連載●池明観日記─第5回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

―2010年続き―

これからは無革命の時代であろうか。この前の日本の選挙では民主主義下における革命とさえいわれたではないか。しかし7、8か月が過ぎてしまうと、早くも参議院選挙においては民主党は惨敗を喫しなければならなかった。それで内閣も総入れ替えであった。革命に対する幻滅はこのように早々と訪れてくるといわねばなるまい。新しい政治勢力が旧勢力とほとんど変らないものであるということにもその理由があるであろうが、今日においては改革の余地というものがそれほど限られており、また問題があるとしてもそれほど簡単なものではないといわねばなるまい。それにもかかわらず国民の性急な期待は大きいといわねばならない。そこで民主主義下における政権の交替とは、一つの行政上の手続きであるに過ぎないと、国民はながめるのではなかろうか。

革命はいつも民主主義は維持しなければならない。ある政治的な峠を越えると革命意志はさめてくるのであり、権力の座を占めると国民に対する政治姿勢は無気力になり、ややもすれば世論の前でよろめくようになる。かつてのように革命に成功すれば善意の独裁をかざして旧勢力を追放することなどできるものではない。韓国における1960年の4・19革命と1987年の6月革命を比較してもそのような対照は明白である。87年には民衆革命とまで叫んだのであるが、軍事独裁者たちを一時獄中に押しこめただけであって、それは4・19に比較すればまったく緩やかな政治革命であった。革命の名における独裁などは夢にも思うことができなかった。いまはまさに革命なき時代―無革命または反革命の時代であるといわねばなるまい。革命に対するばら色の幻想などまったくありえない時代である。

韓国における与党と野党の関係を見るととても興味あるものといわざるをえない。野党はまだ革命を誘発するという姿勢である。しかし国民の大部分は無革命の時代を生きるという姿勢である。選挙といえばあれほど騒ぎ立てる情況が空虚なことと見えてならない。この前の中間選挙では野党を勝たしてやったが、今度総選挙では与党を勝たしてやった。政治家たちの目から見ると国民はほんとうに恣意的で無定見であるといえるかもしれない。しかし国民のあいだには政治不信、今や政治に期待することなどありもしないという姿勢が頭をもたげている。左右のイデオロギーなどには関心もなくこの人もあの人もそれほど期待せずにながめている。イデオロギーの時代も過ぎ去り、与野党に対する革命的な視角から期待を寄せることなどありもしない。にもかかわらず今の野党民主党はいまだに革命の時代に対する古い期待と郷愁にとらわれているようである。ろうそくデモの時、李明博退陣を叫んだようにである。

ほんとうに革命が色あせた時代である。それで朴正煕時代への回帰というような空気もあったではないか。しかしそれも今や過ぎ去った寸劇のように見える。そのような歴史への回帰などありえないのだ。過ぎ去った日は忘却するだけだ。そのような歴史の記憶をもった世代は過ぎ去ってしまうのだ。

このような時代に北の政治は金氏一家の60年以上、3代にわたる長期執権であるが、それを不滅の歴史として脚色するのにおおわらわである。金日成のバッジに金正日を加えたものをつけるようにと今日も強要しているではないか。そこでくり広げられている反革命、反進歩の歴史は今日も血腥い政治史である。ワールドカップに破れたといってサッカー監督を強制労働に追いやったというではないか。そのような歴史では時間がたてばたつほど支配者グループは少数者となり、非法な個人独裁に転落し、国民には果てしなき犠牲のみを強要するようになる。今までの60年間、その体制はますます悪化してきたし、犠牲者は増加の一路、民生は一層窮乏化してきたではないか。

それにもかかわらず南にはいまだにその権力に同調する政治勢力が存在しているというのであるか。終戦直後、南北にはおたがいに見ていない地域に対するあこがれがあった。南では北に対して、北には南に対してそうであった。それで私は南へと‘越南’の道を選んだのであるが、あの危険をおかして南に来ては南の政治現実に失望しそのような理想郷などありうるはずではないと、政治には背を向けたのであった。しかし民主化闘争でもう一度政治に対する理想をかけたといえるかもしれないが、今は再び政治的リアリズムに回帰したといおうか、遠く去りし日をながめているとでもいおうか。これからは人生の終焉。人生とはそのようなさすらいの日々であったというほかはあるまい。(2010年8月3日)

≫小市民化の時代に向かって≪

李明博政府は大々的に人を入れ替えた内閣の陣容を発表した。野党の民主党はもちろん与党の朴槿恵系列に対しても全面的に否認する姿勢である。政治的権力の争いは日を追って烈しくなり、この執権後半期を暗くしている。こういう状況がこの国の政治というものである。他の政治グループに対するこのような全面否定的な姿勢というのは、この国の政治風土ではいたしかたのないことであろうか。政治的集団を異にすればただ対立して譲ることなどありえないという姿勢である。私はここにも後進的な民主主義の様相を見るのみだと思わざるをえない。

新しく総理に就任するという人はどうしてそれほど自信に満ちていると公言してはばからないというのであろうか。彼は謙虚な姿勢など必要ではないとお高くとまっている。現実はそれほど単純なものではないのにである。政治においてはいかに困難なことがあっても深思熟考する姿勢など見せてはならないとでも思っているようである。政治には大言壮語はつきものであろうか。気兼ねなどまったく不必要であるという構えである。(2010年8月8日)

“朝鮮ドットコム”とかいわれるところに女優金芝美(キムジミ)と金大中との対談がでていた。97年に大統領選のために遊説をしていた時のことであるという。映画界の支持をうるために金大中は映画界に2800億ウォンの支援を約束したという。それで彼が大統領に当選してからは映画振興委員会において金大中系が大手を振って支配したというのである。そのように彼の政権も金権政治にまみれたものであった。北の政権に対しても4億8000万ドルかを提供して対話を始め、それで彼自身ノーベル平和賞を手にしたではないか。このように闇に閉ざされている政治権力を前にしてやはり私は政治を嫌悪せざるをえない。

朝鮮日報に書いた文章で私はやはり後進的民主主義ということばを使わざるをえなかった。選挙が終ってから、アメリカ産牛肉輸入に反対する多くのピケットに‘李明博退陣’というスローガンが現れた。若い学生たちのピケットだとはいっても、民主的選挙で当選した大統領に対して‘退陣’と叫ぶことができるのか。民主主義のルールは守られなければならないのではないか。この頃野党民主党の代弁人のことばを聞けば反政府のためならなんでも口にするという姿勢ではないか。

この国においては公共的価値とか公共的言論というのは存在しないといわねばなるまい。自分の立場に有利であれば何をいってもかまわないという民主主義というのであろうか。東亜日報の社説もこのような状況を嘆いていた。言論も無責任であったのだが、さすがに政治的争いにはたまりかねたようである。あのような状況をながめながら新聞は自らを顧みるようになるのであろうか。

この頃の韓国の状況をながめながらまた知識人問題を考えざるをえない。いまは『思想界』(1953年に創刊され強い影響力を発揮したが、1970年代後半に廃刊)のようなものもなく、あったとしても読む人もいないだろうし、国民は総知識人化しているといわれ、誰もが自分の考えにのみ権威を与えているという。知識人を言論が育てるべきであるといったが、新聞の文章もパトスを欠いている時代である。ただ片方から断片を集めたような感じを禁じえない文章である。これは私の偏見であろうか。

この国は伝統的に知識人の国であるといわれてきた。文官統治の国であったし、在野の儒学者が批判ののろしをあげれば、それに民衆は答えた。このような知的風土が消えて行ったのはいつ頃からであっただろうか。1960年の4・19学生革命の時は知識人の社会参加がそれこそ絶頂に達した時代であったといわれた。今は革命のない時代であり、民衆が政権を打倒して、悪しき政治勢力を批判して牢屋に送った時代は過ぎ去った。

1979年の朴正煕軍部政権の終焉とともにそのような時代が暮れ始め、1987年、全斗煥の後退とともに知識人を云々する時代はまったく幕をおろしてしまったと考えるべきであろうか。国民総知識人化の時代であり、やがてコンピューターが支配的になる時代であるといえようか。全斗煥の没落までアメリカが韓国の政治にほとんど公然と関与していたことも忘れることができない。この時代を今日タイにおいて民衆の蜂起が何度も挫折している状況と比較してみることができるのではなかろうか。タイの場合はアメリカの直接的関与など考えられないのであるが。

革命後、いままで苦しい抵抗を続けてきた国民的な勢力が一握りの執権勢力に化してしまう。成功した革命など存在しないという歴史をわれわれは経験してきたように思える。革命後広く国民的な力を結集しうる政治が成立するなどとは幻想に過ぎない。成功した革命勢力が無能力と腐敗で退陣し、そこに訪れてくる非革命また反革命の時代。韓国現代史とはそのようなものであった。今は革命ではなく、選挙による政権交代の時代であるが、これを民主化の道であるといわねばならない。朴正煕の死(1979年)と全斗煥と盧泰愚の投獄(1995年)、そして革命勢力といいながら自身を特権化しようとしたために起こった盧武鉉の自殺(2009年)というこの過程を政治史的に特に革命史的にたどってみる必要がある。それを革命意識が希薄になり、後退または消滅して行く過程としてながめるのである。歴史とはこのような非革命化の過程を踏みながら日常的な社会となって行くものだというべきであろうか。そのような歴史の流れの中で、すべての人間が矮小化して行くというのが現代であるのかなどと考えざるをえない。

それを何よりもコンピューターの文化が促進してきたと歴史は記録せざるをえないのではなかろうか。それは英雄も偉人もいない、それこそカリスマのいない時代である。脱カリスマの時代、誰もが小市民の道を行く時代、そこで誰も自己犠牲を求められない平凡な時代となって行くのであろうか。このような時代を生きて行くべき市民的資質が求められ、それに耐えて行くことのできる市民的根気が求められるといえるであろう。(2010年9月13日)

≫日本の詩歌≪

日本文学全集(筑摩書房)に収められている詩集を読みながらいろいろと考えている。われわれは金素月(キムソウォル、1902~35年)や金起林(キムキリム、1908~?)などの詩を読みながら韓国の現代詩をどれほど愛しただろうか。私はひそかに詩においては韓国は日本にまさると考えてきた。作品の数はそれほど多くはないといっても日本の支配下でわれわれはほんとうに韓国の詩を愛していた。解放後初めて知られた尹東柱(ユンドンジュ、1917-45年)の詩をあれほど愛して口ずさんで来たではないか。韓国人は詩的情緒の国民であるとすら考えてきた。この点では日本に向けて誇りに思っていた。その詩というのは日本統治下においてひそかに民族的独立を求めた声でもあった。

この頃日本の詩歌について読みながら大きな衝撃を受けている。日本における韻文の世界はまず俳句、和歌、詩などとなんと多彩であることか。それに従事した俳人、歌人、詩人などはその数からして韓国の数十倍に達するかもしれない。この三つの領域における文学はおのおのその性格を大きく異にしていた。俳句と和歌は日本の伝統に従った日本特有の韻文世界であったが、詩は近代以降のものであり、西欧特にフランスの影響を受けていた。それはフランスの詩を模倣しようとしたといえよう。しかし三好達治において見られるように“旅路に死ぬ日は/どうしても廓廖(かくびょう)でこの世は悲し”と西欧的であるよりは日本的な仏教の香りをただよわせるものであった。そしてその韻文の世界は数多くの日本国民が参加することができた開放された領域であった。実は日本国民は韓国の場合に比べてはるかに深く韻文の世界、そのリズムの領域に生きていたといわねばなるまい。

俳句の世界も、和歌の世界も、詩の世界もおのおの特有な領域であった。韻文が彼らの思考の世界をおおっていたといえるかもしれない。韻文の文学が西欧におけるキリスト教のようにその社会を包んでいたように思える。韓国社会における儒教のようにである。日本においては仏教と韻文といおうか。

日本人の韻文の世界は実に広くて深い。韓国の場合は特に近代以降は日本の政治的支配に対する抵抗がその叙情の中でくすぶっていた。日本においては韻文の世界はきつい外の生活からの逃避のための領域であったであろう。それはとりわけ近代以降は侵略と敗戦など彼らが経験しなければならなかった凄絶な人生の影で詠まれた情緒の世界であった。その意味で徹底的といえるほど非政治的・没政治的であろうとしたが、戦争末期にはやむをえず戦争参加へと動員されたのであろう。袋小路に追いこまれたような政治に対する興奮もあったのであろうか。詩人の政治参加とは飛んで火に入る夏の虫のようなものであったのではなかろうか。しかし彼らの詩の世界は、反日という絶対的なモノトーンを隠語的に伝えようとした韓国の詩の場合よりははるかに多彩であった。

このようなことを考えながら日韓の詩歌を比較することはあまりにも大きい課題ではあるが、とても興味深く意味のある作業ではなかろうかと思われる。今日は敗戦後シベリアに抑留されていた詩人たちの詩に読みふけった。(2010年9月23日)

中国の台頭という現実を前にして韓国はその国力を考慮しながら、どのような役割を果すかということを考えねばなるまい。北東アジアの平和という観点から、かつて日中のはざまでその紛争にまきこまれて苦しんだ韓国は、これから仲介の役割を担わねばならない。北朝鮮との関係にも慎重に接近するということ、南北問題を北東アジアという枠組みで考えるという姿勢、こういうことがいっそう必要であろう。過去の歴史からしても韓国は中国とロシアから遠ざかってはなるまい。

アメリカで活動している情報通信社STGグループの会長イ・スドンが“高麗大―ジョージ・ワシントン大学との交流”に使うようにと100万ドルを寄贈したという。彼は高麗大を卒業してからジョージ・ワシントン大学大学院に留学したが、去年にも100万ドルをジョージ・ワシントン大学工学部に寄贈したという。この度両大学間の交流のために巨額を寄贈したことはすばらしいことではないか。海外に住む同胞たちがわが国と外国との関係を向上させるためにこのように貢献することは、まさに新しい時代を切り開くことへの市民参加であるといわねばなるまい。G20 会議がソウルで開催されて韓国の国際的立場がいっそう向上するであろうといわれるこの頃ではないか。(2010年9月24日)

≫東北アジアの新しい行方≪

北朝鮮では金正日がまた自分の息子を次期の権力者として選んだ。3代目によって60余年の権勢をふるうというのであるが、これこそ金氏王朝というべきではないか。このような家父長的封建体制をどこまで続けるというのであろうか。さらに金正日は彼の妹そしてその彼女の夫など彼の周囲の軍事、政治担当の責任者たち6名を大将に任命したといわれている。こうしてその一家が権力を限りなく握り続けるというのであるが、これはコミックのような政治史ではないか。

しかしその一方、考えて見ればこれがこの民族の姿といわねばならないのではなかろうか。民主主義を採択することができなかったとすれば、南の韓国でもあのような姿が続いたのではなかろうか。朴正熙はそれほどまではできないのだから自分一代の永久執権を夢見た。寒心に耐えないこの民族の自画像とでもいおうか。南では民主主義を採択したといっても、なんとあのような惰性に引きずられていることであろう。

私は南の社会が健全になるためには北のあのような姿を鏡のように身につけていなければならないと考える。それはわれわれ韓国人の姿であるばかりではなく、ある意味では人間が引きずっている本能的な姿であるかもしれない。あのような姿を克服しようとしてきたことが人類の歴史であったともいえるかもしれない。嘆くべき人間の仕業であるといおうか。北のあのような圧制の下にあるわが民族にどのようにして人間的なわれわれの関心を伝えることができようか。(2010年9月30日)

この間アメリカから帰ってくる時のことである。ユナイテッド航空のビジネスに乗っていたが、1年前にアメリカに行く時とはまったく異なったサービスに驚かざるをえなかった。二人か三人かで席を占めるようにし、そのあいだにはついたてがあり横になろうとすればほとんどベッドになってくれる席であった。お菓子などおつまみは夜中でも自由に持ってこれるように並べて置いてあったが、それでもスチュワーデスたちが必要なものの注文をたずねて廻り、いつでも持ってきてくれるのであった。中年の老練な乗務員であり、一晩中休むことがないようであった。

このような親切、このようなサービスはかつてこの航空会社で見かけなかった勤務状況であった。このようなサービスを提供する航空機はこの会社でも数機に過ぎないというのであった。ユナイテッドがコンチネンタルとかと統合して世界最大の航空会社になるというのであるが、そのためにある変革が行われるのだろうかと、私は多少オーバーに考えた。

全体を一度で直すことはとても難しい。ある一部に改革の空気を吹きこんでそれに協調的な社員を送りこむ。このような動きが拡大すればそれに同調しない勢力はいつかは退かざるをえなくなる。これが労働組合の全面的抵抗を回避する道かもしれない。新しい施設に新しい労資関係を導入するといおうか。そうして労組の反発を超えて改革を追求することなのかもしれないなどと、私は空想の翼をひろげたのであった。

ソルジェニーチンの『イワン・デニーソヴィチの一日』を読みながら考えたことである。共産主義体制とは夢であり、理想であったが、結局は強制収容所に転落したのではないか。私は今も北朝鮮では『イワン・デニーソヴィチの一日』が続いているのではなかろうかと考える。そのような収容所があるとすれば、その収容所の外の世界でも非人間的状況が続いているということではないか。人を糾弾しながらそれに似てくるというのだろうか。革命後の社会はかつての社会を超えたヒューマニティをかちえていなければならなかった。ソルジェニーチンの作品に現れているあのような体制と人間はどこでも存在しえる人類の悪しき遺産ではなかろうかと考えた。

共産主義的革命が犯したあの恐ろしい過ち。それは人間の憎悪と抑圧を拒もうとしながらそれにまさる憎悪と抑圧の体制を生み出した歴史ではなかったか。そのような体制がまだ北朝鮮に残っているというのであろうか。アフリカにも残っているというのであろうか。ただ民主主義革命に成功しさえすればいいものとはいえない。そのために今日においては革命という名に冷笑さえ浴びせようとするのであろうか。

金大中政権は悪しき官僚を追放さえすれば事足りると考えた。そうではあるまい。民主主義の下で国民が信頼しうる制度の樹立という、時間のかかる過程が求められるといえよう。正直で有能な政府を選出して維持することのできる新しい風土が造成されねばならない。新しい制度が求められ、政府と官僚と国民との間に新しい関係がうち建てられねばならない。歴史において今日ほど執権勢力が国民の考えることに気を使ったことはあるまい。大統領とか首相が今日のように身につけたカリスマなどまったくなしに国民の動きに気を使わなければないというのはかつてなかったことである。国民は国家に向かって一元的に関心を持っているのではない。地域社会、国家、市民共同体(Civil State)を強調した。ほんとうに一国を統治する政治勢力がこれほど弱くなった時代はなかったであろう。なすべき仕事、なしうる仕事は限りなく広がっているのに、票を獲得するためにはその手段と主張に保守も進歩もない。そのためにヨーロッパでは革新政党の敗北が続いている。このような時代にどのような政治形態が取られるべきかについて新たな研究が必要であろう。しかし人間自体が完全ではないように、人間社会も完全ではありえない。社会は絶えず動揺せざるをえないし、そのような未完の姿でよろめきながら歩んで行かざるをないであろう。これに耐えうる社会でなければならない。(2010年11月14日)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。第12号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

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