追悼/根本がんさん

反原発を貫いた一生とその行動原理

反原発とうかい塾 相沢 一正

最後まで反原発の闘いの先頭に立つ根本がんさん

根本がんさんは平和運動、とりわけ原発反対運動に生涯をかけた人である。

本籍地は東京都荒川区南千住で1933年1月22日に生まれた。その後茨城県那珂郡大宮町(現・常陸大宮市)に転住した。1947年3月にその地の高等小学校を卒業し、20歳代で病を患い、茨城県那珂郡村松村(現・那珂郡東海村)の国立結核療養所晴嵐荘に入所した。

荘内には患者自治会や「わだつみの会」が結成されており、自由で、文化的で反戦的な気分があった。世は、アイゼンハウアー米大統領の「平和のための原子」演説があり、中曽根康弘議員らの原子力予算案の国会提出のあった頃で、村の4Hクラブの若者たち・青年団などとの交流もあり、村内で「武谷三男講演会」が開かれたりした。

根本さんは荘内の文化人と交流し、1953年に日本共産党に入党した。ほぼ10年を経て、1963年3月に党内闘争に絡んで除名されている。その後、一時印刷所勤務に従事し、1967年7月から茨城平和擁護県民会議(県民会議と略)で事務局員として活動するようになった。1969年には日本社会党に入党している。この頃から、平和運動・原発反対運動にかかわるようになった。

その頃のことを回想して根本さんは、「社会党県本部は、1969年10月に県知事に対し再処理工場設置反対を申し入れ、そのときの県議会では再処理反対を前面に立てて論陣をはり、県労連と協力して県議会傍聴に数多くの労組員を動員しました」と、書いている(『燎原の火 現地における原発反対運動の概要』社会党原発対策全国連絡協議会 1985.11)。

茨城の平和運動・原発反対運動を担って

(1)茨城における平和運動・原発反対運動を語る際に根本さんの先輩でもあり盟友である寺沢迪雄さんがいる。ベトナム戦争が問題になった頃、水戸では、寺沢さんを中心に「水戸平和問題懇談会」(水戸平懇と略)という組織が作られ、ベトナムに平和を、という運動が始まった。また、東海再処理施設建設の動きが現実的になってきた1969年に水戸平懇や茨城大学の学生も加わって核燃料再処理工場建設阻止闘争委員会という組織も結成された。政府の目論むこの施設が、核兵器の製造に繋がりかねない危険な施設であり、平和の見地から建設を許してはいけないと考えたからである。

この動きは、先に触れたように県社会党本部の闘いと軌を一にしている。ベトナム反戦運動と再処理施設反対が結びつき、それが原発の使用済み燃料からプルトニウムを取出す施設だということで原発に結びつき、原発反対運動へという流れが形成されていった。根本さんはこれらの運動に当初から関わり、自立した市民・住民運動と位置づけリードしていったが、他方では県民会議の事務局員として、原水爆禁止運動など全国的に繋がる組織的な平和運動に関わった。いわば「二足のわらじ」を履いて原発反対運動にのめり込んでいったのである。

(2)東海再処理施設の設置計画と建設が始まっていくのに、平行しながら東海第二原子力発電所の計画が具体化してきた。日本原電が国に原子炉設置許可の申請をし、国は安全審査の結果、1972年12月原子炉の設置を許可した。これを受けて訴訟提起の準備が始まった。

寺沢さん、根本さんを中心に訴状作成に取りかかり、水戸巌芝浦工大教授に全面的に協力を頂き、代理人を引き受けてくれることになった宮沢弁護士らが訴状の体裁を整えた。1973年10月、東海第二原発設置許可処分の取消しを求める訴状を水戸地方裁判所に提出した。原告は17人。訴状の構成では、東海第二の立地上の危険性として、①周辺人口密度が高い(都市接近)、②多種多様な原子力施設が多い(過密化)、③日本初の110万キロワット(大型化)の三点をあげて論じた。

この裁判は1974年2月に第一回口頭弁論公判が開かれてから、東京高裁、最高裁と31年にわたる闘いとなった。結局敗訴するが、この間原告団をまとめ、裁判の継続を粘り強く担ったのは根本さんだった。弁護士や科学者に支えられたのはもちろんだが、運動としての裁判を守ったのは根本さんだったと、いえよう。

裁判が東京に移るに及び、根本さんの働きかけもあり県民会議の中に「原発対策部会」が結成され、改めて労働組合の支援が強められたが、これは原発メーカーの日立労組に配慮した組織結成であった。

3.この裁判の過程で、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故など世界的に大事故が起こった。これを契機にそれまで運動を続けてきた市民団体が「まとまって行動するようになって」、やがてそれらの「反原発、自然保護、平和・人権などのグループが一堂に会して、『反原子力茨城共同行動』という、緩やかでしなやかな反原子力ネットワークが誕生したのです。」と根本さんは、『反原子力茨城共同行動』(以下、『共同行動』)の結成のいきさつを語っている(未定稿の根本巌『東海村と原子力施設 反原子力茨城共同行動』より)。1988年のことであった。

1970年代までの茨城の反原発運動は、東海再処理反対運動から東海第二原発原告団の結成へとつながり、その裁判が反原発運動を担うという形で、かつ水戸市・東海村及びその周辺地域という狭いエリアでの運動に留まっていた。根本さんはかねがね、裁判闘争という原告団運動とは別の、そして茨城県域に広げるための活動母体が必要だと考えていたが、それが実現の第一歩を踏み出したのである。「緩やかでしなやかなネットワーク」という、根本さんの組織論は後で見るが、根本さんが構想していた組織が動き始め、「二足のわらじ」の活動は、一層強まっていった。

『共同行動』は当初、「春季の学習を中心とした講演会、秋季の『10.26反原子力の日現地行動』という街頭行動を軸に取り組まれ」(同上書)たが、次々に起こる原子力施設事故に対応していかなければならなかった。

1997年3月に起こった動燃のアスファルト固化処理施設の火災・爆発事故がある。市民調査委員会を、専門家に入ってもらって結成したが、「事故原因の追及はもとより、再処理施設の問題をはじめ、プルトニウム・マフやプルトニウム燃料開発室などの問題、ガラス固化施設の問題、リサイクル機器試験施設の問題、ガンマー線の測定など、共同行動はその市民事故調の行動をフォローしながら」活動を続けた。加えて本命の東海第二原発訴訟の原告団運動にもかかわらねばならず、多忙を極めた。脂ののりきった根本さんの獅子奮迅の活躍がなされた時期である(原子力資料情報室とのつながりも一層密になった)。

と同時に、「今は本当にヒトが必要ですし、チエもいります。こうした行動を支えるためのカネも集めなければなりません。」(同書)と、活動の苦衷も訴えていた。それは1999年9月のJCO臨界事故の起こる直前の頃である(21世紀の運動は省略)。

根本さんの市民・住民運動論

1974年5月の東海第二原発設置許可処分取消し訴訟の口頭弁論期日で、根本さんは原告としての陳述をなした。20年前の日本原子力研究所が東海村に設置される頃、住民説明にきた県の担当者は、住民の質問に窮すると、「お国の為だ」と言ったことに、根本さんは先の戦争中の意識との連続を嗅ぎ取り、国策としての原子力開発というタガが当初からはめられていたことを見抜いていた。

その後、「公共性」という言葉に置き換えられたが本質は同じことだとし、その「お国の為」「公共性」の名で推し進められようとする原発開発政策は、「住民の健康と生活を破壊し、人類の生存そのものまで脅かしかねない」と喝破していた。根本さんの原発反対運動はここに原点があると思う。

国策としての原発開発政策に対決し、それを変更させていく道は幾層にもあるが、根本さんの関心は市民・住民運動という直接民主主義の力によって、変更を迫り克服していくことに重きを置いていた。

市民・住民運動への関わり方は多様であること、その多様性を認めないと市民・住民運動は成り立たないと、根本さんはいう。「関わり方の多様性」とは、「定期的な会合にも欠かさず出席する人、会合には出ないが集会やデモには参加する人、集会やデモは苦手だけれども勉強会・学習会には出席する人、街頭での署名活動に進んで参加する人、いずれのものにも出てはこないけれど署名を頼めばこころよくやってくれる人」など、これらの関わり方を認めた上で緩やかに連帯することの重要性を指摘している。

また、その多様性は運動の中心メンバーにも必要であるという。中心メンバーのそれぞれが得意な面を担い、できることを分担して運動を進めていくことが大事なのだとされる。政党組織などで、「民主集中制」という組織原則が語られる。そしてしばしば、形式的な「民主」と実質的な「集中」の組み合わせとなり、「民主」は否定されて官僚的な組織に堕してしまうという経験を踏まえて、根本さんはことのほか組織における「民主」を強調したのかもしれない。もちろん政党組織と市民・住民運動組織は同列に論じられないとしても、だからこそ一層参加者の個性や参加の形の多様性を認めていく「民主」の必要性を重んじたのである。

そこから、ピラミッド型の組織的な運営を避けるために、一つの大きな組織を作るのではなく、小さな個性的グループをたくさん作り、必要に応じて連携する、という組織形態を主張する。いわゆるネットワーク型の組織である。

このような根本がんさんの構想する市民・住民運動の組織のあり方をまとめて抽象的に表現すると、「誰が指示するということではなく、誰に指示されるということでもなく、議論する中で決め自らの責任で行動する」ことだ、と(未定稿の根本巌「市民・住民運動って何」)。根本がんさんの生き様そのものではないか。

根本巌(本名白土巌)、2019年6月18日未明永眠。87歳

あいざわ・かずまさ

1942年生まれ、茨城大学文理学部卒。茨城県立歴史館主席研究員を経て2000年東海村議会議員、2016年まで議員を務める。著作に『茨城県における朝鮮人中国人の強制連行』、『眠らない街 検証東海村臨界事故』(編著)『地方自治のあり方と原子力』(分担執筆)など

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