コラム/ある視角

「誤解」や「理解」、「など」

マスコミ・政治家―劣化する言葉

塾講師 笠井 一成

1.「誤解」

「誤解」を英語ではミスアンダースタンドという。つまりアンダースタンドを「私はミスした」。

日本語の「誤解」も全く同じで、「私は解釈を誤った」「私は考え違いをした」という意味だ。

どちらも、間違いを仕出かしたのは「私」である。

さて。

失言政治家は、失言を追及されると「誤解を与えました」と謝る。「誤解を与える」は彼らの常套句である。

では、失言政治家が「誤解を与えれ」ばどうなるか。

そこからは論理的に「与えられた側」の問題となる。つまり「誤解を与えられた私」は、「ミスをさせられた」「解釈を誤らせられた」「考え違いをさせられた」というふうに。

ところが「失言を問題視する私」は、実はミスも考え違いもしていない。どころか、発話者が意識しない失言の酷さが手に取るように客観的に分かるから、問題視するのである。

そのような「誤解しない私」に対する「誤解だ」「考え違いだ」は、それ自体が失言に等しい。失言政治家は、失言本体に加え、「誤解を与えた」で失言の上塗りをしている訳である。

それだけではない。

「誤解」の押し売りは「失言責任」の所在を逆にする。「言ったオレが悪いのではない。聞いたオマエがミスするから悪い」。実に荒唐無稽な責任転嫁である。

失言政治家は、「失言の上塗り」にも「責任転嫁」にも気づかない。そもそもが失言する程度の国語能力の持ち主なのだから、それは当然なのだろう。

2.「理解」

「理解」とは「分かる」という意味である。英語のアンダースタンドだが、アンダースタンドはそのまま「OK」ではない(*1)

同様に「理解」も「了解・納得」のことではない。

従って例えば「辺野古移転中止をアメリカが理解するとは思えない」は「アメリカが納得するとは思えない」ではなく「アメリカは分かる能力を持たない」、である。

あるいは、反対運動従事者に「理解を求める」とは「反対派の旗を降ろさせるべく説得する」ではなく「理解能力を欠いた反対派に分からせる」、である。

このように、「理解」の使用は相手を「分かる能力・理解能力を欠いた者」と措定することになり、相手に対して非常に失礼なわけである。

さて。

『朝日新聞』の記者は「理解」を「了解・納得」の意味で乱用する。一記事中で十二回使った例もある(*2)

失礼な「理解する」「理解を求める」「理解を得る」を、なにゆえ『朝日』がかくも好むのか、私は知らない。

知りはしないが、次のような記事を目にすると私は呆れ、笑う。

「創価学会幹部は集団的自衛権について『学会員に理解してもらうには1年ぐらいの時間は必要だ』と語る」(「閣議決定前に与党協議」岡村夏樹2014.2.26)

創価学会幹部の発言通りか記者の岡村がまとめたのか、どちらにせよ、これは「学会員は理解能力に欠けるから、分かるのに1年かかる」の意味である。

(*1)…understandingに「同意」「了承」の意味はある(例a tacit understanding 暗黙の了解.)が、私がここで言うのは、understandは即agreeとはならないということ。あくまでyou have read, understood, and agree to be bound(読んで理解した上で従う)なのであり、you have read, understood(読んで理解した)だけで「同意した」と受け取られてはたまらない。

(*2)…「経産相『原発 重要な電源』」(2012.4.15)という記事。
「再稼働に理解を求め」「関西圏の自治体の理解を得る見通し」「関西圏の理解 めど立たず」「再稼働への理解を得るため」「回答を理解した」「十分理解されていない」「県民の理解が得られない」「原発の必要性が広く理解されるよう」「関西圏の理解を得る」「滋賀県と京都府にも理解を求めていく」「地元の同意や理解が得られた」「周辺自治体の理解を得られるか」。以上十二箇所。

追記

本稿執筆中、『朝日』が「差別的言動の解消 理解する努力義務 自民 対ヘイトスピーチ法案」という記事を掲載した(2016.4.5)。

「自民がまとめた『本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律案』は、ヘイトスピーチの定義について『公然と、生命、身体、自由、名誉または財産に危害を加える旨を告知するなど、本邦外出身者を地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動』とした。そのうえで『差別的言動の解消に対する理解』と『差別的言動のない社会の実現への寄与』を国民の努力義務とした」、とある。

「差別的言動の解消に対する理解」を「国民の義務とする」は自民党法案の引用だろう。『朝日』はそれを無批判に「理解する努力義務」とまとめて見出しにした、と思われる。

法の文言とは、正確・厳密、他の解釈を許さない言葉であらねばならない。ところが、ここにみる「理解する努力義務」とは、正確・厳密でないという以前に「意味不明」である。自民党の国語力を示す事例として特記しておく。

3.「など」

副助詞「など」は「等」「etc」とは別に、謙遜・軽蔑・反語の意味も持つ。

「私などには分かりません(謙遜)」
「お前らなどにできるもんか(軽蔑)」
「陰口などたたくわけがない(反語)」
のように。

ここでは「私」「お前ら」「陰口」は下位に置かれる対象。「など」にはそのような文意を作る力がある。

さて。

再び『朝日新聞』。

「脳死少年から移植受けた女性 おなかに手を当て『一緒にいろんなことができたらいいね』などと語りかけている」(松田昌也2011.4.20)

「秋篠宮ご夫妻、見舞う お二人は床に膝をつき、お年寄りら一人一人に『夜は眠れますか』などと話しかけた」(2011.4.26)

「『一緒にいろんなことができたらいいね』などと」「『夜は眠れますか』などと」語りかけ、話しかけた「女性」「秋篠宮ご夫妻」は、「など」のせいで貶められているが如き印象にもなる。

もちろん記者にそんな意図はなく、彼らは単に「等」の意味で使っているのであろう(*3)。だが、記事は記者の手を離れ、謙遜・軽蔑・反語のニュアンスを帯びて日本中に晒される。

「『トライデント(核ミサイル)はいらない』などと気勢を上げた」「『核が使われれば、唯一の結果は市民多数の殺害でしかない』などと訴えた」(梅原季哉2016.2.29)、「『日本政府の責任』を明確にしたなどと強調」(東岡徹 同)、「『経済的な合理性はない』などと述べ」「『米国は支援しないし、奨励もしない』などと指摘」「『すべての国が再処理事業から撤退すれば非常に喜ばしい』などと述べた」(小林哲2016.3.19)……。

謙遜・軽蔑・反語の意はない「等(とう)」だと、冒頭の二例は次のようになる。

「おなかに手を当て『一緒にいろんなことができたらいいね』等、語りかけている」「お二人は床に膝をつき、お年寄りら一人一人に『夜は眠れますか』等、話しかけた」。

明らかにこちらの方がよい。ところが、なまじ『朝日新聞の用語の手引』(*4)に「『等』は『など』にせよ」などと(軽蔑)あるものだから、記者は機械的にそれに従う(*5)。そして、先のような記事が出回る。

そもそも、人の発言は一文では済まない。普通は複数の文を口にする。従って文の複数形を表す「等」や「など」をいちいちつける必要はない。「おなかに手を当て『一緒にいろんなことができたらいいね』と語りかけている」「お二人は床に膝をつき、お年寄りら一人一人に『夜は眠れますか』と話しかけた」で十分なのだ。

ちなみに、「など」について私は「安易な使用は控えよ」「紙面を改善せよ」という手紙を『朝日』に送付した(2011.4.24「本日の編集長」池内清宛)。結果は梨の礫である。その後に電話等、こちらから再連絡したことはない。

巷間聞くところでは「校閲部に問えば対応が違うはず」とのこと。

だが、これまでに紙面の件で何度か『朝日』に電話をした経験上、繋がれる先は常に「保身見え見え、上から目線」対応(*6)の編集部で、代表電話のオペレーターの口から私が「校閲部」を聞いた試しはついぞ、ない。

『朝日』は、電話のオペレーターに至るまで質が劣化しているのだろうか。

(*3)…軽蔑の意図を記者自身が潜ませていると、私が憶測する場合もある。例えば「発言したのは寺井寿男校長(61)。朝日新聞の取材に『人口が減るなかで、日本がなくならないためには女性が子どもを産むしかない』『出産を強いているわけではない』などとし、『子どもが産めず、育てられない人はその分施設などに寄付すればいい』と持論を語りました」(2016.3.19)。軽蔑されるべき寺井発言を記者は正当に軽蔑したと、私には読める。なお、寺井発言中の「施設など」は本論とは無関係。

(*4)…二〇一〇年版

(*5)…「など」を用いても、謙遜・軽蔑・反語の意味を消すことは可能である。例えば「都内の大手塾の理科講師は朝日新聞の取材に『受験指導では地球の中心から線を引いており、解説のように地球の側面から線を引くことはない』と説明。この問題で中心から線を引くと答えが二通り考えられる、などと指摘した」(伊藤あずさ2016.3.19)。「など」の前に読点があるだけで印象が「等」に近づく。

(*6)…一例のみ挙げる。「漁業ができる範囲は領海法などで定められ」(小山田研慈、貞国聖子2013.2.26)とあったので、私は『朝日』に電話をかけた。以下はそのときのやり取り。
私「領海法は漁業に触れていませんよ」
相手(女性・氏名忘却)「調べてみて誤りの場合は連絡します。表現不足や舌足らずの場合は連絡しません」
私「そうではなくて『漁業ができる範囲は領海法などで定められ』と記事に出ていますよね。じゃあ領海法の第何条に定められているのですか」
相手「裏付けを取って取材しているもので、情報はご提供できません」

 「提供できない情報源」とは、愚かなことにこの場合、誰もが手にできる六法全書に過ぎぬ。このトンチンカン。 間違えていますよとわざわざ親切に教えるのに対し、頑なな取り付く島なし。「表現不足や舌足らずの場合」だったらしく、その後の『連絡』はもちろん、ない。

 どのように電話を切ったか私は最早覚えていないが、ずっとあと「池上彰コラム不掲載問題」で『朝日』が叩かれた際、あの傲慢さならさもありなんと感想を持ったのはよく覚えている。

かさい・いっせい

1959年生まれ。京都市出身。現東京都中野区在住。

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