コラム/深層

精神疾患の労災認定のハードルは高いか

NPOあったかサポート常務理事 笹尾 達朗

事実を裏付ける証拠はありますか?

当会には、労働者からも使用者側からも、精神疾患に係る事案について、それが労災になるだろうか、或いは労働基準監督署で不支給決定を受けたが、覆すことはできないだろうか、という相談がある。そのいずれも、まずは事実関係の概要をお伺いし、2011年12月26日に出された厚生労働省の「精神障害の労災認定基準」に当てはめて、私なりの判断を迫られることになる。自殺の案件についても、故意の自殺でない限り業務に関わる精神的負荷つまりストレスに起因することを証明できれば、労働者の自殺は、遺族にとって労災保険による補償の対象になる。精神疾患の労災認定について、そのハードルは高いか?と問われれば、上記の認定基準に合致する精神的負荷の程度を立証できれば、容易ではあるが、多くの相談事例ではそれを裏付けることができないケースが大半だ。「精神障害の労災認定基準」にある、「心理的負荷表」は具体的な事例が記載されているために、具体的な精神的負荷がそれに合致し、それを裏付けることができれば決してハードルが高いとは言えないだろう。

「出来事の類型」に占めるハラスメントに高い請求割合

問題は、精神疾患を発症し、それが労災保険の適用を受けることができないかという相談や請求の多くが、セクシャルハラスメントをはじめ「嫌がらせ・いじめ」つまり「精神障害の労災認定基準」が示す「対人関係」という出来事に原因していることだ(ただし、後にもふれるが2009年に「認定指針」が改訂されて以降、出来事の類型では、セクシャルハラスメントは嫌がらせ・いじめ同様に「対人関係のトラブル」の枠内にとどまっていた)。

それを裏付けるように2012年度以降、全国の労働局に寄せられる相談の中では、これまで最も多く寄せられていた解雇に係る相談を追い抜いて、ハラスメントに関わる相談がトップに来ている。また労働組合の連合に寄せられる相談のなかでも最も多いのが、セクシャルハラスメントをはじめ「嫌がらせ・いじめ」とのデータがある。

ただし、労働者又は自殺した労働者の遺族にとっては、セクシャルハラスメントを含む業務に起因し、発症した「精神障害」が労働者災害補償法による業務上の疾患として認められるには、労働基準監督署の決定を待たなければならない。

不支給決定とその後の行政処分取消訴訟

その際、業務外の決定を下された場合には、まず各都道府県に所在する労働局の労働保険審査官に対し、審査請求を行うことになる。そこでも不支給決定とされ、その決定に不服があれば厚生労働省内にある労働保険審査会に対し、再審査請求を行うことになる。

近年、審査請求の約半数が再審査請求をしているが、そこでも不支給決定を受けた場合は、厚生労働省による行政処分に対し、その取消しを求めて行政訴訟を行うことになる。司法に対し、厚労省の行った決定を覆すように求めて争うということだ。その決定を待つまでには、当該労働者又は遺族にとっては、当初の労災請求から少なくとも2年近く経過する覚悟をもって臨まなければならないことになりかねない。請求する労働者又は遺族にとって、相当の精神的エネルギーが必要とされるし、支援者も必要だろう。

ハラスメントに係る請求と認定件数の割合

さて、厚労省が発表している2014年度精神障害に係る労災請求件数と支給決定件数をみると、請求件数は、1456件(うち自殺213件)である。そのうち年度内に業務上外の判断をした決定件数は、1307件(うち自殺210件)で、うち支給決定件数つまり労災認定された件数が497件(うち自殺99件)である。認定率は、実に38%(自殺47.1%)となっている。そこで「精神障害の出来事別決定及び支給決定件数一覧」を見ると、「出来事の類型」の中でハラスメント関係つまり「対人関係」に関わる請求が最も多いことが明らかである。例えば、「嫌がらせ、いじめ又は暴行を受けた」とするものは、業務上外の決定件数169(うち自殺14)に対し、支給決定件数が69(うち自殺4)で認定割合は40%である。「上司とのトラブルがあった」とするものは、業務上外の決定件数221(うち自殺102)に対し、支給決定件数が21(うち自殺4)で認定割合は1割にも満たない。セクシャルハラスメントについては、業務上外の決定件数47(うち自殺2)に対し、支給決定件数27(うち自殺0)で認定割合が57%となっている。このようにハラスメント関係の労災請求は、「出来事の類型」区分によれば他の「事故や災害の体験」「仕事の失敗、過重な責任の発生等」「仕事の量・質」「役割・地位の変化等」その他「特別な出来事」のなかでも群を抜いて多いことが分かる。

精神障害の労災補償をめぐる労災申請と認定の推移

ただし、請求件数に対する認定件数の割合、つまり認定率が高いと見るか、低いとみるかは、人によってその評価は異なるであろうが、「精神障害の労災補償状況」を1980年代から遡って経年的にみると、現在の認定率は高いと評価できることになる。1993年までの請求件数は、1桁台に過ぎないが、1994年から次第に増加し、1998年では42件となっているが認定率は10%にとどいていない。ところが1999年になると請求件数が一挙に155件、翌年の2000年になると請求件数が212件となって、その年には認定率が17%になっている。増加の契機は、1999年に精神障害の労災認定に係る「指針」が初めて厚生労働省から示されたことが影響しているが、背景にはバブル経済が崩壊し、1990年代後半からは自殺者が増加傾向を示すようになったと同様に「精神障害の労災補償状況」もうなぎ上りに上昇し、その傾向は今日まで続いていることが分かる。

2000年代に入ってからも請求は増加傾向を示し、2009年には請求件数が1136件で、認定率20.6%、翌年の2010年は請求件数が1181件で、認定率26.1%になっている。2009年には、先に紹介したように1999年に出された厚生労働省の「精神障害の労災認定指針」が改正され、具体的な出来事の類型に「対人関係のトラブル」が追加されたことが大きく影響している。それは、「嫌がらせ・いじめ」の増加とセクシャルハラスメントの増加に伴う労災裁判に対応して、改訂を余儀なくされたといえよう。さらに2011年6月28日付で「セクシャルハラスメント事案に係る分科会報告書」が出され、「その性質から自身の労災請求や労働基準監督署での事実関係の調査が困難となる場合が多い」として、特別な運用の在り方が言及されている。それらの分科会報告を受けて同年12月26日付で今日の「精神障害の労災認定基準」が出されて以降、以前より増して請求件数と認定件数のいずれもが増加傾向にある。2014年度に至っては、請求件数が1456件で、認定率が38%と過去最高になっていることは先に紹介したとおりである。

裁判所の判断に影響される行政通達

しかし、厚生労働省の「精神障害の労災認定基準」が改正されてきた時代的背景には、先にもふれた厚生労働省による不支給決定処分に対する行政処分取消訴訟や2000年の最高裁「電通事件」判決に代表される自殺予見性の可能性など「安全配慮義務違反」をめぐる労災民事訴訟の増加によるところが大きい。事実、1990年代からは労災民事訴訟や行政処分の取消訴訟が増加しており、原告勝訴の割合は高い。行政判断や行政指導は、1994年のマタニティハラスメントをめぐる「広島最高裁判決」と同様に、時の司法判断によって、「通達」が変更され、行政の認定基準も変化するのが常である。なお、職場における「嫌がらせ、いじめ」については、今日段階で労働者を保護する目的での法的な定義がなされていないこともあって、「精神障害の労災認定基準」においても、「業務による心理的負荷評価表」の「出来事の類型」上、あくまでも「対人関係」という抽象的な枠内にとどまったままである。今後、「嫌がらせ、いじめ」を原因とする労災補償をめぐる行政処分の取消訴訟や民事労災裁判が増加すれば、上記の「出来事の類型」をめぐる「枠組み」の改編が期待される。

労災補償の請求に求められる支援の輪

とすると、精神疾患の労災認定というハードルに対しては、先ずは現行の行政の認定基準を知ることであり、それに即した発症日前からの経年的な出来事に関する事実関係の整理であり、疾病と業務の心理的負荷との関係など論旨の組み立てと、それを裏付ける証拠などの資料をどれだけ準備できるかにかかっていると言えよう。しかし、精神障害の労災補償請求には、当の労働者自身精神的に病んでいるため、また労働者の自殺の場合には遺族が自殺した労働者の労働条件や職場環境などの証拠を一人で収集することなど様々な困難が待ち受けている。特に無過失責任を担保する労災保険の性格上、例えば労働者がバナナの皮を踏んで滑って転んで怪我をしたなどのケースと異なり、ストレス性疾患をめぐる労災認定はそれが使用者に対する民事損害賠償請求に発展しかねないために、一般的に会社側の協力を得られないことが多い。そのため、理解ある弁護士や医師、同僚や労働組合などの職場の支援者を含めた社会的資源にどれだけ恵まれているかということも大切なことであるが、それが精神疾患の労災認定のハードルを下げることに繋がるであろう。

ささお・たつろう

1951年生まれ。龍谷大学法学部卒。京都中央郵便局にはいり、全逓労組支部の役員として活動。85年にボランティア団体「労災福祉センター」の設立・運営に参加。2001年社会保険労務士登録。05年労働と社会保障の専門家集団「NPO法人あったかサポート」を設立し常務理事に就任。おすすめ図書に『働くときに知っておきたい労働関連法の基礎知識』(2000円)がある。 ホームページは http://attaka-support.org/ E-mail attaka-support@r6.dion.ne.jp

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