論壇

日本アカデミズムのなかのマルクス経済学

分岐と変貌

摂南大学 八木 紀一郎

1.日本アカデミズムのなかのPolitical Economy

日本の大学におけるマルクス経済学はどうなったのかというのが編集部からの問いかけであるが、これに答えるのはなかなか難しい。というのは、現在では1950年代から60年代のように、「マル経」(マルクス経済学)と「近経」(近代経済学)という二つの経済学がはっきりと分かれて対峙していた時代とは大きく状況が変わっているからである。また、「マルクス経済学」ということでどのような特徴をもった経済学を考えるのか、あるいは「マルクス経済学」にこだわることにどれほどの意義があるかについての見解も、「マルクス経済学者」とみなされる経済学者自身をとってもまちまちだからである。

筆者自身の見方を説明する前に、通常マルクス経済学者の中心学会とみなされ、現在でも800人近い会員を擁している「経済理論学会」(註1)が現在自らをどのように規定しているかを見ておこう。全体の状況をまず判断するのに役立つと思う。

(註1)この学会は、戦後のマルクス経済学が政治と過剰に結びついたことの反省の上に純学術的な研究学会として1959年に創立された。創立時には会の名称を「マルクス経済学会」とすべきだという声も強かった。

経済理論学会の現状

この学会はそのホームページでその学問的立場を以下のように2点あげている。

-マルクス経済学を現代における経済学のもろもろの流れの基幹的な部分として位置づけ、その資本主義批判および経済学批判の精神を受け継ぎます
-経済学における理論と方法の多様性を尊重し、研究の自由で創造的な発展をめざします

つまり、マルクス経済学からの継承関係は否定しないが、マルクス経済学以外の他の学派・他のアプローチを許容するプルラリズムに立つということである。じっさい、会員のなかにはケインジアン(カレツキアンという方がより適切かもしれない)や制度派、進化経済学、その他の異端派が多くいて、自分を「マルクス経済学者」と考えている会員ばかりではない。筆者自身も、「マルクス経済学者」と呼ばれることをあえて否定するようなことはしないが、自分では「進化的な制度派」の経済学者であると考えている。(註2)

また、この学会が桜井書店から刊行し、市販もしている『季刊経済理論』は「社会的・歴史的視野をもった経済学の理論の発展に貢献する」とその使命を定め、自らを「経済学における批判的な研究の公器」とみなして非会員の投稿も受け付ける査読制のオープンジャーナルとなっている。その取り扱う領域としては、「近・現代の経済および経済政策の分析、社会主義その他のオルターナティヴの検討、政治経済学・社会経済学の新領域、古典的理論の再検討など」と例示している。日本の現在の「マルクス経済学」の現状を知りたいと思う読者には、この雑誌の数年分の目次を一瞥することをおすすめしたい。

(註2) この学会がRoutledge社の支援とともに設けた経済理論学会国際賞の2014年初回以来の受賞者の名前をあげておくことも有益だろう。第1回受賞者は米国のラディカル・エコノミクスから進化的社会科学に進んだサムエル・ボウルズ(サンタフェ研究所)、第2回は宇野派に属する伊藤誠(東京大学名誉教授)、第3回は地理学から出発してマルクス『資本論』を再発見したデイヴィッド・ハーヴェイ(ニューヨーク市立大学)、第4回は移民研究とグローバル都市研究によって国民国家概念を相対化するビジョンを打ち出したサスキア・サッセン(コロンビア大学)であった。この顔ぶれも、従来の「マルクス経済学」のイメージを超えているであろう。

学術会議「参照基準(経済学)」騒動

2013年に学術会議の経済学部会が「参照基準(経済学)」(註3)の素案を作成したときに、経済理論学会が他学協会と連携して効果的な批判運動を展開することができたのも、プルラリズムを立場にしていたからであろう。この時は、OECDやEUなどでの学士基準の国際的標準化の動きを意識した担当分科会が、新古典派的発想のもとに経済学の教育基準を構想したため、画一化の傾向をもった基準が採択される怖れがあった。素案はミクロ経済学、マクロ経済学、統計学ないし計量経済学を「基礎科目」として重視し、他をその応用と位置づけようとしたものであったので、歴史的視点・社会的視点を持つ学会、新古典派的立場を超えようとする学会が批判の声をあげ、翌年にかけて、画一的なカリキュラムに帰結するような内容を修正させることに成功した。(註4)

私はこの論争に経済理論学会を代表して参加したが、その際のやりとりで覚えていることは、素案を作成したグループがpolitical economy という名称を最後まで否認したことであった。つまりmicro economics, macro economics があるのになぜ古い political economy を持ち出す必要があるのかという反発を受けた。ことばの争いと笑うなかれ。実は経済理論学会もその学術誌『季刊経済理論』も英文名称にこの語を冠している。言い換えれば、この学会とその掲げる方向の承認が忌避されているということなのである。

しかし、経済学史を学んだことがある人は誰でも知っているように、political economy というのは「家」とか「企業」の範囲をこえた「国などの政治体の経済」を意味していて、経済学のもともとの名称であった。講義名称で「経済学原理」あるいは「経済原論」の呼ばれていたものもこれである。ところが19世紀末に新古典派が台頭すると簡略化された economics という用語が用いられはじめ、ポール・サムエルソン『経済学』などにその用法が受け継がれた。さらに、20世紀の末には新古典派の意味での micro economicsが隆盛し、それと貨幣・金融・財政を含みケインズ経済学の名残をもつmacro economics の二本立てが欧米での経済理論の授業の標準とされるようになった。参照基準素案の作成者たちは、これを日本の経済学教育においても標準にしたいと考えていたのである。

しかしミクロとマクロの分離はマルクス経済学や他の異端経済学にとっては受け入れられないものである。マルクス経済学でいえば個別資本と総資本の連関、制度派などの異端派にとっては、ミクロ的行動とマクロ的構造の円環的関係(ミクロ・マクロ・ループ)が理論そのものの中心に位置しているからである。

この対立をより生々しい大学内のポスト争奪合戦に置き直して状況を説明しよう。過去に「近経」「マル経」が「対立する二つの経済学」とみなされていたとしても、両者はいずれも経済理論あるいは理論経済学に属するので、講座あるいは学科目のポストがはじめから配分されているのではない。かつては同じ「経済原論」科目について「近経」「マル経」の2教授による講義が並行しておこなわれていた(競争講義)のが、「近経」の方では国際基準に沿って「ミクロ」「マクロ」他のポストの整備が必要になり、マル経「原論」を不要とみなすようになる。守勢に立った「マル経」の側は、「経済原論」の名称・ポストを維持できない場合には、「政治経済学」「社会経済学」に名称を変えて存続をはかるか、あるいは「経済学入門」・「経済思想史」・「(各論)マルクス経済学」のように周辺に追いやられるようになったというのが多くの大学で起きた事態であろう。

ここで「政治経済学」「社会経済学」というのは political economy の訳語であるが、どちらを採るかは好みの問題であろう。「政治経済学」というのは political economy の直訳でやや硬い。私自身は京都大学経済学部で担当していた「経済原論」の講義を「社会経済学」という名称に変え、また同題のテキストブックも公刊した。この名称の方が、社会の再生産という原理的な視点を基礎に置き、近年の新しい理論動向を取り入れるのに適していると考えたからである。フランス由来のレギュラシオン学派に影響を受けたグループのなかには「制度経済学」という講義名称を用いている人もいる。私の講義はまだ『資本論』の理論構成の枠組みを残していたが、このグループの作成したテキストブックは、その精神は別としても章立てなどの枠組みはもはや伝統的なマル経原論のそれから脱したものになっている。

(註3)日本学術会議は文部科学大臣の諮問に答えて分野ごとの「参照基準」を作成・公表したが、それは小学校・中学校の教育における「学習指導要領」のような拘束性をもつものではない。各大学が学部レベルでのカリキュラム編成等にあたって、あくまで自発的に参照するようにと求めるものにとどまる。

(註4)この経緯とそれにかかわる諸論点については、八木ほか編『経済学と経済学教育の未来』(桜井書店、2015年)を参照されたい。

2.1970年代以降の日本のマルクス経済学

1970年代の3つの学派

さて、今度は筆者自身の選択も含めて、マルクス経済学からの発展と分岐を語らなければならない。1970年代初頭、マルクス経済学の学界には宇野学派、正統派、そして市民社会派の3つの潮流があると言われた。戦後の早い時期から価値論、恐慌論などに独自の学説を示していた宇野弘蔵は、『資本論』を純粋資本主義の理論に純化した独自の「原理論」を基礎にして、中間ステップとしての段階論、そして現状分析にいたる3段階からなる研究プログラムを確立した。彼を祖とした学派は1960年代に理論体系を整備し、多くの中堅・新進研究者がそれに従って研究を進め、学派の内外に多くの論争の渦を生み出していた。1970年代以降は信用論・金融機構論などの理論的研究とともに、世界資本主義論、アメリカ的段階や大衆消費段階など段階論の領域での論争が多くあった。

正統派というのは、戦前の講座派・戦後の民科(民主主義科学者協会)・新講座派をひきつぐ共産党に近い立場の学者たちであり、その多くはレーニンを範としていた。日本資本主義の再生産構造やその対米従属構造の政治経済学的分析に重点をおいていたが、理論面においては『資本論』などの古典テキストに従う祖述的な態度をとっていた。近年では貧困問題や長時間労働問題などの分析に成果をあげている。

第3の「市民社会派」はマルクスの資本主義理解の背後には資本主義を成り立たせている所有・分業・交換を軸にした社会認識(市民社会)があるとするもので、高島善哉、水田洋、内田義彦、平田清明などの思想的影響を受けた学派である。私自身も大学院で平田を師としたのでこの学派に属するとされることがあるが、1970年代という段階で経済理論上どれほどの実体があったかどうかは疑問である。しかしその影響が大きかった『現代の理論』や日本評論社のいくつかの出版シリーズにおいては、経済理論や現状分析への進出が企図されていたことは事実である。(註5)

(註5)1980年代になると平田自身を筆頭にその弟子たちの多くがレギュラシオン学派に接近したため、市民社会派は消滅したと言われたこともある。しかし今年出版されたばかりの山田鋭夫・植村博恭・原田裕治・藤田菜々子『市民社会と民主主義―レギュラシオン・プローチから』(藤原書店、2018年)では、レギュラシオニストにとっても「市民社会」概念が重要であることが論じられている。

マルクス経済学の数理化と国際化

後知恵になるが、この時期に重要であったのは、一つには数理マルクス経済学の登場と、いま一つはマルクス理論研究の視野の国際的拡大であろう。置塩信雄は『再生産の理論』(1957年)以来、マルクス経済学の数理化をてがけていたが、はじめは通常の意味でのマルクス経済学者としてみなされていなかった。彼は1967年に『蓄積論』で数式展開にとどまらない資本主義的蓄積の理論を提示した。それまでのマルクス経済学者による近代経済学の外在的批判と異なって、近代経済学の土俵の中にはいってその内在的な批判を提供したのでその影響は大きかった。1974年に英国で刊行され、翌々年に高須賀によって翻訳刊行された森嶋通夫の『マルクスの経済学』の衝撃も大きかったはずであるが、森嶋が直ぐにマルクス批判に転じたこともあってマルクス経済学の学界内で十分に消化されずに終わったのが残念である。1980年代になると、置塩の影響を受け、数理的分析を取り入れる若手・中堅の経済学者が活躍をはじめ、現在に至っている。

置塩、森嶋と並んで、ピエロ・スラッファ『商品による商品の生産』がリカードの「不変の価値尺度」問題の解決法を示し、また新古典派的な資本理論に批判を加えたことも、直接にはマルクス経済学の外部で起きた事であったとはいえ、その後のマルクス経済学の展開に大きな影響を与えることになる。というのは、スラッファ学派はリカードからマルクス『資本論』第3巻にいたる生産価格の理論を彫琢したのであるが、それが『資本論』第1巻のような労働価値説を不要にするというマルクス批判をも伴ったからである。多くのマルクス経済学者は、この労働価値不要論に対応せざるをえなかった。ともあれ、置塩、森嶋、スラッファ学派の影響によって、日本でも数理的なマルクス経済学が生まれたのである。

理論的視野の国際化というのは、1960年代末から1970年代になると欧米でも「マルクス・ルネサンス」が起こり、モーリス・ドッブ、ポール・スウィージーといった旧知のマルクス経済学者以外の新世代の潮流が日本にも紹介されるようになったことである。最初の波は、米国のラディカル・エコノミクス(急進派経済学)であったろう。ヴェトナム戦争を背景にして米国の大学キャンパスに生まれたこの運動は、反権威主義・反帝国主義の色調をもって既存の経済学を批判しながら、マルクスをも再発見した。新鮮な議論として私がおぼえているのは、企業のヒエラルキー組織が経済的効率性ではなく権威的支配にもとづくことを糾弾したスティーヴン・マーグリンの「ボスたちは何をしているか」論文、不況は産業予備軍を創出して賃金上昇を抑制するために意図的に生み出されるというボウルズ/ゴードン/ワイスコフの「社会的蓄積構造」の分析である。

ラディカル・エコノミクスの華々しい登場は1968年以来のマルクス・ルネサンスと呼応していた。マルクス経済学の古典が再読されただけでなく、スラッファ理論やポスト・ケインジアンの理論における階級関係の要素が再発見された。これら海外の動向にふれた若手・中堅の研究者は、それまでの日本国内の伝統的学派からは得られない刺激を受けた。さらに、世界経済への組み込みは周辺国にとっては従属を強化するだけだというガンダー・フランクやザミール・アミンの「従属発展論」や、エマニュエル・ウォラーシュタインの「世界システム論」も新しい世界経済論として人気を博した。

フランスでうまれたレギュラシオン学派が日本に紹介されたのはやや遅れて1980年代の後半以降である。その端緒は大量生産・大量消費の米国資本主義を生産性と賃金を連動させる階級妥協を核にしたフォード主義の蓄積体制として描いたミシェル・アグリエッタ(『資本主義のレギュラシオン理論』1989年訳書)によるものであったが、この学派は成長体制・労使関係・労働様式を結びつけて各国経済を総合的に分析する研究プログラムを日本の研究者に提供した。日本にフォード主義があったかどうか、トヨタ生産方式はポスト・フォード主義か、日本の企業中心の経済体制をどのように理論化すべきか、これらをめぐる論争にかかわる中で、日本にも山田鋭夫を中心としてロベール・ボワイエらのパリの研究者と緊密に連携して研究を進めるレギュラシオン学派の集団が誕生した。

なお、1970年代以降になると若手研究者レベルでも海外で留学することが可能になり、海外の理論動向、研究手法を身につけて帰国する若手マルクス経済学者も出てきた。日本独自の学派である宇野学派でも、すでに中堅リーダーと目されていた伊藤誠だけでなく、横川信治、故野口眞のように大学院レベルで留学し、英米の政治経済学研究を吸収した研究者が生まれている。

二つの対応:集中と開放

以上のような動きがあったにもかかわらず、1970年代以降の日本の学界では、マルクス経済学は守勢の側に立ち続けている。アメリカで先端の近代経済学を学んだ新進経済学者が帰国して相次いで活躍をはじめ、日経新聞などの経済論壇の中心を占めるようになる。大学でもマルクス経済学・近代経済学のバランスは後者の側にますます傾いていった。1983年のマルクス没後百周年頃には、マルクスへの幻滅を広言する論客(「マルクス葬送派」)が登場した。この時期にマルクス経済学を研究することをあえて選んだ若手研究者にとっては、目の前で伸長していくアカデミズム主流派の経済学への対抗心をどのように維持するかということが切実な課題であったろう。そのようななかで対応は二つに分かれたように思われる。

第一は、マルクスおよびマルクス主義、あるいは自分の所属する学派の問題構成に注意を集中することである。たとえば、1984年に「若手マルクス・エンゲルス研究者の会」(のち「若手」を削除)が結成され、マルクスおよびマルクス主義の資料研究・書誌的および解釈的研究を多く掲載する『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』の継続的刊行を開始した。この研究会のメンバーの多くは1989年の東欧変革後に危機に陥った新MEGA(マルクス=エンゲルス全集)の編集協力に参加し、マルクスの『資本論』草稿や読書ノートの公刊を現在も支え続けている。それは、日本のマルクス学の水準の高さを示したものと言える。

また、比較的最近の動き(といっても20年前のことだが)としては、宇野学派の戦後生まれの研究者によって1997年に結成されたSGCIMEという研究者集団がある。これはマルクス経済学の現代的課題の研究会を意味するとのことだが、研究会を重ねて御茶の水書房から「グローバル資本主義」「現代資本主義の変容と経済学」と題したシリーズなど10数巻におよぶ論文集を2016年までに刊行・完結させた。その中心は、理論(原理論)においては小幡道昭、段階論・現状分析論においては河村哲二であろう。世紀の変わり目前後の商業出版社(岩波書店など)のマルクス経済学の叢書が、中断したことに比べると、この集団のエネルギーを嘆賞するのはやぶさかではないが、全体としての指向は内向きであったと思われる。このシリーズ完結後の余力を、主流派経済学も含む他学派との切磋琢磨、また国際的な討議への進出に用いて欲しいと要望したい。

第二の対応は、アカデミズム主流派に対抗する多くの異端派との連携・交流のなかで自分の経済学を発展させていこうとする開放型の方向である。すでに述べたように、1970年代には米国におけるラディカル・エコノミクスや欧州におけるマルクス・ルネサンスの動きが起こり、さらに新古典派に対するスラッファ経済学の挑戦が日本の学界にも影響を及ぼすようになっていた。スラッファ経済学は分配において階級関係を重視する古典派的伝統を復活させたが、マクロ経済学において階級関係を論じるカレツキの再評価、「新古典派総合」から解放されたケインズの貨幣・金融論の再発見と合わさって、マルクス的発想と共通するところの多い反主流の学派(ネオ・リカーディアン、ポスト・ケインジアン、構造的マクロ経済学)が誕生し、多くの若手・中堅のマルクス経済学者がその手法・発想を取り入れるようになった。レギュラシオン学派自体も、マクロ経済学的側面から見れば、その産物の一つと言ってよい。

さらに1980年代90年代になってくると、ダグラス・ノースやオリバー・ウィリアムソンのような新制度主義や、限定合理性のうえに人間行動の理論をうちたてようとするハーバート・サイモン、そしてゲーム理論の様々なツールが提供されるようになった。日本でも、青木昌彦によって、米国企業と対比される日本型企業の理論化からさらに進んで「比較経済分析」という新しい研究領域が切り開かれた。資本主義・社会主義という体制比較ではなく、資本主義自身の制度的な分析・比較・評価が論じられるようになった。そのような理論的状況のもとで、マルクス経済学の閉鎖性を打破してそれを新しい展望に開いていこうと考える研究者が出てくるのは自然なことであろう。

私は1989年から90年にかけての在外研究で現代制度派、進化経済学、レギュラシオン学派、ネオ・シュンペーテリアンといった新興学派の経済学者と出会い、彼らと交流すべきだと考えるようになり、帰国後は、マルクス経済学を制度の経済学として発展させるべきだと論じるようになった。たとえば、資本は現実には企業という姿をとるのであり、また労働力は完全な専有可能性をもって市場で譲渡される商品ではない。直接的な生産過程(労働)および労働力再生産も含む流通過程も含む生産関係のなかでの支配は、各種の制度を形成してはじめて機能するのである。資本主義の生産関係は制度分析にまで具体化されてはじめてその多様性を容れうるものになる。私は、さらにそのような制度が多数の異質的な主体どうしの相互関係のもとで進化的に形成されると考え、進化的な制度経済学という研究方向に到達した。

進化経済学と分析的マルクス主義

進化経済学会の創設がSGCMIのそれと同じ1997年であったのは偶然ではないかもしれない。それはマルクス経済学者にとって、対極的な第二の対応を実現する場になったとも思われるからである。といってもこの学会は、新古典派主流に対抗して進化的多様性を容れ得る経済理論を発展させようという趣旨で創立されたもので、組織としてマルクス経済学を意識した学会ではない。私は京都大学で同僚であった瀬地山敏、吉田和男両氏とともにこの学会の創立の準備をしたが、理論的なリーダーは複雑系理論の日本での代表者である塩沢由典や非線形経済学を追求している有賀裕二であろう。最近は企業の進化的能力を問題にした藤本隆宏や地域通貨をモデルに社会構築を論じる西部忠もそれに加わっている。コンピューターを用いて制度の創発や人工的な市場の作動を解明しようとする研究者や経済物理学者もいるので、通常の経済学の学会の範囲すら超えている。

この学会には、マルクス的な問題意識をもちながら資本主義の制度分析、進化的動態を研究しようとする多くの研究者が当初から参加している。日本でのレギュラシオニストのグループはほぼ全員が会員であるが、宇野学派出自の研究者も多い。ここでは、マルクスはケインズ、シュンペーター、ハイエク、そしてアメリカ制度学派のヴェブレン、コモンズといった多様な経済学者とともに、その進化的視点、制度的視点において評価されている。学会誌はEvolutionary and Institutional Economics Review であり、これはSpringer社の制作する公開査読誌である。

進化経済学会に集まっている研究者たちの多くは、新古典派経済学を支える経済行動の合理性と均衡の一義性に批判的であるが、それと反対に新古典派の分析装置を用いて「搾取」などのマルクス的命題を論証しようとするジョン・ロェーマーらの分析的マルクス主義も20世紀末に生まれている。彼らの厳密な分析にしたがえば、搾取は剰余価値の領有というフローの問題である以上に取引以前の資産配分における不平等の問題に還元される。このことは、いかなる不平等が是正され、いかなる平等が目指されるべきかという倫理問題をひきおこす。マルクス主義の伝統的教義では、倫理や規範は社会の生産関係に基礎をおく上部構造とされるが、分析的マルクス主義者たちにとっては独自の権利をもった問題である。標準的な新古典派的分析手法を積極的に活用すべきだとする方向は、三土修平、松尾匡、大西広の立場でもあるが、国際的な水準での達成は吉原直毅『労働搾取の厚生理論序説』(岩波書店、2008年)を待たなければならなかった。

3.21世紀に向かうなかで

20世紀最後の10年間におけるソ連型社会主義の崩壊は年長のマルクス経済学者にとっては衝撃的であったようだが、私のような戦後生まれの研究者にとっては深刻な問題ではなかった。私が属していたのはソ連型社会主義に異を唱えて社会主義における主観的要素を強調した中国文化大革命や労働集団の自主性を保証したユーゴスラヴィアの自主管理社会主義に共感した世代であるので、その失敗を知ったことの方がショックであった。私自身は、1990年代の集権的な計画経済体制から市場経済への移行過程にも理論的な興味を覚えたが、多くのマルクス経済学者はもはや社会主義について語らずに、資本主義のグローバル化とそのもとでの各国資本主義の差異について論じるようになった。マルクス経済学者の制度問題への開眼も、一面ではこうした視野の収縮(体制論から制度論へ)の産物とみなせるかもしれない。

21世紀に入っての3つの事件

21世紀の初頭には9・11事件、2008年には世界金融恐慌、そして2011年には東日本大震災と福島原発事故が起きたが、これらはみなマルクス経済学に対しても大きな問題を投げかけている。

9・11事件はアメリカ資本主義を悪魔とみなすイスラム原理主義のテロリストによって惹き起こされたが、それはグローバルな資本主義にとっての「他者」の位置づけという問題をあらわしている。テロリズムの問題を捨象するとしても、資本主義あるいは本国市民社会にとっての「他者」の問題は、現在でも米墨国境に押し寄せる非登録のヒスパニック移民、EU域境に押しよせる難民および域外移民の群れになって、資本主義の本国の労働者の脅威となっている。改行

移民政策を採らないとする日本は、おカネを落としてくれる外国人観光客は歓迎しながら、生産活動に必要とされる外国人労働者を家族呼び寄せもできない「技能実習生」として扱う外国人管理制度を生み出している。生産・労働をおこなう外国人を「他者」としながら、「共生」をうたうのはどう考えても無理である。女性差別問題、障がい者問題、高齢者問題など、市民社会の内外で「他者」が生み出される問題の解明はマルクス経済学にとっても重要な課題であろう。

「百年に一度」と言われるほどの規模の世界金融恐慌は欧州周辺国の「ソブリン危機」につながって移民・難民問題とともに、欧州統合のプロジェクトを危機に瀕させている。多くのマルクス経済学者はこの国際金融危機を、それ以前の経済過程の各レベルにおける「金融化」の結果として生まれた「金融主導型資本主義」の危機として捉えている。しかし、それからの脱出経路、あるいは代替的な金融体制のビジョンにおいてコンセンサスがあるようには思えない。一部には、金融緩和・財政出動を支持する見解もあるが、多くのマルクス経済学者は検証なしの「異次元」金融政策、累増する国家債務に困惑しているだけに見える。

最後に、震災・原発問題で露呈した環境的基礎と科学技術の問題である。震災問題は、市場経済の基礎に自然的及び人工的な環境の形成・維持という経済問題があること、また被害の社会的較差・階級間および地域間の配分問題があることを示した。さらに原発事故問題は軍事問題も含めたエネルギー供給問題と巨大技術の管理問題、科学技術の公開性と受容性の問題を示した。(註6)

日本のマルクス経済学のなかでも、格差・貧困問題、金融・財政問題、環境および科学技術問題が意識されていると思う。その理論化がなお体系だっていないことは事実であろう。これらの分析および政策討議の問題は、現実から出発して共通のフォーラムでおこなうべき事柄で、とくにマルクス経済学の独自性にこだわることに意味があるとは思えない。(註7) しかし、これらの問題を常識的な思想および政策の批判とともに掘り下げて取り扱うことは、マルクスの経済学批判の精神に沿ったことであろう。

(註6)経済理論学会ほかの学協会が震災の1年後に福島で市民とともに討議したシンポジウムの記録(後藤康夫・八木紀一郎・森岡孝二編『いま福島で考える―震災原発問題と日本の社会科学』桜井書店、2012年)を参照されたい。

(註7)経済学教育においても、何らかの学説(教義)を教えてその応用として問題解決を学習させるよりは、問題自体の実態認識から出発し、共通の批判的研究方法をもって学修させる方が適切であると考えられる。近年の経済学教育への批判の波から、サムエル・ボウルズらを中心としたグループによって、そのような立場に立ったオンライン公開(英語)の経済学教育プログラムcore-econ(https://www.core-econ.org)が生まれ、日本でも経済教育学会のなかにその日本での利用・定着をはかるグループが生まれている。

最後に:マルクス生誕二百年

日本でマルクスがはじめて紹介されたのは前の世紀の替わり目の頃だが、第一次大戦が終わりロシア革命で共産主義をかかげた国家が生まれた後の1920年代には、日本でもマルクス・ブームが起きた。河上肇がマルクス主義の宣伝をしようと個人雑誌『社会問題研究』を創刊したのは1919年であるが、日本におけるマルクス経済学は1920年代の全体を通じて深化し、その後1930年代の大規模な日本資本主義論争を経て確立した。それから1世紀弱を経ているが、マルクス主義者であろうがなかろうが、日本の社会科学が彼に負うところはきわめて大きい。大正デモクラシーの申し子として東京帝国大学の学生たちによって1918年末に誕生した新人会は、1925年、1927 年にマルクスの誕生日を記念した集会(マルクス祭)を開催している。今年はマルクスの生誕二百年にあたるので、それにちなみ、経済理論学会・経済学史学会などの7学協会は協働して国際シンポジウムMarx in the 21st Century の開催(12月22,23日)を予定している(http://marxinthe21stcentury.jspe.gr.jp)。ご関心をもっていただけると幸いである。

やぎ・きいちろう

摂南大学学長。京都大学名誉教授。経済学史、社会経済学専攻。著作に、『社会経済学』(名古屋大学出版会、2006年)、『国境を越えた市民社会、地域に根ざす市民社会』(桜井書店、2017年), Austrian and German Economic Thought (Routledge, 2011) などがある。

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