この一冊

「グローバル環境ガバナンス事典」(リチャード・E・ソーニア/リチャード・A・メガンツク編、植田和弘/松下和夫監訳 明石書店 19440円 2018/5)

地球公共益のために—先人たちの豊かな智見

筑波大学ビジネスサイエンス系准教授  礪波 亜希

翻訳とは何か。自身も作家であり、数々の英語文学を原文の味わいを生かしながら日本語としても自然な形で翻訳してきた村上春樹氏によれば、翻訳とは芸術ではなく、芸術を運ぶための「ヴィークル」だそうだ。

「グローバル環境ガバナンス事典」

(リチャード・E・ソーニア/
リチャード・A・メガンツク編
植田和弘/松下和夫監訳
明石書店 472頁 19440円 2018/5)

なぜなら翻訳は芸術ではないからです。それは技術であり、芸術を運ぶためのヴィークル=乗り物です。乗り物はより効率的で、よりわかりやすく、より時代の要請に添ったものでなくてはなりません。たとえば古い言葉は更新されなくてはなりませんし、表現はより理解しやすいものに変更されなくてはなりません(註1、村上-p.440)。

この点からいうと、「グローバル環境ガバナンス事典」(リチャード・E・ソーニア/リチャード・A・メガンツク編、植田和弘/松下和夫監訳)は、欧米の環境政策のベテラン実務家であり、第一人者であるソーニア、メガンツク両氏が展開するアートが、日本の環境経済・政策研究の先駆者である植田・松下両氏が用意したヴィークルで運ばれてきたものであるといえよう。村上春樹氏や柴田元幸氏が訳す英語文学作品は、オリジナルの素晴らしさをさらに現代的な文脈で魅力的に運んできてくれる。同様に、この事典の読者は、編者の考察と共に、環境先進国といわれる欧州、米国、そして日本、さらには途上国における数々の環境政策の実際を踏まえて得た監訳者の智見、すなわちヴィークルを通じて、環境ガバナンスについて学ぶことができる。

オリジナルの”Dictionary and introduction to global environmental governance”は2007年に第1版、2009年に第2版が発行されており、本書はその第2版がベースとなっている。ソーニア、メガンツク両氏は事典を2007年バリ・ロードマップ(註2)の後に執筆し、2009年のCOP15交渉の場で使用されることを念頭に出版を急いだという(註3)。したがって、本事典はグローバルな気候変動問題を念頭に執筆が始まったものの、実際の内容は気候変動に留まらず、極めて広範な領域が網羅されている。これは、地球が直面する環境問題においては気候変動が最も深刻かつ喫緊の問題であることは事実でありながらも、地球環境のガバナンスとは気候変動問題への局所的な対処に留まることではなく、より包括的な、人類の将来を左右する重要な仕事であることを自ずと示している。

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このように、本書はCOP15で使用されることを目的とした事典ではあったが、実はより大きな問いを発している。その問いとはすなわち、監訳者の松下氏があとがきで述べるように、

現在の世界は、グローバル化と生態学的・経済的相互依存関係がますます進行し、地球の環境容量の限界が顕在化している。このような中で、現在と将来の世代にとっての生存の基盤である良好な地球環境などの「地球公共益」をいかにして確保し、持続可能な社会を形成していくべきであろうか。

という、1972年に開催された「国連ストックホルム人間環境会議」の問題提起から不変のものである。こうした認識が国際社会で共有され、取り組みが始められてから既に半世紀近く経過した。しかしまた、地球環境問題そのもののスケールを理由に、地球環境ガバナンスの体系は著しく高度化・複雑化することになり、現実の環境問題の改善の成果は乏しいのが現実である。

トーマス・ヘールらによるGridlock : Why Global Cooperation is Failing When We Need It Most(グリッドロック:なぜ最も必要なときにグローバルな協力がうまく行かないのか)によれば、環境問題への取り組みが「身動きできない状態(グリッドロック)」から脱するためには、科学的知見の統一、様々な活動の無駄をなくすための調整、適切な基準の設定、グローバルコモンズのための規制設定が必要だとする(註4-p.272)。世界は科学的知見の統一については「かなりよくやった」が、政策の調整、基準の設定については玉石混淆で、規制設定については全く不十分であるとされる。すなわち、先の問いに答えるためには、われわれ人類は引き続き、国際場裡において調整と規制設定に邁進しなければならないのである。

本書には、地球環境に関連する学術的・技術的な考察とともに、関連する自然科学的・社会科学的専門用語も含まれ、また実際の国際交渉に関連した実務的用語が幅広く取り上げられており、国際交渉の表舞台と裏舞台で飛び交う略語・頭字語に加え、主要な国際機関・国際組織、研究機関、市民社会団体に関連する用語までも広く網羅されている。こうした意味で、本書は日本語話者でグローバル環境ガバナンスに携わる者にとって必携の書であるといえよう。

自治体や大学の図書館、企業の資料室などにも是非備え付けをすることをお勧めしたい。また本書は、事典であると同時に優れた翻訳書であり、読者がグローバル環境ガバナンスについて項目を引くとき、その体験は単なる知識の獲得だけではなく、環境ガバナンスのアートが監訳者の智見を通じて豊かに伝えられていることを実感するであろう。

となみ・あき

1974年埼玉県生まれ。米サンタクララ大学卒業、京都大学大学院経済学研究科修士課程修了、同大学大学院地球環境学舎博士後期課程単位取得退学(博士(地球環境学))。日本学術振興会特別研究員、オランダ・アムステルダム自由大学環境学研究所訪問研究員、外務省在オランダ日本大使館専門調査員を経て、デンマーク・コペンハーゲン大学社会科学部政治学科北欧アジア研究所(研究員、准教授、2011-2016年)。2016年10月から現職。専門は国際政治経済。主要著作: Asian Foreign Policy in a Changing Arctic, Palgrave Mcmillan, 2016, 他。 Web:www.akitonami.com

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