特集●混迷の時代が問うもの

わたしたちは皇国史観を克服できるのか

明治維新と天皇制の150年 ―5(最終回)―

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

前号で、「戦後の歴史教育は皇国史観に貫かれている」と提起した。長谷川亮一は『「皇国史観」という問題』(白澤社発行、現代書館発売、2008年)で、皇国史観は文部省『国史概説』(1943年)によって確立されたとして、他の天皇中心史観とは区別した地位を与えた。

ちなみに「皇国史観」という用語は、朝日新聞データベースによれば、1943年8月が初出である(長谷川、前掲書)。『国史概説』の核心は、たとえば徳川家康は天皇から将軍に任命されることによって権力を得て、天皇から政治を委任されたという、天皇と幕府の関係の捉えかたにある。すなわち、武家政権がいかに専断をほしいままにしても、天皇の権威は幕府より上位にあったということである。この歴史像は戦後の歴史教育にも引きつがれている。天皇の権威は古代から現在まで、連綿と続いているという、万世一系の思想である。それはまた、奈良時代、平安時代、鎌倉時代という、『国史概説』で採用された時代区分の問題にもつながる。

1.『国史概説』の編纂

『国史概説』の編纂は、前号で論じた『国体の本義』と同様、1935年の天皇機関説事件、国体明徴運動をきっかけとする。編纂過程を長谷川の著書をも参考にしながら、確認しておこう。当時、高級官吏の資格を確認するための文官高等試験の受験科目では、「国史」が必須ではなかった。しかし、天皇の官吏たる者、神の国である日本の国体の本質を理解していることは、絶対条件であると考えられるようになった。それまでは国史は選択科目であったが、受験者はほとんどいなかった。1942年度から、筆記試験と口述試験ともに国史は必須科目とされた。「憲法」でさえ選択科目であったにもかかわらず(ただし、1944年度からは、学徒出陣のため、高等試験そのものが休止となっている)。

しかし当時、高等教育用、高等試験用の教科書や参考書は存在しなかった。そこで文部省は、当時の歴史学界の総力をあげて、『国史概説』の編纂にとりかかった。1941年4月、教学局内に臨時国史概説編纂部が設けられた。編纂部長は近藤壽治教学局指導部長、編纂嘱託、調査嘱託には辻善之助、穂積重遠、和辻哲郎、久松潜一、平泉澄、田辺元、西田直二郎、山田孝雄、紀平正美、安岡正篤、肥後和雄、時野谷勝など、戦後さまざまな立場で活躍する多数の学者たちが名を連ねている。

編纂方針は、「一、肇国の由来を明かにし国体の本義を闡明し国史を一貫する国民精神の神髄を把握せしむること、二、我が国文化の進展の状態を詳かにしその根拠及意義を明かにし以て我が国の世界に於ける歴史的使命を明確ならしむること、三、歴史的諸事象を総合しつつ各時代の特色を明かにし以て国運進展の様相を闡明し現代との関連を明確ならしむること(原文カタカナ)」と定められた。この段階ではまだ「皇国史観」という表現はなく、また天皇が世界を支配するという八紘一宇の精神に基づいた大東亜共栄圏の建設のための精神を培うための歴史書という性格が見てとれる。『国史概説』(上巻)の刊行は、奥付によると、1943年1月20日である。

これまでの皇国史観批判では、社会経済史がない、民衆の主体性が描かれていないという指摘があったが、それは『国史概説』以前の天皇中心史観に向けられるべきもので、「国史概説」にはあてはまらない。詳細は長谷川前掲書に譲るが、肇国、神話の時代と、万世一系を別にすれば、歴史家たちは、当時到達していた学問的水準を精一杯表現したといえよう。ただ、ほとんどすべての章の冒頭に、史実と異なる「皇室の御威徳」の節を執筆せざるをえなかったのは、心ある研究者にとっては苦痛だっただろう。戦後の歴史教育では、神話を歴史として語ることは否定された。しかし、万世一系説については批判できているだろうか。

2.鎌倉政権と天皇

『国史概説』の叙述は国体の本義の確認から始まる。緒論の冒頭である。

「大日本帝国は、万世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が萬古不易の国体である。……他の国にあつては、建国の精神は必ずしも明確ならず、而もそれは革命や衰亡によつて屡々中断消滅し、国家の生命は終焉して新たに異なる歴史が発生する。従つて建国の精神が、古今を通じて不変に継続するが如きことはない。……古来独自の文化圏を構成しながら、世界各国の文化を摂取しまた国民の協同和合を齎してよく自主的なる国家発展を遂げ、今日の大東亜建設の基礎に培い来つたのには、国民精神の旺盛なるによる……」

文部省編『国体の本義』を基礎にしながら、近衛内閣が打ち出した大東亜共栄圏に結びつけ、日本が世界の中心となりうることを示している。ここで問題にしたいのは、「萬古不易の国体」である。武家政権と天皇の関係をどう説明しているのか。

「第二編 中世 概観」の冒頭である。

「中世は、近世と共に武家が政治及び社会の機構に於いて顕著な地歩を占めた時代であるが、天皇が国家の中心であらせられることは不易である。朝廷はその御委任の政治たる限りに於いて武家による幕府政治を認められた。」

これが、『国史概説』、すなわち皇国史観の真髄である。もう少し詳しく見よう。「第二編第一章 鎌倉時代 第一節 朝廷と武家政治」の冒頭である。

「鎌倉時代は世に武家政治の時代と称せられ、鎌倉に開かれた幕府によつて凡ての国政が遂行せられた如く考へられ易いが、朝廷の権威は厳然として変ることなく、国政の枢機は朝裁を経て行はれ、叙位・任官・補職殊に国家としての神祇の祭祀はすべて朝権から出た。」

第一節の最後ではこう書かれている。

「頼朝は予てより征夷大将軍の職を望んでゐたが、朝廷ではこれを許し給はなかった。然るに建久三年(1852、筆者注、皇紀、西暦では1192年)三月、後白河上皇崩御あらせられるや、(関白九条)兼実の斡旋により頼朝積年の希望は達せられた。即ち頼朝は同年七月の臨時除目に征夷大将軍に補せられ、特に勅使下向して除書を伝達せられるといふ光栄を荷ひここに於いて武家政治は形式・実質共に備はるに至つた。……而して頼朝以後、征夷大将軍の職は武家政治の総帥者に授けられる例となり、その政庁は大将・将軍の陣営を意味する唐名に因んで、後世これを幕府と称するのである。」

わたしが本稿で最も強調したかったのは、この引用部分である。戦後歴史教育においても、天皇が源頼朝や徳川家康を将軍に任命することによって、彼らは幕府を開いたという皇国史観は厳然と生きている。

もっとも最近の中学校・高校の歴史教科書では、鎌倉開府は「イイクニ作ろう鎌倉幕府」ではなく、学界の研究状況を反映して、頼朝が義経追討のために全国に守護・地頭を置いた1185年とするのが主流である。『国史概説』はそれをも予測していたのか、「頼朝は(朝廷の)裁可を得たので、これに基づいて全国に守護・地頭を設置することとなつた。……実に守護・地頭の設置は、幕府が政治上・経済上の権限を全国に普く伸長せしめる基礎をなせるものであり、武家政治の基盤はここに存するのである」と、守護・地頭の設置も朝廷の裁可によるものだと念をいれている。

しかし、天皇が政治を委任した者たちは、いずれも天皇にとっては期待はずれだった。「中世 概観」冒頭では、先の引用に続いて、「併しながら幕府がその権力を利して屡々朝政に矛盾背馳する態度を取つたことはこれを責めねばならぬ」としている。朝廷は、鎌倉幕府を倒さねばならなくなった。

「後鳥羽上皇の討幕の御雄図(筆者注、いわゆる承久の乱)が挫折してより、幕府は益々権勢に驕り、北条氏の越権は皇位継承の御事にまで干与するに至つた。……その悪弊が次第に反省されるに至ると共に、武家政治が国体に悖るものなることが痛感されて来た。然るに幕府は、なんら反省するところなく、ただ頼朝以来の旧慣を固執せんとし、且つ不遜にも朝廷に対峙する意識を濃厚にした。」

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒さねばならなかった。『国史概説』では、「建武中興は後醍醐天皇の聖慮に出で、護良親王を始め翼賛の誠を致した公卿・将士の忠勤によつて実現したものであつて、我が国体本然の姿たる万機親裁の政治を恢復あらせられた大業である」と、明治維新に匹敵するほど高く評価している。

3.室町幕府と徳川幕府

室町幕府開府については、『国史概説』と戦後歴史教科書では異なっている。1911年、帝国議会において、南北朝を併記する国定教科書が問題とされ(南北朝正閏論)、三種の神器を持っていた南朝の天皇が正統とされ、南北朝時代は「吉野朝時代」と呼ばれることになった。足利尊氏は天皇家にとって、史上最悪の大罪人である。一般的には、尊氏が北朝の光明天皇を擁立し、また建武式目を制定した1336年を室町幕府の成立とするが、尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任命された1338年と主張する者もいる。

『国史概説』の室町幕府についての叙述は、戦後世代には分かりにくいだろう。「吉野時代」の後を「第三章 室町時代」として、冒頭に「室町幕府の名は足利義満が京都室町に政庁を開いたことから出ている」と書く。その次の「京都開府」の項で、「初め足利尊氏は頼朝と同じく鎌倉に幕府を開くことを考へたが、当時の京都に於ける事情から……京都に於いて恣に幕府を開いたのである」とする。「恣に(ほしいままに)」というのは、天皇・朝廷としては、幕府とは認めていないということである。その前後の、尊氏に対する批判、というより讒謗は、ここでは省略する。

「その後義満に至り、後亀山天皇が後小松天皇に御譲位あらせられたことによつて、幕府政治が自ら(おのずから)認められることになつたのである」という。この譲位は、1392年に南朝の天皇が、義満の斡旋によって北朝の天皇に三種の神器を譲ったことによって成立した。現在では「南北朝の合一」と呼ばれる。北朝天皇から任命されていた偽将軍の義満が、「おのずから」、正統な将軍となったということである。『国史概説』の立場は、義満は三代将軍ではなく、初代将軍ということになるが、同署には、「○代将軍」という記述はない。

武家政権で『国史概説』から唯一批判されていないのが、織豊政権である。短命政権であったからこその僥倖であろう。「信長・秀吉は正親町天皇・後陽成天皇の皇謨を輔翼奉り、内は勤皇の精神に基づいて統一の偉業を成就し、外は熾烈なる国民的自覚に基づいて海外発展の機運を昂め、以て安土桃山時代の溌剌たる歴史を展開せしめたのである」とする。信長と秀吉は、草葉の陰で苦笑しているにちがいない。

一転して、徳川政権に対しては厳しい。「第三編 近世 江戸時代(前編)」の冒頭である。

「武家政治は安土桃山時代にほとんどその様相を一変するに至つたが、次いで江戸時代に徳川氏が征夷大将軍に補せられて幕府を開くに及び、再び武家擅断の弊を見ることとなつた。……動もすれば翼賛の道を忘れて専恣に陥り、上は朝廷に対し奉つ不遜の罪を犯し、下は国民に対して秕政の陰翳を投ずることが尠くなかつた。」

家康の権力掌握については、このように書く。

「後陽成天皇の慶長八年(筆者注、西暦1603年)、……家康は右大臣に任ぜられ、且つ征夷大将軍に補せられたが、十月、右大臣を辞して江戸に下り、幕政の本拠をこの地に置いた。これは源頼朝が幕府を鎌倉に開いた故智に倣つたものと考へられ、家康が清和源氏たる新田氏の子孫と称したことによつても、その素志を窺ふことが出来る。」

将軍に任命されて幕府を開いたという論理は、頼朝、義満と同様である。しかし興味深いことは、近年の学説によると、家康が幕府を開けた根拠は、家康が源氏の長者として大名たちから承認されたということのようである。家康が新田氏の子孫であるということについては、現在ではほぼ捏造であるとされているが、嘘であっても認めざるをえない実力が家康にはあったということである。

幕末の徳川政権に対する『国史概説』からの批判は、読者も想像できるだろうから、省略する。北条氏も足利氏も徳川氏も、政治を委任してみたけれど、まともな政治はできなかった、だから王政復古の明治維新と、その後の日本の歩みは素晴らしいということになる。

4.家康は将軍にしてもらったのか

わたしが読者のみなさんに問いかけたいことは、源頼朝や徳川家康は、天皇から将軍に任命されることによって幕府を開くことができたのか、それとも自分の力で権力を手に入れたのかということである。これは自明の質問であって、ほとんどの人は、自分の力だと答えるであろう。

幕末を描いたしばらく前のNHK大河ドラマのなかに、最後の徳川将軍慶喜のセリフで、「何が大政奉還だ、家康公は自分の力で天下を取ったのだ、お返しするというのはおかしい」という趣旨のものがあった。これは脚本家の創作ではあろうが、「大政奉還」という、当時実際に使われたことばのなかに、天皇が将軍に政治を委任したという、『国史概説』の皇国史観の原点はあった。大政委任論は、徳川時代後期の老中松平定信が、朝廷から政治を委任されたのだから、幕府は公家をも処分できるという、幕府権力を強いものとする論理であったのだが、逆に徳川政権を滅ぼす論理となってしまった。

源頼朝も、徳川家康も、そして最大の朝敵である足利尊氏も、みずからの力で権力を奪った。それは中国の王朝の交替とどう異なっているのか。中国の場合、宋、元、明、清、中華民国、中華人民共和国と、国家の変遷がある。中国の場合、元や清は征服王朝であるために、別の国家であるという認識は当然のことかもしれないが、中華民国と中華人民共和国は別の国家である。ヨーロッパにおいても、同一の地域で異なった国家が変遷を繰りかえしている。

現在の日本国は、大日本帝国と連続した国家なのか、それとも別の国家なのか。明治維新によって、新しい国になったのか、それとも徳川時代と連続しているのか。明治維新が革命であったかどうかは、日本資本主義論争の最大のテーマであった。しかしヨーロッパの国家の交替は、ほとんど革命ではない。しかし、明らかに国家は交替している。

日本列島における政権の交替を、天皇によって政治を委任された者の交替である見方は、『国史概説』が描いた歴史像である。それこそが、各時代の支配者の上に天皇を置く、皇国史観である。

『国史概説』が刊行されて約半年後、その成果をうけて、1943年8月27日、『日本書紀』に始まる『六国史』に続く日本の「正史」の編纂が決定された。15年計画だったので、実現はできなかったのだが。この日、岡部長影文相は、「文部大臣謹話」のなかで、「皇国史観の徹底に資すると共に……国運隆昌の基礎に培はんとするものであります」と述べた。「皇国史観」ということばが、はじめて使われた。マスコミでも、「皇国史観」ということばが多用されるようになった。「皇国史観」の成立である。

5.徳川時代か、徳川国か

頼朝や家康が天皇から将軍に任命されて幕府を開いたという歴史観は、日本国民のあいだに根強く浸透している。それは、『国史概説』編纂に関わって、許される範囲で尽力した歴史学者たちが、戦後の歴史学をリードしてきたからでもある。本稿では触れられなかったが、『国史概説』がそれなりの科学性を反映していたからこそ、リーダーたちは、万世一系史観の根本的な見直しに思いいたらなかったのだろう。現代の若者も、「天皇家は世界で最も古い家柄で、誇るべき文化である」と発言する。

日本列島の時代区分として、『国史概説』は、「肇国、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、吉野時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代、明治時代、大正時代」という時代区分を採用した。それ以前は、「藤原時代」、「足利時代」ということばも使われていた。また、1930年代までの『尋常小学国史』の目次は、有力天皇や支配者、事件などを編年形式で並べていて、時代区分はしていなかった。『国史概説』の、そして戦後の歴史教育の時代区分は、天皇が、あるいは天皇が政治を委任した者が、どこにいたか、そして天皇は有史以来、支配者の上にいたという、皇国史観の時代区分である。

時代区分の見直しについては、すでに保立道久元東大史料編纂所長が積極的な発言を繰りかえしている。彼の提案は、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」にすべきだというものである。政治的中心がどこにあったか、誰が支配者であったかを基準としている。

保立道久は、古くから使用されている歴史用語、あるいは天皇家の内紛が歴史教育で隠されていることなどにも、万世一系思想が影響していると指摘しているのだが、わたしは保立道久の著書をさほど読めていないので、失礼ながら文字通り管見のかぎり、万世一系思想と歴史教育の関係について、どのように考えているのかは、知り得ていない。

ただ、「北条時代、足利時代、徳川時代」についてはある程度共感する。「ある程度」というのは、わたしは他国のように「北条国、足利国、徳川国」と表わすべきだと考えているからだ。徳川家康と明を建国した朱元璋は、本質的に異なるのか。朱元璋は征服王朝である元から民族国家を取り戻したというなら、縄文人の大地を蹂躙した天皇の一族、弥生・古墳文化の人々の責任を問わねばならなくなる。

連載のおわりに

わたしたちが今、生きている国家である日本国は、大日本帝国と同じ国家なのか、それとも別の国家なのか。明治維新で成立した大日本帝国と徳川国家は、同じ国なのか、別の国なのか。幕府は、天皇が政治を委任した政権であるという歴史観が、『国史概説』が定着したものである。それに基づいて、「奈良時代、平安時代、鎌倉時代……」という時代区分が作られた、皇国史観は今も生きている。『国史概説』を執筆した人々、すなわち皇国史観を作った人々が戦後歴史学のかなりの部分を担ったのだから、それも当然であろう。

幕府よりも天皇、朝廷のほうが上位であるという歴史観が、天皇家は千数百年も続く世界に例をみない家柄であって、日本という国は素晴らしいという幻想を維持している。イタリアの国民は、イタリアという国家は200年前に建国されたのであって、古代ローマ帝国とは別の国家であると認識している。日本国民は、「奈良時代、平安時代、鎌倉時代……」という皇国史観によって、明治維新によって作られた天皇制国家を支えているのである。

明治維新150年、人々は幸せになったのか。確実なことは、歴史教育を中心に、皇国史観は生きている。長谷川亮一『「皇国史観」という問題』と『国史概説』の刺戟を受けて、大風呂敷を広げたが、わたしたちは大日本帝国とは別の国を作れているのかという問いをみずからに向けることだけは辞めないでいたいと思う。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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