特集●労働法制解体に抗して

明治維新で文化は豊かになったのか

明治維新と天皇制の150年 ―2―

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

明治維新を賛美する考え方は、明治維新によって、「文化が豊かになった」ということを当然のこととしている。かつては歴史教科書の見出しに「近代の夜明け」というような語句があった。江戸時代が暗闇でなかったことは、前号で述べた。しかし「文明開化」という用語は、疑われることもなく、現在も使用されている。

ただここで、文化の「豊かさ」ということばを用いることについて、わたしは居心地の悪さを感じている。文化とは人々の生き方そのものであり、そこに優劣、先進・後進はないということが大前提であるからである。最近、欧米で縄文文化とその芸術性が注目されているように、縄文時代は弥生時代に「進化」したわけではない。しかし、アメリカの民間企業から筑波大学に招かれた学長が、入学式で新入生に「筑波には文化がないので、せいぜい東京へ出かけて文化に触れなさい」と訓示したことは、「文化」ということばが、一般にどのように使用されているかということを示している。

文化の豊かさとは多様性であり、均質化が文化の貧困であるということは、第3次『現代の理論』第7号(紙版)に「何が列島の文化の豊かさを奪ったのか」で書いた(PDFにて表示)。明治政府による日本語(標準語)の創出と、家族のあり方を江戸時代の武士の家族のありかたに統一したことによって、天皇制国家による文化の均質化、貧困化をもたらしたと述べた。本稿はその趣旨を前提として、別の視点で文化の「豊かさ」を考える。

豊かな文化の社会とは、一人ひとりが自由な生き方を選び、それを周囲が尊重し、その生き方の成果、成果といっても「やすらかに生きた」「いきいきと生きた」ということでもいいのだが、その成果を社会が享受するということだと考える。生き方の多様性とは、価値観の多様性である。日本国憲法第1条によって、天皇が象徴であることは日本国民の総意であるとされており、それが日本国民の精神の自由を奪っているとわたしは繰りかえしてきた。

1.侵略の口火としての江華島事件

圧倒的に共有されている価値観といえば、明治維新の成功によって、日本は植民地にならなくてよかったという歴史感覚であろう。アジアのほとんどの地域が欧米の植民地とされるなかで、日本はなぜ植民地にならずにすんだのか。それは本稿の課題ではないが、南北戦争やアジアにおける諸列強の関係、日本資本主義は工場制手工業が相当程度に発展していた、徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いのあと、内戦を避けて敗北を選んだなど、さまざまな要素が指摘されている。

いずれにしても、植民地にならなくてよかったという歴史感覚は、日本は一等国になってよかった、帝国主義になってよかったという感覚と一体である。しかし、植民地にされるのと、帝国主義国となって、侵略戦争を展開し、植民地を作るのと、どちらが良かったのか。もちろん植民地にもならない、帝国主義にもならないということができればよかったのであるが、明治6年の政変での西郷隆盛の敗北後、もはやそのような選択肢はなかった。大久保利通政権が、富国強兵・殖産興業という路線を取った以上、帝国主義への道は必然だったのである。

西郷の朝鮮遣使に対し、内治優先を主張して西郷を政府から追放し、その2年後、1875年に大久保政権が起こした江華島事件は、名称だけは有名であるが、事実はほとんど知られていない。江華島と朝鮮本土の間の水路は狭く長く、ソウルに続く漢江の入り口でもあった。すでに1866年フランスが、1871年にはアメリカが、艦隊を侵入させて戦闘状態に入り、朝鮮はこれを撃退していた。

朝鮮は外国船が許可なくこの水路に進入することを禁じていたが、日本政府はそれらのことを知りながら、雲揚号などの軍艦を近づけて「艦砲射撃演習」の名のもとに脅迫し、また航路測定と称してさらに接近した。雲揚号は江華島から砲撃を受けると、報復として隣の永宗島に上陸し、役所と民家を焼き払い、30余名を殺害、30余の大小砲を奪った(姜在彦『朝鮮近代史』)。これは、1874年の台湾出兵に続く、そして1879年に軍隊を派遣して琉球王国を滅ぼし、沖縄県を設置したことに先立つ軍事的侵略行為である。

目的は日本が欧米との間で結ばされていた不平等条約を、逆の立場で朝鮮に強要しようとしたことである。翌1876年、日本は朝鮮遠征軍を編成し、いつでも出動できるように下関に待機させ、輸送のため三菱会社の船舶を準備させた。その圧力のもとで締結した日朝修好条規(江華島条約)は、関税自主権の否認、領事裁判権、開港地における日本貨幣の流通など、日本が欧米に押しつけられた以上の不平等条約であった。

鎖国していた朝鮮を日本が開国させたとさも良いことをやったかのように多くの論者はいうが、朝鮮は当然宗主国の中国とは関係を持っており、日本とは善隣関係にあった。儒教を絶対とする朝鮮が拒否していたのはキリスト教を布教しようとする欧米との通商であって、江戸時代の日本と同様、それを鎖国と規定するのは不適切ではないか。西洋的産業化を進める日本に批判を持っていた朝鮮は、江華島条約の後、米・英・独・伊・露・仏と不平等条約を結ばされることになる。朝鮮への帝国主義列強の介入の門戸を開いたのは日本であった。

日清戦争までの日本のナショナリズムを、「国民主義」、「健全なナショナリズム」というのが多数派説であり、20世紀初頭に帝国主義化する前の日清戦争は帝国主義による侵略戦争ではなく国民戦争であるとの説が強いが、江華島事件の事実を隠し、朝鮮からの反撃だけを不当として宣伝し、反朝鮮ムードを煽ったのは、健全なナショナリズムか。江華島事件は欧米の、またペリーのやり口を学んだ帝国主義のまねごとではなかったのか。

2.帝国主義化か植民地化か

わたしがここでいいたかったことは、帝国主義にも植民地にもならないという道がなかったとすれば、別のいいかたをすれば、加害者か被害者のどちらかにならざるをえないとすれば、どちらがましなのかということである。刑事事件にたとえてみよう。人間の命は殺されてしまうと元も子もないが、人間集団の文化は抹殺されるまでには時間がかかるので、このたとえを許してほしい。強盗傷害事件の加害者になって刑務所へ行くのと、被害者になって病院へ行くのと、どちらがましかということである。学生にこの話をすると、戸惑ったうえで、やはり植民地にはなりたくないという。一度植民地にされても、民族解放運動を経て独立をかちとったほうが、良い国家を作れるのではと問いかけても、リアリティを感じられないでいるのは、現代の日本青年としてはやむをえないのかもしれない。

7年前に熊本で起きた、3歳の少女を20歳の男性が殺害した事件。犯人が発達障害で長く孤独であったことを知った父親の清水誠一郎さんは、講演で学校をまわるなど、犯人をつくらない社会にしよう、人を孤立させないようにしようと呼びかけている。事件が起こるたびに被害者にならないように気をつけようと注意が喚起されるが、それ以前に、加害者をうまない社会をつくる。その発想に学生たちは率直に感動するが、しかし植民地になるよりは帝国主義になるほうが良いという。

刑事事件の加害者にはなりたくないが、帝国主義としての発展は国家の発展であり、人民の幸福であるという価値観は、明治の初頭から普遍的であり、自由民権運動にも共有されていた。植民地支配を受ける人々を人間として見る視点の欠如と、国家が発動する戦争は犯罪ではないという思想が、そのような、ほとんどの臣民を覆う均質な価値観を生んだ。

3.価値観の多様性を奪う天皇制

価値観の多様性を奪った最大のシステムが天皇制である。政治システムとしての天皇制が、人々の内面である価値観を縛りつけているありようを、ここでは天皇教と呼んでおく。明治憲法的天皇制と象徴天皇制は、政治システムとしては異なるが、天皇を国家と国民統合の象徴であることの承認を強制することと、象徴天皇として初めて即位した明仁天皇が神となる儀式である大嘗祭を行ない、皇室祭祀にも熱心であって、来年即位する皇太子も大嘗祭を行なうことを合わせて考えれば、明治憲法的天皇制の宗教性とは異なるとはいえ、天皇教は信仰のありかたを変えて継続しているといってよい。

この議論をするためには、神とは何か、信仰とは何かということを深める必要がある。神といっても、一神教の神、古事記的多神教の神々、太陽神、さらにはアニミズム的神々。宗教学者は、アニミズムを原始宗教と位置づけるが、先住民族自身のなかにはそれを否定する者が多い。わたしが知るアイヌの男性は自然観であるといい、アイヌに遺伝子的にもっとも近いとされる、マチュピチュをつくった南米ケチュア族は哲学であるという。わたしはそのような見解に共感をおぼえるのだが、価値観と信仰を議論する際には、アニミズムも視野に入れておくべきだろう。

信じるとはどういうことか。敬虔なあるクリスチャンに、キリストの復活を信じているのかと問うと、そこだけは信じていないという。だからといって、その人がキリスト教を信じていないことにはならないと、わたしは考える。

神のありかたも、信仰のありかたも多様であるとすれば、人間である天皇を人間であって神でもあると考えることは容易ではないのか。自分は戦争中から天皇は人間であって、神ではないと考えていたと偉そうぶることや、人々は天皇が神であると信じている「かのように」ふるまっていただけだと解説することも、わたしはそれを否定しようとは思わないが、あまり意味をなさなくなってくる。現人神とは、人間でもあり神でもある存在であることを国民が承認することであって、さして非科学的なものではないのではないだろうか。

大嘗祭がどのような意味を持つのか、日本国民の多くは知らないと思われる。しかし天皇自身が皇室祭祀に熱心であり、大嘗祭を取り行なって神になり、その天皇を国民が象徴として承認するのであれば、天皇教は現在も立派に生きている。そしてその価値観は、普遍的に強力に人々を縛っている。

「自分は天皇とは無関係に生きている、ただ、天皇制をなくすのは文化的にもったいない」というようなところが、現代日本人の天皇観の最大公約数であろうか。これこそが、天皇制を日本の重要な「文化」と位置づける価値観である。

4.受け入れやすい「現人神」

わたしは、戦前の日本人の多くは、天皇を人間でもあり神でもあると考えていたと思うのだが、いつからそのように考えるようになったのか。

明治2年2月、政府は全国各地で「天皇は神である」、「日本は神州である」という趣旨の告諭を発した。「奥羽人民告諭」は次のように始まる。「天子様は、天照皇大神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など国々にあるも、みな天子様より御ゆるし被遊候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地、一人の民も、みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば」(原文カタカナ)、天子様に敵対した者は死罪にしても当然なのに、「叡慮寛大」(心が広く)であって、「会津の如き賊魁」(松平容保のような大悪人)の命さえ助けた…と続く。「神様の御位正一位」とは稲荷大明神のこと。正一位は天子様からもらったもので、天子様はお稲荷さんより偉いのだと説明する必要があった。

同趣旨のものは、すでに明治元年10月、「京都府下人民告諭大意」として発表されている。「我国は神州と号て(号して)、世界の中あらゆる国々我国に勝れたる風儀なし。…抑(そもそも)神州風儀外国に勝れたりと云は、太古天孫(天子様の御先祖)此国を闢(ひら)き給ひ、倫理を立給ひしより、皇統聊(いささかも)かはらせ給ふ事なく…」(原文カタカナ、括弧内は筆者注)と、天皇が続いてきたから日本は世界中でもっとも勝れた国なのだと説いている。なおこの京都の告諭は翌年2月、全国に広められた。

江戸時代に、天皇の存在が、どの程度庶民に知られていたかということについては諸説あるが、このような告諭を全国で発しなければならなかったことも事実である。これまで領主に納めていた年貢を、突然薩長政府に納めろといわれても、民衆は納得しないだろうから、天皇を神として押し立てて、中央集権政府を確立しなければならなかった。しかしこのような一片の告諭で、人々が天皇を神だと信じられるわけがない。

時は下って1910年、天皇暗殺を企てたとして、数百人の社会主義者が逮捕され、24名が死刑判決、2名が有期刑の判決を受けた。翌日、天皇の「思し召し」で12名が無期刑に減刑された。実際にかかわったのは5名で、史上最大の冤罪事件である。計画の中心であった管野須賀子は、その動機について、1908年の赤旗事件(道路で旗を振っただけで懲役2年半)などの報復のほかに、人々は天皇を神だと信じているが、天皇も爆弾を投げつけられれば血を流して死ぬ、天皇は人間だということを示したかったと裁判所で述べた。死を賭してまで、天皇は神ではないということを民衆に知らせたかったのである。

「告諭」の明治2年から1910年まで41年。そんな短期間に、なぜ民衆は天皇が神であることを受け入れたのか。鍵は日清戦争、それ以上に日露戦争であった。

数千年にわたってアジアに君臨してきた中国に勝ち、さらに世界最大の陸軍国であるロシアに勝ったと国民は知らされた。軍部と政府は、「勝った、勝った」と宣伝してきたが、事実はそうではなかった。ロシアはナポレオン戦争での勝利の故知にかんがみ、満州の北へ、北へと日本軍を引き入れていった。それを日本は連戦連勝と勝ち誇ったのだが、補給線は伸びきり、後しばらく戦闘を続ければ、日本陸軍は総崩れになる恐れがあった。

日本側でも容易に勝てないことは予期していたから、事前に米国に対して、日本に有利な段階で仲裁に入ってほしいと依頼していた。ロシアも1905年革命の危機にあって、アメリカの仲裁を受け入れた。日本海海戦の敗北はあったとしても、ロシアが完全に負けたわけではないことは、世界は知っていたけれども、日本国民はロシアに勝ったと信じ込んでいた。

当然の結果として、ポーツマス講和会議では、日本は賠償金を得られなかった。国民は激怒した。乃木希典の稚拙な戦術もあって、膨大な戦死者を出し、史上最高の税金も負担した。にもかかわらず、賠償金を取れないとはどういうことか。国家主義者が主催した日比谷公園の集会は暴動になり、全国の大都市に波及した。この後、1918年の米騒動に至るまで、市民の暴動は、数年おきに、しかも大規模になっていく。

1905年9月、京都の暴動に参加した錦市場の魚屋の息子は、その後、凱旋将軍たちを歓呼の声で迎える。将軍たちは、満州からの帰途、京都に立ち寄って、天皇の祖先たちに戦勝を報告したのである。将軍たちの京都駅到着は明けやらぬ早朝。京都の街は電飾で飾られ、駅前は数万の群衆で埋まった。

暴動と凱旋歓迎はなぜ両立するのか。また教科書的解説になるが、あえて書いておく。天皇の仕事は、国務、すなわち政治と、統帥、すなわち軍隊を動かして戦争をすることである。天皇の国務を輔弼する(助ける)のは政府であり、天皇の統帥を輔翼する(助ける)のは陸軍参謀本部と海軍軍令部である。政府、すなわち政治家や官僚は統帥に関与せず、軍部は政治にかかわらないことが原則である。国民にしてみれば、賠償金を取れなかった腰ぬけは政府であり、大国ロシアを打ち負かしたのは皇軍、天皇の軍隊であった。だから政府に対して暴動を起し、同じ人物が凱旋将軍を歓迎するのである。

オリンピックは戦争の代替物ともいわれるが、ロシアに勝った将軍は、金メダル選手にくらべて、どれだけ大きな価値を持つだろうか。天皇の軍隊が、「神州風儀外国に勝れたり」ということを証明したのである。神が人間の形をしていようと、それでよいではないか。日本では、徳川家康であろうと、佐倉惣五郎であろうと、田中正造であろうと、そしてまた祖先たちをも神として祀る。彼らは死んでから神となるのだが、ロシアに勝った天皇ならば、生き神様でもよいではないか。現人神が非科学的だというのは一神教的発想であって、管野須賀子もキリスト教体験から、現人神を一神教的にとらえていたのではないだろうか。わずか41年でと書いたが、実は現人神は日本人にとって受け入れやすかったのではないか。「神様、仏様、稲尾様」というように。

5.国家神道と天皇教

最近、寺社巡りのスタンプラリーが流行しているという。テレビのインタビューで、ラリー参加者が「一枚の紙の裏表で、神様と仏様というのは変ではないですか?」と問われ、「そうですね、でも神様と仏様、神社とお寺がどう違うのか、よくわからない」と答えていた。これは神仏習合ではなく、たんなる無思考社会の現象であろうが、江戸時代には神仏習合が極限に達していた。

新政府は、天皇を奉じた中央集権国家を建設するために、王政復古を宣言し、神祇官の再興による祭政一致の布告、「五箇条の御誓文」、神仏分離令、大教宣布、さらにすべての神社の社格を定めて神道の国教化をめざした。しかし神道界における伊勢神宮派と出雲大社派の対立によって、政府は国教化をあきらめ、神社神道から祭祀と宗教を分離し、神社から葬式などの宗教性を奪って、祭祀のみを行なうこととした。神官は官吏扱いとなった。給料はまともに支払われなかったが。これが国家神道である。

国家神道は、明治憲法で確立した。第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、天皇が天照大神以来の直系であることを示し、第3条で「天皇ハ神聖二シテ侵スへカラス」とされた。わたしはこれについて、国家神道は国教ではなく、国そのものが宗教組織になったのであって、政治体制ではないかと提起した(『「伝統・文化」のタネあかし』)。政治体制だからこそすべての学校に奉安殿が設置され、御真影(天皇の写真)と教育勅語が置かれて、元日など、折にふれて子どもたちが集められ、校長の教育勅語朗読を聴いて、皇居を遥拝させられた。学校が神社としての役割を果たしたのである(前掲書)。明治憲法でも、信教の自由は保障された。しかし、国家神道は、すべての宗教の上位にあった。

国家神道は国教ではないといいながら、国そのものが宗教組織となった価値観を天皇教と呼ぶのは矛盾だろうか。戦前の国体をどのように規定するか、さらに戦後の象徴天皇制と連続させてなんと呼ぶか。戦後の一時期、世論調査で天皇制を否定する意見が10%に達したこともあったが、近年のNHK調査では1%にすぎない。そして最近では、反安倍勢力でさえ明仁天皇の「リベラル」さに期待するほどである。また、自分は天皇とは関係ないが、なくすのはもったいないという無思考層が天皇制を支えている。信教の自由、それは不信仰の自由と一体のはずであり、また言論の自由が戦前以上に保障されているはずの戦後において、天皇が国民統合の象徴として圧倒的に認められているという価値観の均質化に危機感をおぼえる。 

6.文化を貧困にする天皇制

日本人の価値観に共通していることのひとつに、加害者性の認識の希薄さがある。戦後、幣原首相が提起した「一億総懺悔」は、天皇に敗戦の憂き目をあわせたことを懺悔するというものだった。アジアへの侵略の反省は、ようやく1960年代に芽を出しはじめ、1980年代、アジア諸国からの厳しい批判の続出によって、マスメディアでも取り上げられるようになる。しかし歴史教科書では、叙述されたり削られたりを繰りかえし、教育現場では時間の都合を理由に触れられることが少なかった。そのため、加害があったことを知っていても、具体的にどのような残虐行為があったかについて、また植民地支配の実態について、特に若者たちは知らない。

アメリカに敗北し、原爆や空襲で悲惨な経験をしたことだけが語られ、残虐行為を繰りかえした中国でも日本軍が追いつめられていたことは伏せられ、日本は中国にも負けたという認識はまったくといってよいほどない。

刑事事件の加害者になることは嫌というのは、被害者を想像できるからであろうが、植民地になるよりは帝国主義になるほうがましというのは、植民地人民の姿がみえないからであろう。植民地になっても独立を回復できればというわたしの前提は、沖縄ではまだ実現していない。

戦前のソテツ地獄に代表される日本からの収奪という苦難は、戦後の米軍政による圧政、1972年の再併合後も米軍基地の集中立地という形で続いている。本誌WEB版第8号に、わたしは「ヤマト―日本にとって沖縄とは何か」で、沖縄のことば、「人んかい殺さってぃん眠んだりーしか、人殺ちぇー眠んだらん」を紹介した。人から傷つけられても眠ることはできるが、人を傷つけると眠ることができない」という、被害者となるよりも加害者となることを避けたい沖縄の心性をあらわしている。「足を踏まれた痛みは、踏まれた者にしかわからない」という日本の感覚とは正反対である。1970年前後、米軍基地で働くウチナンチューの労働組合の、基地撤去の闘いは、自分の職場がなくなっても、アメリカのベトナム戦争に加担するのは嫌だというところから発していた。

日本人に加害者認識が希薄なのは、「京都府下人民告諭大意」にある「神州風儀外国ニ勝レタリ」という国粋主義と外国蔑視、1945年8月の天皇ラジオ放送の眼目であった、国体は護持された、神州は不滅であるという宣言にも深くかかわっている。

天皇を現人神として承認し、被害者を見ようとしない加害者意識の希薄さという価値観の均質性は、天皇制と直接、間接にかかわっている。文化は価値観が多様であることによって豊かであることができる。明治維新後、この列島の文化を貧困に陥れたのは、天皇制である。(続く)

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など

特集•労働法制解体に抗して

ページの
トップへ