論壇

「教育を受ける権利」の歴史性を考える

田中萬年氏の‟「教育」概念批判”の硬直性

本誌編集委員 池田 祥子

1.田中萬年氏の頑なな「教育」概念批判

田中萬年氏は「上からの支配」を徹底して嫌う人である。だから「自発的である」ことには無条件で賛美する。・・・私は、この点に好感は持っている。しかし、理論的に「支配←→自発的」という関係は、それほど単純ではないとも思っている。私たち自身が「社会的な生きもの」である限り、「強制」や「義務」から完全に免れることはありえないと思うし、「権力の支配と個々人の自由」とは絶えざる抗争の過程なのだと思うからである。

また、田中萬年氏は、研究熱心である。ご自分の拘りにはしつこくどこまでも詮索する。古今東西の文献・辞書・宣言文も一言一句参照し、必要とあらば、オーストリア(2007年)やフィンランド(2012年)にも出かけ、企業での労働訓練の実態や、「学力世界一」と言われる学校の実地見学までも行なっている。そのエネルギッシュな活力には瞠目させられる。日本の教育を憂い、子どもたちの行く末を案ずる情念は、おそらく日本の教育関係者の誰にも負けないくらい、深く熱いと思われる。

しかし、「労働問題の研究者」と紹介されている濱口桂一郎氏が、田中萬年氏の著書に対して、「『教育』という言葉に対するややマニアックなまでの追究」と遠回りな不満を述べているが(田中著書B(後述)、p.221)、それをもう少し端的に言い換えれば、田中萬年氏は「教育」という言葉を一方的に定義し、徹底して嫌悪し、さらにそれを「無頓着に」使用するモノ・者たち(日本国憲法・教育基本法の条文も法学者・教育学者すべて)に対して、頑な批判(拒否・忌避)を表明しているのである。

その前提には、氏の「教育」という言葉への次のような理解がある。

「教育とは?」・・・人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。/「他」とは年齢、知識、地位、権力のより多大な人または組織でしょうが、教育の法制度としての最後の責任は政府でしょう(p.26-27)。

またもう一つ、氏には、英語の「educate、education」への過大な思い入れがある。この言葉は、「自らの能力を、自発的に抽き出す」という意味なのであり、「上からの権力的な教育」とは相いれない、と氏は理解している。したがって、これまでの世界的な宣言や条約の中に見られる「education」の日本語訳が、つねに「教育」となっていることに納得できないでいる。

ところで、実は私自身、本誌第13号(2017・夏号)ですでに、氏の『「教育」という過ち』(批評社、2017、著書Aと表示)の「書評(「この一冊」)」を担当している。そしてその時、氏の「教育」理解の狭隘さについて率直に指摘させてもらっている。しかし、昨年、氏から新たな著書が贈られてきた。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」―誕生・信奉と問題』(V2新書・星雲社、2020.10、著書Bと表示:本稿の田中氏の引用はすべてこれによる)である。私の書評が少しは影響しているか・・・と、半ば期待しながら繙いたのだが、残念ながら、田中萬年氏の主張はまったく変わってはいない。通常ならば、ここで私自身も「残念だったな・・・」で終わる所だろうが、わざわざ贈呈された立場である。皮肉ではなく、それへのお礼の気持ちを込めて、再度、氏への批判を書き改めてみようと思う。

2.「教」という文字、「育」という文字

田中萬年氏は、今回の著書Bの中でも、「教」の文字の由来を述べている。

「教」の偏の「孝」は「子が親につかえること」であり、「親が子に指示すること」です。そして、旁(つくり)・・・はムチの意であり、合わせてムチで「教える」の語義でした(p.23-24)。

このこと自体、間違いではない。「教」には元々「強制」の意味が込められている。事実、中国の映画やドラマの中には、子どもが親の言いつけを守らなかったり、遊び呆けていたりすると、きまって細い竹の棒で足のふくら脛(はぎ)をピチピチ叩かれる場面が出て来る。あるいは英国の映画などでは、貴族の子どもたちの寄宿学校で学校の規則を守らない生徒、出来の悪い生徒は、皮の鞭でお尻を叩かれる場面も珍しくはない。

同じように「育」という文字も、漢和辞典によれば、下のにくづき(月)の上は「子」の文字が逆さまになっている形だという。実際のお産も通常は子どもが頭を先(下)にして降りて来るからだろう。ここから、「育」には、「逆さま」に生まれて来る子どもを、「頭を上にした」「真っ当な人間」に育て上げる、という意味が込められているという。

その意味では、「教」にも「育」にも、社会に新しく参加してくる子どもへの「強制力」は、文字成立時点から自明であったことは言うまでもない。

しかし、「民」という文字が典型的であるが、もともと「民」は「目」を射抜かれた人=眼の見えない人、の意であったと言われる。それが歴史の展開の中で、「君主」ではなく「民主」とされ、「民主主義」が一つの価値として選び出されていく。

それと同じく、「教育」もまた、時代の中で、どちらかと言えば「一方的かつ強制的に教える(教え)」から、「教えられる側」の受容・条件・態勢・意志・感情が配慮されるようになっていく。蒙昧な「民人」が「権利の主体」となっていくように、「教育」概念やそのあり様もまた、人権思想の登場や影響の過程で変化し、今では「教育←→学習」さらに「教育=学習」として、教え学ぶ双方の、対遇的な行為であると理解されているのではないだろうか。

蛇足ながら、田中萬年氏は「教育」概念には嫌悪を示しながら、「学習」概念には非常に好意的である。なぜなら、「学習」の側は、「学ぶ主体」からの自発的な行為であると理解されるからであろう。しかし、本誌13号で、私はすでに次のように述べていた。

「学ぶ」「学習」の「学」という文字も、権威ある書物を前にして子ども、子弟が坐している象形文字である。

また、続けて次のようにも述べていた。

「教える=学ぶ」はたとえ上下関係にあろうとも、すでにして他者を想定し、互いに協応関係にあるものであることを、忘れてはならない。「教える=教わる」「教え」「学ぶ・習う・倣う・真似る」など、学ぶ者の自発性を抜きにして「教育=学習」は、もともと成立しえないものだからである。

その意味では、田中氏が「教育の再定義に成功していない」と批判している鶴見俊輔の次のような教育観は、私からすれば至極真っ当なものだと思われる。

教育は、それぞれの文化の中で生き方をつたえるこころみである。それは、あたらしく生まれてくるものにとっては、まえからくらしている仲間をまねることからはじまる(p.35)。

つまり、いま一度繰り返すと、「学ぶ」「学習」ということ自体も、全くの「個人的な」行為ではなく、常に社会にある既存の価値や知識、あるいは崇拝する先達や「師」と仰ぐ者からの伝授を前提にしている、ということである。私たちは、「言葉」ですら、日常的な場や関係の中で、絶えざる「模倣」によって獲得していくものである。「教える」も「学ぶ」も、私の存在の基盤である自然や人間と無関係に成立するものではないし、人と人としては、相手の存在や主体を無視しては成り立ちようがない相互関係なのである。

3.「educate」をめぐる他動詞、自動詞

田中萬年氏は、すでに記した通り、「educate」はあくまでも「自己啓発」「能力開発」(人材開発計画の「マンパワー」を想起させる)という訳語が望ましく、「教育」という訳語は明らかな間違いである=あった、と確信している。それは、たとえば教育学者大田堯の次のような指摘が大きな拠り所となっているようである。

educationに中国の古典にある「教育」という言葉をあてたことは、現在からみると「誤訳」だったとも云えよう。いずれにせよ、それが近代国家の体裁をととのえる政権すじからの呼びかけによるものであるから、一般庶民にとっては違和感を伴うのは当然であり、外から、上からの外来語ないし官製語というべきだろう(大田堯『自撰集成Ⅰ』および田中、p.21)。

もっとも、大田堯はこれ以上のことは何も述べてはいない。

明治の初期に欧米語を集中的に和訳していった事実はよく知られていることだが、たとえば「社会」「哲学」「啓蒙」「権利」など、一度作られた言葉は、たとえ当初、違和感や不満を持たれたりしても(たとえば、rightの「権利」は「権理」であるべきだった!など)、その後、歴史の流れの中で、人々はそれなりの意味を付与し納得しながら流通させていったものだ。「教育」もまた然り、と私は思う。

しかし田中氏はしつこくこの大田氏の「誤訳」という指摘に拘っている。そして、英英辞典ではeducateには、他動詞だけでなく自動詞もあることを強調している(もちろん第一義としては「教育する」という他動詞である)。にもかかわらず、「教育」という言葉に「する」という動詞を付けた「教育する」はどこまでも他動詞である、「自動詞はないのです」と強調する(p.29)。

さらに、本書の中に、次のような(コラム5)を挿入している。

奇妙な「教育」関連用語:「自己教育」・・・「自己教育」が教育界で時々使われますが、「教育する」には自動詞は無いので、「自己教育」はナンセンスな日本語です。これは英語の‟own educatio(ママ、education?)”の直訳だと思われます。‟educatie(ママ、educate?)”は自動詞があり、自分で能力を開発する意となります。企業で使用されている「自己啓発」がより近いでしょう(p.80)。 

ただ、ここで専門的な文法問題に深入りする気はないが、一つだけ指摘できることは、もともと「自動詞/他動詞」の区別自体、相対的なものだということである。英語やフランス語でも、再帰代名詞(myself、himself)や代名動詞(se+動詞)を使った文章は多い。

I amuse myself by painting every Sunday. (私は日曜ごとに絵を描いて楽しむ。)

Je m’aime. (私は自分を愛している。)

また、日本語では、あたかも自動詞のように語る言葉も、英語などでは「他動詞の受動態」で表現される。ここでの「私」は動作の主体ではなく、客体なのだから・・・と。

I am satisfied with~ (私は~に満足させられている=~に満足している)

I was surprised at~ (私は~に驚かされた=~に驚いた) 

I was born.     (私は産み落とされた=私は、生れた)

さらに最近では、能動態か受動態か明確に判別の付かないような「中動態」が注目されている。「主体か客体か、能動か受動か、という白か黒かの二元論ではなく、主体であることと客体であることとのあいだに、能動と受動のあいだに、そのどちらともいえないような広大なグレーゾーン・・・」などと言われている(松嶋健『プシコ ナウティカ』世界思想社、2014)。

その意味では、「自己教育」という言葉も、当然成り立ちうるし、それを裏付ける事象も不思議ではない。

また、「教育する」という言葉自体、歴史的な流れの中で、かつては強権的な押し付け、あるいはかっちりとした型づくりのニュアンスを持つ instruct・instruction(英)、bilden・Bildung(独)、から「教育を受ける」側の主体性を考慮した educate・education(英)、erziehen・Erziehung(独)へと変わってきているのも事実だろう。

日本語でも、「教育する」に類似の用語はさまざまにあるが、極端な「洗脳」から、「教化」「訓示」さらには教える者と学ぶ者との協働作用を特別に表わすような言葉として「陶冶」「薫陶」「感化」もある。

「教育」が真に「教育」として成り立つためには、「学ぶ」側の主体性を無視しては不可能であることが自明とされるようになったからであろう。そのような意味で本来的に「教育=学習」なのだと思う。

4.「学問」から「教育」へ

欧米に遅れて「近代国家」を急ごしらえするに至った明治日本は、1872(明治5)年、いわゆる「国民皆学」を謳う「学制=被仰出書」を交付している。その内実を問わなければ、英国の初等教育法が1870年、ほとんど同時期であるのは驚きである。

田中萬年氏は、この当初の学制で、「教育」という言葉ではなく、もっぱら「学=学問」という言葉が中心であったことに着目し、かつ、当時の開明的思想家福澤諭吉の次のような指摘に大いに意を強くしている。

学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にあり・・・(p.43-44)。

「天はひとの上にひとをつくらず、ひとの下にひとをつくらず、と云へり」という有名な一節を紹介した福沢諭吉は、当時としてはすでに欧米の人権思想(自由、平等)を学んだ開明的な思想家である。その彼が、明治以前の士族の子弟への「教育」の実態とその言葉への批判として、学ぶ側からの「発育」という言葉を提示したことはよく分かる経緯である。「educate」の内包する「抽き出す」「発達する」を重視すれば、古典的な「教育」という言葉との齟齬を感じるのも不思議ではないからである。

しかし、もともと「学校」を表わす「スコーレ」という言葉は、「暇」という意味である。古代から、現実の労働に携わることのない有閑階級=支配階級の「学問所」であった。

したがって、近代国家成立に関わる「国民皆学」としての「国民教育」は、特権階級のためだけの「学校」とは明らかに原理を異にするものである。にもかかわらず、それを表わす言葉が即座には用意されない。したがって、やむを得ず、「学校」という言葉を初めとして、「学」「学問」がとりあえず用いられたのだと思う。

そして、「学制」から7年後の1879(明治12)年、「教育令」が公布される。近代の「国民教育」として「教育」という言葉が改めて採用されたのである。

しかし、田中氏は次のように述べている。

法令として初めて「教育」が用いられたのです。学問は富国強兵を目指す臣民の育成には適していませんでした(p.25)。

ここまでくると、田中氏の、「学問」は◯・「教育」は×、という決めつけがあまりに恣意的に見えて来る。「すべての子どもは学校にいくべし!」という「国民教育」制度は、(当初はもちろん、国家の側の一方的な要望ではあったが)国力を引き上げるためにも、国民の「読み書き」能力を身につけさせ、近代産業の働き手(労働者)を養成し、また徴兵される近代的兵士づくりとしても、重要事項だったのである。

もっとも、大日本帝国憲法発布の翌年、1890(明治23)年発布された「教育勅語」は、欧米とは異なる日本国家を、天皇を中心とした徳育強化によって図ろうとしたものではあった。しかも、「よく忠に、よく孝に」の臣民教育が、その後の日中戦争、太平洋戦争を通して、兵士や国民を支える大きな働きをしたことも事実ではある。しかし、田中氏のように、「臣民に権利が無かった時代、教育は天皇のために受ける義務でした」(p.47)と言い切るのは極論である。少なくとも、「学制」制定時、「学問は身を立つるの財本なり」として、国民の「立身出世」の階梯としての「国民教育」を整備したのも見落とされてはならないからである。

また田中氏は、大隈重信が閣議に提案した「事由書」に「国民教育」という言葉を用いていることに、「(これは)開明的な用語である点から極めて注目されます」(p.211)と評価している。少々、勘違いがひどくはないだろうか。

この「事由書」とは、キリスト教布教のために来日し自ら英語塾を開いていたフルベッキから欧米視察の必要性を献策され、1871(明治4)年ようやく閣議に提案したものだという。それこそ「学制」公布の1年前である。ここにはフルベッキから聞いた情報も入っているのだろう、各国の「国民教育」の実態が述べられている。つまり、「国民教育」とは、近代国家の成立とともに制度化された「国民皆学」の教育制度である。当然それぞれの国の人権思想のあり様によってその内実は様々ではあるが、「国民教育」という用語自体は歴史的なものである。

田中氏が評価する福澤諭吉ですら、「教育勅語」公布の2年後に「子弟教育費」を記し、さらにその中で子弟のために「良教育を買わんことを勧告する」と述べている(p.49)。このようにして、「教育令」「教育勅語」と続いて、良かれ悪しかれ「教育」という言葉は日本語として普及するのである。もちろんその意味する所は強権的なものから啓発的なものまで広く含まれるのではあるが。

5.「教育を受ける権利」の歴史性

田中萬年氏は、それでも以下のように述べて、「教育を受ける権利」誕生の歴史的な必然性は認めている。

今日、国民主権の時代に考えると「教育を受ける権利」は奇妙な日本語だと感じますが、その誕生時には創作される必然性があったことが推測されます(p.57)。

ただし、田中氏には戦前の日本社会は「天皇主権」、戦後は「国民主権」という図式が一切の揺れ、せめぎ合いを抜きにして固定されているようだ。しかし、実際は、戦前においても人権をめぐる抗争は熾烈に闘われているし、戦後の「国民主権」と言われる社会においても、国家権力、国民の権利の攻防はたえず陰に陽に行われていることに目を向けて欲しい。「戦前はすべて×、戦後はすべて◯」という訳には行かないだろう。

まず、片山潜は労働運動に従事しながら、「教育」の社会的意義を認め、それを人権思想の観点から「国家→国民」から「国民→国家」へと逆転させるのである。

教育なる者は社会的の者なり、貧富貴賤を問はず苟くも生命を文明世界に受ける者何人と雖も先天的に教育を受くべき権利を有す、教育は文明社会の賜なり、人類社会の公有物なり、何人と雖も之を私すべからず、去れば教育は一個の国家事業として国家自ら之に経費を負担し公立学校を設立して以て一般国民を教育するの義務あるなり(p.58)。

以上の片山潜の人権思想による「教育」理解の転換および「教育を受ける権利」の主張は、その後、幸徳秋水、および日本で初めてと言われる教員組合運動「啓明会」を組織した下中彌三郎にも継承される。

教育を受くることは、社会成員の義務ではなくて権利である。国家は、均等に、国民教育を施設する義務がある(p.65)。

さらに、下中彌三郎は「学習権」をも主張し、「教育の機会均等」の実現も言葉化している。この論点に関しては、田中氏も「今日においても遜色は無いと言えます」(p.65)と認めている。しかし、「教育」という言葉を固定化し嫌悪する田中氏にとって、これら「教育」の民主主義的転換、人権観点からの国家―国民の「権利―義務」の転換も、結局は次のように批判?されてしまうのである。

「教育」を廃止し学習に転換すべきとの論になっていません。また、「教育は必要である。教育は尊重せねばならない」として教育を擁護する観点がありました(p.66)。

田中氏には、言葉そのものも時代の中で、その意味内容が徐々に、あるいは急激に変遷していくことが理解できないのだろうか。また逆に、時代遅れになって、使うのが躊躇われる言葉も一方にはある。私にとっては決して使いたくない「父兄」「子弟」(家父長制的男性中心主義)や「わが国」(愛国心奨励)という言葉を、田中氏は本書の中で何度も用いている。この辺りの言語感覚の違いも大きいのだろうか。

6.「教育への権利」(right to education)と「教育を受ける権利」(right to receive an equal education)

田中耕太郎といえば、法哲学者でありながら、戦後まもなく文部省に入り、1946年5月第1次吉田内閣の文部大臣を務め、その後の第2代最高裁の長官および砂川判決(合憲)としても有名である。その田中耕太郎の「教育権」論を、田中萬年氏は、まずは「明解」と評している。

田中耕太郎の「教育権」論の概要は次の通りである。

教育権という一種の基本的な権利が存在すること、それは両親に属する奪うことのできない、自然法上の権利であること、・・・国家その他の教育担当者の有する教育権は、両親のこの権利から派生したものであり、両親以外の教育者は両親の受託者たる地位を有するものと観念せられることである(p138)。

しかし、田中萬年氏はこれまでの自らの「教育」概念理解から、次のように批判する。

氏の論は権威者がその他の者を教育することを前提とした、権威者の権能としての教育であり、主権在民の思想とは反する、ということです(p.139)。

これまで見て来たように、「権威者」という言葉も田中萬年氏には禁句なのだ。たとえ「主権在民」の社会といえど、さまざまな文化の領域での「権威」はなくならないだろうし、政治世界で振るわれる「権力」は、常にいかに「権威」を保持しているかが問われるというのに。

いま一つ、田中萬年氏には、世界人権宣言に見られる「Everyone has the right to education」の歴史的な理解が不十分なようだ。もちろん「education」には田中氏が主張する「学習・育成」の意味もあるが、普通一般の「教育」という意味は無くなってはいない。「the right to education」とは、近代以降、国民は「教育への権利」を持っている、という意味である。「教育への権利」とは、「学校をつくる自由=教育する自由」および「教育を受ける=学ぶ」自由と権利のことである。

アメリカのように国家成立以前に、各コミュニティが「学校」を設立していった例もあれば、イギリスのように、国家(政府)や教会とは別個に、自由な(private)学校(私立学校)を設立していった例もある。

しかし、日本では、とりわけ戦前では国民の「教育への権利=自由」は自覚化されず、「教育=国・官の仕事」とされた。教師は「教官=国の官僚」であり、教科書も「国定化」され、「私立学校」は「正規の学校」とは見なされなかった。

それゆえに、戦前、上記の片山潜や下中彌三郎に見るように、「義務教育」を、「教育を受ける義務」ではなく、国民および子どもたちの「教育を受ける権利」と反転させるのが精一杯だったのである。

こうして、戦後は(急きょ!)「民主主義国家」になったためなのか、憲法の教育条項には「教育を受ける権利」のみが規定された。「教育」総体に対する「国民の権利と自由」はあまりにも不十分であり、教師の教育行為は、現在なお、つねに「政治的中立」という欺瞞的なイデオロギーによって国家的に制約され続けている。

その意味では、日本国憲法や教育基本法の「教育を受ける権利=the right to receive an equal education」自体が問題なのではない。問題は、「教育」総体に対する国民の権利が十分に自覚化され、法定化されていないことなのだと思う。

この辺りのことを、田中耕太郎の「教育権」論を引き継ぎながら、堀尾輝久はより詳しく展開している。

私は「教育を受ける」という表現にも問題があると思っています。少なくともそれは「教育への権利」という表現の方がよいと思っています。・・・人権としての「教育への権利」は、当然「受ける」ということも入るし、「要求する」ということも入ります。要求し、受け、そして押しつけられたものに対しては「拒否する」という内容を持っているのが、本来の「教育への権利」なのだと思うのです(p.151)。

理屈としては至極明解だと思う。しかし、「教育」そのものへの否定、拒否しかありえない田中氏にとっては、堀尾説は、「理解しがたい」「難しい」「意味が読み取れない」シロモノでしかないのである。

最後にもう一度、田中萬年氏の「教育とは相いれないeducation論」を確認してみよう。

「教育」は教育を施す立場から受ける者を集団的に指導することであり、個性の尊重とは反することを求めているのです。個性とはもって生まれたものであり、当然一人ひとり異なります。異なるから個性です。その個性を更に伸ばすためには集団的な一斉的な教育では不可能です。それは一人ひとりの発達する方向、開発する方法が異なるはずです。その可能性は個別学習支援によってのみ保証できるでしょう(p.173)

ここには、田中氏の「教育」への頑なな理解に加えて、「個性」ということや、教育=学習形態や方法の多様性についての理解も、驚くほど一面的である。人間(子ども)は、他の人間との関わりの中でこそ、自己発見も可能となり、相互に育ちあうことも可能となるだろう。偶々「コロナ」の時代、「3蜜」が警戒されて、学校もオンライン学習を中心とする個別学習を余儀なくさせられている。しかし、小、中、高、大のどこでも、「対面」や「密の関係」の重要さもまた改めて認識されている。

「教育=学習」とは、たえず教師と生徒・学生の相互作用や試行錯誤、さらにまたともに学ぶ子ども同士の間の教育力=感化力もまた見逃せない要因なのではないのか、もちろん常にプラスに作用するとばかりは言えないが・・・。

最後に誤解されないように、私自身の堀尾輝久批判も述べておきたい。堀尾輝久の「教育権論」は、民主的な国民を想定し、理論としては完結しているかに見えながら、現実の日本の文部省の支配的な教育行政の実態や、教師への管理強化、大学入試を中心とする日本の教育内容の全体的な統制等などの現実には十分に切り込めないという決定的な弱点がある。

このように、戦後日本の教育には問題が多く残されている。たとえば、戦前の行き止まり型=複線型学校体系が、「経済的差別、女性差別」として批判され、戦後は、民主的・機会均等を謳う「単線型学校体系」が中心となり、やがて高度経済成長期には、企業―学校―家庭がともに「いい学校・いい大学」へと進学競争を駆り立てることになった。家庭のなかの「教育ママ」さらには「教育パパ」も珍しくなくなった。戦後教育が中心にした「普通教育」とは、「受験のための教育」であり、ひいてはそれが「いい企業に就職する」ための不可欠な教育内容でもあったのだ。

田中萬年氏が他方で嘆く「職業(訓練)教育」への軽視ということも、ある意味では、この「企業―学校―家庭」の三位一体の産物といえるだろう。

今後は「教育=学習」と捉えなおした上で、教育行政のあり方(教育内容、教員採用など)、教育委員会制度、教員養成、子どもたちの学校選択・カリキュラム選択・教員の選択等など、考え直すべき課題は多い。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

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