 琉球史』近世編(下)9-36ページ) 琉球新報社
・喜納昌吉 2010 『沖縄の自己決定権』 未来社
・松島泰勝 2012 『琉球独立への道』法律文化社
・松島泰勝 2014 『琉球独立』 Ryukyu企画
・宮田俊彦 1990 『琉明・琉清交渉史の研究』文献出版
・仲宗根源和 1951「琉球独立論」『琉球経済』第10号、1-12ページ
・波平恒男 2014 『近代東アジア史のなかの琉球併合』岩波書店
・「沖縄独立の可能性をめぐる激論会」実行委員会(編)1997『激論・沖縄「独立」の可能性』紫推翠会出版
・沖縄大百科事典刊行事務局(編)1983 『沖縄大百科事典』上巻、中巻、下巻 沖縄タイムス社
・大城喜信 2013 「尚寧王の起請文と薩摩の掟15ヶ条」『うるまネシア』第16号、24-27ページ
・大城冝武 2014「虚構の「琉球藩」」『うるまネシア』第17号 86-95ページ
・大山朝常 1997『沖縄独立宣言』現代書林
・琉球新報社(編)『新琉球史』近世編(上)琉球新報社
・後田多 敦 2010 『琉球救国運動』出版舎Mugen
・『琉球経済』第10号(1951)
・『うるまネシア』創刊号(2000)
・『琉球独立学研究』創刊号(2014)
・「琉球民族独立総合学会 設立趣意書」2013年5月15日
おおしろ・よしたけ
沖縄キリスト教学院大学名誉教授。社会心理学、意味論、マンガ学、戦後沖縄社会思想。
著書に『日本植民地国家論』Ryukyu企画(2014)など。論文に「大学生における沖縄の社会状況の認知に関する研究;3」「沖縄キリスト教学院大学論集」第8号 41-49.など。
特集・次の時代 次の思考 Ⅲ
- 征韓論の戯画としての「ヘイトスピーチ」聖学院大学学長/姜 尚中
- 「朝日叩き」で保守・右派メディアが暴走ジャーナリスト/金子 敦郎
- 沖縄知事選挙 翁長氏圧勝の深層沖縄タイムス記者/知念 清張
- 琉球独立論の歴史と現在沖縄キリスト教学院大学名誉教授/大城 冝武
- 『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫)を読むグローバル総研所長/小林 良暢
- 憲法改正は安倍の見果てぬ夢明治大学兼任講師/飛矢﨑 雅也
- FRBの金融政策はどこへ向かう?経済アナリスト/柏木 勉
- 君は日本を知っているか ③神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長/橘川 俊忠
- [再録] 西欧世界の限界と戦後民主主義の国際的意義日本女子大学教授・本誌代表編集委員/住沢 博紀