論壇

語る、語らない、語りえないのあいだ

山本義隆『私の1960年代』を読み解く

京都大学アジア研究教育ユニット研究員 小杉 亮子

山本義隆のマスメディアにおける沈黙

山本義隆が、1960年代の反戦運動や1968〜1969年の東大闘争における自らの経験について、マスメディアをつうじては語らない姿勢を長く貫いてきたことは、関心のある者にはよく知られている。たとえば東大闘争が終息してから約10年後、1978年に放送されたNHKのテレビ・ドキュメンタリー「ルポルタージュにっぽん おとこ東大どこへ行く~10年目の東大全共闘~」には、勤務先の駿台予備校の前で待ち伏せていたNHKの記者を、「一切マスコミ関係と会わないことにしているんです」と山本が峻拒する場面が出てくる。(註1)

本稿のテーマは、山本がこれまでの沈黙を破って2015年に発表した回想録『私の1960年代』(金曜日刊)である。本書からは、社会運動についてマスメディアがつくりあげる表現への不信感が、1960年代の反戦運動や学生運動にかかわる過程で山本のなかに積み重なっていった様子がうかがえる。

東大闘争終盤の1969年1月18日・19日に本郷キャンパスに機動隊が入り、前年1月から抗議活動を続けていた学生たちが排除された。このあとの状況にふれ、「私のまったく知らないところでマスコミが私の虚像を作り出し始め、正直やりきれない思いでした」(293頁)と山本は述べている。(註2)自身にかかわることだけではない。1967年の第一次羽田闘争で山﨑博昭が亡くなったさい、機動隊による撲殺の可能性があるにもかかわらず、マスコミは死因の究明を避けた(86頁)。東大闘争の直前期に山本も出かけていった王子野戦病院闘争では、闘争に参加した市井の人びとが新聞では「野次馬」と表現された(100–102頁)。

徹底してマスメディアでは語らない山本の姿勢は、前述したNHKの「ルポルタージュにっぽん」でインタビューに答えた今井澄や、新聞や書籍などでたびたび東大闘争について語ってきた最首悟など、東大闘争における山本の仲間たちと対照したとき、いっそうくっきりと浮かび上がる。

しかし、山本の語らない姿勢はマスメディアへの不信感のみによったわけではないだろう。2009年1月17日にやはりNHKで放送されたテレビ・ドキュメンタリー「安田講堂落城 ~”あの日”から40年 学生たちのその後~」は、2002年に62歳で亡くなった今井澄の葬儀を映している。弔辞を読む山本は、国会議員や地域医療に専心する医師としての顔もあった今井だが、「僕にとっては、君はあくまで東大全共闘の今井澄」だと、その早すぎる死への悔しさを隠さずに語りかけている。(註3)今井への弔辞は『私の1960年代』にも補注として収められている。本書の補注には、ほかにも東大闘争をともにたたかった3人の仲間への弔辞が収録されている。これらを読めば、山本にとって1960年代のできごとや東大闘争は彼の”いま”に直接つながる、いまだ生々しさを失っていない出来事であること、当時の仲間が聞き手であるときには躊躇うことなく熱心に1960年代について語ったことがうかがえる。(註4)

また、本書の23章「その後のこと」に詳しく書かれているように、山本は1987年に東大全共闘や日大全共闘の参加者たちと”68・69を記録する会”を結成した。”68・69を記録する会”は東大闘争のビラやパンフレット、資料など5100点あまりを収集し、データベース化・コピー作成・製本・マイクロフィルム化の作業をおこない、1994年に『東大闘争資料集』として国会図書館と大原社会問題研究所に納めた。

筆者は国会図書館にたびたび通い、『東大闘争資料集』を閲覧し、コピーをとった経験がある。資料集は別冊を含めて計28巻から成り、1冊の厚みが5〜7cmほどもある。1巻をざっと閲覧し、簡単なメモをとるだけで、1日から2日かかる。それだけ膨大な量の文書が集められたのだ。この資料集があるおかげで社会運動研究には欠かせない文書資料を一覧することができ、大変ありがたかった。

資料集作成にさいしては「データベースへの打ち込みは私一人でやり、八七年以来数年間は、ほとんどこの仕事にかかりきりでした」(302頁)とあるように、山本は中心的役割を果たした。『東大闘争資料集』のボリュームや製作をめぐるエピソードは、山本が東大闘争について後続世代に伝える必要がないと考えているわけではないことをはっきりと示している。

聞き手が仲間であれば熱さを隠さずに当時のことを語る山本は、記憶をたんに封じ込めているのではないだろう。山本個人だけではなく、仲間にとっても日本社会にとっても重要な意味をもつ出来事だと考えるからこそ、東大全共闘の”代表”であった山本のみが過度に注目されることのないように、誤解のないように、できるだけ精確に、人びとに伝わることを望んできた。(註5)その結果が『東大闘争資料集』の製作であり、マスメディアにおける山本の沈黙なのではないだろうか。

語り始めたことの意味

その沈黙をいま山本が破ったことの意味は、ベトナム反戦運動や東大闘争をつうじての盟友であり、その後の山本の沈黙を自らが語ることによって埋めてきたようにも思われる、最首悟が的確に指摘している。最首は「山本のこれまでの、メディアの求めに応じることへの拒否」(最首 2015、50頁)は、メディアにたいする不信感はあったにしろ、それよりも「語る必要がないという判断からなのだ」(最首 2015、50頁)と考える。

しかし近年の山本は、2013年5月に駿台予備校でおこなった特別講演(山本 2013)、この特別講演をもとにした著書(山本 2015b)、そして本書のもとになった2014年10月の”10・8山﨑博昭プロジェクト”での講演と、少しずつ「自分のこと」(山本 2015b、234頁)を、より多くの聞き手に向けて、ときにマスメディアをとおして、語るようになってきた。語る必要がないという判断を山本が翻した背後には、「いま言う必要があるのだという切実さ」(最首 2015、50頁)があるのだろうと、最首は言う。

山本の切実さの原因はなんなのか。それは、「〔東大—引用者注〕闘争で問題としたことにたいして私が後に考究した事柄」(165頁)として、本書の14章から21章まで、全体のおよそ1/3を割いて山本が論じる、近代日本における科学技術のありようを読めば明らかである。

明治時代以来、科学振興は「政治と経済と軍事、すなわち国威発揚と生産力の増大そして軍事力の強化」(188頁)を目的に国家主導で進められてきた。東大をはじめとする大学はその装置だった。そうであるならば大学で研究する科学者たちには少なくとも、自らの社会的政治的役割を自覚し、国家権力との関係性をふまえて科学・工学という学問領域の枠組み自体を問い直し、研究者としての自律性を鍛え上げることが求められていたはずだった。ところが実際は、大学院生だった山本が大学で物理学を研究することに居心地の悪さを感じていた1960年代から現在まで、大学と国家、さらには産業界とのあいだの緊張関係は緩み、三者のもたれ合いは深まるばかりである。

そして、2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに東京電力福島第一原子力発電所事故が発生してしまった。事故は、「国策科学」(264頁)の代表ともいえる原子力工学の”発展”の帰結であり、周辺の自然環境と福島県をはじめとする東北の人びとの生にまさに取り返しのつかない損害をもたらした。

東大闘争の参加者は数多く、多様であり、そこで問われたこともさまざまだと筆者は考えているが、山本たちは東大の研究者たちに社会的政治的責任の自覚に基づく行動を求めた(11章「そして東大闘争のはじまり」)。山本は科学思想史における自らの業績を、1960年代に胚胎したこうした問題意識の延長線上に位置づけている(300頁)。これまでの連続した歩みがあったからこそ、誤配や誤解が起こりえるとしてもより広い読者にむけて自らの1960年代について語ることを、2011年の原発事故や現在の大学のありようが山本に迫ったのではないだろうか。

1960年代をめぐる”語る、語らない、語りえない”

ここまで、1960年代について語る、語らないという山本義隆の選択について長々と論じてきたのは、筆者が東大闘争について参加者への聞き取りによる調査研究をおこなっているためである(小杉 2015・2016)。聞き取り調査は、研究者にむけて自らの体験を語ってくれる人びとによって成立する。当たり前のようであるが、研究者が出会わない人びとや語ることを望まない人びとの経験を考察の対象に含めることはできない。筆者は東大闘争に参加していた社会学者が聞き取りに力を貸してくれるという幸運に恵まれたものの、正直に述べれば、聞き取りから得られるデータの性格を決定しているだろう、「当時から50年近くが経過し、社会的地位を築いた者も多いなか暴力の行使もときにはともなった青年期のラディカルな社会運動への参加について誰が語りうるのか」(小杉 2016、26頁)という問題は、いまも解決しきれないまま残っている。

ある参加者には、当時のことについて「一生言わないほうがふつうの感覚」と言われた。(註6)聞き取りに協力してくれた参加者に仲間の紹介をお願いしたときには、後日”心当たりの仲間全員から聞き取りは気が進まないという答えが返ってきた”と連絡をいただいた。このとき、この参加者は、個人的な好みや加齢による健康の衰えとは別の理由から聞き取りに応じたくないひとがいるのではないか、と推測していた。つまり、東大闘争は長期にわたって大学執行部と対立し、学内の建物を占拠するという非日常的な環境だったので、その後の生活や現在との断絶が大きいのかもしれない。もしくは闘争終息直後は闘争について語ると不利な事態に陥る可能性を感じさせる情勢が続いていたため、関係していた人びとはいったん沈黙し、そのまま語ることをやめてしまったのかもしれない。(註7)

どのような理由にしろ、おそらく、1960年代の学生運動にくわわった自らの経験について、語りたくなかったり語りづらさを感じていたりする人びとが数多く存在しているのだ。そして、参加者が語りたくないこと、語りづらいこと—さらにいえば、山本義隆の本書のように”語らない”という判断を越えて語られること—こそが、1960年代の学生運動の特徴を物語っているのかもしれない。(註8)筆者の研究は、語らない人びと、語りえない人びとの存在を心にとめつつ、語る人の語りに向き合うものだといえる。

1960年代の反戦運動・学生運動にかんする研究が当時から継続的に蓄積されてきたといえる欧米と対照的に、日本ではこのテーマにかんする研究は端緒についたばかりである(安藤 2013、小熊 2009a・2009b、西田・梅﨑 2015)。研究が広がり始めたこの時期に、重要な当事者のひとりがそれまでの沈黙を破って語り始めたことは、当時をうかがい知るための窓がそのぶんだけ開いたということであり、それだけで貴重である。しかし本書の意義はそれだけでなく、語らないから語るへという、山本の選択自体がいまの社会状況のなかでなにを意味しているのか、それを受け止めてわたしたちはなにをするべきか、そのことに想像を働かせる機会を与えてくれているという点にもある。

語り残されたこと、あるいは語られないこと

ただ、山本本人は十分に「自分のこと」(山本 2015b、234頁)を語ったと感じているのかもしれないのだが、筆者としては、1960年代の反戦運動・学生運動を理解するために、できるならよりくわしく山本に語ってもらいたかった点がふたつ残っている。

第一に、1960年代の反戦運動・学生運動にかかわった者たちの相互作用の具体的エピソードをもっと聞きたかった。とくに東大闘争のなかでの、全共闘や敵対する日本民主青年同盟の学生たち、そして教員たちの出会いや議論、対峙といった場面である。

もちろんそういったエピソードが出てこないわけではない。たとえば、1962年の大管法闘争のなかで、当時東大理学部3年だった山本が仲間たちと理学部長に”先生いったい大学の自治とはいったい何だと思っているのですか”と尋ねると、”君、その木だよ、この大学の静寂だよ”と答えたという話が出てくる(45頁)。産業界の要請によって理学部の定員増がおこなわれるなど、大学の自律がすでに掘り崩されていた当時に、象牙の塔のごとく大学を認識している教員に山本は呆れた。

山本たちが結成していた”東大ベトナム反戦会議”が1968年に王子野戦病院闘争へと出かけたときには、全学連の学生たちが帰ったあとになって地元住民などが集まり、野戦病院前のサーチライトを物干し竿で壊し、真っ暗になったところで次々と投石をしていったという(100–102頁)。少数の活動家学生を越えて、当時の人びとのあいだに反戦の気運がひろく広まっていたことがわかるとともに、その様子を見た山本たちが奮い立ったことも伝わってくる。

また東大闘争の発端は、医学部の登録医制度反対闘争とそこで起きた学生不当処分だった。1968年3月、処分を告知する掲示板の前に医学部生たちが集まっていたところに、当時博士課程3年の山本はたまたま通りかかり、そのまま安田講堂まで一緒にデモをしたという。その後の山本は、処分撤回のための支援体制をつくるべくキャンパスを駆け回ることになった。山本がフットワーク軽く行動する人だったことがわかる(108頁)。総じてこれらのエピソードは、学生たちのあいだから異議申し立てが生起していくプロセスを、読者に生き生きと教えてくれるものである。

しかし、残念ながら本書にはこうしたエピソードが多く出てくるとは言えず、もっとくわしく知りたいと思う箇所も少なくなかった。例を挙げれば、東大闘争のごく初期、1968年7月に安田講堂第二次封鎖をまえにして東大全共闘派の学生たちが一晩かけて方針を議論したという。封鎖は、医学部から始まった東大闘争が全学部に波及し維持される重要な契機のひとつである。山本は「いまでもその議論に加わったほぼ全員の名前とそのときのそれぞれの主張をおぼえ」(132頁)ているという。全共闘派の学生たちはどのような論理に基づいてどのような闘争方針を主張し、どの点で対立したのだろうか。

もうひとつ例を挙げれば、東大全共闘は一方で「基本的には……やはりそれぞれに決意した個人の集まり」(150頁)だったが、他方で「いくつかの政治党派の活動家と無党派の活動家の複雑な関係」(149頁)から成り立ってもいたという。この複雑な性格をもつ全共闘とはいったいどういう場だったのか。

上記のような点について具体的なエピソードがあれば、若い世代の読者がより立体的に全共闘を理解するヒントとなっただろう。もしくは、こうした点について語りえないほどの葛藤や対立が全共闘内にあったのだとして、それが語られることがあれば、個人の主体性がいかに集団のなかで発揮されうるか、という社会運動組織をめぐる難題—そしてそれは、山本たち”ベトナム反戦会議”の中心にいた所美都子の運動論(83–84頁)が立ち向かったものである—について考えるさいの糧にもなりえる。

次に、前述したように「〔東大—引用者注〕闘争で問題としたことにたいして私が後に考究した事柄」(165頁)として、山本は近代日本における科学技術史を論じているが、ここで語られているのはどちらかというと山本による考究の結論である。筆者は考究の過程こそを知りたかったと思う。

全共闘運動の学生たちは明確に言語化できないまでも、それまで社会運動の中心とされてきた労働運動とは異なる、”新しい社会運動”の形成へと向かっていたのだと、山本は述べている(228–232頁)。ここでの新しい社会運動は、資本主義の発展がもたらすマイナスへの抗議であり、国民国家内部での制度・権利獲得要求がむしろ支配的な政治経済システムへの統合につながることに警鐘を鳴らす運動を指しているという。

しかし筆者の理解では、上記の点とならんで重要な新しい社会運動の性格とは、そこにかかわる個々人のアイデンティティが運動において大きな位置を占める点にある。後期資本主義社会に登場する新しい社会運動とは、人びとの生活世界における自律性を支配的な政治経済システムから取り返そうとするものであり、制度政治の変革ではなく文化コードの書き換えをめざす。そのため、それまでの社会運動では自明とされてきた公共圏(public sphere)と親密圏(intimate sphere)の境界が揺らぎ、変革の対象には自己も含まれることになる(石川 1988、 Melucci 1980・1996)。だからこそ、環境運動にならんで女性解放運動やエスニックマイノリティ運動、障害者運動が新しい社会運動に数えられてきたのだ。

山本の自己は1960年代の反戦運動・学生運動を基点に、どのように変化したのだろうか。それは支配的な政治経済システムからなにを防衛し、どのような文化コードを書き換えるためのものだったのだろうか。その過程でどのような苦闘があったのだろうか。「自分のこと」(山本 2015b、234頁)に過ぎるため、語らないと判断したことがらなのかもしれない—その判断自体の含意もじつは非常に大きい—。

しかし、新しい社会運動をへて、現代の社会運動のアリーナはますます個人や文化へと移行していると言われている。イギリスの社会学者Anthony Giddensは、現代社会における政治とは、伝統からの解放や搾取・不平等・抑圧の撲滅をめざす”解放の政治”だけではなく、生活にかんして個人がくだす決定、すなわちいかに生きるべきかをめぐる”生の政治”でもあると指摘する(Giddens 1991)。もし山本がそうした現象の予兆や先駆として1960年代の全共闘運動があったと考えているのであれば、それは「自分のこと」ではなく、やはり後続世代にとって糧となる経験である。いつかまた、語りえる日が訪れたら、今回語らなかったことを語ってもらいたいと強く思う。

註記

(註1)2014年5月16日のフィールドノートより。NHKアーカイブス(埼玉県川口市)で閲覧。なお、この閲覧は「NHK アーカイブス学術利用トライアル研究II・第3期」に採択された筆者の研究計画『NHKアーカイブスをとおして見る1960年代学生運動イメージの変遷』によって可能になったものである。

(註2)以下、とくに断りがない場合には、カッコ内のページ数は山本義隆(2015a)の該当箇所を指す。

(註3)2013年10月22・23日のフィールドノートより。NHKアーカイブス(埼玉県川口市)で閲覧。註1も参照のこと。

(註4)後述するように本書成立のきっかけは、山本と同じ大手前高校(大阪府)出身であり、1967年10月8日の第一次羽田闘争で命を落とした京大生・山﨑博昭を追悼する”10・8山﨑博明プロジェクト”の第1回集会(2014年10月4日)で、山本が講演「私の一九六〇年代—樺美智子・山﨑博明追悼」をおこなったことである。自らの1960年代の経験について、ともに闘争を闘った仲間を追悼する場で山本が語り始めたことは、山本がこれまで誰にたいしては語ってきたのかを示している。

(註5)東大全共闘の”代表”だった山本の1960年代経験が過度に一般化される危うさにかんして簡単に述べておきたい。山本は1967年ごろのベトナム反戦運動について、「あの頃の街頭闘争は三派全学連と反戦青年委員会とベ平連がやったと言われていますが、本当はその他大勢がそのまわりをとり巻いて、私たちのような小集団、場合によっては一人参加の反戦運動がうじゃうじゃ動いていたのです」(100頁)と語っている。
 同様のことは東大全共闘にも言えるのではないか。東大闘争、さらには1960年代の学生運動全体が、東大全共闘と山本をはじめとする名前を知られた一部の人物に代表されうると考えられがちである。しかし、当時の反戦運動・学生運動の高揚は、組織やリーダーに動員されたから起きたのではなく、自ら動き出した大勢の人びとの動きがつくり出したのではないだろうか。その意味で本書の内容も、東大全共闘や1960年代の学生運動を代表するものというよりは、あくまで山本個人にとっての1960年代として受け止めるべきだろう。

(註6)2013年10月18日のフィールドノートより。

(註7)2014年1月31日のフィールドノートより。

(註8)この点については、福岡安則による「自分語りのフィールドノート②(2016.2.26〜3.1) 前回は『不安定狭心症』、今回は『冠攣縮性狭心症』」に音声起こしが収録されている、2016年2月27日第3回埼玉大学人文社会科学研究科連続シンポジウム「混成する文化—歴史と物語の交点」における鶴見太郎のコメントから大きなヒントを得た。記しておふたりに感謝したい。

参考文献

・安藤丈将『ニューレフト運動と市民社会—「六〇年代」の思想のゆくえ』(世界思想社、2013)

・Giddens, Anthony, Modernity and Self-Identity: Self and Society in the Late Modern Age(Stanford University Press, 1991)

・石川准「社会運動の戦略的ディレンマ—制度変革と自己変革の狭間で」(『社会学評論』39(2)、p.153–167、1988)

・小杉亮子「日本の一九六〇年代学生運動における多元性—文化的アプローチによる事例分析から」(『社会学研究』96、p.165–191、2015)

・小杉亮子「1960年代学生運動の形成と展開—生活史にもとづく参加者の政治的志向性の分析」(東北大学大学院文学研究科2015年度博士論文、2016)

・Melucci, Alberto “A New Social Movements: A Theoretical Approach” (Social Science Information 19(2), p.199–226, 1980)

・Melucci, Alberto, Challenging Codes: Collective Action in the Information Age(Cambridge University Press, 1996)

・小熊英二『1968 上 若者たちの叛乱とその背景』(新曜社、2009a)

・小熊英二『1968 下 叛乱の終焉とその遺産』(新曜社、2009b)

・西田慎・梅﨑透編著『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」—世界が揺れた転換点』(ミネルヴァ書房、2015年)

・最首悟「山本義隆—自己否定を重ねて」(吉見俊哉編『ひとびとの精神史 第5巻 万博と沖縄返還—1970年前後』岩波書店、p.49–74、2015)

・山本義隆「原子・原子核・原子力」(『駿台教育フォーラム』29、p.1-44、2013)

・山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015a)

・山本義隆『原子・原子核・原子力—わたしが講義で伝えたかったこと』(岩波書店、2015b)

こすぎ・りょうこ

社会学専攻。京都大学アジア研究教育ユニット研究員。1960年代にさまざまな国・地域で同時多発的に起きた若者による社会運動が現在の研究テーマ。主な論文に「日本の1960年代学生運動における多元性――文化的アプローチによる事例分析から」(2015年、『社会学研究』96号)など。

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