特集●問われる民主主義と労働

労働組合はどこに行くのか?

結成から30年を迎えた連合に想う

東京大学名誉教授 田端 博邦

1 はじめに

労働組合の連合が、昨年11月21日に結成30年を迎えた。本誌編集者の依頼で筆をとることになったが、これまで連合の内部で活動したこともないし、外部からの観察者としても専門的に連合を研究対象としたことはない。したがって、以下の文章は、研究論文と言えるようものではなく、随想という意味でのエッセイである。

筆をとるにあたっての私の問題関心は、日本の労働組合はどうなっているのか、どのようになるのだろうか、ということである。言うまでもなく、連合(日本労働組合総連合会)は日本の労働運動を代表する組織であるから、連合について語ることは、半ば、日本の労働運動について語ることになるであろう。

労働世界の変容

私の公式の専門分野は、法学のなかの労働法である。私が労働法の勉強を始めたころ(1960年代末)、労働法学における中心的な議論・研究の対象は労働組合や労働協約について扱う「集団的労働法」の分野であった。労働組合の組織や運動、団体交渉や労働争議が高い関心を集めていたのである。

このような研究状況は1990年頃を境に、大きく転換した。「集団的労働法」から労働契約や就業規則を扱う「個別的労働法」に関心の中心が移ったのである。労働法学者の関心の移動はもちろん、経済社会の変化や労働運動の動きを反映している。例えば、労働法学にとっては重要なことであるが、労働立法に大きな変化がこの時期に生じている。1985年に労働者派遣法が成立し、80年代終りに近い時期に労働時間制度を中心にした労働基準法の大幅な改正が行われている。戦後労働三法が制定されたのち、日本の労働法の世界では制定法の大きな改定や新法の制定はそれまで非常に少なかった。

しかし、90年代以降、労働基準法(労働時間、労働契約の期間)や派遣法の改正が頻繁に行われ、これらに加えて雇用平等や育児介護に関する立法が相次いだ。これらの法制は、もちろんその運用については労働組合が関わる場合があるが、基本的には「個別的労働法」あるいは「労働市場法」に属するものである。労働紛争の解決についても、それまでは労働組合による団体交渉が基本的な解決手段であったが、ついに2001年には、法律の世界でも、個別的な労使紛争を特別に扱う個別労働紛争解決法(2001年)が制定されるにいたった。

こうした個別労働関係に関する立法の動きを総括するようなかたちでまとめられたのが2007年に制定された労働契約法(いわゆる労契法)である。これによって、「労働契約」の概念は労働法学の中心的な概念になった。このような事情の中で、労働法学における問題関心の移動は決定的なものになったのである。

このような労働法学における問題関心の変化が生じた時期は、まさに、それまでの労働4団体が解散して、連合が結成された時期と一致している。このような一致は、ある意味では偶然的なものである。しかし、連合前の代表的な組合、総評(日本労働組合総評議会)の時代と連合結成以降の時代との間には、労働運動においても大きな変化が生じている。

2 見えなくなった労働組合の姿

連合の結成(1989年)は、日本の労働戦線を統一することによって労働運動全体の力を強めるものと当事者によって認識され、当時850万人と言われた組合員数をさらに1000万人にまで拡大する、さらに強大になった労働組合の力を背景に政権交代をめざす、ということなどが目標とされた。

低下する労働組合の組織率

しかし、直近の労働組合基礎調査では、連合の産別加盟組織人員は3000人増で、686万4000人となっている。一般に、十数年ぶりに700万人台を回復したと言われているが、700万人としても結成時の850万人からすると17%も減少しているということになる。ちなみに日本の労働組合全体の組合員数は1000万人台をかろうじて維持しているが、組織率はついに17%を割ってしまった(16.7%)。

しかし、このような組合員数の減少について、連合やその他の組合の主体に責任があるとは必ずしも言えない。

総評の運動が盛んだった1960年代、70年代には、労働組合の組織率は、32%から35%の間で高原状に安定していた(当時雇用労働者数は増加し続けたから、組合員数も増加した)。そうしたトレンドが減少に変化し始めたのは、76、77年である。79年には32%を切り、83年には30%をも下回るようになった。それ以降は、ほぼ直線的に、組織率は低下し続け今日にいたっている(その間、組合員数には組織率ほどの大きな変動はない)。

連合結成前の一定の時期、そして連合の30年は、労働組合の組合員が増えず、組織率は低下し続けた時代であった。それは、単純には、労働組合の雇用労働者を代表する機能が低下したということを意味する。組合の外の社会からは、組合の影が薄くなるということを意味するであろう。そのような組織率の低下は、総評時代の末期、連合結成の10年ほど前から始まっていた。

減少する労働争議

同じように、労働争議の頻度や規模について見てみよう。

争議行為の件数は、総評の時代には、1958年に1000件を超えた後、65年には2000件、68年には3000件を超え、74年に9500件以上というピークを記録したあと、1985年の4000件台まで高い数値が続いた。86年以降は再び1000件台に戻り、このトレンドは連合結成の翌年1990年まで続いた。1991年からは、1000件台を割り、2009年からは100件台も割って、二桁の数値にまで減少している。争議行為の件数は、1980年代の半ばに顕著な減少過程に入り、今日では極めて低い水準になっている。大まかに言えば、60=70年代から比べると、近年の争議行為件数はほぼその1%程度にまで低下したと言える。

日本の労働争議統計には、半日以上の争議行為(使用者側の行うロックアウトを除けば、労働者のストライキ)についての労働損失日数を集計した統計が示されている。この労働争議損失日数(以下ストライキに限定)を見ると、1955年で330万日、60年で481万日、ピークの1974年では960万日となっている。争議の損失日数は、オイルショックの物価上昇による74年のように例外的に大きな日数になる年や、大規模な企業や事業所の長期ストが起きた年とそのようなものがない年との差が大きいために平均値をとることは難しいが、400万日程度がこの時代の平均的な数値だったとみられる。

その後、77年頃から大きな減少傾向に入り、79年には100万日を割り込んだ。これは、戦後それまでのどの年にも見られない低い数値である。最近の数年について見ると、損失日数は2万日を下回り、最新データの2018年には1471日になっている(労働争議統計調査)。60=70年代の水準の実に100分の1から1000分の1の水準になっているのである。

このような労働争議の減少は、日本における労働運動や労使関係のあり方が、かつての総評時代から今日の連合時代との間で、質的な変化をしていることを示唆するであろう。ただその変化は、総評と連合というナショナルセンターの違いをそのまま意味するのではない。それは、それぞれのナショナルセンターが中心となっている時代の差異を意味しているのである。それぞれ「…時代」と記したのはそのためである。

問題は、その変化がどのようなものであり、その原因がどのようなものであるか、ということである。

3 企業別組合が問題なのか?

なぜ、日本の労働組合はこのように衰退しているのか、それは、日本の労働組合が企業別組合であるからではないか、という議論がある。

ここで企業別組合というのは、もちろん、連合自体がそうであるというのではない。単位労働組合である企業別組合が、財政権限、交渉権限、争議指令権限などをほぼ独占しているために、連合(連合以外のナショナルセンターについても実態は同様であろう)や産別組織の運動の方向づけを決定する力が企業別の単組に握られているのではないか、という認識がこのような議論の前提になっている。

企業別組合はどうしても企業内従業員の利害を優先するために、それぞれの企業内で決定する賃金や労働時間について、同一産業内の企業間競争を考慮せざるをえない。もし産業別労組が、産業レベルで団体交渉を行うならば、交渉で決定される賃金や労働時間は産業内のすべての企業をつうじて共通のものになる(通常、最低条件)ために、個別企業間の競争に左右されることがなく、むしろ反対に企業間競争の共通の土俵を設定する役割を果たすことになるであろう。しかし、日本には、このような産業別の交渉も労働協約も存在しない(春闘は類似の機能をもつと見られている)。これが日本の労働組合をよわめてきたのではないか、と考えられてきた。

組織率低下や争議減少の原因

しかし、日本の企業別組合のこのような弱さが組織率の低下や争議件数の低下をもたらしたわけではない。連合の取り組み方のためでもない。

その最も強力な理由は、先に見た組織率の低下等の労働組合の弱体化傾向は、1980年代中頃から始まったのであり、それ以前には、そのような傾向は見られないということである。この二つの時期をつうじて日本の労働組合の組織的構造は、基本的には変化していないからである。これらの変化は、総評時代と連合時代の違いを示していると言うことはできても、それは分かりやすく言うためのラベルにすぎず、その動きは、前述したようにナショナルセンターの交代とは異なる時期に生じているのである。

さらに、もうひとつ、新しいデータからその理由を述べよう。それは、日本と同様の先進国において、労働組合の組織率の低下傾向は共通の現象だということである。本誌に掲載した前稿(「グローバリゼーションと労働運動(上)」、『現代の理論』第19号、2019年5月)で示したように、OECD加盟諸国の労働組合組織率は80年代を起点として低下傾向を描いており、なんと日本のそれは、OECD平均とほぼ厳密に一致しているのである(前稿第1図)。職業別や産業別の交渉が中心のヨーロッパ諸国は、平均値よりもかなり高い水準であるが、ほぼ同様のテンポで低下している。争議行為については同様の図を示すことができないが、組織率と同じように減少していることは次に掲げる表のOECDの資料から明らかである。

表 雇用労働者1000人当たり労働争議損失日数

19851990199520002005101112131415
フランス72752878458116431877607981--
ドイツ2148011234431
日本631100000----
スウェーデン126189177007092----
イギリス304841921915551017316
アメリカ73555116113289215

 資料:OECD (www.oecd.org/els/industrial-disputes.pdf)から作成

この表は、1985年から2015年までの各国の雇用労働者1000人当たりの労働損失日数を示したものである。なお、原表は34加盟国、2未加盟国のデータを掲載しているが、本稿では、必要最小限の6か国にしぼっている。

まずこの表で明らかなことは、各国の数値の間には非常に大きな差異があるということ、そして年ごとの争議行為損失日数はかなり激しく変動しているということである。これらは、それぞれの国の労働運動の特徴や、それぞれの時期の経済情勢や労使紛争の状況を示している。そこからは多くの興味深い事実が見いだされるであろう。これについては、のちに部分的に再論する。

しかし、そのような変動や差異を無視して、長期の大きな流れをこれから読み取ろうとすれば、1985年以降、とくに、1995年以降にはっきりとした減少傾向が見られ、2000年以降には各国とも低い水準に落ち着いているということができる(フランスは例外か?)。

つまり、なお各国間に大きな差異が残ってはいるが、日本における争議損失日数の低下傾向は日本だけの特異な現象ではなく、世界の先進国に共通の現象であるということができるのである。企業別組合の弱点のために、日本の労働組合だけが弱っていると言うことはできない。

したがって、組織率、争議動向のいずれの点からも、日本の労働組合あるいは労働運動の大きな後退が特殊日本的な事情によってのみ生じたのではなく、世界的な資本主義の動向によって生じたと見ることができる。世界的な先進国における労働運動の「黄金時代」に総評中心の時代が、その「冬の時代」に連合中心の時代が対応しているのである。

連合評価委員会の最終報告(2003年)が「連合の行っている運動も活動も、国民の眼には、はっきり見えていないのではないか」、「労使協調路線のなかにどっぷりと浸かっていて、緊張感が足りないと感じられる」(3頁)と述べたような状況は、まずは、世界的な資本主義のあり方の変化を背景にしたものであって、たんに主体的に解決しうるというような性格の問題ではなかったと言える。

4 やはり、企業別組合は問題

ドイツ-日本-スウェーデン

前節の国際比較では、もっとも大まかな共通のトレンドだけを取り上げた。しかし、前出の表をもう一度ご覧いただけるなら、もう一つの特徴を見いだすことができるであろう。

それは、ドイツ、日本、スウェーデンの低い損失日数のグループとフランス、イギリス、アメリカの相対的に高い損失日数の国のグループに分けることができるということである。

このグループ分けからすぐにわかることは、争議損失日数が高い国が組織力や交渉力が強い国とは必ずしも言えないということである。フランスの組織率は例外的に低位であるし、サッチャー政権以来の組合いじめを受けてきたイギリスでは、産業別交渉体制が崩壊してしまっている。これらの国で争議頻度が高いのは、交渉力が強いためというよりは、交渉だけによって紛争を解決しうるほどの強い交渉力がないためだとも言いうる。

他方、低損失日数の国では、スウェーデンは高い組織率と強い交渉力を持ち、ドイツは長年にわたって強固な産業別協約体制を維持してきた。このように見ると、争議が少ない国では労働組合の交渉力がむしろ強いとさえ言えそうである。日本もそう言うことができるのか。

そこで、この表をさらに見ると、これら3か国のなかでも日本の低さが際立っている。2000年の1日のあと、2005年からは一貫してゼロが続いているのである。もちろん、この表におけるゼロは損失日数がまったくないことを意味しない。雇用労働者数との関係では5万、6万日などのオーダーにならないと1にならないためにゼロとなっている。最近数年間の日本の損失日数は、千日台、1万、2万日台である。

かつて争議損失日数がきわめて低かったスウェーデンでは、85年から95年までの間にかなり高い数値を記録したあと低位に移行するが、それでもなお、表に出ている年のうち2か年でゼロを記録しただけで、2010年以降にもそこそこの損失日数を記録している。ドイツも同様である。2000年のゼロ以外は、低位ではあるが損失日数を記録し、2015年には特に高い数値が記されている。日本のように一貫した、徹底した低下傾向はどちらの国にも見られない。

これをどう評価するかは、ひとつの重要な問題である。しかし、その問題に入る前に前述のスウェーデンやドイツの強い交渉力の意味をもう少し考えておこう。

スウェーデン、ドイツの強い組合

60=70年代の高度成長期に、この2国は例外的に低位の争議損失日数を記録し続けた。しかし、それは、労働組合が争議行為を行う力がないためにそうだったわけではない。ちなみに、当時の日本の損失日数は国際比較で平均的な水準にあり、両国とは大きな水準の開きがあった。

スウェーデンでは、30年代から70年代まで40年以上の長期に社会民主党政権が維持されたことに示されるように、組織率が80%に及ぶきわめて強力な労働組合が存在していた。そして、戦後の高度成長期には、賃金決定の基本が全国的な中央交渉でなされ、経済政策の決定についてまで労働組合は強い影響力をもった。端的に言えば、労働組合が支持する政府とともに労働組合優位の労使関係が形成されていたのである。このような労使関係のもとでは、労働争議がない(少ない)ことは、組合の言い分を争議前に経営側が飲んだからだと考えるのが自然である。激しい力の対決をする以前に、労働側の主張が通るというような関係は、労働組合の強い交渉力というほかない。ちなみに、戦前期にはスウェーデンは非常に高い争議率を記録している。

ドイツの労働運動は戦後に再編されて、統一的な労働運動DGBが形成されたが、ドイツの労使関係の基本的な特徴は、労使の信頼関係が強いことである。とくに使用者団体が労働組合に好意的であるということが国際比較的に注目されるべきドイツの特徴とされてきた。そのような信頼関係を基礎とする団体交渉・労働協約の制度は堅固なもので、労使関係の安定を支えてきた。加えて、事業所レベルにおける労働者代表制度(Betriebsrat事業所委員会と訳されている)、取締役会への労働者参加の共同決定制度など、産業レベルにおける労働条件基準の決定と企業・事業所レベルにおける労働者の経営参加は、労働争議の発生を防いでいた。高度成長期の低い争議率には、戦間期のハイパーインフレーションの記憶も作用しているかもしれない。

したがって、このような2国については、低水準の争議の記録は、なんら労働組合の組織力や交渉力の弱さを意味するわけではない。

他方、前出の表に掲げた両国におけるある程度の争議発生状況は、上に述べたような高度成長期的な労使関係が崩れ始めていることを示唆している。スウェーデンでは、全国中央交渉が80年代に崩壊し、ドイツでは、産業別協約基準の例外を許容する開放条項などによって産業別交渉体制が揺らぎ始めている。これらは、いずれも企業の使用者団体からの脱退など、グローバル競争やグローバル展開のための企業経営が伝統的な労使関係を破壊していることによって生じている。

両国における2000年代以降の争議発生は、そのような労使関係の不安定化によって生じたものと考えられる。そのような状況においては、労働組合が争議行為をする力を持っているということも、これは示している。

日本はどうなのか

日本の場合は、はたしてどのように評価したらよいであろうか。

ドイツやスウェーデンのように潜在的に強い交渉力があるが、労使関係が安定しているために争議が発生しにくいと見てよいのであろうか。あるいは、総評から連合が成立する過程で、左派的な潮流が排除されたために、右派中道のもとで争議行為を避ける組合運営がなされているためにそうなっているのか。

このほかにもさまざまな推測が可能であるが、まず、最初の強い潜在的交渉力という仮説は、高度成長期においてもそうであったとするなら、この時期における日本の高い争議発生を説明しにくい。ドイツ、スウェーデンの場合はいずれもこの時期から低位の発生水準を示していたからである。この時期の日本の労働組合は両国のような異例の強い交渉力をもっていたわけではなく、その交渉力は通常の組合の程度のものであったといえる。

他方、この時期と比較して連合時代になってからとくに労働組合の交渉力が強化されたという証拠も見当たらない。交渉力が目的とする賃金や労働条件の状況を見ると、長時間労働や非正規雇用の拡大などむしろ負の現象(交渉力が低いと見られる現象)の方が目立つからである。

2番目の仮説のように、連合成立時点で労使協調的なリーダーシップによって労使関係が安定し、その結果として争議が減少したという見方はより説得力があるように見える。しかし、この仮説を取ると、1976年に始まる急激な減少傾向を説明できないし、また連合と別の潮流のもとでもほぼ同じように争議行為が減少していることも説明できない。76年はまさに、真の日本の労働運動の転換点だったと言いうるかもしれないのである。

それは“連敗春闘”の始まりの年であり、戦闘的な組合主義の運動が曲がり角を迎えた年であった。しかし、そのような転換は、労働運動のリーダーシップによって生じたというより、減量経営に象徴される経営側のスタンスの変化、日本経済や日本企業の危機という世論の形成、そのあとの『ジャパン・アズ・ナンバー1』(1979年)のような日本的経営を賛美する論調の広がりといった社会の動向に労働組合と組合員が飲み込まれてしまったと見る方が自然であるように思われる。

低成長による労働市場の弛緩もあり、経営者の社会的威信と交渉力は上昇し、労使の力関係はほぼ決定的に変わってしまったのである。80年代に入ってからの公企業の民営化はその動きを駄目押しした。そのような経営優位の枠組みが、連合結成とそれ以降の長い時代を支配してきたのではないか、というのが私の暫定的な結論である。

労働運動の潮流がもつ意味にはなお検討する余地が残るが、全体としては、日本におけるこのような労働運動の変化は、単純に労働運動の総体が弱体化したと見てもよいものであり、それは国際的に広がった「黄金時代」から「冬の時代」への転換を純化した形で示す結果になったということができる。前出の表に示される近年の損失日数の国際比較的特徴は、このように解釈できるのである。

日本で「冬の時代」が純化した事情のエッセンスは、労働組合が経営の論理に対抗する労働組合自身の論理を十分に持ちえなかったこと、そのために社会の風潮に対して労働運動が独自の自律的立場をもちえなかったという点にあるであろう。労働組合の自律性は、労働運動の生命線とも言うべきものである。この点では、労働運動の基礎にある企業別組合に問題であったということになりそうである。実際、連合の結成時以来の中心的課題のひとつは、企業別組合の弱点を克服して、産業別機能の強化をはかるということに置かれてきた。

5 労働組合の未来-むすびに代えて

1980年代以来、世界の労働運動が「冬の時代」のもとで弱体化されてきたとするなら、そのような時代を生みだしてきた原因の克服を、労働組合は目指さなければならないであろう。そして、そのためには、労働運動は、支配的な風潮やイデオロギーに抗する労働組合としての自律的立場を確立しなければならない。

「使用者団体や経営者団体、政党の当事者が、社会国家や労働者の権利、産業別一般協約などに対する徹底した闘いを宣言するときに、右翼的な方向への政治制度の転換や抑制の効かない資本主義へ向かう歩みに対して抵抗することが、労働組合の根本的かつ喫緊の任務である。」(『未来をつくる』4頁)

これはドイツのナショナルセンターDGB(ドイツ労働組合総同盟)が1996年の大会で決定した綱領『未来をつくる』の一節である。この時点で、すでに経営側からの労働協約制度や労働組合の権利に対する攻撃が目に見えるようになっていたことがうかがわれる。また、ドイツ的な社会国家、つまり社会保障や社会権を保障した国家体制へのネオリベラルな勢力からの攻撃が明確になっていることも示されている。

こうした状況に対して、徹底して闘うこと、抵抗することが労働組合の根本的な任務とされているのである。ドイツの労働組合のこのような一節をあえて取り上げたのは、ここにはドイツ労働組合の現状に対する明確な状況認識とそれに対処するための明確な姿勢が示されているからである。今日の資本主義の状況がどのような方向に向かっているのか、それに対して、労働組合は誰あるいは何に対してどのように闘わねばならないか、という根本的な問題が明快に認識されている。

これに続く一節も紹介しておこう。

「環境問題の解決に際して生じる問題に関する社会的正義は、市場の自動的な働きからは生まれない。それは、社会的な制御を通じてしか、したがって労働組合の、事業所・経済・社会における発言を通じてしか到達することはできないであろう。市場原理主義と規制緩和論は、まさに環境破壊的な力を解放することに寄与している。社会的な緊張と環境破壊は、社会国家を、したがって民主主義の社会的な土台を危うくしている。」(同上)

環境問題は、あるセクターの労働組合にとっては両刃のやいばである。大量のCO2を排出する製造業やエネルギー産業の企業にとっては、CO2の削減が人員削減や労働条件低下に繋がりかねないからである。雇用や労働条件を守るという基本的な労働組合の目的からすれば、環境問題は取り組みにくいということになるであろう。しかし、他方で生きた人間の組織としての労働組合にとっては、人間の健康や生存条件の確保はそれ以上に重要なことがらである。

ドイツの労働組合は、ここで人間の組織としての労働組合の立場に立っている。「環境の再生」は、そのような労働組合にとっては、無条件の目標であり、経済的利害の考慮によって左右されてはならない。しかし、もちろん、雇用や労働条件をそのために犠牲にしてよいということにもならない。その両者を可能とする道を探し出すべきであるし、探すことはできる、というのがドイツ労働組合の立場である。

反対に、経済的利害だけを重視する市場の論理や、それに任すべきだとする規制緩和論は、実際には環境破壊を進めてやまない、というのが労働組合の批判的な認識なのである。おそらく正しい認識であると思われる。

DGBのこうした認識は、DGB傘下の製造業中心のIGメタルや、DGBが加盟する欧州労連ETUCのそれでもあり、また連合も加盟する国際労連ITUCの認識でもある。

連合の大会文書などを参照すると、連合もまた環境や民主主義、さらには国連のSDGsを重要な課題として取り上げている。また、「市場万能主義」の批判もかなり早い時期から行っている。しかし、このドイツの文書と比較すると、現状の分析や目標設定に至る論理にいまひとつ明確さを欠いているように思われてならない。

今日の状況の的確な分析と明確な労働組合の、人間の立場に立った理念や思想を明確に確立することが、おそらくこれからの日本の労働組合には求められている。

付記: 当初の計画では、この最終節に当たる部分を中心に執筆しようと考えていた。しかし、与えられた紙数が尽きてしまったためにまったく不十分なままに稿を閉じることになってしまった。また機会があれば再論したい。

たばた・ひろくに

1943年生まれ。早稲田大学法学研究科博士課程単位取得退学。同年東京大学社会科学研究所助手、助教授を経て90年教授。現名誉教授。専門は労働法。比較労使関係法、比較福祉国家論など。著書に、『グローバリゼーションと労働世界の変容』(旬報社)、『幸せになる資本主義』(朝日新聞出版)など。

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