特集● 新自由主義からの訣別を   

危機の時代に試される知性

小林秀雄、加藤周一、村松剛とポール・ヴァレリー

関東学院大学客員研究員 神谷 光信

はじめに――3人の文芸評論家

ポール・ヴァレリー(1871‐1945)は、フランス第三共和政を代表する知性といわれた詩人・批評家である。昭和のはじめから我が国でも盛んに読まれ、完結しなかったとはいえ、戦時下に全集の刊行が企画されている。近年は代表作の新訳が行われるなど、21世紀の今日でも多くの読者を持つ文学者である。ヴァレリーの影響を受けた3人の文芸評論家、小林秀雄(1902‐83)、加藤周一(1919‐2008)、そして村松剛(1929‐94)をとりあげて、危機の時代における知性について考えてみたい。

彼らの世代差は重要である。太平洋戦争の頃、小林はすでに文芸評論家だったが、加藤は東京帝大学生、村松は旧制中学生だった。当時は、戦後に公職追放される文芸評論家保田與重郎(1910‐81)が日本浪曼派の中心人物として活躍していた。本稿では、戦争と保田という視点も併せて持つことにしよう。

小林秀雄と『ヴァリエテ』――批評の武器庫

ヴァレリー研究者として著名な清水徹(1931‐)は、日本のヴァレリー受容に関する論文において、小林とヴァレリーについて詳細に記している(「日本のおけるポール・ヴァレリーの受容について――小林秀雄とそのグループを中心として」)。以下、この論文に教えられながら考察を進めたい。

東京帝国大学にフランス文学講座が完成するのが1929年のことである。主任教授が辰野隆(1888‐1964)、助教授が鈴木信太郎(1895‐1989)である。遠藤周作(1923‐96)が学んだ慶應義塾大学に永井荷風(1879‐1959)が着任してフランス文学科が開かれたのは1910年であった。当時の東大講義が、フランス本国の思潮に敏感な私学と比較すると保守的なものであったと清水は指摘している。小林秀雄、中島健蔵(1903‐79)、佐藤正彰(1905‐75)らが入学してきた1925年前後からは、東大でもボードレールからNRF派までの幅広い作家への関心が高まっていったという。

西川長夫(1934‐2013)は、日本近代におけるフランスについて論じた文章のなかで、「革命」に通ずる自由主義思想が問題視されて政権から遠ざけられるようになり、日本の体制にフランスが組み込まれることがなかったという(『日本回帰・再論――近代への問い、あるいはナショナルな表象をめぐる闘争』)。大学にフランス文学講座が確立し、制度的エリートとそれが結びついた後も、永井荷風に代表されるデカダンス的側面が、日本におけるフランスのイメージと結びついていたというのである。興味深い指摘といえよう。

清水は、小林秀雄がヴァレリー『ヴァリエテ』と出会った時点を、我が国における「真の意味でのヴァレリー受容」とする。ランボーと出会った小林は、「ヨーロッパ近代文明の全体からきっぱりと訣別しようとする徹底的な否定性」を知った。そして「自分を熱中させた著作を、すぐさまみずからの批評的武器としてきわめて効果的に引用し、あるいは彼自身の文体と思考様式にしたがって変容して借用するのが」戦術であった小林にとって、ヴァレリー『ヴァリエテ』はとりわけ重要な書物だったというのである。「批評するとは、他人の作品をダシに使って自己を語る事である」という名高い言葉は、清水に拠れば、「私はあえて、彼の名のもとに自分を考察し、私という人間を利用した」というヴァレリーの言葉の「東京弁啖呵調翻訳」なのである。小林の「Xへの手紙」もまた、ヴァレリー「友への手紙」から着想したものであった。

しかし、意識へのまなざしをヴァレリーに学びつつも、ヴァレリーの純粋意識とは正反対な「批評家自身の個別的経験と融合した対象の個別的な真実への凝視」へと小林は進んでしまったという。とはいえ「結果としてヴァレリーの方法とどれほどはなれてしまおうと、小林のこうした批評論が、技術批評か随筆風の印象批評、あるいは批評に科学性を導入して社会革命実現のための方途を文学の側から指示しようとするマルクシズム批評が大勢を占めていた1920年代においてはどれほど新鮮であったか」と清水は指摘し、日本におけるヴァレリー受容は、詩よりも批評に大きな影響を及ぼしたことを強調している。

加藤周一の感動――保田與重郎の対極にある散文

ヴァレリーに大きな影響を受けたのは、加藤周一も同様であった。岩津航(1975‐)の論文「加藤周一とヴァレリー――知性の仕事としての象徴主義」に拠って考えることとしよう。加藤とヴァレリーとの出会いは、旧制高校時代の1940年に、翻訳で『ヴァリエテ』(中島健蔵、佐藤正彰訳、白水社、1932)を読んだことであった。岩津は、加藤が「文学が空想的な物語や感情の吐露ばかりでなく、世界を認識する意識の構造さえも対象とし得ることを、ヴァレリーを通じて発見した」という。

保田與重郎を中心とする日本浪曼派の「大仰で無意味な言葉」が加藤の周囲には溢れていたが、「私にはヴァレリーの散文がその正反対の、正確で明瞭な思考の反映のように思われた」という加藤の言葉を岩津は引用している。加藤は戦時中の1942年、マチネ・ポエティクというグループを中村真一郎(1918‐97)、福永武彦(1918‐79)らと結成し、朗読会などを開いて、戦争翼賛的な軍国主義の思潮から身を守ろうとした。

戦後になって加藤は、雑誌『世代』にエッセイ「新しい星菫派に」(1946)を書いて、苛酷な現実から逃避していた同世代を強烈に批判した。学生が現実逃避をする際に、日本浪曼派、柳田国男(1875‐1962)、折口信夫(1887‐1953)、京都哲学がそれを助けるであろうと加藤が指摘していることに岩津は着目し、「ヴァレリーは、加藤にとって、ロマン主義を原理的に打ち破るための象徴主義の体現者だった」と見なす。ヴァレリーは詩人であるにもかかわらず優れた批評家だったのではなく、詩人であればこそ批評家だった。「詩とは、単なる美辞麗句ではなく、世界の認識原理であり、かつそれを言葉によって表現することである」と岩津はいう。そしてそれは「普遍」への道であった。

加藤の世界認識の基本的枠組が唯物史観であると岩津は指摘している。また、岩津は加藤の『文学とは何か』(1950)が、「フランス文学=普遍的、日本文学=特殊、という二項対立的な思考」によって書かれていることにも読者の注意を促している。

加藤が藤原定家を論じる際にも、ヴァレリーに学んだ象徴主義が働いていることを岩津は指摘しているが、西川長夫は前掲書で、マチネ・ポエティクの欧化主義が、近代西洋と平安王朝とを結びつける必然性について次のように説明している。すなわち、『マラルメ詩集』と『新古今和歌集』は、象徴主義によって結びつけられる。どちらも「現実脱却によって達成された美学的世界主義」だからである。天皇制が「現実の権力機構であると同時に美的宗教的制度である」ことにより、象徴主義美学と「癒着」しやすいところがあったと西川はいう。軍隊が真空地帯であったならば、マチネ・ポエティックもまた[文化的]真空地帯であったと彼はいう。そこには現実からの遊離が認められるのである。

加藤自身の論理に従えば、岩津の分析するとおりであろう。岩津も強調するように、戦争中にヴァレリーと出会った加藤にとって、いわば正気を保つための支えがヴァレリーの透徹した知性としての象徴主義だった。けれども、西川が指摘するように、現実を理性的に把握しようとする加藤の努力は、必ずしもその努力が実を結んだわけではなかったのである。

村松剛――研究対象としての知識人

それでは、村松剛におけるヴァレリーとはいかなる存在だったのであろうか。村松は敗戦時に16歳だった。加藤より10歳年下である。村松と同世代の清水徹は、前掲論文で、小林秀雄らのヴァレリー訳業に導かれて批評家ヴァレリーに惹かれて研究を志したと述懐している。村松も10代で小林訳ランボーに「逆上」したと書いたことがある(小林秀雄――「無垢」の思想家)。彼もまた、清水と同じように、小林を経由してヴァレリーに接近したものと考えるのが自然だろう。

村松は浩瀚な伝記『評伝ポール・ヴァレリー』(1968)を著したが、この書物の本文中にも跋文にも、ヴァレリーとの出会いについては語っていないのである。とはいえ、敗戦後の混乱のなかで、第一次大戦後のヨーロッパ文学が最も魅力的に見えたので、フランス文学科に進んだとは、対談の席上で語ったことがある。「明治に私が生まれていたら英文学科にはいっていたでしょうし、昭和のはじめに青春を送っていたら、またべつの学科にはいっていたかも知れませんけどね」(村松剛・勝田吉太郎『対談 一つの時代の終りに――世界史のなかの近代日本』)。

私のみるところでは、加藤のように、世界認識のための知性として村松はヴァレリーを受け止めてはいなかった。まず話を象徴主義に拡げて考察してみよう。ナチュラリズムとサンボリズムのうち、前者が日本の近代文学に及ぼした大きな影響は、特に私小説の伝統を見るときに明らかだが、サンボリズムはほぼ同時期に日本に移植されながらも、ナチュラリズムに匹敵する影響力を持たなかった。このような認識が、村松の根底にある問題意識である。そこから『文学と詩精神』(1963)に収録される象徴主義に関連する諸論文が書かれたわけだが、象徴主義が言語による新たな「天地創造」であるという認識が、彼には大きな啓示としてあったように思われる。

大学院時代に『世代』に執筆した三島由紀夫論「贋金づくりへの期待」(1952)で、三島文学を肯定的な意味で「贋金づくり」と見なしたのは、日常的な現実世界をなぞるだけの私小説的伝統と切り離された方法意識を三島が持っていたからであった。言語によって人工的な世界を創造する三島の方法に、広義の象徴主義の精神を見たのである。したがって、象徴主義は[現実]世界認識の方法というよりは、むしろ非現実世界の創造と結びついていたのである。

ヴァレリーに話を戻せば、村松が関心を寄せたのは彼の知性という以上に、肉体を持ったヴァレリーその人自身であったように思われる。加藤がそうしたように、ヴァレリーに倣って世界を認識しようとした形跡が、村松にはないからである。そもそも村松の文芸批評は、作品論よりも作家論に主眼が置かれる傾向がある。彼の代表作は、『評伝ポール・ヴァレリー』『評伝アンドレ・マルロー』『三島由紀夫の世界』と、伝記的研究が多いのである。

明治維新の数年後にヨーロッパに生まれ、太平洋戦争で日本が敗北したその年に歿した一人のフランス人。小林にとって、ヴァレリーは意識的な批評を日本で初めて自覚的に実践するための手本だった。加藤にとって、ヴァレリーは戦時中の低劣な世の中で正気を保つための杖であった。村松にとっては、19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパで透徹したまなざしを世界に注ぎ続けたところの、研究対象とするべき知識人であったのだ。

1895年、ヴァレリーは「西洋の武器」で武装した小国日本が大国中国[清]を破ったことに衝撃を受けている。また、第一次世界大戦後の論文「精神の危機」には、ヨーロッパは「現実においてそうであるところのもの、すなわち、アジア大陸の小さな岬になってしまうのだろうか」(桑原武夫訳)という名高い言葉もある。ヴァレリーが国際連盟の仕事に情熱を傾けたことも、村松は特筆している。ヨーロッパから外に出ることがなく、20世紀という時代を透徹したまなざしで認識しようとしていた知識人ヴァレリーに、村松は多大の興味を抱いていたのだ。

自分をヴァレリーと同一視する学者たち――遠藤周作の批判

ところで、遠藤周作は、小説『留学』(1965)において、登場人物のひとりに興味深い台詞を語らせている。パリに来たばかりのフランス文学者に向かって、フランス滞在が長い画家が「君たちはヴァレリイを訳する。すると、君たちはまるで自分がヴァレリイと同じ一流の人間だという気分になっている」と皮肉をいうのである。

言われた大学講師はどきりとするが、画家の言葉を反芻しながら胸中で呟く。「外国文学者は生涯、創造という仕事をやりはしない。他人の創造を翻訳し、解説するだけである。批評家とも本質的に立場が違う。批評家ならば他人の創造した作品をだしにして、己の何かをやはり語っているのである。〔……〕しかし外国文学者が自分を語る方法が一つある。それは彼が外国の数多くの文学者から誰を選んで研究の対象にしたかということだ。ヴァレリイを半生の研究対象として選んだ一人の仏文学者は、ヴァレリイを選んだということによって、自分を語っている」と。

新潮文庫版『留学』(1968)の巻末解説は村松剛である。「外国文学研究家としてのこの主人公の悩みは、ぼくも同じ職業にたずさわるものとして共感できる。外国の文学の研究といっても、ことばも伝統もちがう以上、おのずからそこには限度があるだろう。[原文改行]外国文学者とは何なんだろう、と田中[主人公]は呟く。たいていの外国文学者が、一度は胸にうかべたことばではないか、と思う」。村松の筆致は珍しく殊勝だが、象徴主義を自らの世界認識の原理にしようとした加藤と違い、ヴァレリーを「研究」する者であるという村松の自己認識が明白になる記述といえよう。

村松は、すでに1962年春頃、三島由紀夫から、大岡昇平(1909‐88)、福田恒存(1912‐94)、吉田健一(1912‐77)、中村光夫(1911‐88)といった「鉢の木会」のメンバーについて、「なぜこの人たちは偉いんだろうかって考えてみたんだよ〔……〕要するに外国語ができるっていうことなんだね。それだけなんだよ」と言われたことがあった。一瞬、皮肉を言われたのかと村松は思った。「外国語ができて西洋の文学、思想にも多少とも通じていることがいけないのであれば、『偉い』か偉くないかはべつとして、ぼくも同罪になるではないか」(『三島由紀夫の世界』)。

もっとも、三島自身も外国語はできた。彼は英語のみならず、フランス語でも外国人記者のインタビューに応じている。彼はおそらく非西洋の近代知識人が持つ宿命について語っていたのである。特にヨーロッパを範とする度し難い近代主義について語っていたのだ。「日本の知識人は外国語を学ぶことによって知識人になった。ヨーロッパのどの国語を学ぶかによって、その知識人が社会においてたどるべきコースだけでなく、彼の思考法や文体までも決められる傾向は、現在もなお、続いている」と西川長夫は前掲書で記している。

村松は外国文学者であるとともに批評家であった。これは清水徹や菅野昭正(1930‐)、阿部良雄(1932‐2007)といった、村松と同世代の東大仏文出身のフランス文学者たちに共通するものである。彼らはやはり、小林秀雄の流れを汲む人々であったのだ。加藤周一が、和製ヴァレリーと見なされることに苛立っていったと岩津航は記し、それは加藤が「ヴァレリーに深く学びながらも、ヴァレリーを守護神のように振り回したくなかった」からであるとしている。

おわりに――保田與重郎との距離

加藤が戦時中に日本浪曼派の「大仰で無意味な言葉」の対極にあるものとしてヴァレリーの散文を捉えていたことは既述のとおりである。ここで日本浪曼派というのは、要するに保田與重郎(1910‐81)と言い換えていい。保田は戦後に公職追放され、ジャーナリズムから離れざるを得なかったが、橋川文三(1922‐83)の『日本浪曼派批判序説』(1960)以後、再評価が行われ、1980年代に40巻の全集が刊行されている。

村松剛は「保田のあの文章には馴染めない、入っていけないんだ」と語ったと大久保典夫(1928‐)が証言している(『昭和文学への証言――私の敗戦後文壇史』)。これは知性の人村松をよく表す述懐である。彼の文章には「大仰で無意味な言葉」がないからである。村松は三島由紀夫と親しかった人で、三島は少年時代に保田に親炙していたが、村松は戦争中も「たいして読んでいなかった」と座談会で語っている。

ヴァレリーから出発した小林秀雄が、次第にその対極にある保田與重郎に近づいていったことは興味をそそられる事実である。佐伯彰一(1922‐2016)は、「この両者、敗戦後とくにあの激動の六〇年代以降、目を見張るばかりの急接近――といっても、とくに小林さんの方が、思想、文学上の好みから、あるいは暮らしぶりの上でさえ、保田流儀に急接近されたように思われるのだ」という(『回想――私の出会った作家たち』)。

加藤周一は「ゴートフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」(1959)が小林秀雄批判だったことを、小林歿後の1992年、同書の岩波同時代ライブラリー版追記で明らかにした。この評論の根底には「彼らの芸術至上主義は、なぜナチの、あるいは日本軍国主義の、国家との『アイデンティティ』へ彼らを導いたのか。そこに働いていた内的論理は、どういうものであったか」という問題意識があったという。

「小林秀雄は、歴史を死児を懐かしむ母親の心情に還元した。死んだ息子が軍国主義者であったか平和主義者であったかは問題でない。その立場からは一五年戦争の批判は成りたたないはずだろう。〔……〕歴史を、あるいはその少くともその一面を、価値実現の過程とみなさない立場は、一方で、民主主義の否定へ通じ、他方で、芸術的創造の場としての民族共同体の強調へ向わざるをえなかった」というのが加藤の分析である。

1959年の別稿「戦争と知識人」では、加藤は小林の名を挙げて、「美的体験が〔……〕つきつめられ、絶対化され、歴史と対立し、歴史を否定し、それ自身の完結性のなかに人間の問題のすべてを吸収しよう」ということになれば、「つまるところいくさがどうなろうと構わぬということになる」と述べている。つまり戦時下の小林の態度の背後には、芸術を絶対化する美学的立場という「相当な思想的根拠があった」のである。加藤はハイデガー、マイネッケ、ゴットフリート・ベンらを「静かな協力者」と呼ぶ。彼らはナチス政権の「しずかな支持」者だった。それはそのまま小林のことだったのである。

保田與重郎は、戦時下日本政府の「静かな協力者」ではなかった。彼は時代の波に乗り活躍していた人だったからである。その保田に、戦後の小林が徐々に接近していった事実を、われわれはどのように受け止めるべきだろうか。危機の時代における知性の在り方として、民主主義を脅かす為政者の声高な支持者となるのか、それとも「静かな協力者」になるのか。これは過ぎ去った歴史の問題ではなく、きわめて今日的な現在の問いであろう。

かみや・みつのぶ

1960年生まれ。日本近代文学専攻。博士(学術)。著書に『須賀敦子と9人のレリギオ』(日外アソシエーツ)、『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究』(関西学院大学出版会)など。

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