特集● 新自由主義からの訣別を   

「広域行政一元化条例」は弥縫策、後がない
大阪維新の悪あがき

時代と民意が<周回遅れの新自由主義>を置き去りにしていく

元 大阪市立大学特任准教授 水野 博達

舌先も乾かぬうちに府市一元化の策謀

世の中の関心が新型コロナ対策に集中しているさなか、大阪維新の会の悪あがきが画策されている。昨年11月1日に実施された『都構想』の住民投票―「大阪市を廃止し、特別区を設置する」の可否を問う投票―において1万7167票の僅差(有権者数;220万5730人、投票率;62.35%。賛成と反対の得票率の差;1.26%)で否定された案件を再び、「広域行政一元化条例」という形で持ち出そうとしている。2月の大阪府議会、大阪市議会に提案し、4月1日に施行するという計画である。

昨年11月,住民投票結果の白黒がはっきりした時点で、吉村府知事は「私の任期中には、再度の住民投票はない」と明言し、維新の代表・松井大阪市長は「市長の任期終了後引退する」と、敗北の責任の取り方を明らかにした。その舌の根どころか、舌先も乾かない3日後、「広域行政一元化条例」と公明党の提案であった「総合区制度」を実現する考えを打ち出したのである。

2014年から2回の『都構想』住民投票で100億円を超える税金の無駄遣いをして来たことなど全く意に介せず、「住民投票で新たな大都市制度に移行すべきだという人も半分いた」と吉村は、その正当性を主張している。後でも触れるが、新自由主義的政治の特徴の一つは、異論への恫喝・排除を伴った正義なきペテンによる世論操作・誘導である。

大阪で『都構想』を巡って維新が展開したペテンを振り返ると、1回目は橋下徹の下で実施された2015年5月17日の住民投票である。

1回目の特徴は、民間市場での新自由主義の展開に比して遅れている政治・統治機構の改編を通じて成長する大阪の大きな「夢」を語ったことであった。この「夢」実現のために、「既得権を排除する」との名目で、労働組合や反差別・人権運動、あるいは文化・芸能活動等に対する強権的弾圧が先行した。「維新八策」(注1)において、統治機構を「グレートリセット」し、時代の大きな転換を大阪から始めると大ボラを吹きまくった。

実際、人々に「夢」を見せるため、原発ゼロや「子どもが笑う大阪」を標語に、貧困家庭の学習費援助や私立高校の学費免除(朝鮮学校は排除したが)、そして、西成特区構想などをブチ上げてきた。だから、住民投票は、『都構想』』の中味を問うことより橋下・維新の会の独裁的なリーダーシップへの信認投票の性格を強く持ったものであった。

橋下・維新の会は住民説明会を39回も繰り返し開き、テレビに度々登場して『民意』形成を狙った。しかし、成長の夢を大いに語ったが、「大阪府市ニ重行政の非効率をなくし、成長軌道に乗せる」という統治機構の改編に対して、「機構を変えれば成長できるのか?」「市民生活が良くなるのか?」という疑問には答えきれなかった。大阪市がなくなれば住民サービスは低下するという人々の生活感覚に根ざした疑念を払拭することはできず、僅差で敗退する結果となった。大阪の偉大なペテン師、トリックスター橋下は、自らの力の限界を悟って政界からいったん引き下がる結果となった。これが1回目である。

2回目、橋下が舞台から降り、松井・吉村による住民投票への維新の構えは、「夢」の宣伝から実際的・実務的な方面に対策の力点を移すという特徴がみられた。

行政の効率化では、維新が議員歳費などの「身を切る改革」を進めたこと、二重行政の解消の成果(インバウンドによる成長、府・市の施設統廃合、市営・府営住宅の移管等)を強調し,成長の具体目標(万博、カジノ、ウメキタ開発等)を上げ、また、特別区の設置コストを下げるとともに、行政を住民に近づける便益を強調することとなった。そして、公明党を取り込むために特別区を5つから4つに縮小するなどして、住民投票に勝てる方策をとった。(注2)

しかし、公明党を取り込んだ「必勝パターン」は、逆に矛盾を露呈することになった。既存の中の島庁舎等を使って特別区庁舎建設コストをゼロにしたが、役所は居住地域から分離したタコ足状態となり、防災・災害対策にも対応できないデタラメなものであった。それでも特別区設置によるコストはかかり住民サービスの低下は必至であることを住民に見破られることとなった。取り込んだはずの公明党支持者・創価学会員の6割程度が反対にまわり「必勝パターン」の大黒柱は根元から崩れ落ちる結果となったのである。

1回目は、大きな「夢」で住民をペテンにかけるものであったが、2回目は、姑息にも大阪市を廃止する「法定協」案の不利な数字を隠し、成長ができるとする数字の辻褄合わせが露骨であった。また、新型コロナ感染症の流行の時期を利用した反対運動を封殺する策略でもあった。コロナ感染症を理由に住民への説明をわずか8回で定員は3,600人に縮小し、その上、大幅な時間制限を行い、質問なし、反対派の文書配布禁止で「法定協」案のメリットのみを宣伝し、デメリットを考えさせないというものであった。

3回目は、いま画策されている「広域行政一元化条例」である。これは、住民投票は不要で大阪府、大阪市の議会採決で実施できるというもので、大阪市は残すが、行政間、行政内の機構改革で、二重行政を解消する制度的枠組みを定着させることが目的であるとしている。 

目覚めるとお化けの正体、金まみれ

3回目は、維新の悪あがきである。その結果、『都構想』が実は何を狙っているかをはっきりさせることになった。維新が言う二重行政の解消とは、結局、維新の考える成長戦略に基づく都市計画の権限とカネを大阪市から奪い、府(知事)に一元化することが本当の目的であることを浮き彫りにした。成長がなければ福祉、教育の充実はできないと彼らが主張してきた真実は、経済成長が優先、住民サービスは二の次!なのである。 

大阪市が行う427事業の内、その財源と権限を大阪府に移し一元化する事業は、産業振興、まちづくり、都市基盤整備事業で、具体的に言えば、大阪万博開催とその事業と直結するウメキタの2期整備事業、なにわ筋線(大阪駅からJR難波駅と南海新難波駅に繋ぎ新関西空港へのアクセスを短縮する)の整備、高速道路の淀川左岸線を延伸し万博予定地につなぐ事業、そして大阪市大・府大の統合による森之宮新キャンパスの整備などである。福祉や防災、老朽化する公共施設の改修など民生関連事業は一元化の対象外で、まさに狙いは明白だ。

これらの開発事業で大阪市の財政負担は最低でも3,059億円と言われているが、実際は、万博の交通アクセスの整備費を夢洲に誘致するIR事業者に負担させる目論見は、カジノ業界のコロナ不況で見通しが立っていない。地下鉄メトロもコロナ自粛もあって赤字転落である。そんなこんなも重なり、とてもこんな額には収まりきらない。今後、巨額の乱開発予算テンコ盛りとなることは明らかだ。

しかし問題は財政上のことだけではない。広域行政一元化条例によって地方自治、住民自治の機能が大きく破壊されるのである。この一元化条例を推進する「司令塔」は、これまで『都構想』実現の推進機関であった府知事が本部長の「副首都推進局」となる。大阪府・市から選抜された「エリート職員」と特別顧問など100名近くの態勢によって大阪の都市開発プロジェクトが一元的に企画され、推進されることになる。

これは、府・市二つの地方自治体の狭間の機関で、大阪府議会と市議会からも、また、どちらの行政各部署からもコントロールの利かない事実上の「独立機関」となる。吉村府知事と松井市長の直接指揮のもとに、すなわち、維新の会の私的意思のもとに活動する『特務機関』の性格を持つのである。現に、2回目の住民投票の広報冊子や住民説明会の企画は、公正な公的性格を欠いた維新の会の意図に偏したものであった。行政監査の識者から指摘を受けたが、平気で事を通した「確信犯集団」なのだ。

こうして二重行政を解消する「行政一元化」とは、大阪府民、大阪市民の民意を気にせず、関西財界などの意を汲んで、一部の特権階層の利益のための巨大開発へと突き進むことになる。しかし、本来、地方の住民の生活に根付き、住民のための施策を実施すべき地方自治体が、バクチ場・カジノの誘致や大阪湾港湾機能をマヒさせ住民生活にも、大阪の産業にとっても問題の多い大阪万博事業に巨費をつぎ込んで経済成長を図るという時代錯誤の成長戦略の先は見えている。

『都構想』を巡る3回の維新の挑戦を通して見ると、ペテン・嘘は、大きいほど人をその気にさせると言われることが良くわかる。ある面で、大ボラを吹いた橋下のペテンが大阪の『民意』を最も巧みに誘導したと言えそうだ。

二回目、三回目となるうちに、ペテンの威力が急降下してきた。とりわけ三回目の悪あがきは、それにしても拙速だ。住民投票で負けたが、2025年大阪万博開催が迫っている。そのための基盤整備は待ったなしだ。待ったなしとは、何よりもカネの調達だ。

追い詰められた維新。もはや綺麗ごとを言っている暇はない。府市一元化で足りないカネと権限を大阪市からむしり取る態勢を急いで作らねばならない。これが、今回の「広域行政一元化条例」制定の拙速な策謀だ。『都構想』で「大阪の成長」という夢が、このあからさまな弥縫策によって人々が目を覚ませば、「お化けの正体」は金まみれの維新の野望であったことが露見する。

周回遅れの「国際メガ都市」、維新の夢破れ

ではなぜ、半数に近い有権者が住民投票で「賛成」をしているのか。「民意」はどのように誘導され、形成されているのか。他府県の友人から受ける次のような質問を切り口に考えて見よう。

「大阪市をなくして、財源や権限を大阪府に渡すことに大阪市民は、なぜ賛成するのか。損をするのがわかってるのに、どうしてか?」

確かに「利に敏い」大阪市民が、わざわざ損をすることに賛成するのは奇妙なことだ。実は、『都構想』のペテン、つまり「維新政治」のマジックの「ネタ」は、ここにある。

野球は「負けても阪神」「03より06がいい」という「おおさか第一主義」とでもいうしかない大阪人の気質は、商都として近世から最も栄えてきた大阪人のプライドでもある。高度経済成長期を経て東京・首都圏に追い越され、浪速の街は「悲しい色」に染まってきた。大・大阪のプライドは、何時しか「東京には負けへん、負けたらあかん」のケッタクソの心情へと転換してきたのだ。

この大阪人のアンチ東京への「ケッタクソ」心情に乗じたのが、「東京一極集中」に対抗する「大阪都」をつくる『都構想』である。言葉を換えて言えば、グローバル経済の下で、大阪を都市間競争に勝てる国際メガ都市へと成長させる『夢』である。維新の顧問団であった堺屋太一や上山信一などと関西財界が描いた新自由主義的成長戦略を維新の会に推進させてきたのである。

しかし、すでにグローバル化した金融・情報などの中心は首都圏に集積しており、国際メガ都市の夢は、周回遅れの見果てぬ夢でしかなかった。江戸時代からのコメ先物取引の発祥の地である大阪堂島の商品取引所と大阪証券取引所を結び付けることで、何とか「国際金融都市構想」に食い込もうとしてきたが、コメを先物商品とすることに反対のJAの姿勢もあって堂島商品取引所の7年連続赤字を解消できる目途は全く立っていない。ここでも夢は遠のくばかりだ。

ありていに言えば、大阪はアジアでいえば、上海、(香港)、シンガポール、ドバイのような国際メガ都市にはなりえない。日本でその位置に近いのは、東京・首都圏のみである。世界企業・トヨタを地元に抱える愛知・名古屋にも後れをとっており、韓国、中国に近くアジアの玄関を標榜する福岡との都市間競争でもずば抜けて優位であるとは言えない状況だ。だからこの間、「国際メガ都市」の目標を後ろに隠し、大阪のケッタクソも投げ捨てて「副首都」(首都中央のシモベ!)に昇格することを目指すことに鞍替えだ。

結局、大阪の成長戦略は、新関西空港と京都・奈良などの関西の観光地を結び付けた「国際交流都市」以上のものではなく、インバウンドに依存したカジノ(IR)と大阪万博誘致という底の浅い器でしかなかったのである。だから、新型コロナウイルス感染症の世界的流行で人々の移動が大きく変動すると「大阪には、うーまいもんがいっぱいあるんだぜ」と誇ってきた新世界のフグの大きな提灯が、ずぼら屋の軒先から降ろされ、閉店を迎えた。ここに象徴されることは、インバウンドに依存した経済のもろさである。

菅と双子の維新の会、お役御免のポンコツ新自由主義

ところで、新型コロナの世界的流行のなかで、改めて、1980年代から世界を席巻した新自由主義による資本主義の展開の行き詰まりが露となっている。

ほんの一握りの富裕層が、世界の富を独占し、他方で、中産階層がやせ細り貧困層が年々増大し、格差と社会の分断が深刻となっている。資源争奪によるアフリカで、戦争と貧困・飢餓の悲惨な状況はより深刻だ。先進国では、国家の財政・金融政策で景気浮揚を図ろうとしてきたが成功はせず、株や金融商品、不動産などが値上がりしただけで、景気回復は実現できていない。余剰の資金は、実体経済と遊離した金融市場の「マネーゲーム」になだれ込んでいるだけだ。

また、科学技術の『発展』は、過剰生産と乱開発を推し進め、地球規模の自然破壊で気象変動をもたらし、新手のウイルス性感染症の波が頻繁に世界を襲うようにもなっている。世界を結び付けた新自由主義的な政治・経済の行き詰まりがもたらしている社会の矛盾・対立は複雑で、かつ錯綜しており、その解決は一筋縄では適わない様相を呈してもいる。

こうした新自由主義の行き詰まりは、新型コロナウイルスのパンデミックによって世界に追い打ちを喰らわせている。モノ・カネ・ヒト・ジョウホウの国境を越えた移動とサプライチェーンが、一旦切断されると人々の眼前に社会の分断の実相が、よりくっきりとその姿を現した。テレワーク/リモートワークのできる層と感染症と隣り合わせで人々の命と生活を支える労働に従事する層の二極化の実相もその一つである。(注3)

こうしたもとで、世界の資本家と権力者たちが集まって議論をするダボス会議では、新自由主義の行き詰まりを超えていく「グレートリセット」が語られている。

2020年の会議では、地球温暖化や新型コロナウイルス感染拡大などを念頭に、①より公平性のある市場を目指し、かじ取りをしていくこと(=株主資本主義から「ステークホルダー資本主義へ」)、②社会や経済が停滞する中でシステムを変革するために新しく拡張された投資プログラムを活用すること(=公平で持続可能なシステム構築)、③第四次産業革命のイノベーションを活用した上で公共の利益、特に健康と社会的課題に取り組むこと、などが提起されている。2021年の会議では、さらに多面的に検討・議論が進められるという。

もちろん、このダボス会議の意図は、コロナ危機と地球規模の気象異常を奇貨として利用し、新自由主義が生み出してきた資本主義の危機をリセットし、資本蓄積の新しい条件を生み出すための経済・政治・社会の大転換を図ることである。そこではペテン的論理も含めて語られており、資本主義を守り、特権階級の利益を引き続き確保する方策の検討であって、幻想を持つことはできない。

しかし、「維新八策」で述べた「グレートリセット」では遥かに及ばない危機の認識の深さと広さを持った構想が検討されていることは事実だ。維新八策は、もはや時代から取り残さされた三百代言の戯言と言う他はない。

化けの皮が剥がれた維新の「成長戦略」は、結局、コロナ感染爆発の源ともなる不夜城のバクチ場・カジノと万博の誘致に地方自治体の公金をつぎ込む究極の『民営化』なのだ。市民生活にとって無駄な開発事業で自然を破壊し、大量のエネルギーを消費して異常気象を促進するだけである。

考えて見れば、維新と菅首相は、まるで双子の兄弟だ。コロナ感染拡大下でも経済を回すことに執心し、Go Toにしがみつき、オリッピックと全国の3ヶ所以上でカジノを誘致する政策をゴリ押ししている。国と地方自治体の借金を膨らませ、火事場泥棒的な税金の無駄使いの大判振る舞いである。共に、ダボス会議の議論からも遥かに遠く、ピントが外れた時代遅れのポンコツ新自由主義である。

ところで、日本では、経団連が2018年11月にデジタル革命=『第4次産業革命』の先に描く未来社会の構想「society5.0」を提言している。政府もこれを「未来投資会議」で取り入れ、菅政権では改組した「成長戦略会議」に引き継いている。

デジタル庁の新設や教育現場のオンライン化・デジタル教材の導入、「科学的介護」の名によるケア実践のIT化と機械化及び標準化など菅政権の具体的な施策の中に「デジタル革命」が散見される。経団連の「society5.0」は、ダボス会議のグレートリセット構想をフライング的に開示することによって、その危険な本性を晒しているとも言える。

ここでは、デジタル革命によって明るい未来が開かれるとバラ色の夢が語られている。しかし、貧困や格差の解消への道のりは語られていない。生産や消費を始めとした人々の様々な社会活動について、民間企業や私的な領域、あるいは行政の公的な領域などのあらゆる情報をビッグデータとして吸い上げ、公私の区別を問わない情報に加工するデジタル革命によって、新たな「創造社会」を目指すという。

そこでは、人間の集合的・集団的繋がりや自治的な協働の関係は消え、デジタル革命によって人々をバラバラに個人化した上で結び付ける社会の到来である。情報を独占的に手にし、管理・操作する者達の「情報管理社会」であり、ソフトな管理か、独裁的な管理かなどの違いはあっても自由で人間的な豊かな社会とは言えない「管理社会」の出現である。

だが、松井、吉村や菅も「自助努力」は語るがトータルな国家観・社会観をもたない。新自由主義の行き詰まりを何とか『解決』しようするダボス会議の議論とは無縁だ。目の前に見える経済危機をアンチョコで対処する弥縫策しか思い浮かべない。だから、国と地方の破綻を押し進めることしかできないのだ。

時代の転換は「命と生活」守る地方の自治から

コロナ危機の中で行われた11月の住民投票で、維新の言う「経済成長」と反対派の「命と生活」重視の対抗軸が、おぼろげにではあるが浮かび上がってきた。その意味は、実は重くて大切だ。

私たちがその意味を考える上で、戦後の資本主義諸国の高度経済成長の後にやって来た新自由主義的グローバリズムの時代への転換の歴史をふり返って見よう。

先進国の戦後の経済成長を支えた要因を要約すれば、冷戦から平和共存へ移行した世界的な体制間の枠組みのもとで、①階級協調(社会権の承認と議会主義政治)による「城内平和」、②第3世界から安価な資源・労働力の調達、③「稼ぐ男、家を守る女」の性差別・役割分業のマイホーム幻想であった。しかし、ヴェトナム反戦とアメリカの公民権運動、そしてフランスの5月革命・若者の反乱など社会運動と連動しながら、②はオイル・ショック(第3世界のナショナリズム)で、③はリブ・ムーブメント(女性解放)の反撃を受け、経済成長の停滞により①は時間差をともないながら崩れ、長期のインフレと不況の同時進行が続いた。 

この停滞を打ち破る資本の新たな戦略が新自由主義とグローバルリズムであった。「大きな政府から小さな政府」を合言葉に規制緩和・民営化を推進し、労働者の権利を押さえこみ、国家目標としての「福祉国家」を放棄した。社会主義体制の崩壊もあって、国境の障壁を押し下げ、弱肉強食の資本が自由に行動する競争に世界を巻き込んできた。その結果が前節で述べた、ほんの一握りの富裕層が、世界の富を独占し、格差と社会の分断を深刻なものにした。それらが、資本主義の存続自体を危うくさせているのだ。

大阪におけるウルトラ新自由主義的政治勢力の登場は、2008年の大阪府知事選挙で橋下徹が当選してからである。彼ら維新が掲げた「成長戦略」の種は、実は、第14代の大島市長時代(府知事は第4代岸昌)1982年2月に打ち上げられた「大阪21世紀計画」である。21世紀にふさわしい「世界都市・大阪」の創生を目指したその宣言文(1983年10月3日)は、

「大阪は、ここに公共と民間の熱意を結集し、この街の経済、政治、文化創造の力量を飛躍的に高め、ひとつの美しく品格ある人間の住かを作って、歴史への贈り物にしようと決意した」

と締めくくっている。それは、都市間競争を勝ち抜くための「都市経営論」がもてはやされた時期と重なっている。関西新国際空港の建設を基軸に、国際花と緑の博覧会や大阪城築上400年祭りなどの文化イベントを巻き付けた経済的停滞から脱するための大阪創生計画である。

都市経営論は、本来、地方の住民の生活に根ざし、住民のための施策を実施すべき地方自治体が、経済成長のために巨額の投資を競って行うことが新しい時代の要請であるとする主張だ。そのためには文化イベント、とりわけオリンピックや万国博覧会などの国際的なイベントを計画していくことが推奨され、地方自治体の財源が住民の生命・健康と生活のための民生予算重視から、都市間競争のための『公共投資』重視へと転換させる計略であった。

第15代西尾市長、第16代磯村市長(知事は、第5代中川、第6代横山、第7代太田)の下で関西新国際空港の建設と大阪ベイエリア開発などに巨額の財源が投入され、財政難と借金が積み増していった。その一方で、民間の厳しい競争環境に比して「公務員天国」と言われる状況が焦点化していた。そこで、このいわば不徹底な日本型の新自由主義的都市経営論の破綻を突いて橋下府知事の登場となったのである。

橋下とその後の維新の会が進めた施策は、「身を切る改革」と称して公務員労働組合の弾圧、人権博物館の廃止、平和資料館の強制的矯正、朝鮮学校への補助金打ち切り、子ども図書館の廃止・統合、文楽や音楽団体への干渉と続いた。地下鉄の民営化や大阪城公園の大規模な商業施設化なども行われた。

保健所は1ヶ所に、保健師も大幅削減、住吉市民病院(産科など)の廃止など医療、公衆衛生態勢の削減は、新型コロナ感染症による全国第一位の死亡者を生み出す条件を作ってきたのだ。

要するに、維新のやって来たことは、公共財を切り捨て民営化し、人々の健康と安全を脅かし、歴史的な文化・芸能の価値を認めず、自治と豊かな人々の都市生活を破壊してきたのである。「美しく品格ある人間の住かを作って、歴史への贈り物にしよう」などとは、全く考えない拝金主義者達なのだ。こうして行政のコストカットで巨大開発を進めることが大阪の成長だとする時代遅れの新自由主義の醜い姿を曝け出すこととなった。

以上概括したが、大阪府・市の自治体政策の流れを振り返れば、市民がバラ色に描かれた経済成長優先のペテン的誘いに載せられてきた危うさが明らかとなる。2回の住民投票は、成長待望論ではなく、「命と生活」を守り充実させる住民の当然の権利を基礎にした住民自治・地方自治を取り返す闘いの出発点を築いたと言える。その意義を改めて確認したい。

今、議会内の多数決で「広域行政一元化条例」を通過させようとする維新の野望を葬る活動が超党派の市民共闘で進められている。

コロナ感染症対策を蔑ろにした維新の二番煎じ「広域行政一元化条例」を許さない!

吉村、松井は行政の機構いじりを止め、コロナ感染対策に集中せよ!

住民投票で否定された「副首都推進局」を直ちに廃止せよ!

公明党は、維新と議席確保の裏取引を止め、住民の声に従って条例に反対せよ!

コロナ禍をついて、議会制民主主義を超える「命と生活」を守り充実させる住民自治の継続的な活動は、新自由主義的政治を追い詰め、時代の転換を地域の自治から準備する闘いである。

 【注】

(1)「維新八策」は、大阪維新の会の政策文書として2012年2月に発表され、日本維新の会の「綱領的文書」として同年11月に改訂された。丹羽雅雄著『「維新八策」を読む』(「『橋下現象』徹底検証」、インパクト出版、2012年12月)で詳しく解説されている。

(2) 維新による公明党への恫喝とそれに屈伏した公明党については、拙稿『先は見えた!大阪維新の成長戦略破綻は必至』(「現代の理論」デジタル23号 2020年夏)を参照されたい。

(3) 拙稿『近代を問う!排除されて来たケア労働』(「現代の理論」デジタル24号 2020年秋)を参照されたい。

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

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