コラム/温故知新

江戸時代に遡る下町労働運動のルーツ

下町の労働運動史を探訪する(1)

現代の労働研究会代表 小畑 精武

職人の街、下町とは

両国橋(広重)

東京下町はどの辺にあたるのか? 人によって、時代によって、その答えは違ってくる。江戸時代の下町はおおよそ江戸城とその周りの武家屋敷の東側の低湿地帯にあって町人が住んでいた地域で、東の境は隅田川であった。その隅田川を渡った地域名に「両国」があり、両国橋や両国駅がある。両国の西側が武蔵の国、東が下総の国だった。

江戸時代は火事が多かった。初期の明暦の大火(1657年)はじめ、うち続く火事によって隅田川の内側にあった下町は隅田川を越えて東に広がっていく。江戸城築城に不可欠な材木を扱う「木場」も防火のために川を越えて、埋め立て地だった深川に移転していく。江戸時代初期には今の東京駅付近に散在していた材木屋の移転は、1641年(寛永18年)に下町を襲い2000戸を焼いた寛永の火事が契機となった。

冬の木場(広重)

隅田川の河口部で干潟や蘆や萱の荒れ地だった所に運河となる小名木川、竪川、横川など堀川が掘られ木場が形成される。その後、明暦3年(1657年)には有名な明暦の大火により、江戸城はじめ江戸の街の60%にあたる800町が焼け、死者10万の説も。以後隅田川に避難用を兼ねた大橋や両国橋がかけられ、大名の下屋敷が造られ、下町は大きく東に広がっていった。 

こうした下町の広がりとともに居住する職人、商人、奉公人などが増え、地域での町火消など町人の組織とともに職業的な団体が形成されていった。大工や左官の間に広まった「太子講」はその例で、「正月集会する太子講なり、要は相互の親密を厚うするにありといえども、この時賃銀を定め年期小僧の年限を定めて同業者の規約を定めたり」と横山源之助の『日本の下層社会』(1898年、明治31年、岩波文庫)にある。

下町はその後も東に広がって、今では千葉県との境を流れる江戸川までの江東区(旧深川、城東)、 墨田区(旧本所、向島)、台東区(旧下谷、浅草)、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区の7区で約300万人近い人口を持つ。

貧民の街だった本所、深川

明治時代の有名なルポである横山源之助の『日本の下層社会』の冒頭「東京貧民の状態」「都会の半面」に本所、深川が描かれている。

「東京15区、戸数29万8千、現在人口136万余・・多数は生活に如意ならざる下層の階級に属す。細民(貧民)は東京市中いずれの区にも住み、・・細民の最も多く住居する地を挙ぐれば・・本所・深川の両区なるべし。・・職人および人足・日傭稼の一般労働者より成り立ち、・・・日傭稼・人足・車夫等、下等労働者は大略本所・深川の両区より供給せらる」

「日本の下層社会」は「9尺2間の陋屋(狭い家)、広きは 六畳、大抵4畳に、夫婦・子供、同居者を加えて5、6人の人数住めり、・・僅かに4畳6畳の間に2、3の家庭を含む。婆あり、血気盛りの若者あり、30を出でたる女あり、寄留者おおきはけだし貧民窟の一現象なり」と貧民街の居住環境を描いている。細民の居住環境も50歩100歩であまり変わらなかった。今とはずいぶん違うようだが、ほんとうにそうだろうか?

今でも路上生活を強いられている「現代の貧困」があり、100年たった今も資本主義が生み出す貧困は克服されていない。

日本最初の”ストライキ”は下町から

深川大工町(江東)、亀戸(江東)、小梅(墨田)、浅草(台東)、小菅(葛飾)には銭座もつくられた。

江戸時代の末期(1860年代) にはこの銭座職人が「職場放棄のストライキ」に立ち上がった。『葛飾区史跡散歩』によると、「現在の葛飾区小菅拘置所の場所に銭座があり、最盛期には232人の職人が働いていました。当時幕府はそれまでの銅銭を質の悪い鉄銭に変え、小菅の銭座は鉄銭を造っていました。1862年に突然鉄銭『文久通宝』づくりを小菅と深川大工町の銅座、浅草真先の金座に命じました」とある。

この3カ所の銭座職人500人の「賃上げ要求スト」(1863年、文久3年)が日本最初のストライキだと『葛飾区史跡散歩』の著者・入本英太郎さんは『小菅銭座日記』を引用して書いている。職場放棄ストは1カ月におよび、操業がストップした。こうしたストライキは明治以降もいちはやく産業の 近代化がすすむ下町の労働者の争議となって「継承」され「名物」となっていく。

人力車夫による「車会党」

明治になると「車」社会が始まる。西洋近代化の象徴は汽船と汽車(蒸気機関車と客車)だろうが、江戸時代にはなかった人力車が早くも1870年(明治3年)に発明された。横山源之助は「今日都市の労働社会に在りては、交通労働者として、交通機関の上に欠くべからざる勢力者なり」と、船舶、鉄道労働者と並んで人力車夫を評価している。今日でいえば、身近なタクシーだ。人力車夫は最盛時には数万人いたといわれ、1903年(明治36年)には37,205人、そのうち下町にあたる下谷区、浅草区、本所区、深川区には14,282人と38.4%が 集中している。

人力車と車夫

人力車を所有し車夫に貸し出す業者のもと、車夫の賃金はおよそ1日50銭 、米価が10kg、1円12銭(現在では約4000円)なので、いかに車夫の賃金が安かったか分かる。人力車はいまでは「リキシャ」と呼ばれ国際語になっている。10年ほど前だが、バングラデシュに行った時に、首都ダッカはカラフルなリキシャが溢れていた(今では浅草雷門付近に行けば観光用の人力車に乗ることができる)。

この人力車の運命は日本では意外に短かった。1882年(明治15年)の新橋-横浜間の鉄道開通後、わずか10年にして大量輸送が可能な鉄道馬車が新橋-上野-浅草間に開通。さらに、1903年(明治36年)には品川-新橋間に路面電車が開通、その後、路線網は広がって、人力車夫の失業問題へと発展する。

人力車夫たちは「馬車をつくるのは勝手だが、天下の公道に線路をつけて、一定の場所を独占するとは不都合である。われわれは同盟して会社に向かって線路を廃止させねばならぬ」と、1882年(明治15年)10月に、自由民権運動を進めていた23歳の青年党員奥宮健之と人力車夫のまとめ役三浦亀吉が中心になって鉄道馬車反対同盟を結成した。

浅草寺の伝法院で集会を持ち、神田明神山に集まって柄杓で酒を飲み、演説を行い、そして「車会党」(社会党ではない!)を結成。名前こそ「車会党」だが事実上、人力車夫の労働組合の旗揚げだった。会員は数千人に及んだ。しかし、11月に両国の井生村楼で大会を開き気勢をあげたところ、「演説中止・解散」を官憲から命じられ、2000人の聴衆は騒乱状態となった。そして4日後に、奥宮と三浦たちが吉原遊郭にくりこんだその帰りに、巡査と喧嘩とな って監獄へ。もろくも車会党は自壊した。

酒とバクチで自壊

同時期の頃、隅田川河口の石川島造船所など鉄工労働者の労働組合結成の動きが始まっている。車会党と同じころ1887年(明治20年)には、同じ両国井生村楼で鉄工懇親会が開かれ、新聞記者が演説をした。だが途中からバクチが始まって労働組合結成に向けた話はご破算となる。自らの酒やバクチで、せっかくできかかった労働者の団結組織・労働組合が自壊していったことは、何とも残念でもったいないことだ! 

それでも、1891年(明治24年)には、東京の石工1300人が日給引上げを親方に要求し同盟罷工(ストライキ)を闘って勝利している。1896年(明治29年)には米の荷下ろしに従事する 沖仲士1000人の組合(三業組合)による同盟休業が深川で起こりかけた。仲裁が入って収まっている。1897年(明治30年)には労働組合期成会が結成され、同じ年に鉄工組合が結成された。 

1898年(明治31年)には上野駅を起点とする日本鉄道(当時:後の東北本線)の機関方と火夫の身分差別反対・名称変更、1日70銭の賃金への待遇改善を求めて2月24日にストライキに入り27日まで続き、機関手、乗組機関生への名称の変更、賃上げを認めさせた。

1901年(明治34年)には向島白髭橋の広場で、日本ではじめての日本労働者大懇親会(メーデー;一般には1920年のメーデーが第1回とされる)が開かれた。会費は10銭、午前9時に開会、奏楽、祝い声、演説、昼ごはん、遊戯、福引、酒宴、散会のプログラムだった。警視庁は酒類を与えないことを条件に5000人の入場を許可していた。ところが、3万人を超える労働者が集まった。政府は狼狽困惑したに違いない。片山潜が労働者保護法制の制定、普通選挙法制化、幼年婦女子労働者への保護、労働者教育、毎年のメーデー(労働者大懇親会)を提案し、決議された。

対抗する 政府は1900年(明治33年)に悪名高い治安警察法を制定、労働運動、社会主義運動への弾圧を強め、労働組合の弱体化をすすめていく。

踏まれても、蹴られても、屈しない。屈託なく不屈に立ち上がってきた下町労働者の19世紀のDNAは20世紀を貫き、21世紀の今日へと流れている。(以下続く)

【参考】 「日本労働組合物語 明治」大河内一男、松尾洋(1965、筑摩書房)

おばた・よしたけ

1945年生まれ。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ、公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

コラム

ページの
トップへ