論壇

ドイツ「68年世代」の50年をめぐって(上)

ベルリンに住み、その同時代的体験から

在ベルリン 福澤 啓臣

はじめに

Ⅰ.戦後のドイツ

1.保守的なドイツ、エリート大学生と淫行勧誘罪
2.西ベルリンと米国、反共の大学

Ⅱ.「68年世代」の反乱

1.非常事態法と院外野党とSDS
2.国際ベトナム会議と親米市民
3.ドイツを震撼させた二発の兇弾
4.反権威主義、店舗保育所・生活共同体と体制内長征 (以下次号)

III.SDSの解散とドイツ社会の変化

1.講座制大学からグループ大学に
2.70年代のベルリン自由大学と学習サークル『資本論』
3.ヴィリー・ブラント首相による社会改革の波
4.左翼勢力の急増と公職禁止令、赤軍派

IV.緑の党と脱原発

V.最後に:「68年世代」と連帯市民社会

はじめに

今年は、学生を中心とする「68年世代」の社会変革運動の50年目ということで、ドイツでは多くの回顧記事が書かれ、回顧映像がテレビでたくさん見られる。この運動は60年代半ばに始まり、ドイツ社会を現在のような成熟した市民社会に変革するきっかけを与えたという肯定的な評価に満ちている。

それに加えて、日本でドイツの反原発運動やエネルギー転換について話すと、ドイツでは脱原発と再生可能エネルギーによるエネルギー転換がなぜ可能だったのか、という問いを受けることが多い。筆者は、その出発点をドイツの「68年世代」に見出している。というわけで、今回はドイツの「68年世代」の運動、その後のブラント社民党政権の社会改革、さらに緑の党と反原発運動へと続く流れについて話してみたい。

日本の全共闘運動には直接触れないが、同運動の大いなる挫折とその後に続く社会運動の長い不在は筆者の脳裏にある。もちろん68年に起こったベトナム反戦運動と社会変革運動はフランスや米国その他の国々でも行われ、世界的に大きなインパクトを与えたが、ここではドイツに限定し、筆者が直接体験したことも交えて振り返る。

Ⅰ.戦後のドイツ

ドイツは第二次世界戦後東西ドイツに分割されて、東には(旧)ソ連の占領地域からドイツ民主共和国(通称東ドイツ)が1948年に誕生する。米国、英国、フランスの占領地域からはドイツ連邦共和国(通称西ドイツ)が生まれる。

西ドイツにとって東ドイツの存在は反共主義的な社会を形成させる土台を提供した。第二次世界大戦後に始まった東西冷戦構造が、この傾向に拍車をかけた。その結果、西側の盟主国米国に寄り添う政治姿勢は日本より強かったかもしれない。

日本の場合、連合国軍の占領は民主的な社会を誕生させたとも言える。その基本に日本国憲法がある。婦人参政権や労働組合の誕生、軍隊と徴兵の廃止、共産党の合法化、さらに大学におけるマルクス主義の隆盛など戦前の日本からすれば、軍国主義から解放されたともいえる社会に生まれ変わった。

ところが西ドイツでは東の共産主義体制への対抗措置もあってマルクス主義や共産党はタブーに近い存在だった。そしてナチスの支持者たちは一掃されるどころか、西ドイツで幅を利かしている状態だった。ナチスの体制はヒトラーとナチス党による暴力的な権力奪取によって生まれたが、国民の大部分が支えたから、敗戦後の社会にまで温存されたのは当然とも言える。戦後すぐ始まった冷戦の枠組みがさらにその温存構造を強めた。

1.保守的なドイツ、エリート大学生と淫行勧誘罪

筆者は67年の秋に、小田実氏の『何でも見てやろう』に刺激を受けて、片道切符でドイツに渡った。ドイツの友人たちの助けと、外国人に優しいドイツの制度のおかげで、大学に入れた。

ドイツの大学は連邦制の枠内で全て州立大学(国立に準ずる)だった。大学間の移動は自由だった上に、留学生からも授業料を取らないという鷹揚さだった 。日本人は日本の大学の教養課程を終了していれば、一生有効の大学入学資格者とみなされ、ドイツ語試験に受かるだけで入学できた。日本のような学士卒業はなく、文科系の学科では博士号取得後卒業した。1960年ごろからカリキュラムが5年の修士課程が導入されたが、急いで卒業する学生は見られず、多くは知的好奇心の赴くまま新しい教授を求めて複数の大学を渡り歩いた。25歳前に大学を卒業する学生はほとんどいなかった。当時の学生は大学への進学率が5%という本当のエリート集団だった。日本の大学および学生観とは大きく異なっていたので、驚きの連続だった。

当時の政治勢力分布を見ると、南ドイツは保守的で、キリスト教の価値観を中心とする政党CDU/CSU(キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟))が伝統的に強く、北ドイツは、工業化が進んだ地域なので、労働者階級の票を取り込んだSPD(社民党=社会民主党)が強かった。

筆者はドイツに住み始めて、まず大分保守的な社会だという印象を受けた。身を以て体験させられたのは、例えば淫行勧誘罪なるものの存在だった。ドイツ到着以来世話をしてくれたカップルと3人で旅行した時に、ホテルで彼らは別々の部屋を取るではないか。理由を聞いてみると、結婚していない男女は淫行勧誘罪のために同じ部屋に泊まれないとのことだった。しばらくして、筆者も自ら体験する羽目になる。下宿先の大家さんから、「あなたは部屋に夜中の十二時過ぎに女性を滞在させただろう。ドイツの法律では認められていない。自分は気にしないが、周りから苦情が来ている」と言って、追い出されたのだ。極端な例では、家族内でもこの法律は有効だった。未成年の子供の部屋に異性の友達が泊まったら、親の監督不行届きということで、罰せられた。そして、これらを目撃した大人には警察に届ける義務があるという。この例が示すように渡独当初は大分閉鎖的な社会だなという印象を受けた。

大学でも教授の授業は、講座制の常で講師、助手たちがきちんとした服装で前列席に座って、かしこまって聞いていた。ある日一人の若い助手が真っ赤なセーターにネクタイなしで座っていたら、学生たちが勇気ある、かっこいいと言っていたのが印象的であった。初めに南ドイツの大学に入ったので、余計に保守的と感じたのかもしれない。それと高度経済成長期の国際大都市東京とドイツの地方大都市という違いもあっただろう。

2.西ベルリンと米国、反共の大学

西ベルリンは東ドイツに囲まれた陸の孤島であった。西ドイツとは鉄道とアウトバーンで繋がっていたが、最短距離で170 kmもあった。東ドイツの国境ではパスポートはもちろん、厳しい持ち物検査があった。車は座席、トランクルームだけではなく、車の下側も鏡で見られた。怪しいとみなされるとシェパード犬も動員された。西ドイツ軍の将校は陸路の使用は許されず、飛行機で飛ぶしかなかった。1948年の6月から翌年の5月までソ連軍が、陸路を完全に閉鎖したので、連合国側は空路を使って220万人の西ベルリン市民の生活の面倒を見なければならなかった。この兵糧攻めによる窮乏体験もあり、西ベルリン市民は米国に深い感謝の念を抱いていた。

ヘーゲルが教え、マルクスが学んだベルリン大学は東西分割の際に東ベルリンに入ってしまった。ベルリン工科大学は西ベルリンに入った。戦後すぐには西ベルリンからも教授や学生が通っていたが、占領軍である赤軍の方針に批判的な教授に教室が割り当てられないなどの嫌がらせがあった。一部の学生が抗議すると、逮捕され、ソ連に連行されたりした。そのために、西ベルリンに総合大学を創ることになった。占領国である米国がフォード財団などを通じて資金的に協力し、米国の大学に倣ったオープンキャンパス(大学の敷地が一般市街から区別されていない)のベルリン自由大学が1948年に創立された。わざわざ自由がつけられたのは、東のベルリン大学を批判する意味もあった。反共の大学として出発したともいえる。

ところが、自由大学を取り巻く状況はその後創立者たちが意図しなかった方向に進展していく。まず西ドイツが基本法(憲法に準ずる)の軍隊放棄を改正し、1955年に再軍備をしたことが第一歩だった。翌年から男子には徴兵義務が生じた。武器を手にしたくない若者には、良心的徴兵忌避という選択があったが、厳しい審査を経なければならなかった。だが、占領地域である西ベルリンに移れば、徴兵制がなかったので、手っ取り早く忌避できた。そのため、平和志向の若者が西ドイツからたくさん移り住んだ。

64年8月のトンキン湾事件を経て、アメリカがベトナム侵略戦争に本格的に介入しはじめると、南ベトナム解放民族戦線や北ベトナム人民の勇敢な戦いが世界中で正義感を持った人々、特に若者たちに感情的に訴えるようになる。世界中で反米デモが多発し、ホーチ・ミンやチェ・ゲバラが英雄になる。

保守的なドイツ社会でも少数の若者、特に学生たちによる米帝国主義への批判が、遅ればせながら60年代半ばからティーチインやデモなどの形で表現されるようになった。しかし、東西分割後の西ドイツでは、米国は怖いソ連の赤軍から守ってくれる守護神のようなものだったので、米国批判は国民に受け入れられなかった。長髪の若者が米国や西ドイツを批判すると、決まって市民から「向こう(東ドイツ)に行け」と罵声を浴びせかけられた。

その点では、1960年に安保闘争があり、大衆闘争を通じて、米国とその同盟者としての自国政府を批判した日本の国民とは大きな違いがあった。もちろん冷戦状況下で、米国が日本を共産主義から守ってくれると考えた保守層は日本にもしっかりと存在したが。

Ⅱ.「68年世代」の反乱

1.非常事態法と院外野党とSDS

1966年に西ドイツではCDU/CSUとSPDによる大連立政権が成立し、議会における野党は小政党FDP(自民党=自由民主党)のみになってしまった。同政権は、非常事態法(戦争、内乱、大災害の時に個人の権利を制限できる法)の可決に必要な3分の2を得たので、上程の準備を始めた。だが、野党としてFDPは議席数50対467とあまりにも非力であった。そのために国民の中から同法案に反対する勢力が院外野党(アポ=APOと称した)という形で結集した。その一角を担ったのが学生たちの組織SDS(エス・デー・エス=ドイツ社会主義学生同盟)だった。

SDSは元々SPDの学生組織であったが、1961年に左傾化のために締め出され、独立した学生組織として活動を続けた。ベトナム侵略戦争が激化した65年頃から、米帝国主義を批判し、ベトナム人民に連帯を表し始めた。同時に自分たちを取り巻く大学内の古い制度や社会を批判し始めた。その拠点はベルリン自由大学とフランクフルト大学だった。SDSのメンバーは、定期的に集まり、デモやティーチインを組織したりする以外に、テーマを決めていくつもの学習会で勉強した。

SDSのメンバー数は、「67年当時1600名から1800名で、その内西ベルリンで300名、フランクフルトで200名ぐらい。1968年の最高時でも2500名ぐらいだろう」(註1)。当時の学生総数は28万名だったから、1%にも満たないと言える。

SDSを代表するリーダーにルーディ・ドゥチュケ(ベルリン自由大学学生)がいた。特にそのドゥチュケを集中して攻撃してきたのが、保守的な新聞王アクセル・シュプリンガーが率いるシュプリンガー・プレスだった。その中心になったのが、500万部の発行部数を誇る大衆紙「ビルト」だった。 「ビルト」紙はドゥチュケを国民の敵呼ばわりをして執拗に攻撃した。逆説的に言えば、シュプリンガー・プレスはSDSの広報活動をしてくれたともいえる。シュプリンガーが激しく攻撃すればするほど、他のメディアも取り上げるようになったからだ。ドゥチュケはインタビューによく招かれた。すると「ビルト」紙が伝えるドゥチュケの人物像とは全く異なる、人の話にきちんと耳を傾ける人柄に接することになる。東独で育ち、61年のベルリンの壁の建設直前に西ベルリンに移ってきた彼から、きっぱりと東独の一党独裁型の社会主義を否定するのを聞くと、非常に説得力があった。

2.国際ベトナム会議と親米市民

筆者は1968年2月17日に開催されたこの国際ベトナム会議に参加するために、シュトットガルトのSDSがチャータした貸切バスで西ベルリンに向かった。30人ほどの学生が同行した。途中東ドイツを通過したが、国際ベトナム会議のためということで、 厳重なパスポート検査もなく、手を振って連帯的に扱ってくれた。ヨーロッパ中から駆けつけた参加者も同じような扱いを受けたと後で聞いた。西ベルリンから受けた第一印象は、煤けた暗い街だな、だった。後で分かったのだが、赤軍に囲まれた陸の孤島に投資される資本は少なく、手入れが行き届いていない家が多かったのだ。大企業はすでに西ドイツに移ってしまっていた。

ベルリンでは仲間のアパートに泊めて貰い、翌朝ベルリン工科大学の大講堂に集まった。床にも隙間なく座り、5000人以上の参加者ではち切れそうだった。 まず「ホー、ホー、ホーチ・ミン」の掛け声から始まった。B.ラッセル、J.P.サルトルなどの知識人からの連帯の挨拶が読み上げられた後、ルーディ・ドゥチュケやベルント・ラベール(ベルリン自由大学学生)、そしてフランクフルト大学から参加したSDSのメンバーによる当時目新しかったティーチインが延々と続いた。ドイツだけではなく、ヨーロッパ中の批判的な若者、文化人、知識人、芸術家が参加していた。米国からはブラック・パンサーの代表者や哲学者のH・マルクーゼも参加していた。今でも同年輩のドイツ人に聞くと、参加していたとの返事が返ってくることが多い。

翌日の18日にヨーロッパ中から集まった1万2千人の大人数でベトナム反戦・反米デモをした。身分証明書を携帯するようにと念を押された。日本のデモでは携帯するなと言われていたが、ドイツでは必須だった。60年代を通じてこれ以上の大きな反体制デモはなかった。

ところがシュッツ・ベルリン市長が親米デモを呼びかけたら、三日後の2月21日に8万人もの親米市民が参加した。これほど西ドイツ、特に西ベルリンの市民は米国を頼りにしていたともいえる。

ドイツ国民の大多数は、ナチス体制の中で積極的な支持者、共鳴者、追随者として生きてきた。戦後彼らはあまり過去を語ろうとはしなかった。父親や母親たちは、強制収用所におけるユダヤ人虐殺を知らなかったというが、子供たちからすれば、この発言は信用できなかった。それまでユダヤ人として意識しないまま、普通のドイツ人として学校で一緒だったクラスメートや近所の人たちが、ある日からダビドの星(ユダヤ人の信仰の象徴)を胸につけさせられ、店で買い物もできなくなる。子供たちは一緒に遊んではいけないと親から言われる。そして、ある日突然に一家が拘束されて消えてしまう訳だが、このような目に見える差別・迫害を目にしながら、親たちに何も知らなかったと言われて、はいそうですかと、敏感な若者には受け入れられなかっただろう。米軍に追い立てられ、殺されていくベトナムの農民の悲惨さが重なり、見過ごすのは困難だった。

60年代まで学校の歴史の授業は第一次世界大戦で 終わってしまい、ナチス時代の暗い過去を教えるようになるのは、70年代になってからだ。「68年世代」を経た若い教師たちが教職についてからだ。

3.ドイツを震撼させた二発の兇弾

南ベトナム解放民族戦線との連帯、反米帝国主義、非常事態法案への反対などが重なって、運動が高まりつつあるとき、イランの独裁者パフラヴィー皇帝が西ベルリンを訪問した。オペラ観劇を知ったSDSはデモを呼びかけた。1967年6月2日の夕方に2000人ほどのデモ隊がオペラ座前に到着すると、皇帝の親衛隊が棍棒で殴りかかってきた。さらに西ベルリンの騒乱用の訓練を受けた機動隊による過剰警備がデモ隊を襲った。その際にベンノ・オーネゾルゲ(ベルリン自由大学学生)が警察官のカール・ハインツ・クラスによって射殺された。目撃者によれば、クラスは機動隊の警棒から逃げたオーネゾルゲを後ろから至近距離で射殺したのだ。裁判では目撃者の証言にもかかわらず、クラスおよび機動隊員の主張する正当防衛が認められ、クラス(註2)は無罪になった。非常事態法の強行採決に続き、これらの国家の暴力とそれを支える司法の腐敗ぶりは、多くの良心的な市民にドイツの再ナチス化の前夜に見えた。そして数多くの若者を「68年世代」の運動に参加させた。さらに彼らに暴力をも辞さない戦いが必要だという意識が生まれた。実際に「6月2日運動」という非合法組織がテロ活動を始め、赤軍派に引き継がれていく。

翌年の68年4月11日に自転車でSDSの事務所に向かうドゥチュケが西ベルリンの目ぬき通りのクーダムで、シュプリンガー・プレスにそそのかされた19歳の右翼青年(バッハマン)にピストルで撃たれた。この卑劣なテロに憤激したデモ隊がベルリンをはじめとして全国のシュプリンガー系の新聞の積み出しを実力行使で阻止した。ドゥチュケは何とか生き延びたが、頭の中に一発の銃弾が残り、言語障害(知的レベルの言語は問題なかったが、日常の言葉が出てこなくなった)をきたした。79年のクリスマス・イブの日に入浴中にてんかんを起こし、亡くなった。

後日談になるが、シュプリンガー・プレスの本社がある通りは、彼のドイツ社会の変革への功績を讃えるために2008年に「ルーディ・ドゥチュケ通り」と名付けられた。

4.反権威主義、店舗保育所・生活共同体と体制内長征

「68年世代」の闘いの中心に反権威主義があった。元々ドイツ人は英国やフランスの国民に比べて、歴史的に権威に弱い国民だと見られ、ナチスの体制に国民が順応したのも、この国民性が大きく寄与しているといわれた。「68年世代」は、彼らの家における家父長制が権威主義そのものであり、父親たちはその中で育ったから、ナチスの共鳴者になったのだと批判した。だから、自分たちの生活の中にある権威的な構造と人間関係に敏感になり、徹底的に批判し、排除しようとした。ドイツ語では権威的をautoritär  というが、反権威的というanti-autoritärとその反対語であるspontan(自発的)は頻繁に使われた。そして自発的に行動する人間はシュポンティ(Sponti=自発人)と呼ばれ、また自らを称した。

反権威的な闘い方としてシュポンティによるハプニングが多発した。棺桶にベルリンの司法は死んだと書いて、夜の間に市庁舎の前に置いておくとか、極端であったが、被告人として座っている裁判の途中でやおらズボンを脱ぎ、大便をするというようなことまでやってのけた。前代未聞の法廷侮辱行為であるが、法廷あるいは裁判の権威を否定するためのハプニングだった。

反権威主義に対する闘いとして幼児の保育は非常に重要だった。しつけ教育は外からの価値観の注入、すなわち権威的関係と見なし、徹底的に排除した。そのため既成の保育所を拒否し、貸店舗を借りて、自分たちで「店舗保育所」を始めた。最初の数年間は、極端だが大小便を含めて全く幼児にしつけをしなかった。中には幼児たちが大便を絵の具代わりに使っても、止めなかった保育所もあった。数年経過した後、やはり最低限のしつけは必要との認識に至った。 店舗保育所は現在でも続いていて、ベルリンの街を歩くと時々見かけることがある。

68年ごろにコミューンと呼ばれる数人の男女による共同生活が、「68年世代」の中でも主にハプニングを実行した連中によって試みられた。その目的は、個人主義的な生き方を伝統にしてきた西洋社会の価値観と生活形態を根本から変えることだった。まずプライバシーを無くそうとして、大部屋で数人が共同で生活し、個人的なセックスをもなくそうとした。同じ相手と2度続けてセックスをすると、プチブル(小市民)だと言われた。個人の壁をなくし、徹底した平等を目指したが、実際には個々人の意識と個性の違いがあるから、しばらくすると軋轢が生まれた。コミューンの決まりが外からのプレッシャーになり、出て行くメンバーも少なくなかった。1年後にはベルリンのコミューンは解散した。

これらの極端なルールを少し緩和させた共同生活形態が60年代後半から試みられた。ヴェー・ゲーと呼ばれている「 生活共同体(WG=Wohngemeinschaft)」だ。 筆者が71年から住んだ第一世代のWGでは、 一人一部屋だったが、 ドアは開けっ放しだった。だから、いつでも入ってこられた。セックスの最中だったりすると、「邪魔したかな」とか言って、部屋から出て行くのが残されたせめてもの礼儀だった。トイレの鍵は閉めなかったが、臭いもあるので一応ドアは閉めた。毎日夕飯はできるだけ一緒。男も女も買い物から最後の片付けまでの料理当番をする。食事の後にその日の活動報告や反省会をする。自己批判もすれば、同居人の批判もする。台所と浴室の掃除も当番制だ。現在もこのWGは残っていて、学生を中心とする若者の間に広まっている。身体・精神障害者や高齢者のためのWGもあり、健常者や若者が 助けながら、一緒に生活している。

ドゥチュケが、毛沢東の長征になぞらえて1967年に「体制内の長征」を社会変革の戦略として提唱した。様々な職業に就き、体制内で辛抱強く長い時間をかけて内部から変革をしていくという闘い方だ。 多くの若者がこのような個人的な闘いを選び、学校、司法、マスコミ、組合、行政機関などに就職して、改革を進めた。労働者になって工場に入っていった者もいるが、多くは長続きしなかった。学校の教師になった学生たちの長征が最も成功したようだ。筆者が授業中に雑談気味に、「68年世代」に触れると、ギムナジウム(中高一貫校)でそのような若い先生から批判的な歴史や考え方を教わったと懐かしそうに語る学生がしばしばいた。次号で触れるが、この「体制内の長征」は、69年から登場したブラント社民党政権による改革政治とその改革を歓迎した社会を抜きにしては不可能だったろう。

(註1)参照:SDS (Wikipedia)

(註2)これには驚くべき後日談がある。1989年の壁の崩壊後、東ドイツのシュタージ(国家保安省=公安秘密警察)のアーカイブが公開され、クラスが潜入工作員だったことが判明する。しかし、オーネゾルゲ射殺が東独のシュタージの指示によるのか、クラス個人の動機によるのか、判明しないまま、クラスは2014年に死亡する。

(次号に続く)      

ふくざわ・ひろおみ

1943年生まれ。1967年に渡独し、1974年にベルリン自由大学卒。1976年より同大学の日本学科で教職に就く。主に日本語を教える。教鞭をとる傍、ベルリン国際映画祭を手伝う。さらに国際連詩を日独両国で催す。2003年に同大学にて学位取得。2008年に定年退職。2011年の東日本大震災後、ベルリンでNPO「絆・ベルリン」(http://www.kizuna-in-berlin.de)を立ち上げ、東北で復興支援活動をする。ベルリンのSayonara Nukes Berlin のメンバー。日独両国で反原発と再生エネ普及に取り組んでいる。ベルリン在住。

出版・ドイツ語:

 『Aspekte der Marx-Rezeption in Japan (日本におけるマルクス主義概念受容の検討)』

 『Samurai und Geld (サムライとお金)』

 『Momentaufnahmen moderner japanischer Literatur (現代日本文学のポートレート)』(共著)

日本語:

 『現代日本企業』(共著:東大社研、有斐閣)

 『チェルノブイリ30年と福島5年は比べられるか』 (桜美林大学出版)

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