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民族小児病―オッサン国防談義が花盛る

小説家 笠井 一成

昭和の軍歌は勇ましく、血沸き肉躍る。

一方明治の軍歌には、控え目な勇ましさの中に涙を誘うものが多い。

後者は、とりようによっては反戦歌のようにも聞こえるが、もちろんそうではない。そこで歌われているのは厭戦気分ではなく、ましてや反戦思想ではありえない。死は確かに悲劇だが、だから戦争をなくせという結論にはならない。戦争は前提として不動の舞台で、それゆえに勇敢なふるまいや戦友愛が胸を打つ。涙が流れるのは前提のせいである。

好戦と勇敢。この二つは一見似ているが、実は全然違う。

好戦とは自分から先に手を出す動的な攻撃性であり、勇敢とは「出された手」から逃げない静的な迎撃性である。前者は単なる野蛮の表われとも言え、場合によっては文化度の低さを表わしてしまう。後者は、何かを守るためなら命の危険さえ顧みないという高い道徳性を持つ。それは尊く、尊さが美を帯びるのは自明である。曰く「戦死は美しい」。

1970年。11歳(小6※3月生まれ)の頃、私はそんなことを考えていた。

死んでいく者を悼むが敵の悪口は言わない日本軍歌の世界。感動する私は、懐メロ集を同級生から借りて歌詞をノートに写し、東京消防庁音楽隊が演奏するレコードを、毎日グラフ別冊『あゝ江田島』を膝に開いて眺めながら、ヘッドフォーンで連日聴いた。

それから、歴代天皇を諳んじられるよう努め、第64代円融天皇までは言えるようになった。

ジンムスイゼイアンネイイトク……「やめて。うち『お経』嫌いやねん」とは、教室で前の席に座る女子からの抗議である。

因みに、第64代円融の先は「後」がつく天皇が次々と現われて語呂が悪いので暗記をやめた。

ほんの子ども心である。子ども心のまま、小学校の卒業記念文集に、私は「将来の夢=自衛隊員」と書いた。

     *

12歳(中1)になり、「剣道をやりたい」と親に頼み、道場へ通い出した。

同年、自室の一画に日の丸を飾った。旗日に掲揚しないのならと、親から貰った日の丸である。

翌春、お年玉で剣道居合の模造刀を買い、日の丸の脇に立てかけて悦に入った。

同年(中2)、「朝雲友の会」という海上自衛隊傘下の組織に入れば艦艇に乗れると聞いて入会し、実際に舞鶴基地でのイベントに参加した。

このように私は、武士道精神と尊王思想と国粋主義に傾倒した。若気の至りである。

     *

人間の行動動機は九割方が感情だろう(あとの一割は信条・信念・信仰による自己鼓吹)。

就中、愛情。それは「大切にしたい」という感情であり、対象はもとより幅広い。

一方、自由とは何であるか。自由とは解放である。では何からの解放か。自分を縛りつけるものからである。

ならば自分を束縛するものとは何か。それは自分自身が愛し守ろうとするモノ・コトに他ならないと、論理を突き詰めれば辿り着く。そう。愛し守りたい「それ」に、私は進んで隷属する。

だとすれば、私が保守したい「それ」こそが、この私から自由を奪う要因か。家族愛、故郷への想い、更に言うなら愛国心こそが、解放を阻む障害物なのか。絶対自由を私にもたらさない元凶なのか。

大切にしたいモノやコトを捨て、愛情や愛着を自ら否定しなければ、私は絶対自由を獲得できないのか。家族愛・愛郷心・愛国心は、絶対自由と共存し得ないのか。

15歳(高1)の頃、私はそんなことを考えていた。若気の至りその二である。

     *

映画『ドクトル・ジバゴ』の一場面。第一次世界大戦の戦場シーン。

「なぜ銃を取らないのか! 国のために戦え!」と怒鳴る貴族出の指揮官に、貧農出の兵卒が言い返す。

「それはあなたの国だ。われわれの国ではない」

貴族と貧農の「ロシア」は「それぞれのロシア」であり、「ロシア」同士が不倶戴天の関係に立つ。直後のシーンで兵卒は銃を投げ捨てたか、指揮官を撃ったか。覚えていないが、セリフは今も印象に残る。

革命的祖国敗北主義。ロシアでは敗戦が革命に寄与した。だが、ことは常にうまく運ぶとは限らない。

もし敗戦が革命政府樹立に帰結せず、敵国の占領支配あるいは傀儡政権を結果するだけならば、革命側の行動は、単なる売国奴のそれと同じになる。

16歳(高2)の頃、『ドクトル・ジバゴ』鑑賞後の私は、そんなことを考えていた。

貧農と貴族ほど違えば分かり易いが、日本は「一億総中流」階級。そんな日本国民は、「民族が同じ」というだけで国防意識を共有しなければならないのか。

例えば。

日本人である「私」は、自分なりに日本を愛している。そのとき、他人は関係ない。

片や、品性下劣で知識皆無しかし自称だけは「愛国者」である日本人Aがいるとする。

Aは自分と同類以外を攻撃したがるが、語彙が貧困なので口から出る罵倒語は「国賊」「非国民」(注)、そればかり。

さて、このAと私は、日本人というだけで、国防シーンにおいては同志でなければならないのか。

否である。

私の「日本」とAの「日本」は別ものである。よってAは私の同志ではない。Aは私の敵である。

『ドクトル・ジバゴ』を観た後、私はそんなことも考えていた。すでに若気の至りではない。

(注)……「国賊」「非国民」はいざ知らず、当時「反日」は罵倒語になり得なかった。東アジア反日武装戦線のように「反日」は立場性を示す語として自称もされた。

任意で受ける学内実施の模試。私は志望校を「防衛大学」と書き、「合否判定不能」の紙を返された。なんでですか?と担任のT教諭に問うと「一般の大学ちゃうからやろう」とのこと。

『ドクトル・ジバゴ』の頃には、そんなこともあった。

     *

シュールレアリスムとは何だろう。答え。それは未知への案内である。そして人は、未知に対して不安を抱く。

象徴とは何だろう。答え。それは既知の確認である。そこに自分が「いる」と分かれば与えられる安心である。日の丸、カマトンカチ、鉤十字。旗の許に集えば怖いものはなくなる。

未知と既知。芸術的不安に人を陥れるシュールレアリスムと、予定調和に人をいざなう象徴。この二つの表現形式が佇立する地平は従って、対極である。

しかし。

シュールレアリスムで死んだ人間は知る限り、いない。

かたや、飛行帽に日の丸の鉢巻きをつけた特攻隊員のように、象徴の名において命を捨てた者は枚挙に暇がない。

ならば後者の死は「予定調和の死」なのか。日の丸の許に死ぬ悲惨は「安心」なのか。死を与える側すなわち国家は、この悲劇をどう説明するのか。

17歳(高3)の頃、私はそんなことも考えていた。

     *

高1の同クラスにHというのがいた。おとなしそうな男だったが、高3のあるとき校内の廊下ですれ違うと、随分といかつく変身していて驚いた。ダブダブのボンタン。生え際剃り込みの角刈り。うっすらと口髭を生やしている。

互いに気づいて立ち話。「お前、変わったね」と言うと、なんでも「右翼」なのだそうだ。

私は尋ねた。「北一輝の『国体論及び純正社会主義』読んだけ?」

無論未読、どころか、Hは北一輝すら知らないだろうと踏んでのことである。私は、何かの「自称者」を眼前にしたり、その者から勧誘されたりすると、鬼面人を嚇す物言いをしたくなるというヤな奴なのだ(しかもこの場合『国体論及び純正社会主義』を私は読んでいない)。

案の定の答えだったが、本を読まない言い訳をHはした。

「オレは行動派や」

暴走族とつるむか、組事務所に出入りするか、街宣車で走り回るのか。

「ああそう。ほな(それでは)」と私。

見た目・風体の「武装」は有効である。いかつい格好は人に道を譲らせる。

だがそれだけのこと。「遠ざけられる」けれど、振りですら「敬して」貰えない。むしろ右翼団体は当時、世の中から、怖がられつつ笑われていた。頭が悪くて本も読めない連中だと軽蔑されていた。

また、連中がたとえ本を読んだとしても、私にとって右翼はもはや、存在それ自体がナンセンスだった。

天皇崇拝、愛国心、国防意識。これらは心情を淵源とする情動である。

情動は感情である。感情を科学とは呼べない。よって右翼思想は科学とはなり得ない、だからである。

行動(派)の動機は感情で構わぬが、活動は、科学に契機がなければならないのだ。

その意味で。

マルクス主義は社会科学の理論であり、階級史観は心情ではなく論理である。よって左翼の活動は科学の実践である。

仮に左翼活動の意志が、活動家の感情的ドグマと化してしまっても、マルクス主義それ自体は必ず科学から離れない。爆弾や内ゲバ等の左翼暴力とは従って、社会科学に命を賭し、唯物論に殉じ人民の哲学のために殺し殺されること、なのだ。

しかし。

死んで殺しての社会科学とは何か。血も涙もない非情がなければ、本当の解放は獲得できないのか。革命は冷徹の先にこそ仄見えるものなのか。

私は答えを知らず、けれど日々報道される左翼内ゲバ死者の累積に奇怪な敬意を覚えていた。

1976年である。

     *

「インターナショナル」を歌うと涙が出る。それは悔し涙に近い。「いざ闘わん」と言い条、無産者は資本家に負けると、歌いながら分かるからである。

「海ゆかば」を聴くと涙が出る。私は「大君の辺に」死なないが、かつて死んでいった日本人を想起すれば落涙は当然である。

「海ゆかば」と「インターナショナル」。二つの涙。右と左の情動の世界。私の感動は両方を行き来する。

そして1977年。私は大学(法学部)に入学した。

入学式からほどないある日。

友人(他大学文学部)が、自分の脳裡には常に「文化」の二文字があると言った。喫茶店での雑談である。

ああそれなら「オレは国家やな」

「オレは国家!『朕は国家なり』か!」「ちゃうわ。『オレの場合は国家の二文字』という意味や」。以下(笑)。

所以は小6末期に溯る。私は、父親の勧めで私立中学を受験した。

面接の練習、といっても当時は学習塾の胚胎期。そんなノウハウなどない時代。

受験会場へ送る車中で父親が、助手席に座る私に教えた。もし面接で「最近の新聞一面記事は何か?」と問われたら「成田空港問題です」と答えろ、と。

成田空港報道は、祖母の部屋にある白黒テレビの夕方ニュースで何回も見ていた。

飛行場の建設に火炎瓶が飛び交う異常。こんなに反対されてなぜ、工事を強行しようとするのかと私も思った。

結局、面接で「新聞のトップニュースは?」は問われず、モゴモゴ言って筆記もボロボロの私は不合格。ともあれ、目の前に「国家」の二字がちらついた最初がこの件である。

国家は強制装置であり、強制の実体は暴力である。暴力装置=国家はこうして私の顕在敵となり、私は打倒を希求し始める。

革命を導く実践的理論はしかし、「死んで殺しての社会科学」であってはならない。

解放とは心安らぐ大地であり、非情や冷徹とは無縁である。愛と解放は対立物ではない。革命と愛郷心は矛盾しない。愛の否定は荒涼をもたらし、それを「解放の荒野」と呼ぶのは言葉の破綻である。

国家の二文字を瞼の裏に点す私は、相変わらず絶対自由(アナキズム)を夢見、ユートピアンを幽洞火闇と漢字にし、並べ替えた闇洞幽火をペンネームにした。アンドウユウカと読む。

あのとき、友人は「文化」に何を語らせたかったのか。今や定かではないが、例えば「割れたこの鏡は二人の破局を表わす」的な「象徴主義」は芸術形式として陳腐の極み・下の下である、で意見が一致したのは覚えている。

大学入学式からほどないある日。履修登録締切は数週間先、の頃である。

     *

履修要綱に「国防論」というのがあった。担当教授は「飯守重任」。

家族愛から愛郷心へ。そこまでは私も肯ずる情動だ。が、その先の愛国心となると話が変わる。

「国民」は国家がなければ存在しない概念である。「国民」は国家支持側と対峙側に分断される。私は後者である。

前者は後者をこう詰る。「国の世話になりながら国が気に入らないのなら、この国から出ていけ」

次元が低い非難である。「国」が気に入る入らないのではなく「政府」が気に入る入らない話である。それが前者には通じない。

国家=政府が打倒対象である限り、私は国民という概念を一概には受け入れない。

「民族」とは「言語を同じくする集団」、が一般的な定義である。外国で日本語を耳にするとホッとする、民族感情とはその程度の主観的納得だと私は理解する。

同じ日本民族の中に、主義が違い信念を異にし価値判断の向う先も別、さらには倫理観すら共有できない奴らは大勢いる。いわば同民族の潜在敵である。外患と直面する際に、私はこれらと共闘しなければならないのか。

単純な結論はないだろう。しかし大学の講義であれば、何らかの示唆を得られるに違いない。

学問的言説の展開を期待する私は、「国防論」を聴きに行った。座るのは最前列。

すると飯守。

「殴られたらやり返すでしょ。家に強盗が押し入ったら撃退しますよね。国防はそれと同じです」

単純な結論だった!

何たる幼稚かと私は唖然とし落胆し、以降を聴く意味がないので教室を出た。最寄りのドア、つまり満員の大教室の一番前、教卓脇のドアから。「どうぞ出てください」と、後ろから飯守が声を被せてきたのを覚えている。

講義はその後、国際政治、各国の軍事力、仮想敵・ソ連からの攻撃可能性等に言及しただろうとは想像に難くない。実は私はそれらにも興味がある。

ただ、国防論と名乗るからには、奥深い哲学的思考から開始した説得性ある国防思想の定義が不可欠である。そこを児戯に等しい「殴り返す」で片づけての「いきなり武装論」では、飲み屋で交わされるオッサン国防談義と同じである。大学の教室で飲み屋談義を聞く気はない。

(砂川事件で駐日米大使に裁判情報を漏洩し、米軍有利になるよう審理を進め、日本国憲法より日米安保条約を上位に置く売国的判決を下した最高裁長官・田中耕太郎は飯守の実兄である。当時の私は迂闊にも知らなかった)

     *

     *

あれから40年以上が経過し、私はジジイになった。

世の中を見渡せば。さながら飯守重任の大復活。国防飲み屋談義レベルの花盛り。

日米安保は議論の余地なき。「対米隷属ですが、何か?」的状態。と同時に「日米地位協定? 詳しく知らない」の不勉強。不勉強のまま「沖縄の苦悩は仕方ない」。情報の真贋見抜く目が養われず、根拠薄弱主観視点の一方的情報サイトを閲覧し、自分が気に入る話は全部真実と信じ込む蒙昧。

自衛隊は超好感度。集団的自衛権は当たり前。自衛的重武装は当然必要。非武装・非核論は「現実を見ない」「頭にお花が咲いた」「サヨク=非国民」のタワケゴトと見下した気で悦に入る。

お花といえばネトウヨの花が咲いて種は定着。今やネトウヨは日本在来種。反知性・歴史修正主義が蔓枝のようにはびこる世俗。

歴史への洞察なき錯覚的歴史観。哲学無縁の未来展望。

オッサン国防談義が指針と化した世の中である。

この40年。

時代が進んだ、文化が成熟した、と思える場面もなくはない。

かつては邦画のテレビ放映で、セリフ中の差別語は一律に「ピー」音へ置き換えられていた。最近は「時代背景と原作者の意図を尊重し」のテロップが冒頭に出てそのまま放送される。これは成熟の一例である。

また「自然破壊」「ハラスメント」等は否定的日常語として定着した。昔はそんな「単語」すらなかったのを思えば、これも漸進と呼べるだろう。

しかしいったん国家・民族・自衛に話が変わると元の木阿弥。飯守風国防談義に舞い戻る。「強盗が入ったら撃退する」「殴られたら殴り返す」=私的防衛を、何の検討もせず軽々しく公的防衛=国防に敷衍する。非常に幼稚な論理の飛躍なのにそれに気づかない輪をかけた幼稚。

『戦場のピアニスト』を観たドイツ人Bが「国辱だ!」と抗議したとしたら。文化水準の低い観客として、Bはドイツ国内で存在そのものを恥じられるだろう。

『不屈の男 アンブロークン』を観た日本人Cが「国辱だ!」と抗議したとしたら(公開時、実際そうだった)。Cは日本国内で多くの同意者を獲得するだろう(公開時、実際そうなった)。

今の日本人は歴史に投影される自己の姿・日本と日本人の描かれ方に意識過剰であり、ナイーヴである。ナイーヴとは無知の意味で、無知がもたらすのは文化水準の低下である。映画鑑賞レベル低下もむべなるかな。

映画鑑賞眼が高ければ、たとえステレオタイプに描かれていても「世界から日本はこのように見られている」「世界に日本はそのように見えている」のを、逆に面白がる余裕を持てる。いわば「大人の対応」だ。

他人の目への映り方を気にし過ぎる昨今の日本人は、あたかも民族まるごと思春期に戻ったかのようである。

「思春期返り日本人」の子ども心は、ナイーヴなままに年を食う。そしてオッサン国防談義へと、図体だけはデカくなる。そのデカい図体が雑草的に蔓延する今日この頃である。

左翼小児病という言葉がある。革命実現性は過激度と比例する、そう妄信する冒険主義のことである。

かたや右翼は、もともと小児みたいなものである。天皇崇拝も愛国心も非科学な心情。右翼「思想」が幼稚なのは、私の「子ども心」「若気の至り」を見ればよく分かる。だから右翼小児病は冗語(重複語句)となる。民族小児病が適切か。現在は民族小児病のパンデミック。治まる兆しは当分、ない。

     *

日米安保延長停止。日米地位協定廃止。全原発廃棄。日米原子力協定解消。自衛隊解体。防衛省解散。等方位外交確立。完全非武装。非同盟永世中立宣言。それが私の立場である。変わることは一切、ない。2018.5.28

かさい・いっせい

1959年生まれ、京都市左京区出身。旧ペンネームはヨーゼフ・Kまたは闇洞幽火。1990年「犬死」が第22回新日本文学賞候補作。1992年「希望」が第23回新日本文学賞候補作。1993年「特殊マンガ家の知性」が第1回マンガ評論新人賞最終銓衡作。著書、『形見のハマチ』(近代文藝社 1995年)、『はじめての破滅』(東京図書出版会 2009年)、『父と子と軽蔑の御名において』(牧歌舎 2011年)、『不戦死』(風詠社 2016年)、『血魔派の三鷹』(幻冬舎 2017年)。

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