特集● 新自由主義からの訣別を   

愚かさの複雑性についての考察

コロナ禍一年、人間はどこまで賢くなったか

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

愚かしさゆえの間違いの数々

昨年四月、新型コロナウィルス感染症蔓延の危機に際して、本誌は「新型コロナウィルス肺炎緊急事態」という声明を発したが、その中で危機を増幅させている人間の愚かさについて、次のように指摘した。「危機をもたらすものは、直接的には未知のウィルスに違いないが、それを増幅させているのは人間の愚かさである。根拠のない希望的観測、硬直した先例主義、権力欲、自分だけ良ければという利己主義、差別・偏見、呪術的信念による現実逃避、意識的・無意識的な情報の歪曲・隠蔽・操作、善意に装われた欺瞞等々の愚かさとそれを隠蔽しようとする小賢しさが、対応の間違いや遅れを招き、事態をさらに悪化させる。ウィルスには意志はない。あるのはただ自己増殖をつづけるという『性質』だけである。その単純さが、人間の愚かさを白日の下にさらけ出しているのである」と。

この時、念頭に浮かべていた事態は、中国武漢で起こっていた事態の把握の不十分さと対応の遅れ、クルーズ船内感染拡大対策の混乱、水際対策の失敗、全国一斉休校・アベノマスクなど「側用人政治」の破綻、給付金・支援金支給の不手際、習近平訪日・東京五輪関連日程の優先配慮による感染対応の遅れ、検査・保健・医療体制の整備不良、自治体と中央政府との曖昧な関係、専門家会議の構成と役割の不明確さ、等々であった。実際、政治・行政の間違い、失敗は数え上げればきりがないほどであった。

さらに、テレビ・新聞・週刊誌などのマスコミに少なからず現れたおかしな情報の数々もあった。風邪やインフルエンザとたいして変わらないから心配することはないとか、マスクは予防には効果はないとか、腕で口を覆うとくしゃみで飛沫が飛ぶのを防げるとか、夏になれば感染の勢いが収まるとか、うがい薬がコロナウィルスに効くとどこかの知事が記者会見で宣伝したのはもう少し後だったか、とにかく今から考えれば糞の役にも立たない情報が次々に垂れ流された。

そういう情報を流した専門家と称する当人たちは、今でもテレビに登場したりしているが、彼らから反省や自己批判の言葉を聞くことはない。ましてや、出所不明の情報が飛び交うネット上では、真偽不明どころか明らかにでたらめで有害な情報が連日のように垂れ流された。アメリカ合衆国では、大統領も惑わされていたようであるが、消毒液服用をすすめる情報が流され、実際に服用して死者が出たという。

日本では、そこまで有害な情報はなかったようだが、誤りを含んだ玉石混交の情報の氾濫が人々の不安を煽り、マスクや消毒液の買い占め、トイレットペーパーや米など食料がスーパーマーケットの棚から消えるというような事態も発生した。また、自粛要請という形ではあるが感染防止のための行動制限やマスク着用などの予防策の勧奨などが実施されるようになると、市民同士の相互監視や過干渉などのトラブルが発生した。さらに、感染してしまった患者や感染の危険にさらされながら治療に当たっている医療従事者やその家族にまで、排除・攻撃・差別の矛先が向けられるという事件も多発し、日本社会の根深い差別構造が浮き彫りになった。

こうした誤った愚かな行為は、調査・研究の遅れや正確な情報の不足などが原因となっていることも少なくなかった。したがって、調査や研究が進み、コロナウィルスの性質や病気としての感染症の実態が明らかになり、感染防止のためになすべきことが分かってくると誤った愚かな行為も消えていくはずであった。実際、医学界では世界各地の研究成果が次々に発表され、その論文の数は万の単位を越え、数十万本の多くを数えるに至ったという。

さらに、ワクチンの開発も驚異的スピードで進み、感染拡大にストップがかけられる可能性が見えてきた。また、特効薬こそまだ発見されていないが、症状に合わせた治療法も進歩し、重症化率や死亡率を低下させてきたといわれている。だから、誤った愚かな行為は、当然、なくなるか、消えていくと予想された。しかし、事態は必ずしもそういう方向には進んでいかなかった。

改善の兆しは見えたが

たしかに、知識が増え、正しい情報が行き渡るようになると、一般的には迷信まがいの酷い対応は影を潜めてきた。「コロナウィルス感染症などウォッカを飲めば治る」と豪語していたベラルーシの大統領のような強権的独裁者や神の力に頼る頑迷な原理主義的宗教者のような例外は消えることはないが、世界の多くの国や地域では、それでも検査の必要性やマスク着用の効能についての認識は改善の方向を向き始めた。

コロナウィルス感染症の危険性を過小評価し、マスク不要論を唱えていたアメリカ合州国大統領であったトランプも、同じように不要論を唱えていたブラジルのボルソナーロ大統領も、自らコロナウィルス感染症に感染し、不承不承ながらマスクの効用を認めざるを得なくなった。また、最小限の社会的規制にとどめ、市民生活の自由の尊重を掲げていたスウェーデンの当局もマスク着用を推奨するという方向に舵をきった。

結局、アメリカもブラジルもそれぞれ世界一位と三位の感染者を出し、両国の死者は合わせて七十万の多数を数え、専門家の科学的意見を無視した政府の感染症対策への厳しい批判にさらされたことによる方針転換であった。また、スウェーデンの場合も、人口比的にいえばアメリカやブラジルに近い感染者や死者を出し、国王すらその対応の失敗に言及せざるを得なくなったのである。

世界的には、マスクについては効用論・不要論から、着用強制の可否の議論に論点が移動していったと見てよいであろう。ヨーロッパ諸国では、感染防止のための様々な規制は、法的根拠を持たせた強制という形で行われているが、営業制限や外出制限などは補償とセットで行われるのに対して、公共の場でのマスクの着用は罰金など刑罰による身体的拘束と捉えられ、それだけ個人の自由の侵害と非難される傾向がある。

また、ハグなどの肉体的接触もふくめたフェースツウフェースの関係を重視する文化的背景もマスク着用への忌避感を強めているという面もあるかもしれない。したがって、マスク着用強制に対する反発は、アメリカのバイデン新大統領のマスク政策に対するトランプ派の反撃のように結構根強く続く可能性はあるが、感染拡大防止上の効果についての議論はほぼ終わったとみてよいであろう。

こうした欧米のマスク事情に対して、日本の場合は相当異なる状況であった。マスク着用についての忌避感はほとんどなかった。マスクの着用が奨励されることはあっても、制度的な強制は問題にもならなかった。マスク着用についての同調圧力やマスク警察的動きに対する批判はあっても、着用すること自体についての反対論はなかったと言ってよい。むしろ、その効用について、自分の感染を防止する効果よりも、飛沫を飛ばさないことによって他人に感染させない効果の方が大きいという評価さえされていた。

また、その効果は、どのようなマスクが大きいかということに関心が向けられてもいた。材質として、不織布か、布か、ウレタンか、とか、二重にした場合の効果は、というようなことが問題にされた。この点については、日本は欧米諸国に比べてはるかに科学的合理性に基づいた議論がなされていたと言ってよいであろう。

このようにマスクについては日本では、科学的合理的な対応がなされたが、PCR検査の問題になると状況は一変する。欧米では、早くからPCR検査によってコロナウィルス感染者を見つけ出し、感染状況を正確に把握することによって感染防止対策の有効性を高めようとする努力がはらわれてきた。

どんな対策も感染状況のできるだけ詳細かつ正確な情報を集めることから始まる。そして感染状況を把握する最善の方法は、できるだけ広くPCR検査を実施することである。抗体検査や抗原検査などの検査方法も開発されてきたが、最も確実に感染者を特定する方法はPCR検査であることは、専門家の間でも広く認められてきた科学的事実であった。この検査の実施について積極的な欧米諸国にたいして、日本は何故か消極的であったし、現在でも政治家の口先ではともかく、実際においてはその消極的姿勢は変わっていないように見える。

日本にもコロナウィルス感染症が蔓延を始めた当初から検査の拡充を求める声がなかったわけではない。しかし、コロナウィルスの不意打ちを食らった格好の日本では、検査能力そのものが貧弱で拡充しようにもすぐに要求には答えられないのが実状であった。その貧弱さは、今から見れば驚くしかないほどであったが、検査の拡充をめぐる議論もとんでもなく的外れなものであった。

いわく「PCR検査の精度がたかくないので、偽陽性がでてしまう」、「検査は、検体採取時点での状態しかしめさないので、感染していないことの証明にはならない可能性が高い」、「感染していないことを証明してくれという人が押し寄せて混乱を招く」、「無症状の感染者を大量にあぶりだせば、医療の逼迫を招く」、「感染状態を正確に知るためには、毎日検査をするしかないが、膨大な費用が掛かり、ほとんど不可能である」等々、貧弱な検査体制の問題を隠蔽するためにとってつけた言い訳にしか聞こえないような議論が横行した。

検査を求めて人々が殺到すれば保健所の業務がパンクするなどという大衆蔑視に基づいた主張をする者が、検査の拡充を求める論者に対して、いたずらに危機感を煽るデマゴーグだというような非難の声すら上げる始末であった。その上、第一回の緊急事態宣言が発せられ、比較的早期に感染者数の減少が見られるようになると、当時の安倍首相が、「日本モデル」などと自画自賛するなど、検査問題自体が後景にしりぞいてしまった。

しかし、実態としては、ようやく公的検査体制の整備も進み、民間の医療業者の参入も見られるようになり、検査費用もかなり低廉化してきた。企業や自治体の中でも、積極的に集団検査に取り組むところがでてきた。また、検査に関する国際的学会的知見も増大し、感染対策上の役割についての認識も一般的に向上してきた。

例えば、新型コロナウィルスは、感染しても発症しない者が多く、その未発症者が感染を広げるケースがあること、その無症状の感染者を見つけるには検査しかないということが明らかになったことなどである。その結果、現在では、政府の拡充への消極的姿勢には変化は見られないものの、意見としての検査消極論はほとんど影を潜めるようにはなった。その意味では、検査問題も大分科学的合理的判断の世界に移行してきたといってよいかもしれない。

愚かしさの新段階

以上述べてきたように、マスクや検査にまつわる愚かしさの問題は次第に解決の方向に向いてきたが、流行が長引くにつれて別の愚かしさの問題が登場してきた。そして、その問題ははるかに複雑で難しい問題である。その問題を端的に表現すれば、「経済を動かす」という言葉にまつわる問題である。

「経済を動かす」という言葉は、単純な言葉であるが、よく考えてみると実に多様な意味を含めさせることができるある意味では「便利な」言葉である。場合によるととんでもない過ちに導いてしまうかもしれない恐ろしい言葉であるといってもよいかもしれない。そういう含みのある言葉の問題を検討するためには、まず、その言葉がどんな場面で使われ、どんな言葉と結び付けて語られるかをできるだけ広く集めることから始める必要がある。いうまでもなく、辞書で「経済」と「動かす」を引いて意味を調べ、それを「を」という助詞でつないでも何も分からないに等しいからである。

新型コロナウィルス感染症の流行が始まり、世界的パンデミックが宣言された当初、それに対する対策が、生存を維持するために必要な活動を除いて人間の行動をストップする事すなわちロックダウンしかないといわれた。感染症それ自体の知識・情報も増え、その局面も落ち着き、国民総生産で表示されるような経済への打撃が明らかになると、「ロックダウン」に対する意味で「動かす」という言葉が使われるようになった。たしかに、都市の市民生活はロックダウンによって完全に止まったかのように見えたし、厳しいロックダウンが実施されなかった日本でも、外出する人の数は急激に減少した。

しかし、経済活動のすべてがストップしたわけではなく様々な生産活動はしっかりと続けられていた。コロナ下でかえって業績を伸ばした企業もなかったわけではない。また、株の取引きなども活発に行われ、バブル期を上回る高値をつけるほどであった。自粛やロックダウンと対比された「動かす」というイメージの中には、そういう経済活動の姿は明瞭には入ってこない。

普通の市民生活に関連する活動、買い物、食事、会食、旅行、観光などがまずイメージされる。日本政府や自治体が実施したゴーツートラベル・ゴーツーイートというキャンペーンがそういうイメージを拡大し、定着させる。ゴーツーのお陰で、普段は泊まれないような豪華ホテルで贅沢なディナーも楽しめて、困っているホテルやレストランの助けにもなる。人助けという名目がたてば、大変な思いをしている医療従事者や介護士や保健福祉士などのエッセンシャルワーカーへの罪悪感も薄らぐというものだ。

こうして「経済を動かす」という言葉の中身が、旅行や会食というような活動に希釈され、薄っぺらなものになり、もっと大きく重要な、たとえばコロナ禍にあっても格差は拡大し続けるというような経済問題が隠れてしまう。

さらに、「経済を動かす」という言葉に「経済を動かさなかったら、死者が増える」という言葉が続けられる場合もある。経済活動がストップすれば、経営基盤が脆弱な企業や個人経営者は倒産に追い込まれ、従業員も失業し、生活困窮者が増え、それが自殺者を増加させるという。中には、新型コロナウィルス感染症の犠牲者よりも、自粛がもたらす経済問題を原因とする自殺者の方が多くなると主張する者も現れた。たしかに、経済不況と自殺者の増加との間には相関性があることは間違ってはいない。

しかし、その相関性とは、倒産・失業がただちに厳しい貧困をもたらすという競争社会の現実とそれを容認する政治のあり方が、競争弱者を自殺に追い込むという相関性であって、感染症が直接自殺者を増大させるわけではない。したがって、感染症対策と自殺防止対策とは、本来別個に検討されるべき問題であるが、コロナ感染症対策に対して発せられた「経済を動かす」という言葉は、この区別を曖昧化させ、新自由主義的経済社会の抱える本質的問題から眼を逸らさせる役割を果たすことになる。

また、少し性格は異なるが、「ウイズコロナ」という言葉も、経済活動との関係で使われることがある。「ウイズコロナ」とか「ウイズコロナの時代」という言葉は、もともと人間と自然との共生の仕方に関わる問題を認識するために使われだしたものであった。人類が文明を発展させていった過程は、自然との関係という視点に立てば、人間が人間にとって有用と考えたものを自然から奪い取ってきた過程であって、自然からの収奪あるいは自然の破壊、せいぜい中立的言い方をすれば自然を改変する過程であった。

その過程において、自然の中に潜んでいた人間にとって有用ならざるもの、あるいは危険をもたらすものも人間社会に入り込んできた。その代表的なものが病原菌であり、ウィルスであった。したがって、ウィルスは、文明化に必然的に伴うものであって、これからも新しいウィルスが別のパンデミックを引き起こす可能性がある。人類はその意味で常に新しいウィルスとどう付き合っていくのかを考えなければならない。「ウイズコロナ」という言葉は、こういう文明史的問題意識を背景として言われたはずであった。

しかし、「経済を動かす」という言葉と連動して使われるようになると、そうした文明史的視点は失われてしまった。新型コロナウィルスもいつかは弱毒化して普通のインフルエンザウィルスのようになる、集団的免疫が獲得されれば、インフルエンザ並みの対応で十分で、ロックダウンや非常事態宣言などは不必要になる、それが「ウイズコロナ」ということなのだとコロナ対策上の問題に切り縮められたのである。ここで主張される対策の背後には、感染症はかつてもこれからも一定の犠牲はつきものである、心配性が高じた精神的パンデミックに陥る方が問題の解決を遅らせる、だから当面の犠牲は覚悟すべきだという考え方が潜んでいる。

コロナウィルス感染症の蔓延に対して有効な対策を打とうとしない独裁者達は、おおよそこのような考え方を受け入れているに違いない。億を超える感染者、二百数十万を越えて増え続ける死者、こういう現実を目の前にしながら経済を優先させようとする独裁者を支えているのは、「経済を動かす」という言葉の呪術性にとらわれた人々かもしれないのである。

愚かしさの向こう側へ

それはともかく、これまで愚かしさは新しい段階に入ってきたと述べてきたが、何が新しいのかについてまとめておこう。

蔓延当初の段階では、コロナウィルス感染症についての知識の不足や間違った情報に基づく間違った対応という問題であった。中には、政治的思惑が絡んで意図的に誤った愚かな主張がなされたこともあった。そういう誤りに基づく愚かしさは、知識の蓄積と正確な情報の流通によって修正し、克服することが可能なものであった。

しかし、半年も過ぎるころからの愚かしさは、単純な知識や情報レベルの問題ではなくなってきた。人間及び人間社会のあり方に関わり、何が大事か、何を優先すべきか、という価値判断を伴う問題の領域に現れる愚かしさという性格が前面に出てきたのである。また、主張される個別の命題の中に、それなりの正しさが含まれており、それが他の命題と組み合わせられた場合に別の意味を持ち、期待せざる機能を果たしてしまう、という複雑な関係が生じているという意味でも新しい段階に入ったと考えなければならないのである。

さらに、必ずしも主張する人間が明確に意識しているかどうかは分からないが、そこに掘り起こすべき重要な問題が潜んでいる場合もある。「経済を動かす」という言葉も、「経済」とはそもそも何かという根本問題を、コロナ禍にあるがゆえに考えさせられるという問題提起ととらえれば、重い意味を持つ。ちょうど、コロナウィルス感染症対策として求められた自粛や行動制限によって、いやでも人間と人間の直接的触れ合いの意味を考えさせられたように、たとえ愚かしい結論に至ったとしても、主張されていることの中には、深いところで人間の本質に迫る問題があると気づかされるのと同じであろう。

多分、今、最も愚かしいことは、コロナウィルス感染症が終息に向かうとともに、感染症蔓延以前の日常に帰れると安心してしまうことであろう。すでに、ワクチンをめぐって、ナショナリズムがうごめき始め、金持ち達によるワクチンツアーが企画されているという。国家と経済格差という分断、これこそが人類を襲っている最大の病であることに気付かないとは、さらに愚かしさの分析が必要になるのであろうか。気が重くなるばかりである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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