特集●コロナ下 露呈する菅の強権政治

昭和の保守派知識人・村松剛と現在の位相

“民主主義を防衛する”保守系言論人の責務を問う

関東学院大学客員研究員 神谷 光信

日本学術会議新会員の任命拒否

憲政史上歴代最長を記録した長期政権が、持病悪化を理由とする首相辞任で幕を下ろした。新総理は就任早々、日本学術会議に推薦された候補者のうち、憲法学、政治思想史などを専攻する6人を任命拒否して世間を驚かした。大学の学長や多数の学術団体などから憂慮する声明が出されるなど、学問の自由抑圧を懸念する声が次々にあがった。反ナチ運動家ニーメラーの警句のように、今ここで他人事として声をあげなければ、次の標的は自分たちかもしれないとの危機感の高まりがある。

民主主義を守るために、政治的立場を超えた結束が求められている。そのような現状認識から、本稿では昭和の保守派知識人村松剛を取り上げる。一人の知識人の思想と行動をふりかえることは、保守系文化人の現在を理解する上でも有益であるはずだ。

新内閣と日本会議

新内閣は、首相をはじめ、日本会議国会議員懇談会に所属する閣僚が7割を占めると複数のメディアが伝えている。同懇談会は日本会議の関連団体だ。前内閣においても、首相以下、全閣僚の8割が同懇談会メンバーであった。日本会議とはいかなる組織なのか。

新聞やテレビで報道されることが少ないが、2016年5月以降、菅野完『日本会議の研究』、上杉聡『日本会議とは何か』、俵義文『日本会議の全貌』、山崎雅弘『日本会議』、青木理『日本会議の正体』、藤生明『ドキュメント日本会議』と関連書籍が相次ぎ刊行されたことで、同会議の沿革や組織、思想が知られるようになった。海外メディアでも注目され「日本最大のナショナリスト団体」(米紙『ニューヨークタイムズ』)から「極右の歴史修正主義組織」(仏紙『ロブス』)まで見方には幅があるが「非常に保守的なロビーグループ」(英紙『ガーディアン』)という評価は正鵠を得ていると思われる。

日本会議は1997年に設立された「国民運動団体」(同会議サイト)である。東京に本部を置き都道府県全てに支部がある。同会議のサイトには《国会においては超党派による「日本会議国会議員懇談会」が設立されています。私達は、美しい日本の再建をめざし、国会議員の皆さんとともに全国津々浦々で草の根国民運動を展開します》とあり、同会議国会議員懇談会との関係も記されている。

活動内容は、《明治・大正・昭和の元号法制化の実現、昭和天皇御在位60年や今上陛下の御即位などの皇室のご慶事をお祝いする奉祝運動、教育の正常化や歴史教科書の編纂事業、終戦50年に際しての戦没者追悼行事やアジア共生の祭典の開催、自衛隊PKO活動への支援、伝統に基づく国家理念を提唱した新憲法の提唱》などが挙げられている。

日本会議の前身「日本を守る国民会議」

日本会議の前身は日本を守る会(1974設立)と日本を守る国民会議(1981設立)である。後者については、朝日新聞社会部『「政治」の風景』(1982)に詳しい記述がある。目指すものは教育正常化、自衛隊法改正、改憲で、呼びかけ人はソニー名誉会長井深大、サンケイ新聞社社長鹿島信隆、東工大教授江藤淳、元学習院大教授清水幾太郎、日本医師会会長武見太郎、評論家細川隆元、筑波大教授村松剛など23人である。

結成式では結成準備委員長の音楽家黛敏郎が挨拶した。黛はテレビ番組『題名のない音楽会』の司会者として知られていたが、1970年の三島由紀夫自死以後、右派文化人として積極的に発言するようになった。日本を守る国民会議では、その後議長として同会議の顔となるが、日本会議設立の年に68歳で死去している。なお結成式では自民党幹事長が来賓として挨拶しており、設立当初から与党政治家との関係が強かったことがわかる。 

保守オピニオン誌の頽廃

日本会議と関係を持つ人々のなかには大学教授や評論家、作家などの文化人も多い。民主主義社会において思想信条と言論の自由は何よりも重要な事柄ゆえ、保守派の人士が信ずる思想を主張するのは当然である。しかし彼らが執筆する月刊誌は、遺憾ながら、知的威信を自ら放棄するような誌面になっている。十年一日のごとく、嫌韓、嫌中、愛国、反左翼の記事ばかりなのだ(能川元一、早川タダノリ『憎悪の広告』参照)。

民主党政権時代に保守論壇は「完全に変質」し、政権批判のためには「どんな低次元の言説も味方にする」ようになったと古谷経衡は指摘している(「戦後保守のあだ花としてのネット右翼」)。保守派の月刊誌に傾聴すべき論説が掲載される時代があったことを思うと隔世の感がある(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究』参照)。近年、平和運動のリーダーから核兵器武装論に転向した昭和の社会学者清水幾太郎が忘却からよみがえり、著書復刊と再評価が始まっているのも、保守論壇の頽廃と無関係とは思えない(趙星銀『清水幾太郎と「危機の20世紀」』参照)。

昭和の保守派知識人村松剛

『新版ナチズムとユダヤ人』が一昨年復刊されたが、村松は現在ではほとんど忘れられた昭和後期の評論家である。彼の議論の今日的意味は検証が必要だが、日本を守る国民会議の呼びかけ人だった彼が、いかなる思想的経験を経て保守派知識人になったのか、また存命ならば彼の眼に現在の政治状況がどのように映るかを考えてみたい。

村松は1929年東京に生まれた。父親は極東軍事裁判で異様な行動をとった大川周明の治療に当たった精神科医村松常雄である。妹は女優の村松英子。旧制一高を経て東大仏文に進学した。大学院で鈴木信太郎の指導の下にポール・ヴァレリーを研究した。在学中から評論活動を行い、遠藤周作や三島由紀夫と交流があった。立教大、京都産業大、筑波大、杏林大で教鞭をとり、1994年に64歳で病没した。

葬儀には、イスラエル副首相、南アフリカ共和国政府、福田赳夫元首相から弔電が届き、駐日イスラエル大使が参列した。中東を中心とする国際政治に詳しい論客としての顔もあったからである。P・ヴァレリー、A・マルローの伝記を著したほか、トロント大講義をまとめた比較文化論『死の日本文学史』(1975)や、『醒めた炎―木戸孝允伝』(1987年)、『三島由紀夫の世界』(1990年)などの著作がある。

「逆コース」への危機感と小林秀雄批判

村松が小林秀雄批判から出発したことを知る人は少ない。「韜晦の劇―小林秀雄論」(1952)がそれである。当時小林は40代の終わりだが、1950年から翌年にかけ『小林秀雄全集』全8巻が刊行され、芸術院賞受賞の栄誉に輝いていた。その斯界の権威を、23歳の村松はなぜ批判したのか。

この評論を読むと、プチブル、ブルジョア、プロレタリアートなど、マルクス主義関連の言葉が出てきて驚かされる。村松はその後の評論からはこれらの語彙を消し去っているので異様な印象を受けるのだ。文体も明晰とは言いがたいが、肝心のところは理解できる。要するに、戦時中の小林の韜晦を村松は許せないのである。

太平洋戦争に関して小林は「無智な市民として黙って」これに処したのだと語っている。第一線批評家が無智な市民として過したと不貞腐れていてよいものかどうかは措くとしても、彼は果して黙っていたとさえ云えるのだろうか。

「彼はあまりに多くのことを語っていた」と村松はいい、証拠として「戦争について」「事変と文学」「神風という言葉について」を挙げる。「帝国主義戦争のために彼がどれくらい提灯持ちをしたか、今更説明する必要もなかろう」。たとえば「戦争について」で小林はこういっている。「文学者たる限り学者は徹底した平和論者である他はない。従って戦争という形で政治の理論が誇示された時に矛盾を感ずるのは当り前の事だ。僕はこの矛盾を頭の中で片づけようとは思はない。だれが人生を矛盾なしに生きようなどとお目出度い希望を持つものか。同胞の為に死なねばならぬ時が来たら潔く死ぬだろう」。

「歴史とは『死児』であるよりもむしろ自分の手で育ててゆく子供に似ていると信じているぼくらには、昔習い覚えた軍略の蔭で安楽なポーズを維持しながら、己の悲劇に読経している様な態度を、到底我慢することは出来ない」と村松はいう。「あの、戦争という悲惨な代償を支払ってぼくらがかち獲た最大の教訓の一つは、政治的現実の推移に黙って処することが屡々どんなに大きな罪悪であるかということである」。「だから、戦争のための講和条約が結ばれようが、二十ケ師団の『警察』が出来ようが、労働者弾圧法が布かれようが、ぼくらは自分らの意志をかためてゆくばかりなのだ」。

以上から判るのは、評論活動に人生を賭ける決意をしていた23歳の村松は、当時の「逆コース」に危機感を持ち、言論弾圧の戦時下を「韜晦」で生き延びた評論家を反面教師として全否定したことである。これが村松の原点である。実際その後の村松は、政治情勢の変化のなかで、小林のように「無智な一国民として」「黙って処す」ことはなかった。

ハンガリー事件と共産主義への失望

1956年10月のハンガリー事件は27歳の村松に衝撃を与えた。当時の日本人知識層が深刻な思想的打撃を被った状況は、小島亮の研究に詳しい(『ハンガリー事件と日本』)。ソ連共産党第20回大会でスターリン批判を行ったフルシチョフ政権が、スターリン時代と全く同じ軍事行動をハンガリーに行い「ハンガリー・ショック」を世界に与えた。小島の分析はこうだ。スターリン批判はスターリン個人の批判であり、スターリン体制の批判ではなかった。それは「スターリン体制を守るためのスターリン個人の批判だった」。

この事件は世界中に論争を引き起こした。特に社会主義国の共産党はソ連の軍事介入を理論的に説明する必要に迫られた。1956年当時の日本の論壇状況について、小島は次のように記す。

言論界においても『中央公論』『世界』といった総合雑誌の知的権威は抜きんでた地位を保ち、主として旧帝国大学出身の知的エリートによって構成される「論壇」もまだ輝きを失ってはいなかった。この「論壇」なる世界の威信が揺らぎはじめるのは、ほんのわずかな後であるが、見方を変えれば、ハンガリー事件に示される社会主義思想の権威失墜も「論壇」崩壊過程のスピードを速めたと考えることができる。

なぜならば、「論壇」中の支配的イデオロギーは、マルクス主義とそれにきわめて近似した特徴を有する日本型近代主義の連合より成立しており、論者によって程度の差はあれ、既成の社会主義国・党派にいちじるしく好意的な言論を大量生産していたからである。

当時の論壇は社会主義に多大の関心を寄せており「論壇」のエリートが一般大衆を啓発するという形式それ自体が前衛党モデルそのものであったと小島は指摘する。このような社会状況において、各政党がどのような理論的対応を行ったのか、またその知的混沌からどのように新左翼が登場したのかを、小島は鮮やかに分析している。

村松が受けた深刻な思想的衝撃は、彼がフェレンツ・フェイトの『民族社会主義革命――ハンガリヤ十年の悲劇』を、清水徹、橋本一明と翻訳して翌年刊行していることから明らかだ。解説は村松、橋本、清水の順の連名だが「ぼく」という一人称を用いていることから村松の筆と考えられる。翻訳の動機は以下のとおりである。

この歴史的な悲劇をいかに評価したらよいか? 歴史のなかに生きる人間の一人として、ぼくらはぼくらの未来にこの悲劇をどう生かしたらよいか? ――それにはまず舞台を知らねばならない。だがこれはたやすいことではない。ハンガリヤはぼくらには遠い国であり、その国情の特殊性も詳細な歴史もあまり知られてはいなかった。このような不充分な知識に立って歴史現象を性急に判断することの危険性は、あらためて言うまでもない。そうしたぼくらの欠陥を補う資料として、ここに全訳した『民族社会主義革命』〔原文仏語・神谷註〕はもっとも貴重な文献の一つである。

ハンガリー事件の世界史的意義を認めたことから、直ちに日本の知識層に、サルトルが序文を寄せた「世界最高のハンガリヤ通ジャーナリストの一人」の分析を提供することにしたというわけである。

奥付を見ると、村松は立教大講師、橋本は國學院大助教授、清水は東大助手である。村松の略歴には新日本文学会々員との記載がある。プロレタリア文学の流れを引く団体であり、1950年以降、日本共産党とは緊張関係にあったとはいえ、反戦平和の立場が明らかな団体だった。保守派文化人としての村松を知るわれわれは、共産主義に反感を持たない新進評論家としての村松にここで出会うのである。

当時の『新日本文学』を見ると、ハンガリー問題に関する記事が複数見出せる。1957年1月号には「ハンガリー問題と文学者の立場」と題して、安部公房、埴谷雄高、大西巨人の座談会がある。同号には「1957年における文学の状況NO1」として「ハンガリー問題と『アカハタ』」があり村松剛と井上光晴が執筆している。村松は『アカハタ』の事件報道を追跡し、ソ連の軍事介入を非難するとともに、ソ連擁護の日本共産党を批判している。

相手は一握りの反動分子などではない。「労働者、勤労者農民、知識人諸君。」すなわち、広汎な国民大衆が敵なのだ。ニュース映画を見ると、戦車は相当の遠距離から建物を砲撃している。こういう荒っぽい破壊を行わねばならないのも、原因は同じところにある。かつてナチスや日本軍は、民衆のパルティザン化にあい、どれが敵か見分けがつかなくなって、ついに徹底的な殺戮と破壊との「清郷」行為に出た。そしてますます、民衆の敵意をそそりたてた。立場こそちがえ、いま赤軍がこれと同様のことをしたのである。〔中略〕直接の問題は、何といっても国民全般の反共化にある。 反共化にさせた事情はソビエトの政策だ。〔中略〕一切の暴力を否定する、などとは言わぬ。歴史が弁証法につらぬかれている以上、そして弁証法の発展は対立を契機とする以上、対立抗争は不可避であり、場合によっては流血の惨事もさけられまい。絶対的平和主義など、現実的にはセンチメンタリズムだ。〔中略〕ただ、こんどの惨事がその必要悪だったとは、ぼくには信じきれないのである。反共化した大衆を武力で弾圧し、ブチ殺すことが、大衆を救う唯一のみちであり必要悪であるか。他の、もっと漸進的な方法があり得たはずだろう。困難であっても、それをさがし出すのが政治家の義務である。

村松はこのように述べ「クレムリンは正しく、プラウダは正しく、彼らに殺されるものは、殺される方がいつも悪いのだ」と皮肉混じりに『アカハタ』の報道姿勢を非難する。「アカハタはプラウダの出店ではないはずであり、日本共産党はクレムリンの番犬ではないはずだが、そして社会主義とは、人民にとって何が最善の策かを、たえず疑い、たえず検討するもののはずだが」とも記している。

日本共産党はハンガリー事件で最大の打撃を受けた立場にあり、党内でも理論的闘争が起きていた。村松がソ連と日本共産党を烈しく批判しているのは、期待するところが大きかったからであろう。「社会主義とは、人民にとって何が最善の策かを、たえず疑い、たえず検討するもののはず」という言葉には、日本の将来の命運を社会主義に託そうとする思いすらうかがわれる。

「論壇」はマルクス主義的な近代主義の論調に支配されていたから、そうした思潮のなかに村松がいたのは不思議ではない。しかし、ハンガリー事件は村松に、共産主義国家ソ連に対する大きな疑念を抱かせた。その後、村松は反共産主義へと転向する。

当の敵であるアメリカが、ヒューマニズムの旗をかかげてはいってきた。日本にも豊富な文化伝統はある。しかしそれは戦争中に、勝つためには文字どおりネコの手でも借りたかった軍部によって、動員され、利用しつくされていた。利用には当然、歪曲がともなった。文化的には日本は、対抗する力をもたなかったのである。植民地的な風俗が、一夜にして焼跡を風靡した。 

抜けみちのない重苦しさである。その中であのころの学生たちの多くに、たった一つ、輝かしい光に見えたのが共産主義だったろう。この理論は過去の日本と、アメリカとをひとしく裁断する武器を提供する。あのころでもソ連は、国際法に違反して日本兵をシベリアに抑留して帰さず、東欧を植民地化し、そのほかスターリンの権力主義に関するさまざまな噂や報道はつたわってきていたが、学生たちの大部分は、それに耳をかそうとしなかった。というよりも、耳を貸したくなかった。共産主義までもだめだとしたら、希望はいったいどこにあるのか。(「占領の遺産」)

1964年に書かれた文章である。35歳の村松は、ここで共産主義に希望を托していた若き日の自分について語っていたのである。

独裁国家による言論の自由の破壊

1968年8月のチェコ事件の際、加藤周一は次のように記した。

言葉は、どれだけ鋭くても、またどれだけ多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものをみずから正当化することはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。 言葉に対するに言葉をもってしなければならない。1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。その場で勝負のつくはずはなかった。(「言葉と戦車」)

加藤はまた「戦車は言葉を無視し蹂躙しようと進んでいったのでは無かった。戦車は言葉の力を最も恐れていたからこそ、真っ先にその言葉を攻撃し粉砕しようとしたのだ」とも記している。1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したとき、村松は加藤のこの言葉に言及して次のように語った。

「圧倒的で無力な」ソ連の機甲部隊が、「無力で圧倒的な」国民与論に抗して進撃したと、12年まえにソ連軍がチェコを侵略したときに、加藤周一氏が書いていた。あんまり奇妙な文章だったので、いまでもよく覚えている。つまり加藤氏は軍事力がいかに圧倒的でも民衆の声のまえには無力である、といいたかったらしい。 しかしこれは形容詞の順序を変えただけの、ことばの遊びではないのか。無惨におしつぶされたプラハの春が、その後どうなったかはだれでもが知っている。

ソ連の軍事力はチェコ・スロヴァキアにたいして圧倒的であり、一向に無力ではなかった。チェコの国民が何を思おうと、素手で戦車集団を追い出せるわけがない。

村松は記憶で書いており、引用も要約も不正確だ。ここでの「戦車」や「言葉」は国家的暴力と自由な言論という象徴的意味を帯びており、人々の記憶に刻まれる印象深い言い回しを用いることで、国家的暴力に抗する自由な言論の擁護を加藤が主張したことは明白だ。

村松の苛立ちは、ソ連の強大な軍事力は言論の自由そのものを破壊するものであることを骨身に沁みて理解しろということだろう。戦車はそもそも自らを正当化する必要がないのだ。ハンガリー、チェコ、アフガニスタンへの侵攻は、相互援助友好協定のような条約を結ばせて内政干渉の糸口を作り、最終的に侵略を行うという点で類似している。ソ連は日本にも善隣友好条約締結を呼びかけているが、歴史の教訓を忘れるなと村松は主張する。

「ソ連はおそろしい、ソ連は共産主義国である。故に共産主義はおそろしい、故に北大西洋条約を強化しよう」という西洋知識人の意見は「米国も、ソ連も、やることは同じだ」という意見が真実の半分を伝えているのに対して、つじつまが合っていないとも加藤はいっていた。 ポーランドではチェコ事件をアメリカのキューバ介入と比較する意見があるというのだ。実は、村松はアメリカの軍事的介入直後にドミニカを訪れ、キューバへのアメリカ介入について記事を書いている。彼は米ソ両大国による小国への軍事的介入を同列に考えない。前者が民主主義国家であるのに対して、後者は党即国家の独裁制国家だからだ。

ソルジェニーツインの警告

村松は、言論の自由を尊び、弱点だらけの民主主義を信じた。「国家がほろびたら、自由もまたないのである。要は自由を守る国家を、つくってゆくことだろう」(「「自由」この耐えがたきもの」)と彼はいう。

1982年に来日したソルジェニーツインと面会したときの印象深い話がある(「共産全体主義のもたらしたもの」)。「共産主義にたいするあなたの考え方に、私は賛成ですが、残念ながらあなたのように生死の境をかいくぐってきた経験が私にはなく、したがって私のことばにはあなたの場合ほどの強力な説得力がありません」と村松は言った。

これはむろん挨拶だったのですが、このことばにたいしてソルジェニーツイン氏はにこりともしないでこたえました。「残念ながら」などというものではない。

「あなたもいずれ、私のようなめにあうでしょう。」

「その危機意識の深刻さに私は驚き、彼の心の傷の深さを、改めて見る思いがしました」と村松は続ける。彼には、日本がソ連のようになる未来は想像できず、作家の深刻な危機意識を分かち持つことができなかったのだ。

村松は内閣官房内閣調査室の研究会メンバーとしても活動したが、総理大臣の取り巻きにはならず、政府の政策を無条件に支持することもなかった。存命ならば、自由を抑圧する社会になりゆく日本を座視するとは思えないが、現政権を支持する団体が自らの活動に由来することには、憂愁を禁じ得ないだろう。

「戦争のあやまち」という文章で、村松は「民族の歴史には栄光もあれば汚辱もあるのであって、それを醒めた眼でみつめるところから本当の自信が生まれる」と述べ、自分の過ちは認めた上で、相手の過ちも指摘することが大切であると述べている。彼は浅薄な平和主義を批判する文脈でこのようにいうのだが、あたかも歴史修正主義的傾向を持つ近年の保守派への批判のようである。

冒頭で言及したニーメラーの警句は「ナチスが最初共産主義者を捕まえたとき、私は声をあげなかった」と始まる。共産主義者ではなかったからだ。次に社会民主主義者が、その次に労働組合員が連れていかれたときにも声をあげなかった。そして「彼らが連れに来た時、私のために抗議してくれる者は、誰一人残っていなかった」(三島憲一訳)と結ばれる。

日本学術会議問題に関連して、日頃から政権を擁護するジャーナリストや評論家、大学教授が、大小のメディアで、同会議や大学の批判を繰り広げている。言論の世界に身を置く者として、批判すべき相手を見誤っている。権力の矛先がいずれ自らに向かうことがわからないようだ。「あなたもいずれ、わたしのようなめにあうでしょう」という『収容所群島』著者の警告を我々は噛みしめるべきだ。民主主義を防衛するために、心ある保守系言論人の責務が問われている。

かみや・みつのぶ

1960年生まれ。日本近代文学専攻。博士(学術)。著書に『須賀敦子と9人のレリギオ』(日外アソシエーツ)、『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究』(関西学院大学出版会)など。

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